投稿者:櫻井 史朗(昭和42年 工学部工業化学科卒業〔昭和44年大学院工学研究科修了〕)
2011年3月11日、私が所属する山歩きの会のメンバー13名は、牡鹿半島の島・金華山への山登りを終えて2時過ぎ桟橋付近に到着した。午前中に島に到着した時には、たくさんのかもめや鹿が餌をねだって近寄って来た。だから彼らが好みそうなお菓子をわざわざ残してきたのになぜ…と思ったが、さほど気にも留めなかった。2時過ぎに遊覧船の待合室へ到着した。最終便は3時出発なので、私は3人で好きなビールで喉を潤した。これは山登り後のいつもの楽しみになっている。他の10人もそれぞれゆったりとした時間を過ごしていた。飲み終えて桟橋の方向を見ると船が近づいてきた。そろそろ席を立とうと思ってリュックを背負った瞬間、テーブルがカタカタと音を立てながら左右に揺れ始めた。「地震だ!」と言う声が聞こえ、出入り口付近にいた仲間はとっさに戸を開けて外へ飛び出した。それがマグニチュード9.0の地震の始まりだった。
奥にいた私は大地震になるとは夢にも思わず、とりあえずテーブルの下にもぐり込んで赤ん坊のような這い這い状態になった。すると周りのガタガタという音に混じって、コンクリートの床下からゴゴゴゴー、グォン、グォーンという不気味な音が続けざまに聞こえて来た。こんな音を聞くのは生まれて初めてだった。まるで地獄の底から聞こえてくるように思えた。これは恐ろしいことになるぞと直感して体がこわばり、息が荒くなった。案の定、揺れが急激に大きくなった。突っ張っている腕や太ももに大きな震動が伝わってくる。体全体が前後に大きく振れた。その直後、金属屋根が激しく震動するガガガガガーという金属音やスレート壁と鉄骨が猛烈にぶつかるガタガタガターという音、鉄柱がきしむギーギーという音が入り混じった轟音が建物中に鳴り響いた。揺れはますます大きくなり、隠れているテーブルが激しく移動する。動きに合わせて自分も動かざるを得ない。陳列棚が倒れてガラスが割れる音があちこちで鳴り響き、天井からは蛍光灯が次々と落ちてコンクリートにたたきつけられて破裂するように割れる。こんな地獄のような地震は生まれて初めてだ。必死に落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせた。地震マニュアル通りに何気なくテーブルの下に隠れたりしないで、外へすぐに逃げればよかったと後悔した。恐る恐る周りに目をやると、壁板は裂けそうなほど大きく波打ち、太い鉄柱が自分に襲い掛かってくるように見えた。その瞬間、すぐ後ろの高い梁に掲げられていた3畳ほどもある金華山の額が、ドスーン、ガシャーンという大きな音とともにコンクリート床に落下した。それが事もあろうに、身を守っているテーブルの後ろ端にのしかかってきた。その途端テーブルは、足がぐにゃっと曲がってのけぞるように立ち上がった。とたんに身を守るものがなくなった。その瞬間、2008年の岩手・宮城内陸地震の時に、私が住む仙台市泉区のスポーツ施設「スポパーク松森」で天井が落ちて26人が負傷した事故が浮かんだ。思わず、建物が崩壊する―― という恐怖が走った。本能的に体が動いた。縦に3つ並んだテーブルの下を夢中で這いながら出口に向かい、リュックで頭を守って全速力で外へ飛び出した。建物から10歩ほど離れた時、一瞬死の恐怖から解放された。だがその時目に入ったのは、我々が乗るはずの船が沖へ走り去ってゆく姿だった。津波を避けるためだから仕方ないかと思いながらも、不安と孤独感を感じた。
背後の崖のあちこちから、土砂崩れとともに岩や松の木がどどーっという音を立ててもみくちゃになりながら次々に落下してくる。山腹にいた鹿たちがそれを避けながらさらに上へ上へと駆け上がって行く。黄金山神社の上り口では、大鳥居が倒れんばかりに大きく揺れ、石燈籠や石柱がことごとく崩落してゆく。この光景が永久に続くように思えた。このままでは金華山全体が崩れ去ってゆくように思えた。現実離れした夢のような世界に身を置いているようで、恐怖や生死などというたかが人間が持ち合わせているちっぽけな感覚は、もうとっくに通り越していた。この間、誰ひとりとして声を発するものはいなかった。
永久に続くと思われた猛烈な揺れもさすがに峠を越した。
次第に現実の世界に引き戻された時初めて自分には、ことに出くわした信じられない光景を唖然として見ていた。海面はぐんぐんと下がってゆき砂が見えてきた。誰からともなく、「津波が来る。逃げなくちゃ!」という声が上がった。黄金山神社方面の高台へ上るのが最善だが、崖崩れがまだ続いているし、上り口付近の道は大岩や木で埋まり、所々で半分ほど落ちている。躊躇せざるを得ない。それにこれまで宮城県内では震度6程度の地震が何度も起きていたが、1メートルが直後、防災無線のスピーカーから「6m以上の津波が来ます。全員高台に避難してください!」という放送が鳴り響いた。これで我々の行動意志は決定した。危険を覚悟で一斉に高台を目指して上り始めた。右側の崖からの落石をかわし、海に転落しないように注意しつつ、倒れた木や岩を乗り越えてひたすら上った。途中で何度も余震が起こり、そのたびに岩がごろごろ落ちてくる。どっきりとした瞬間があった。振り返りながら後方を撮影し、再び前方に向き直った瞬間、大岩が前方10m程に亘って6、7個落下してきた。私の直前に落ちた岩は直径2mもある大物だった。思わず体は硬直し、目は見開いたままだった。撮影せずに歩いていたら確実に直撃されていたに違いない。上ること20分、3時15分にようやく50mほどの高台にたどり着いた。まさに「命からがらの逃避行」だった。
第一波が襲来したのは、3時18分だった。まず防波堤が隠れ、待合所やお土産屋が次々に水面下に消えていった。約10分後、今度は水が急激に南北両方向に引き始めて建物や桟橋が元の姿を現し、さらには金華山と牡鹿半島の間は、歩いて渡れるほど完全に水が引いた。それもつかの間、3時35分、南北両方向から20~30mの第二波が押し寄せ、二つが激突して50mもあろうかという超巨大津波となって高台に迫ってきた。我々はさらに高い所へ駆け上がって難を逃れた。
人が生き残ったり命を落としたりするのは、運にしろ判断力や対応力にしろ、いたって紙一重のような気がする。