旧制静岡高等学校から新制静岡大学へ
旧制静岡高等学校は、静岡第一師範学校(静岡・三島)、静岡第二師範学校(浜松)、静岡青年師範学校(島田)、浜松工業専門学校とともに新制静岡大学の開学の基礎となった学校である。第2次世界大戦により、旧制静岡高校は多くの学生が戦死するなど多大な損失を被った。
戦後間もない昭和21年(1946年)に、文部省は教育制度として新制大学を設置する方針を採り、旧制静岡高校でも昭和22年(1947年)頃から新制大学への改組計画を討議し始めた。当時、教務課長であり理科、地学担当であった望月勝海教授が発案した”地方文化に貢献するための単科大学のありかた”をもとに検討されていた。そして、文部省の一県一複合大学の方針に基づき、工学部・文理学部・教育学部から成る新制静岡大学が昭和24年(1949年)6月1日創立され、本部と文理学部が旧制静岡高等学校のあった静岡市大岩に設置された。旧制静岡高校時代の地学担当の教官は、今野円蔵教授から望月勝海教授に引き継がれた。
静岡大学農学部は昭和26年(1951年)4月に磐田市に発足し、それと同時に農林地質を担当する加藤芳朗先生が東京大学から助手として赴任され、同年6月講師に昇任された。
新制静岡大学文理学部・教育学部
かくして誕生した静岡大学に於いて、地学に関する講座は文理学部担当1講座と教育学部担当1講座の2講座が認められた。しかし、教官定員は認可された申請書通りには認められず、両講座合併で教育・研究が行われた。当時の教官は、静高から望月勝海、第一師範から佐々倉航三、竹内正辰の各先生であった。
昭和26年(1951年)10月に東京大学から鮫島輝彦講師、土 隆一助手の2人の先生を迎えた。しかし、当時の研究室設備は貧弱であり、太平洋戦争末期に空襲で火事になった校舎の窓から望月教授が外へ放り投げたため助かったというライツ偏光顕微鏡が数台あっただけという粗末なものであったし、図書も大半は焼失してしまっていた。設立当初、文理学部の性格は専門教育と一般教養教育のどちらを主体とするかで明確となっておらず、旧制高等学校の性格を引きずって一般教養を引き続き担当していたのが実状のようであった。
当時の地学の教育は、主に文理・教育の一般教育を受け持ち、地学関係の専門課程の学生は5名までしか教育しない方針であったという。それは、他の旧制大学に比べ余りにも設備に差があり、教官の数も少なく、また、卒業後の就職難をも考えてのことであったようだ。しかし、数年後には文理学部の学生の中から是非地学を専攻したいという者が数名現れ、彼らの熱意と教官の尽力によってその後多くの卒業生を生むに至った。
その間、昭和28年11月鮫島輝彦先生は文理学部助教授に昇任した。農学部の加藤芳朗先生は昭和31年(1956年)7月助教授に昇任され、同じ昭和31年(1956年)7月、教育学部に半田孝司(たかし)技官が赴任した。昭和33年(1958年)4月本学教育学部第2回卒業生である伊藤通玄(みちはる)助手が教育学部浜松分校に着任した。しかし、昭和38年(1963年)11月23日、静岡大学地学教室を育て、静高時代から合わせ幾多の有能な卒業生を育て上げてきた望月勝海教授は胃癌のため、享年58才で他界された。望月教授を失ったことは、静岡大学はもとより、学会に於いても大きな損失であった。更に地学教室は、2年後、佐々倉航三教授をも失うことになるのである。
