現代福祉国家における自律への権利

笹沼 弘志

一 はじめに

「人が助け、保護し、援助するところでは、支配をもしようとする誘惑はあまりに大きいので、人はその誘惑にかならずしも抵抗できるとは限りませんし、そしてしばしばそうしようとさえ思いません。国家に依存していることを承知している個人は、国家に対して抵抗を行なうことができません」(1)

すべての人の自由を現実に保障するためには、何らかの保護が必要だが、保護には服従がつきまとい、保護を施すものは、被保護者を恣意的に支配しがちであり、被保護者は保護を失うことを恐れ、保護者の恣意的支配に耐え、あるいは保護を求めて自発的に服従しさえする。自由を現実のものとするための保護が新たな服従を生み出し、自由そのものにとって障碍となる。これが人権の実質化を目指す現代福祉国家に普遍的なディレンマである。本稿は、このディレンマ克服のための、一つの試みである。
二 現代福祉国家のディレンマと近代的人権
(一) 福祉国家のディレンマと自己決定権
現在、「福祉」の領域で生じている諸々の事件は、保護と自由の二律背反という福祉国家のディレンマの深刻さを鋭く表している。とりわけ近年生活保護法をめぐって、秋田と神戸の生活保護受給者貯金事件、桶川のクーラー事件、名古屋の野宿者生活保護訴訟等多くの事件が注目を集めている。これらの事件の背後にあるのは、保護を受けている者は多少とも自由を制限されても仕方がない、といったわれわれ普通の人々の社会通念である。こうした観念が日本の福祉政策を支えているからこそ、自由のために保護を拒否し、餓死を選ぶ者さえ現われているのだ(2)

しかし、保護と自由制約の組合せは、生活保護行政に限らず、社会の至る所に見出しうる。親や教師等大人に保護される子ども、夫に依存する妻、健常者の介護を必要とする障害者、高齢者。そして、社会的には最も自立的であるはずのサラリーマンでさえ、いや企業主義社会の中で最も手厚い保護を受けている彼らだからこそ、保護を求め自発的に服従を競っているのだ。保護と引き替えの自由制限に耐え切れぬ者は落伍者の烙印を押され、社会から排除される(新宿等での野宿者強制排除事件)。だからこそ今、保護に依存せざるを得ず、服従を強いられている人々の自己決定権への要求が噴出しているだ(3)

だが、なぜ今頃になって「被保護者の自己決定権」なのか。そもそも、「権利としての社会保障」論を始め、古くから被保護者の自己決定権を擁護する議論は存在していたし、保護、福祉は恩恵ではないと再三強調されてきたはずである(4)。にもかかわらず、相変わらず保護を受ける者が服従を強いられ続けているのはなぜなのか。それは、従来の社会保障の権利論が依拠してきた近代的自己決定権そのものが、自己決定=自己責任原理と、保護に依存する者に服従を強いる保護=服従等式を前提としているからである(5)。この二重の等式を伴う自己決定権概念を自覚的に克服しえなかったため、従来の社会保障の権利論は説得力を欠いてきたのだ(6)。福祉国家のディレンマを乗り越え、保護に依存せざるを得ない者の「自己決定」への可能性を保障するためには、二重の等式を伴う近代的自己決定権理念に依拠することはできない。

以下、近代的人権理念の中核としての「自己決定権」概念につきまとう、自己決定=自己責任および保護=服従という二重の等式を解体すべく、自己決定権概念の「自律への権利」への転換を試みる。保護に依存せざるを得ず、服従を強いられている人々を解放し、「自己決定権」の名の下に要求されている権利の内実、つまり、たとえ他者の援助を受けながらであれ、自分の幸福を自分で見つけ(自律)、それを実現していく(自立)権利を保障するためには、自己決定=自己責任および保護=服従という二重の等式の解体が必須なのだ。この二重の等式を解体し、自己決定権を脱構築するのが、自律への権利、即ち自律のための適切な保護を請求しつつ、恣意的支配に抵抗する権利である(7)

