投稿者:吉川 駿(昭和39年 文理学部経済学科卒)
「法律は、人を幸せにする道具。記録に埋もれた当事者の悲鳴や苦しみをキャッチして判断していきたい」。2012年春、弁護士から最高裁の判事になった山浦善樹さんが、就任の記者会見でこう語った。その言葉に生身の人に対する優しさがにじみ出ていた。「事実に基づききめ細かい裁判を」とも話した。こんな視点での「法の番人」としての心構えを披瀝した人は少なかった。氏は、ロースクールの自分の講座を志願した学生たちに「弁護士にはスキルとマインドが必要。マインドばかりでスキルがない弁護士は話にならないが、スキルがあってもマインドがない弁護士はプロとして失格。講義では、具体的な事件を素材として、そこに関与する弁護士としてなすべき訴訟活動を検討し、その上で弁護士倫理、さらには対人援助業務の在り方を研究する」と話したという。氏が、このマインドに到達する背景をメディアで見聞きし、私の心を打った。
氏が司法試験に合格しことをふるさと上田で旧知の和尚さんに鼻高々話したときそれを諌められたこと、無医村に診療所を開いた岳父が、夜も患者の家を往診したこと、弁護士としてビリヤード店の高齢女性経営者の立ち退き相談に乗り、あとで彼女にとって捨てがたい思い出の場所であったことを知った際の心のうち恥じらい。いまもこのことを心の底に据えていると。「自分のためでなく、不幸な人のために」とマチナカ弁護士を務めてきた氏の人情味にはほだされ、いい人が法の番人になったと思った。
私は、静大入学時、法律を志向していたが、2年次ころから「経済」を学ぼうと方向を転換した。法律は、ややもすると、天賦的なものと考え無批判に条文を解釈する傾向が主流で面白くなかろうと考えたからである。社会の土台である経済の上部構造として法や政治はあるということを学んだからであり、経済学のほうが極めるべきものと考えたからである。だが、山浦さんによって、単に裁く視点でなく、「人が生きる味方に」する視点の法律観を改めて教えられた。