望月勝海教授は、いわゆる”旧制高等学校の教授”といわれるおおらかさと包容力をもつ人柄であった。広い見識はその文章に名文として印され、卓見した推理は大規模な地球科学的な発想から生まれ、今日のプレ-トテクトニクスを先取りしていたとさえ言われている。地体構造、地形学、自然災害などの分野に独創的な足跡を残された。特に、昭和6年初版の「地質学入門」、その改訂版である昭和31年(1956年)に出版された「新版地質学入門」は、万を数える発行部数を誇り、名著の誉れを今もなお受け継いでいる。また昭和18年(1943年)上梓された「大東亜地体構造論」は、望月教授面目躍如の作と言われるのものである。これらの著作はその後絶版となったが、旧制静岡高校で教えを受けた元神戸大学教授杉村新先生は、他大学での集中講義の折りには、まず望月教授の「大東亜地体構造論」の表紙をスライドにして見せ、講義を始められたのである。杉村新先生は、旧制静岡高校を卒業し、望月教授の息吹きを直接肌で触れた一人である。平成3年(1988年)3月まで静岡大学農学部におられた加藤芳朗先生も望月教授の人柄と学問に傾倒し、旧制静岡高校卒業後、東京大学地質学教室に学び、再び静岡の地で活躍された先生である。なお、旧制静高から地学関係で活躍されたり、現在も活躍されている人々の中には、故大塚弥之助(元東京大学)、松本達郎(元九州大学)、堀純朗(科学技術庁)、橋本光男(元茨城大学)、戸苅堅二(元北海道大学)、成瀬洋(大阪経済大学)、端山好和(東京農業大学)などの各氏がいる。
文理学部改組と理学部地球科学教室
文理学部という文系・理系をあわせた複合学部の形態の本来の趣旨は、広い教養のもとに、特定の職域に限定せず、どこにでも適応する社会人の育成にあった。しかし、専門分化の方向とそれらの総合関連化の方向の間を埋めることはできず、文理改組の方向に進展していった。それと同時に県下各地に分散している学部の統合移転も議論されはじめた。
昭和38年(1963年)、文部省は戦後のベビ-ブ-ムによる大学進学希望者急増対策を契機に文理改組を打ち出し、大学も千載一遇の機会として、この方針に沿った計画が議論された。現実には、以前から提起されていた文理学部の将来計画である文理改組、統合移転の方向が一躍全学の方針として動きだしたのである。
文理改組に関して、文部省に提出された理学部設置計画案によれば、理学部は、数学科・物理学科・化学科・生物学科および地学科の5学科をおき、それぞれの学科は、4・5・5・4・3の学科目(講座)および35・45・45・25・20の学生定員をもつ筈であった。しかし、文部省から昭和40年(1965)度に文理学部改組が予定されている大学は全て4学科で編成する旨が伝えられ、1学科の削除を余儀なくされた。このため、大学は地学科の設置を見送り、共通学科目として地学の2学科目を新理学部内におくことを方針とした。
当時の地学科の桐谷文雄教授は、数学の生田利治教授と文部省大学局に出かけ、直接交渉の結果、地学1学科目を共通学科目として置き、定員8名とし、各学科に籍をおいてなお地学を履修できるようにし(地学履修コ-ス)、将来の地学科設置に備えることになった。
このようにして、昭和40年(1965年)4月1日理学部が設置され、地学履修コ-スも教官数3名(桐谷教授、鮫島助教授、土助教授)で始められた。発足後、初代学部長選挙では桐谷教授が学部長に選ばれた。同時に、大学の2年次までの一般教育を主とする教養部が設置され、工学部・農学部の1・2年次の学生を含め、静岡の大谷に一同に集まり教育を受ける体制となった。教養部担当は鮫島輝彦助教授(理学部併任)と、廃止された教育学部浜松分校から、昭和42年(1967年)2月、伊藤通玄(みちはる)講師が就任した。同年4月に、教育学部には、名古屋大学から黒田 直助手が就任した。
文理学部は、最後の卒業生が送り出された昭和47年(1972年)に廃止された。理学部発足後も教育研究は大岩地区で行われ、旧木造校舎、鉄筋ではあったが老朽化した理科館、プレハブ棟など、勉学条件は決して良くなかった。そのような中で昭和42年5月、第一次コロンビア-アンデス学術調査隊(隊長・土助教授)が南米コロンビアを中心としたアンデス山地に派遣された。
昭和42年(1967年)4月からは、それまでの大岩地区から大谷地区への統合移転が始まった。この年教養部のA,B,Cの3つの建物が完成し、教養の授業が大谷で始まった。しかし、建物は授業に間に合う程度に完成していたが、周辺道路や階段などの整備はとても間に合わず、工事と並行して授業が進んだ。