しかし、自律への権利の提唱は特に全く新しい権利の発明ではない。むしろ、福祉国家のディレンマ状況の中で苦しむ当事者たちや彼らに寄り添い共に悩んだ多くの理論家たちによって編み出されてきた諸種の権利を、誤った基礎から正しい基礎に移しかえ、それら本来の機能を十分に発揮させる条件の整備を意図しているに過ぎない。
(二)近代主義的人権論における保護と自由
近代主義的人権論(「強い人権」論)が想定する人権主体は、他者に依存することなく、精神的・物質的な自己統治能力、自律能力を有し、自己の選択の結果に対して自己責任を負いうる者(強い人間)である(8)。自律能力に欠け、自己の生存を自立的に支えることができず、自己責任を負えない者(弱い人間)は、他者による保護に依存せざるを得ないが、保護者への服従を強いられることになる。自己の生存を自ら支えられない者は、単に不運というだけでなく、怠け者や自己の能力を適切に活用できない者で保護者による指導・助言が必要だとみなされ、それに従わない場合には保護そのものを拒否される(9)

「力」の所有を前提とし、自己決定=自己責任を原則とする「強い人権」には、保護=服従等式が不可分のものとして結合しており、ここでは自由と保護は和解し得ない。かような「強い人権」論に依拠する限り、福祉国家のディレンマ状況は克服し得ないのだ。それゆえ、福祉国家による保護、官僚主義的な介入を拒否し、自己決定、自立自助を強調する傾向が生まれてきたのである。新自由主義や福祉多元主義は、国家による「福祉」は結局のところ恩恵でしかあり得ず、自由とは相容れないとの諦念を共有している。福祉に伴う恣意的支配を拒否するため、国家による福祉そのものを拒否し、個人の自己責任、自立自助を拡大していこうというのだ(10)。しかしこれでは、そもそも独力で生活し得ないからこそ、保護を必要とする人々の「自立」への可能性自体を掘り崩すことになる。

こうした隘路からの脱出を図り、保護と自由・自律とのバランスを図る調整的アプローチ論や(11)、要援護者の自由、自己決定権を擁護する複合的社会福祉権が提起されている(12)。しかし、調整的アプローチ論では、保護と自律とはなお対立的に捉えられており、複合的社会福祉権論においても保護と自己決定との関係は明確にされていない。はたして、保護と自由、自己決定は和解し得ないものなのか。いや、そもそも、福祉国家自体が、自由保障のための保護、保護と自由の二律背反の克服を目指していたのではなかったのか。

三 福祉国家の憲法構想における保護と自由
(一)「保護と自由」調和への夢想
現代福祉国家を正当化する諸種の人権論、憲法理論に共通する特徴は、自由と国家による保護との和解である。諸個人が自由・自律のための物質的基盤を喪失し、相互依存状態にある中で、自由を現実に保障するためには社会連帯または国家による保護が不可欠であるとの命題が、様々な相違を示しながらも、国家類型を越えて共通に主張されてきた。フランスの社会連帯・社会法理論、ドイツの制度的基本権理論や国家の基本権保護義務論、英米のシティズンシップに依拠した社会権論、福祉権論。そして、ソビエト一八年憲法は自由の現実的保障を形式的自由と階級的平等化という二重の定式によって典型的に描き出した。こうした中で、自己決定=自己責任原理も、労災への社会連帯、リスクの分散原理の導入による社会保険の様に、分離可能なものとして制度化されていった(13)

しかし、福祉国家の正当化論、特に社会法論は、単に保護と自由を接合し、国家の私的領域への介入を正当化するものではなかった。むしろ、社会法論は私的生活領域に介入せざるを得ない国家権力をポジティブに制約し、義務づけ、自由を増大させることを主たる目的としていたのである(14)。個人への保護請求権付与、国家への保護の義務づけは、私的領域への国家介入や国家による個人支配の正当化ではなく、国家権力のポジティブな制約に本質的な意義を有する。自由の現実的保障というよりも、権力制約原理としての人権の意義の徹底化である(15)

保護と自由との和解を目指す憲法構想が成功したか否かはさして問題ではない。それに関わらず、福祉国家のディレンマ状況は依然として存在しており、福祉国家を「自由国家」に逆戻りさせるという古典的自由主義の試みが御伽噺でしかない限り、それをポジティブに克服する試みを提起し続けていかねばならないことには変わりがないからである。そしてまた、福祉国家的介入が自由と保護、自由権と社会権との相対化を促してきたことも否定できない。現代福祉国家の憲法としての日本国憲法も、自由と保護の接合を志向するものだが、その射程は「社会権」を個人の法的権利として規定することができなかった他の憲法を超えるものである。

