投稿者:海野 徹(昭和47年 人文学部 4回 経済学科卒業)
うだるようなこの暑さだ。孫が庭に設えられたプールではしゃいでいる。近所に住まう長男の娘。毎日のようにやってくる。我が家に1年7ヶ月前にもたらされた初孫、無条件に可愛い。表情や仕草、片言のお喋りが、我々に至福の時を与えてくれる。
「団塊の世代」のひとりである私は、申し訳ないことに会社人間そのもの、子育てに参加した時間は無いに等しい。それだけに、孫の成長に目を見張り、新鮮な驚きの日々である。人間てなんて素晴らしいんだろう、命のバトンがこうして引き継がれて行く、懸命に生きて次の世代に命のバトンを渡して欲しい、などと願う毎日である。
そんな中、何かのはずみで体のどこかを打ち孫が泣き出すと、母親は「痛いの痛いの飛んでいけ」と子どもの体をさする。すると子どもは、やがて泣き止み、その顔に笑顔が戻ってくる。まさに、「手当て」である。
これは、看護師だった人の話だ。彼女には娘さんがいたが、六歳で小児がんに侵され、余命三か月と宣告された。その時彼女は、少しでも娘さんの命を永らえさせようと心に誓ったという。娘さんが体に痛みを感じて泣くとき、心を込めて、手で娘さんの体をさすってやった。鎮痛剤が逆に命を縮めることを仕事柄知っていたから。夜中でも、昼間でも、娘さんが痛いと訴えた時は、直ちに体を静かにさすった。その甲斐があって、娘さんは奇跡的に持ち直した。学校に行けるようにもなった。しかし、その間にも容赦なく激痛が襲う。そのたびに彼女は体をさすってあげた。どんなに疲れていようと、昼夜を問わずにその行為は続いた。いつの日か、娘さん自身もそれが母親にどんな大きな負担をかけるかを知り、必死で激痛に耐えた。彼女はそれにも気づいたが、手当てを続けたのである。
こうした母の大きな愛に支えられ、娘さんは宣告から十二年を生き抜いた。最期の瞬間、母の目をじっと見つめて、「ママ、ママに何もしてあげられなくてごめんね」と言って息を引き取った。
私は、常々、人と人とが互いに互いを思いやる、やさしい、心豊かな社会(関係性の満ち満ちた社会)であって欲しいと願っている。そうした人々との中で生きることができた人は、死に直面しても、他者のために何か役に立ちたいと本能的に思う。娘さんを取り囲んだ家族、医療関係者、同級生などの思いやりの中で、精一杯生き、母をいたわり、周りの人たちに感謝して息を引き取ったのだろう。
人は一人では生きられない。誰かに支えられ、誰かを支えて生きている。自分は他者のために何ができるだろうか。孫の一挙手一投足をながめながら自らに問いかける。