理学部は、昭和43年(1968年)8月に現理学部校舎のA棟とB棟が大谷片山の地に完成し、移転が行なわれた。地学教室は、理学部A棟4階の西側に移転した。
昭和45年(1970年)3月には理学部の桐谷文雄教授と教育学部竹内正辰教授の停年退官の後、4月には土 隆一助教授が教授に昇任、教育学部の黒田 直助手が理学部講師に転任した。同時に地学履修コースの助手1名が認められ、東京大学から池谷仙之助手が赴任した。教育学部の後任は、東京大学から徳山 明助教授と名古屋大学から藤吉 瞭(あきら)助手が赴任した。さらに、昭和46年(1971年)7月には東京大学から木宮一邦助手が赴任した。池谷仙之助手は昭和48年(1973年)3月、東京大学に転出した。後任は東京大学海洋研究所から大塚謙一助手が赴任した。農学部加藤芳朗先生は昭和47年(1972年)教授となられ活躍されていた。
昭和49年(1974年)3月教養部の鮫島輝彦教授は、ニュージーランドに新天地を求めて移住されるため退職。後任には、国土地理院から檀原 毅教授が就任した。
理学部地球科学科の設立
理学部設置以来の宿願であった地球科学科の設立は、十余年の末ようやく昭和50年(1975年)理学部5番目の学科として、地殻進化学、海洋地質学、地殻化学、地殻物理学の4講座、学生定員30名で開設となった。これは、文部省による全国の文理改組の時に4学科で発足した、地方大学の充実・完成を計る目的と、大学への就学率が高まったことによる学生増対策の一環であった。
昭和51年(1976年)度には、地球科学科は学年進行によって従来の1講座に加えてもう1講座分の教官定員が増員され、鹿児島大学から岡田博有教授、本学理学部で3年間助手をした後東京大学に戻っていった池谷仙之助教授、静岡精華高校から茨木雅子助手が赴任した。また、吉田静子教務員も同年採用された。
昭和52年(1977年)度には、年次進行により東京大学から吉田鎮男助教授、荒井章司助手が、途中9月に名古屋大学から長沢敬之助教授が赴任した。さらに、昭和53年度(1978年)には、檀原 毅教授が教養部(評議員)から移り、東北大学から新妻信明助教授、東京大学から北里 洋助手が赴任して12名の教官がそろい地球科学科として完成した。
一方、教育学部では、昭和53年(1978年)4月徳山明教授が、新しく発足した兵庫教育大学に転出した。
昭和54年(1979年)度は、吉田鎮男助教授の名古屋大への転出のあと、荒井章司助手が講師に、9月から名古屋大から本学部地学履修コ-ス第3回卒業生の和田秀樹助手が赴任した。この年昭和54年度は、技官1名が認められ、薄片作成などを業務とする九島広行技官が加わった。また、この年の4月、教育学部には東京大学から狩野謙一講師、教養部には京都大学から里村幹夫助教授が赴任した。
静岡大学大学院理学研究科修士課程は51年度(1976年)に新設されていたが、昭和54年(1979年)4月には地球科学専攻が新設され、この年は北海道大学と山形大学から計2名の学生が入学した。
その後、昭和56年(1981年)4月には、荒井章司講師は筑波大学へ転任した。昭和57年(1982年)4月からは教育学部に大学院修士課程が設置された。昭和57年10月には、理学部に東京大学から増田俊明助手が赴任し、再び12人のスタッフが揃った。またこの頃、岡田博有教授が昭和57年4月から学生部長に、長沢敬之助教授が昭和58年4月に評議員、昭和59年4月からは理学部長に就任するなど、静岡大学の教育行政の面でも地球科学教室の教官がおおいに活躍した。