(二)個人の尊厳と自律への権利
日本国憲法における人権の基礎は、「個人の尊重」または個人や人間の尊厳に求められるというのが通説的見解である。一三条「個人の尊重」については、ボン基本法一条「人間の尊厳」との異同が論じられてきたが、二四条「個人の尊厳」との関係については、両者がしばしば混同されているように、特に自覚的に論じられてはこなかった。「個人の尊重」は身分制的支配からの個人の解放を含意するというのが現在の有力な見解であり、「個人の尊厳」も基本的に「個人の尊重」と同趣旨に、身分制的な家制度からの個人の解放を意味するものと解されてきた。しかし、憲法起草過程をみると「個人の尊厳」にはそれに止まらない、より深い含意があることが明らかになる。

周知のように、二四条の草案を起草したのはベアテ・シロタであった。彼女が起草した条文には、二四条の通説的理解を無自覚的に共有する者にとっては衝撃的な「男性の支配ではなく両性の協力に基づくべき」との文言が記されていた。ベアテ・シロタが日本国憲法に刻みつけたこの「男性支配の否定」は、封建的身分制的制度としての「家」からの個人、特に女性個人の解放という意味を超え、当時最も自由で民主的な社会においてさえ存在している男性支配からの女性の解放を意図したものであった。それは後年ベアテ・シロタ自身によって明かされることになるが、彼女自身が合衆国で経験した女性の従属への異議申立てを基礎としていたのである。自由民主制社会にあってなお、男性に依存し、服従せざるを得ない女性の解放、自律への権利の保障こそ、「個人の尊厳」の意味である。

そして、ベアテ・シロタはこれに続けて、国家による公的扶助を含む母性の保護、生活のため仕事につく権利、生活保護、女性の政治的職務を含む職業への権利、男女同一賃金、無償教育、無償医療、年金・手当等を記した(16)。他者への保護に依存せざるを得ないがゆえに従属を強いられる女性の解放、自・のためには、広範な「国家による保護」が必要とされたのである。二四条の「個人の尊厳」は保護に依存せざるを得ないがゆえに、服従を強いられてきた女性に国家による保護を提供し、自律への権利を保障するものなのだ。

権力への対抗という意味で普遍的で無規定的な意義を有するとみなされる「個人の尊重」も「個人の尊厳」とともに憲法上に刻みつけられることにより、一層豊かな内実を獲得した。即ち、単に国家や中間団体からの自由のみならず、個人を取り巻く様々な力、保護と依存関係一般を通じて行使されるあらゆる権力への抵抗、依存=服従からの解放である。これを表現するには、現実的自由というよりは根源的自由という語の方がふさわしいであろう。こうした個人の尊重の解釈は、樋口陽一の説く「権力への対抗としての人権」の転覆ではなく、むしろその徹底である。

あらゆる権力への抵抗という人権の核心から、国家に対する自律のための保護請求権が導出される。草案では分散的に規定されていた「国家による保護」は憲法二五条に総合的に個人の法的権利として規定されることとなった。権利としての「国家による保護」の請求は、「他者への依存」ではない。他者への依存を抑制するため、国家に保護を義務づけ、個人に国家への保護請求権を付与したのだ。かくして、保護に依存せざるを得ないがゆえに、服従を強いられている人々の自律への権利が保障されるのである。日本国憲法がdroit socialを個人の主観的権利として規定したのは、社会法が有する国家制約の意義をより一層強固なものとした。保護請求権、社会権が、あたかも国家による被保護者支配を正当化するかのような転倒した論理が今なお支配的だが、それは自己決定=自己責任、保護=服従という二重の等式を伴う人権観念と福祉=恩恵観に囚われているからである。

四 自律への権利の構想
(一)人権としての自律への権利の基礎
「個人の尊厳」および「個人の尊重」により日本国憲法上根拠づけられる人権としての「自律への権利」は、いかなる権利か。その基本構想を示す前に、個人の尊厳を核とする人権の前国家的基礎を明示すべきだが、ここでは人権の根本規範性、人権宣言という暫定協定modus vivendiを基礎とした人々の自由な協同の歴史と合意の制度化(17)を挙げうるとだけ指摘しておこう。

人権の中核概念である「個人の尊厳」は、個人の自律能力や道徳性等の主体的要素により基礎づけられるものではなく、個人に対する恣意的支配の否定の「印」である。強い人権論に立つカントによれば、人間の尊厳は自律能力を基礎とし、その主体は自己の定立する規範と普遍的道徳法則との一致を要求され、他者に対して道徳的に義務づけられる。弱い人権論の「個人の尊厳」は主体の他者に対する義務を前提とせず、むしろ、主体に対して権力を行使する他者に対して恣意的支配を禁止し、その権力を制限することによって主体の自律性を確保する(強い人間と弱い人間との差異は、主体の内的属性に基づくものではなく、むしろ客観的な支配=被支配関係の中で把握されるべきものだ。自己及び他者に対する支配力を行使している者が強い人間であり、支配され服従させられているがゆえに、力を制約されている者が弱い人間である)。

