【第189回】静岡県の偉人

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投稿者: 渡辺 正晃(昭和47年 工学部工業化学科卒)


浜松工業会、浜松支部Uターン相談室でボランティアを行っております。また、人生の保健室という名の相談会を隔週の金曜日に開催して、学生のみならず、卒業生に対しても各種の相談事を聞いています。今日は地元静岡県の偉人の話をさせていただきます。

【鈴木 梅太郎】
明治初期榛原郡今の牧之原市の農家の次男に生まれました。家が貧しかったことと明治の初期なのでまだ鉄道がなく東京まで歩いて行きました。東京大学農学部では日本人の体格が欧米人に比べて貧弱なのはなぜか?その原因を研究、勉強しました。白米を食べている都市部の人は【江戸患い】と言われる脚気になっていましたが、地方では玄米だったので患者は少なかったようです。明治になって地方でも白米を食べるようになったので患者が急増しました。米ぬかから取れる成分が脚気を防止する事を見つけオリザニンと命名しました。当時、日露戦争で軍医でもあった森鴎外が医学会でも力があって細菌説を譲らず、素直に栄養素のビタミン不足だと認めませんでした。梅太郎は農学者だったので、学会でもなかなか認めてもらえず、一説によれば、ノーベル賞をいただけなかったと言われています。当時の外国人が写った写真を見ると日本人がびっくりするくらい小さい事がわかりますが、このビタミンという栄養素を見つけたことに感謝します。ビタミンと命名したのはポーランドのフンク博士で大々的に発表したので反響を呼びました。梅太郎博士の論文はドイツで抄録でその4ヶ月前に掲載されましたが、大きく扱われませんでした。その後、17年経過して昭和になって海外の博士がビタミンの発見でノーベル賞を受賞しています。

【河村 伝兵衛】
袋井市浅羽町の出身、河村伝兵衛は県内の酒造場の杜氏が行なっている事をつぶさに観察しそこから静岡酵母を発見しました。昭和61年1986年5月の新酒鑑評会で京都の伏見とか神戸の灘という名門の酒を押しのけて県内10蔵の酒が金賞を総なめした事が驚きを与えました。私も生まれは焼津で当時の磯自慢とか初亀は正直普通の一杯飲み屋のお酒でした。伝兵衛は静岡酵母の酵母菌だけではなく、その温度管理、熟成方法など杜氏がやっている作業の良い所がどのような結果になるのかを知り、全ての工程を確実に行う事が新しい酒になるのだと言ってきました。今までと違った香り、風味の出し方、持続性など研究に研究を重ねました。その結果、今までのお酒清酒はリンゴやメロン系の華やかな香りカプロン酸エチルだった所を静岡酵母でバナナ系の酢酸イソアミルの果実香を出すことに至りました。食事によく合いワインにも対抗できる日本酒として世界の食通達に通用するようになりました。ただ、酒作りには並々ならぬ技術が必要で伝兵衛は弟子に手を抜かないように伝えています。地球温暖化が進むと静岡県の酒作りも更なる改良が必要となるでしょう。