この頃、近く再来を予想されている東海大地震への関心は、社会的なマスコミの報道とも相まって、静岡県庁にも地震対策課が新設されたり、建設省の指定する地震対策特別強化地域の指定などが行なわれた。それに合わせ大学の建築物も特別地域で耐震基準が高くなっため、全学的に現在の建築物の耐震強度を増す工事が行なわれることとなった。理学部C棟の工事は、昭和60年(1985)の夏休み期間を利用して行なわれ、その間の研究・事務等は理学部A棟、教養部L棟等へ借移転して急場を過ごすこととなった。その間、池谷仙之助教授を中心に進められていた第9回オストラコ-ダ国際シンポジウムが静岡で行なわれた。
また大学の入学試験の方法は、それまでの一期校、二期校に分かれていた受験体制から、共通一次による国立大学全国統一入試方式が昭和54年(1979年)度の入試から導入され、地球科学科では昭和60年(1985年)度から推薦入学制度を導入した。その後の受験体制の改正により、昭和62年(1987)年度から国公立複数受験体制が実施された。
昭和61年(1986年)3月には檀原 毅教授が停年退官となり、同年4月からは13年余りAukland大学(New Zealand)におられた鮫島輝彦教授が後任として就任した。昭和63年(1988年)3月には長沢敬之助教授(理学部長)と鮫島輝彦教授、農学部の加藤芳朗教授の3人が停年退官となり、同時に岡田博有教授も九州大学へ転任になった。後任人事として、池谷仙之、黒田 直両助教授が教授に就任し、和田秀樹助手が助教授に、教育学部から狩野謙一助教授が理学部に移り、一方理学部の大塚謙一助手が教育学部の助教授に転任となった。そして、海野 進、間嶋隆一両助手がそれぞれ東京大学、筑波大学から赴任した。同年5月には、本学科第3回の卒業生でもある小山真人助手が東京大学から就任した。
鮫島輝彦先生は、新制静岡大学の発足のすぐあと昭和26年(1951年)10月赴任され、静岡の地に根ざした教育と研究に心血を注がれ、静岡県地学会の育ての親とも言うべき存在であった。戦後研究設備のはなはだ乏しい中、先生は学生とともに様々な工夫と創意をこらした実験をし、ともに野外を調査し、かつ、温泉調査、鉱物資源調査など静岡県のための調査研究を精力的に行った。卒業後に教師となった学生の多くは、先生の薫陶に目覚め、現在ある地学会をともに支えてきた。文理学部の改組では、先生は文理学部助教授から率先して教養部助教授に籍を置き、大学に入りたての学生に対し、歯切れの良い、明快な授業でこれからの地学の魅力を講義された。昭和45年(1970年)教授に昇進された後、昭和49年(1974年)3月齢50をすぎて一大決心をされ、ニュージーランド移住を決行された。オークランド大学客員研究員をされながら、日本人研究者のニュージーランドの窓口として数多くの方がお世話いただいた。先生を頼って静岡大学の卒業研究や修士論文の研究で、ニュージーランドを調査地にすることができた。昭和61年(1986年)4月から63年(1988年)3月の2年間だけ、再び静岡大学で教鞭を執られ、その後はオークランドにもどられた。先生は、しかし、平成4年(1992年)8月13日前立腺ガンがもとでオークランドで亡くなられた。
昭和・平成の展開
戦後のベビ-ブ-ム世代の次の世代、第2次ベビ-ブ-ムがやってきて、大学の募集定員増加が社会的に求められるようになり、地球科学科も昭和63年(1988年)度から35名の定員となり、さらにその内12名(帰国子2名を含める)を推薦入学で選抜するようになった。
平成元年(1989年)となり、3月には九島広行技官が転職のため退職した。平成2年(1990年)4月からは、臨時募集に伴う教官定員(1名、助教授)が認められ、増田俊明助教授昇任となった。後任は東京大学海洋研究所から徐 垣(ソウウォン)助手が同時に就任した。この時に、九島技官が退職して約1年後、平成2年(1990年)3月、森 英樹技官が就任した。