(二)自律への権利の概念
次に、人権としての自律への権利の構想を簡略に示そう。それは、まずなによりもあらゆる権力への抵抗の権利であり、国家の不介入領域の確定という意味で国家をネガティブに制約するのみならず、国家が介入しうる領域においても国家をポジティブに制約するものである。いわゆる限定的人権論の最大の問題は、国家への作為請求権を人権として積極的に承認しないという点にあるのではなく、むしろ、福祉国家的介入が許される領域において権力制約の手段を失い、恣意的支配を放任する点にある。限定的人権論こそが、現代福祉国家の権力制約の論理構築を阻害し、自由を危機に陥れているのである。

第二に、国家に対し自律のために必要かつ適切な保護を請求する権利である。保護の請求は「依存」ではなく、権利行使という極めて自律的な行為である。国家への保護請求権は、「他者」への依存の抑制と、自由・自律の確保を目的とする。ここでいう「保護」とは本人の最善の利益を他者が判断し、本人の意思と無関係に強制すること(パターナリズム)ではなく、本人の自由行使のための適切かつ多様な選択肢の提供を意味する(18)。「適切な」保護の請求であるがゆえに、同時に保護を通じた恣意的支配への抵抗をも正当化する。恣意的支配の拒否は保護そのものの拒否ではなく、あくまでも「適切な保護」を請求する権利であり、単なる防禦権ではなく、作為請求権としての性格をも有する。個人に保護請求権を保障することにより私的領域に介入する国家権力をポジティブに制約し、個人の自由を二重の意味で(他者と国家から)確保することが自律への権利の含意である。権力への対抗としての人権の意義を貫徹させる根源的な権利が自律への権利である。

(三)自律への権利の実定化
自律への権利は実定法上どのように具体化されるのだろうか。自律への権利を実定法上具体化したモデルとして、子どもの権利条約一二条意見表明権を挙げることができる。子どもの意見表明権とは自らの運命を積極的に決める権利ではなく、誰からどんな保護を受けるかについての選択に過ぎず、他者に自己の運命を委ねるという意味では厳密な意味での自己決定権ではない。しかし、大人は子どもから運命を託されたからといって子どもを恣意的に支配してよいわけではなく、子どもには不適切な保護や恣意的支配に対し異議申立てし、より適切な保護を請求する権利がある。

自律への権利を解釈基準とした場合、社会保障法で特に問題となるのが「自立」概念である。ここで参照すべきは障害者の自立生活運動における「自立」観念の転換である(19)。一般に「自立」とは「独力」を意味するものだが、障害者の「自立生活」における「自立」とは「独力」ではなく、他者の適切な援助を受けつつ自分で見出した幸福を実現することを意味するものへと転化している。社会保障法における「自立」もそのような意味に解されるべきである。障害者基本法六条、母子及び寡婦福祉法三条等が要保護者本人の「自立への努力」を定めているが、これは法的義務であれ、単なる道徳規範であれ、「自立の強制」であり、自律への権利を保障する憲法に抵触し、削除すべきである。生活保護法一条の「自立の助長」は、「自立の強制」ではなく、自律・自立の条件を欠く諸個人に、自律・自立のために適切な援助を提供する義務を国家に課したものと解すべきである 。

保護を通じた恣意的支配への抵抗を保障する自律への権利とって立法・行政の裁量、行政指導・助言等の事実行為の統制は極めて重要な意味を持つ。複合的社会福祉権やコミュニケーション過程としての給付行政認識(20) を前提とする諸権利、手続的権利、参加権、争訟権などが参照されるべきである。

給付主体による裁量や自立助長を名目とした指導等事実行為による恣意的支配はいかに統制されるべきか。行政に裁量が認められ、事実行為による個人の私的領域への介入が許されるのは、憲法・法律が行政に自律への権利保障を義務づけたからに過ぎず、裁量や事実行為も人権、自律への権利により制約される(21)。社会保障の権利の保障過程において、権利主体たるクライアントに一定の協力義務が認められるとしても、それは適切な権利行使の条件という意味での制約に過ぎず、行政の恣意的支配を許容するものではない(22)
五 おわりに
人権の実質的保障を目指す福祉国家は、人々の日常的生活領域に介入し、自律のための保護を提供する。しかし、この保護には恣意的支配が伴い勝ちであり、人々の自由を危機に陥れる。だが、だからといって保護そのものを否定すれば、自立・自律のための条件を失うことになる。こうした福祉国家のディレンマを克服する可能性を切り開くのが、自律への権利である。自律への権利とは、他者に依存してしか生活し得ない人々に、国家に対して自律のための保護の請求を認めることにより他者への依存を抑制し、同時に国家による保護を通じた恣意的支配への抵抗を正当化することによって、二重の意味で個人の自由を確保するものである。

