投稿者:飯田 晋(平成7年 工学部電子工学科卒業)
自然科学の研究に従事して強く感じることは、科学的に実証された(かに見えた)理論と現実との差異を謙虚に受け入れることの大切さです。研究者にとって、苦労して導き出した理論をまとめ論文として発表するというのは大変名誉なことであり誇りでもあります。物理化学を中心とした無機物に関する理論は非常に明快で誰が検証しても同じ結果が出やすい傾向があります。
しかしながら、生物学、医学、経済学という分野では雑音成分となるパラメータが非常にも多いため、誰にでも適応可能という訳にはいかない場合があります。食事法が良い例です。誰かが苦心の末、医学的にも進化論的にも「このような食事の摂取法が最も健康で長生きする」と提唱し一大ブームを巻き起こします。ところが、人間の身体というのは非常に複雑で、年齢、健康状態、体質、遺伝や心理状態によって大きく影響を受けます。そのため、ある人にとっては良い結果であっても、他の人にとっては逆効果になる場合もあります。
ところが、得てして研究者というのは、これを統一理論のように絶対化したがるものです。相反する事例に対しては、時には言葉巧みに「非論理的な理論武装」によって理論を正当化しようとします。しかしながら、理論を守るために現実を直視できないのは、単なる原理主義に過ぎません。
「現実」は、時代背景や文化の違いによっても変化します。かく言う筆者も、三人の子育てをしながら仕事と家庭の両立や子育て論に関して、いつも考えながらそれに翻弄されております。「こういう風に育てればよい」と悟ったと思ったその刹那、別の現実にぶつかります。「これは素晴らし子育て論だ」と実践しても思うようにいかないのが子育ての難しいところであり面白いところでもあります。仕事の面でも、実験結果を論理的に実証し論文にまとめて意気揚々と上司に報告しても、大修正を余儀なくされることが多々あります。初めは、理論を否定されたことに苛立つのですが、自分の知らなかった考え方を加えることで確かにより良い論文となり、自分自身の研究者としての幅も広がるものです。
自然科学の追求というのは、本来、人々の生活を豊かにし我々に幸福をもたらすためにあります。作り上げられた理論の枝葉末節に囚われ、その本質を見失うのは本末転倒です。様々な理論と現実とを客観的に捉え、余分な想い込みに翻弄されず、正直にそして謙虚に生きて行きたいものです。