平成3年(1991年)3月には間島隆一助手が母校の横浜国立大学に転任していった。同年3月に教育学部では岩橋 徹教授が停年退官し、4月から藤吉 瞭教授昇任、理学部から小山真人助手が講師に転任していった。またこの年、教育学部木宮一邦教授は常葉短期大学長に選任され退職された。そのための後任は、同年10月から通産省地質調査所から藤井敬三教授が就任し、教育学部総合教育課程環境地学を担当することになった。小山・間嶋教官の後任として、理学部では千葉 聡助手と長濱裕幸助手が東京大学から就任した。
平成4年(1992年)3月には土 隆一教授が停年退官となり、それに伴い4月からは徐 垣助手が講師に昇任、後任にはアメリカのハ-バ-ド大学からR.M.Ross助手が10月に就任した。同じ時期、平成4年(1992年)3月、教育学部では36年間に渡って地学教室の裏方として、また、静岡県下の小・中・高等学校の教員になった静岡大学卒業生の多くが活躍する静岡県地学会の事務局を一手に引き受け、無くてはならない存在であった半田孝司技官が、前年転任された木宮一邦学長の強い希望で、常葉短期大学に講師として就任することになった。
理学部地球科学科では、平成4年4月から、10名の定員増が認められ、定員45名になった。その間、外国との研究交流がさかんになり、平成3年(1991年)3月からインドネシアからRickyさんが半年間、アメリカ地質調査所からTom Cronin氏が滞在していった。
平成5年(1993年)4月から、地球科学教室第5番目の講座として、地球環境科学講座が設立された。それに伴い、地球環境科学講座の教授には新妻信明教官が就任し、助教授として気象研究所から鈴木 款(よしみ)教官が、また地球進化学講座の助教授として東京大学から阿部勝巳教官が赴任した。同時に理学部の海野 進助手、徐 垣講師は助教授に昇格した。池谷仙之教授は、評議員となった。平成5年(1993年)4月、教育学部では理科教育の初めての地学系の教官として、茗渓学園中学校・高等学校から熊野善介講師が就任し、同時に半田孝司技官の後任として楠(くすのき)賢司技官が就任した。
平成5年(1993年)10月1日 狩野謙一助教授は地殻物理学教授に昇任、徐 垣助教授は九州大学理学部助教授として転出。茨木雅子助手が助教授に昇任、後任として京都大学から北村晃寿博士が助手として赴任した。
平成6年(1994年)4月、教養部では里村幹夫助教授が教授に昇任するとともに、総合科目に新たに開設された環境科学担当教官として東京大学海洋研究所助手であった神田穣太博士が助教授として赴任した。
平成6年9月、長濱裕幸助手は東北大学理学部に転出し、同10月1日北里 洋助教授は海洋地質学講座の教授に昇任、地殻物理学講座に道林克禎(かつよし)助手が赴任した。また、学年進行に伴い地球環境学講座に助手一名が増員され、アメリカのワシントンにあるカーネギー研究所(DTM)の研究員であった石川剛志(つよし)助手が赴任した。
平成7年(1995年) 3月末には、教養部伊藤通玄教授の停年退官となり、後任は教養部の解体に連動した情報学部設立の混乱で、補充できない状態が続いた。
平成の大学改革-大学院博士課程
文部省は、昭和62 年(1987年)頃から大学審議会に『大学等における教育研究の高度化、個性化及び活性化等のための具体的方策について』の諮問をし、平成3年(1991年) 2 月の答申を受けて全国の大学の見直しを始めた。戦後50年になろうとする現在の教育制度において、初めての大規模な見直しになるものである。
全体として大学・大学院教育の改善と充実を目指し、改革の主要な点は、大学設置基準の大綱化と自己評価である。大綱化というのは、従来、一般教育科目と専門科目の取り方や、卒業要件、単位の計算方法、教育研究組織や教員組織など様々な規制があったものを、できるだけ法的な規制を緩やかにし、大学が自主的に定めるようにし、自己革新のエネルギーをだし、活性化が可能になるようにというもくろみである。そのかわり、自らの責任において、教育研究の改善を図るため、自己評価のシステムも考えよということになっている。
