投稿者:梶原 俊宏(昭和40年 中(職業)卒/現・教育学部同窓会副会長)
誰かが「何とかファースト」を主張してから、あちこちに登場するこの単語。そこには、「細かな論議はさておき……」という少数弱者の意見に耳を貸さない強きリーダーの傲慢さが感じられてしまうのだが思い過ごしか。
この「○○ナンバー1、○○ファースト」は浅い意味ではないにしても、そこには思いやりは感じられない。いつの間にか、「自分さえよければ」「私ファースト」に置き換えられないか。その結果、格差は拡大し弱者、貧困者は置いてきぼりで、お互い様、共生社会という言葉は死語となり打算社会で生きにくくなっていくのではないか。
以前、教育相談業務に関わった関係で今も相談に与からせてもらっている。
今や、子ども社会は明るくのびのびという評は必ずしも当たらない。見えにくい水面下での、いじめひとつ見ても問題が深刻化、複雑化し根が深い。
昔、ガス探知として坑道に置かれたカナリアと同様、社会変化の陰の面は最初に子どもに表れる。子どもの警鐘は小さく聞こえない、聞こえたとしても誤解して捉えられる。子どもが変化した、悪くなったのではなく、子どもが育つ土壌が「私ファースト」に汚染されてきたのではないか。限られた一生を周囲と共に、どう自分の能力を発揮させ、幸せに生き抜くか、「人間としてどうか」という物差しではなく、仲間に遅れるな、負けるなの「私ファースト」がはびこる社会は生きにくい。
多くがいざとなれば、私優先になりがちな中で、自分をさておいたボランティア活動は喜ばしいし感動する。他者にどこまで譲れるか、共に幸せを享受できるか、これから社会を支えていく子どもたちには大きな課題。いや「私ファースト」でない互譲の心は、子どもの手本となる自分に突きつけられたリトマス紙かも知れない。