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書評・その他

この頁には、雑誌等に掲載された書評やコラムなど、所謂「雑文」を掘り起こして掲載しています。後半のいくつかは、残念ながら掲載誌を憶えていません。判明したら追記します。これらは、前のホームページに掲載していた物で、殆どが20世紀の記事です。今後、新しい記事は、独立した頁としてアップし、カテゴリで整理する予定です。


中公新書『遊女の江戸 苦界から結婚へ』 下山弘  『週間読書人』(93,6,14)p6
江戸の戯作者山東京伝の妻は二人、共に元遊女だった。それについては、弟京山や馬琴等の証言もあって一つのドラマがあるし、西鶴の『好色一代男』は、太夫吉野身請けの伝説を伝えている。こうした、文芸との関わりの中で伝えられる遊女の結婚は歴史に残るけれども、さて、その他の多くの近世の遊女たちはいったいどうなっていたのだろうか。

本書は、こうした関心に応えるべく、結婚に執着した遊女達の顛末、彼女達を見つめる目、更には遊女に溺れてしまった男たちの話を集め、楽しめる読物に仕立て直したものである。ここで紹介される二十程の話は、若干の虚譚も含まれるが、多くは今まで殆ど取り上げられる事無く忘れ去られていたような小さな--しかし本人たちにとっては必死の--実話であると言うところに特徴がある。

この手の江戸逸話集的な本は、恒常的な江戸ブームの中で枚挙に暇が無いのであるが、出典が記されないことが多く、不満があった。この点で本書は、もう少し解題があってよかったのでは、とは思うものの、誠実であるということができる。出典が明記され、しかもそれらが全て活字で普通に読める--勿論読破するのは並大抵のことではないが--ものであることが確認されることで、読者は安心して現代風にアレンジされた読物を楽しむことができるし、その一方で、興味があれば自分で調べてみる気にもなる。ただ、そのことは逆に専門的な研究者の目から見ると、物足りなさにつながる。もっと面白い資料が有りそうなものを、と感じてしまう。しかし一方で、新書という形態の中で、ストイックに活字で読める本だけを使用していることの意味は大きいのではなかろうか、とも思う。と言うより、逆に、評者を含め、日頃写本等を研究している専門家たちが、特権的に資料を駆使している状況から脱して、それらの魅力的な資料の数々の翻刻出版、そして紹介を更に進める必要があるように思うのである。

本書の出典は、中には、浮世草子・落語・道話・洒落本などを含むが、過半を随筆が占める。近世の随筆は、膨大な量と多様性を持っており、『日本随筆大成』等、早くから活字化が進み、前述のような逸話集や、時代考証、或いは近世文芸・風俗史研究の重要な情報源になって来たし、本書で引用されている『藤岡屋日記』や『耳嚢』の様に、最近まで容易には読むことのできなかったものが、続々と翻刻出版されてもいる。しかし一般の人達が気軽に読むという状況にはなっていないと言うのが現状であろう。
江戸の文化を肌で感じるための最も重要な資料が、その魅力を知られないままになっている様で残念に感じていた私の様な者には、このような本をきっかけにして多くの読者が、江戸随筆・雑著の森に分け入って行く事を期待して止まない。それが専門的な「学者」の手から庶民史を庶民の手に取り戻すことにつながるのだとも思う。


田中優子著『江戸はネットワーク』
『日本文学』42-11(93,11)
p69~70
全体は第一章「人びとで賑わう」、第二章「遊女は慈悲に生きる」、第三章「連に集う者」の三章に分かれる。一章は主として「連」の「場」を、二章では遊里から音曲、錦絵、即ち「音」と「色」へと展開する。そして三章は途中に「ナンセンス・シノワズリ」を挟んで京伝・蔦重・南畝・源内・芭蕉・蕪村を取りあげる。そして「あとがき」で「賑い」に戻って次へ向うという構成である。つまり、『江戸の想像力』(86)で提示され、『江戸の音』(88)・『近世アジア漂流』(90)と展開してきたテーマ・題材がもう一度開示されていることになる。それは、それらの成果の統合とか、宇宙全体の見取り図の完成とかを意味するものではなく--著者はもとよりそんなものを目指してはいないのだ--著者の際限のない連鎖反応の所産として壁の蔦のように重なり絡りあって増殖したその断片である。