(1)エルンスト・フォルストホッフ「社会国家の憲法問題(講演)」名法九八号、三一九頁。

(2)公人の友社編『池袋・母子 餓死日記』公人の友社、一九九六年。

(3)全国自立生活センター協議会代表の樋口恵子は、障害者の自己決定権のため、障害者を囲い込む「保護」政策からの脱却を訴える(朝日新聞一九九八年一二月一六日「論壇」)。

(4)小川政亮『権利としての社会保障』勁草書房、一九六四年、三・四章。

(5)依存が服従を伴う構造につき、許末恵「児童虐待」『講座現代家族法第3巻』日本評論社、一九九二年、二二八頁参照。

(6)井上英夫も、近代的自己決定権への批判を欠く。井上英夫「日本国憲法の五〇年と社会保障の権利」法の科学二七号(一九九八年)。

(7)自己決定の「環境」整備要求権をも自己決定権に包摂する見解もある。小泉良幸「自己決定と、その環境」山法一〇号(一九九七年)。小山剛『基本権保護の法理』成文堂、一九九八年、二九六頁。

(8)ベッケンフェルデ『現代国家と憲法・自由・民主制』 風行社、一九九九年、二八五頁。

(9)生活保護法の差別的適用につき、藤井克彦「野宿労働者に対する生活保護行政の実態と補足性の原則」寄せ場一〇号、一九九七年参照。

(10)西原博史「〈社会権〉の保障と個人の自律」早稲田社会科学研究五三号、一九九六年。

(11)米沢広一「『子どもの権利』論」『人権の現代的諸相』有斐閣、一九九〇年。

(12)河野正輝『社会福祉の権利構造』有斐閣、一九九一年、一二五頁以下。

(13)自己決定=自己責任原理見直しの極限として、加藤雅信編著『損害賠償から社会保障へ』三省堂、一九八九年、三四頁。

(14)デュギーは「支配者は…総ての個人に対して、彼ら自身の活動を自由に発展せしめる方法を保証」する積極的義務を負うと言う(『法と国家』岩波文庫、二七八頁)。
(15)森英樹も国家の積極的介入に対する「効果的基本権保障」を訴える(長谷川成安編『現代人権論』法律文化社、一九八二年、一五八頁)。

(16)ベアテ・シロタ・ゴードン『一九四五年のクリスマス』柏書房、一九九五年、一八六頁以下。

(17)John Rawls, Political Liberalism (Columbia U.P. 1993),p.158ff.

(18)樋口範雄「子どもの権利の法的構造」家族〈社会と法〉一〇号(一九九四年)。

(19)樋口恵子『エンジョイ自立生活』現代書館、一九九八年、六〇頁以下、星野貞一郎『社会福祉原論』有斐閣、一九九八年参照。

(20)大橋洋一『行政法学の構造的変革』有斐閣、一九九六年、七章。

(21)「行政に裁量が与えられている限り、裁量は基本権に適合するように行使されるべきである。裁量が問題となる限り、その限界内で行政は自己責任において決定を行う」。Starck, in: Mangold/ Klein/ Starck, Das Bonner GG, Bd. 1, 3. Aufl.1985, Art. 1 Abs. 3 Rdnr. 142.なお、秋元美世「福祉の権利と社会福祉行政——裁量問題を中心にして」社会保障法六号、横山信二「社会権の実現と行政法学」公法五九号も参照。

(22)受給権者の「協力義務」(大沢光「ドイツ社会法における受給権者の協力義務の法構造(一、二、三・完)」名法一七二、一七四、一七五号)も「回復請求権」による手厚い保護を前提とする(前田雅子「ドイツ社会保障行政における『援助』に関する一考察(一、二)」法学論叢一二九巻四号、一三〇巻二号)。

掲載誌:『法の科学』28号(1999年)96-105頁。
引用については本誌よりお願いします。笹沼

h.sasanuma
憲法学、人権理論の研究を専門としています。