これ以後、全国の大学がしのぎを削って特徴ある再編に向けて動き出した。主な再編としては、大学院の充実と学部教育の再編であった。大学院の充実として旧帝大などは、学部とは独立した重点大学院を作り、研究と研究者の養成を重点大学に集中するような方向に向かった。このような重点化は、元々学部所帯が大きく、すでに博士課程が設置されており、独立大学院を作ることが容易であったところから始められた。
学部教育の再編は、静岡大学のように、教養部を持つ大学はほとんど、教養部廃止と学部4年一貫教育とがセットで進み、新学部や新学科などを新設することになる。我が静岡大学は、専門教育と一般教育の融合を目指しながら、平成7年9月末をもって教養部廃止、浜松に新たな”情報学部”が設立されることになった。教養部廃止に伴い、一般教育をどのような組織で円滑に行うかは大学にとって焦眉の急であり、また、大学としての見識の問われるところであった。
この大改革にあたって、池谷教授は、全学の学部等部会の委員長としてその任にあたった。理学部の大学院の充実は、博士課程を新設することにあったのだが、理学部再編の大議論と工学部との歩調合わせが難航して改革の歩みは遅々として進まなかった。理学部の修士課程の大学院ができたのが昭和51年(1976年)、昭和53年(1978年)には地球科学科にも修士課程が設立され、以後1996 年までに(61名)の学生が巣立っていった。
静岡大学には、工学部に電子科学研究所と博士コースだけを持つ電子科学研究科があるが、工学部に続く大学院博士課程は、中国・東南アジアなどの留学生を受け入れるときにも必要とされたし、全国の大学に博士課程が次々と作られる中、大学としてのステイタスとしても必要になっていた。農学部は既に、信州大学一岐阜大学との聞に、博士課程の連合大学院を発足させていた。理学部は十余年来、色々な形の大学院構想を検討していたが、すべて、日の目を見ることはなかった。
理学部内の改革は、昭和63年(1988年)から始まった臨時増募期間の終わる前に、学部再編成の議論を行い、新学部構想や、新学科構想、新講座要求などいろいろと浮き沈みをした。文部省は、臨時増募で増えた定員は新講座、新学科など大学に応じた形で充実した。理学部全体の再編成は、結局妥協点を見いだすことができず、要求することはできなかったが、地球科学科が強自に要求していた、地球環境科学講座が認められることとなり4講座から5講座体制となった。
大学院博士課程の理工学研究科を目指す方向として、学科再編、学部再編の議論が進められた。理学部再編はやはり、既存の学問領域を脱することができず、ただ地球科学科と生物学科は新たな学科として、生物地球環境科学科という名称となり、地球物質科学講座一生物地球環境学講座一生物機能科学講座の三大講座の体制で進むことで合意が成立した。
結果として理学部は従来の、数学、物理、化学科が学科名を据え置き大講座制とし、新たな生物地球環境科学科の4学科体勢で学部教育・研究を進めることになった。そして、従来の理学研究科を廃止し、大学院理工学研賓科の前期課程(修士課程)は、理学部の学科名と同じ4 専攻と工学部の5専攻を会わせ9専攻とし、また、後期課程(博士課程)としては工学部と融合した教育体制をとり、環境科学、設計科学、物質科学、システム科学という4つの専攻とすることで合意することになった。
このように、全国的に同じ程度の規模を持つ大学としては決して早いとは言えなかったが、平成8年(1996年) 4月から、博士課程を持つ理工学研究科が設立された。通常、理学部と工学部が合体する場合、理学部に比べて工学部は学生数、教官数も圧倒的に多いため、工学部主導型の大学院に理学部が混じり込むような組織が多いが、工学都と理学部が対等に融合型の大学院を作ることができたのは、静岡大学の特徴といえるであろう。しかし、特徴ある融合型といっても、静岡と浜松に分かれての教育であるため、実際どのように指導を進めていくかについては、大きな問題を抱えての出発となった。
