第40回死生学カフェ(オンライン⑩)

皆様
次回の死生学カフェ・特別企画が今度の土曜日・20日に迫ってまいりました。
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第40回死生学カフェ(オンライン⑩)
日時: 11月20日(土)15:00~18:00
受付時間:14:40~14:55(Zoomアクセス)
参加費: 無料
募集人数:先着36名(募集人数に達し次第、締め切ります。)
参加資格: 死生学カフェの理念と方針に賛同される方
(facebookで「死生学カフェで大切にしたいこと」をご覧ください。)
申込み先: こくちーず「第40回死生学カフェ(オンライン⑩)
問合せ先:shiseigakucafe@gmail.com
 死生学カフェ世話人の青木と申します。今回の全体ファシリテーターを務めます。今回のテーマは、「死は誰のものか」です。
「死は誰のものか」とはどのような問いでしょうか。
例えば、「死は私のものだ」という場合を考えてみましょう。この言葉は、何を意味しているでしょうか。
 一つには、「死は私の所有物なのだから、私が自由に扱うことができる」ということが主張されているでしょう。私の所有物を私が使ったり、加工したり、処分したりするのは私の自由です。言い換えれば、「私のもの」であるところの所有物をどのように取り扱うかは、所有者である私が決定するということです。「死が私のものである」とは、死を自らの所有物と捉え、それを自由に取り扱うことができる、ということを言わんとしていると考えられます。取扱いの裁量は所有者である私が有しています。
 ですが、通常何かを自らの所有物にするためには対価を支払います。多くの場合それは金銭でしょう。逆に金銭を得ようと思うなら、現代社会では何らかの労働・サービスを他者に提供して報酬を受け取る方法が一般的でしょうか。では、私たちは何か対価を支払えば、死を自らのものにできるのでしょうか。死が私の所有物であると言える根拠は何でしょうか。死は、所有することができる対象なのでしょうか。所有することができないとするならば、死と私たちはどのような関係性を持っているのでしょうか。
 また、次の点も疑問に思われます。つまり、私のものである鉛筆を私は自由に使うことができます。私は自分の鉛筆をいつでも取り出し、削り、それを使って文字や絵をかくことができます。それを決めるのは、所有者である私です。私は私のものである鉛筆をどのように使うかを決めることができます。しかし、死が私のものであるとして、鉛筆が私のものであることと、死が私のものであることは、同じ事柄なのでしょうか。鉛筆の使い方を私が決めるように、死について私が決められることはあるのでしょうか。
 今回の問いは、私たちと死との関わりについての問いです。しかし、この問いを考えることは、死だけではなく生との関わりをも照らすことになるでしょう。死と生は表裏をなすものだからです。皆さんと共に、探究していきたいと思います。