理工学研究科の発足にあたり、池谷教授は理工学研究科副研究科長に、新妻教授は理工学研究科後期課程の環境科学専攻長に選ばれた。また、平成10年(1998年) 4月からは池谷仙之教授が理工学研究科長となった。
改組後の展開
平成7年10月の全学再編成に伴う教養部廃止と情報学部設置、さらにその半年後の平成8年4月に大学院博士課程の設置と生物学科と地球科学科の生物地球環境科学科への統合と、地球科学教室も大きく様変わった。この改組に関連して、平成7年(1995年) 3月末には、教養部伊藤通玄教授が停年退官となったが、情報学部新設に伴うポスト確保のため、後任は補充できなかった事は既に述べた。
平成7年(1995年) 10月、教養部廃止、情報学部新設を中心とした静岡大学全学再編成により、教養部の里村幹夫教授と神田穣太助教授が、理学部地球科学科に移籍した。また、教育学部では同年4月に理科教育学の熊野善介講師が助教授に昇任した。
平成8年(1996年) 4月には、大学院博士課程の設置に伴い、理学部地球科学科と生物学科が合併し、生物地球環境科学科が誕生した。同時に、小講座制から大講座制ヘ変革され、和田秀樹・鈴木款の両助教授が教授に昇任した。
平成9年(1997年) 2月には、R. M. Ross 助手がアメリカに帰国。かわって4 月から生形貴男教官が助手として愛媛大学から赴任するとともに、増田俊明助教授が教授に、石川剛志助手が講師に、それぞれ昇任した。また、長年、地球科学教室の事務を一手に引き受けてきた吉田静子教務員が助手に昇任になった。
平成10年(1998年) 8月21日には、阿部勝巳助教授が千葉県富津市で交通事故のため急逝、10月には千葉聡助手が助教授に昇任になった。
平成11年(1999年) 3月には、昇任したばかりの千葉聡助教授が東北大学理学部に転出した。代わって4月には、8月に急逝した阿部教官の後任として東京大学から塚越哲教官が助教授として赴任し、また、日本学術振興会外国人特別研究員としてインドから静岡大学に来ていたM. Satish-Kumar 教官が助手となった。
平成12年(2000年) 2月には神戸大学助手であった林愛明教官が助教授として赴任した。また、教育学部では、平成12年3月に環境教育を担当していた藤井敬三教授が停年退職となり、後任として、4月から地学教育の大塚謙一助教授が環境教育担当の教授に昇任、地学教育には名古屋大学から延原尊美助教授が赴任した。理工学研究科の大学院博士課程では、平成12 年3 月地球科学教室ではじめて土屋正史君が博士課程修了者となった。また、12 月には神田穣太助教授が東京水産大学に転出になった。
理学部の敷地に全学共通棟として新しい研究棟が平成13年度に新設されることになった。この建物の1-2階には、全学組織である静岡大学機器分析センターが入ることになっている。全学共通棟は、当面地球科学教室の物質系の教官と学生が入る予定である。新棟完成は予定では平成14年3月である。
平成13年(2001年)いよいよ21世紀に突入、3月には黒田直教授が定年退官となったが、この教授ポストは、臨時増募が終了した時点で返還すべき人員となるため補充はできず現員は1名減となった。平成12年の神田譲太助教授のポストを教授で採用することができ、信州医療短期大学から、加藤憲二教授が4月から赴任した。同時に、北村晃寿助手は助教授に昇任した。教育学部の小山真人助教授は、同じく4月より教授に昇任した。平成13年3月、大学院博士課程の豊福高志が二人目の博士課程修了者となった。また、4月末には地球科学教室始まって以来、教室事務を一手に引き受けていた吉田静子助手が退職されることになった。
平成14年度に理学部の横に総合研究棟が新設され、理学部C棟から、狩野、里村、増田、海野、林、北村、生形の各教官が移動した。