著者は既に『江戸の想像力』のあとがきに於いて「この本には何らかの新しい発見が書かれているわけではない。きちんとした論文でもない。ただ生きながら語り続けているその一部を切り取った、不出来な一片の語りにすぎない。」と述べている。謙退は勿論であるが、一方で本質を示してもいる。特に『江戸はネットワーク』に於いてその印象が強いのには、内容と文体と、二つの側面がある。

内容に関していえば、冒頭で触れたように、本書に於いて展開されるテーマ・題材が既に旧著で示されたもののヴァリアントであるということが挙げられる。ある種衝撃的に登場した『江戸の想像力』は、既に文庫化し、古典的テキストになってしまった。中沢新一をして「曲芸的知性の本質に見事に同化しながら、彼女はしなやかにこの本を書いている」と言わしめたこの本は、斬新な切り口で江戸文化と「同化」し、それを表現したし、何より著者の内側から湧き出るエネルギーによって読者を惹き付けたが、著者によって挑発され、鍛えられつつある読者の「期待の地平」は既にこの人のすぐ傍まで来ている。

その一方で、本書によって初めて江戸に触れる読者にとっては分かりにくかろうと思われる箇所も散見する。そして、そういう箇所は、大抵前著で説明がなされている。例えば「シノワズリ」ということば、あるいは洒落本の知識。『色道大鏡』について予備知識を持たない読者であればこれも天明期の洒落本の一と見做しかねない。つまり筆者は明らかに継続的な読者を想定しているのである。嘗て本誌の『江戸の想像力』書評において稲田篤信氏が「文学を自明な存在としない読者を著者は『内なる読者』としてかかえている」と述べた、その「内なる読者」は著者に取り込まれ一体化し「自明」の共有を求められ、著者と一緒に江戸的「野性的」知性の海を「漂流」することを要求されているのである。「自明」の共有は、文体によって支持されている。『江戸の想像力』と比較してすぐに気付くのは、各章の終りに付された注の極端な減少である。前著では、所謂注の他に、「テキスト」・「参考文献」まで丁寧に示していた。それをその後の著書で減らしたについては、版元の意向や初出誌の性格もあったろうけれど、このことによって、書物の性格が変わっていることを見逃してはならない。学術書としては、注が不要なわけではないし、明確な出拠を示さないまま「という」「といわれている」と記している箇所も散見する。注は、読者を「自明」の世界に包摂せず、他者として位置付けた上で正確で客観的な情報伝達を保証するために用意されるものである。同様に、芭蕉や南畝の節のように学問の現況に対する反措定として議論を進める文脈がある。これらは、読者に議論の前提となる知識の共有を無条件に飲み込ませ、状況から自由な「田中優子連」の在り方を示す文脈であり、所謂「評論」の文体である。否、かかる「自明」の共有そのものも江戸戯作の重要な側面ではなかったか。

加えて、「私」の文体であることも改めて注意してみる必要がある。学問領域や個人によっても様々であるのは勿論であるが、学術論文では総じて一人称に「筆者は」等という妙な語り手を用意し、客観的な事実を積み上げていくのが一般的で、時に「言われる」や「思われる」等の受身とも自発とも、場合によったら可能とも尊敬ともつかない表現で主体を曖昧にしたりすることもある。それに対し、本書は「私」を多用するだけでなく、それを対象化し、分析的に描くところに特徴がある。「私」の知性は、奔放に、しなやかに飛び回る。時に不安定に、ルーズになる視点は「私」のものであって、それ自体著者の戦略である。「著者:研究者」田中優子描くところの、江戸文化の知性と同化した「私」をも我々は読んでいる。この著者の本を読む楽しみはこうした重層性の中に見出されるのかもしれない。

ともあれ、極度に細分化・分節化され、整序され、新刊書や学会発表に新出資料ばかり期待する向きもないわけではない今の学問状況を解体し、従来の研究を積極的に読み替えていく姿勢には、学ぶべきものが多い。また、専門/非専門、研究/評論といった対立を超える一つの可能性を示すものと言える。

細かい点で気になった所もあるが、最後に、一連の著書に触発されて思いついた事等を記しておこう。第三章のようにスター的な存在を取り上げるより、状況が産んだ周辺的人物の方が面白そうだ。スター中心で行くと「個性」のウェイトが大きくなる。勿論そういう天才でさえ、状況の中で生かされていたのだというのであろうけれど。例えば、「白人」と称される付和雷同の末に『武蔵曲』によって「芭蕉」を世に出した千春、京伝・歌麿等の「連」に関わった上野の金鶏・駿河の酒楽等々、ついでに言えば安永天明期以降の遊女と文人の関わり方というのは、前期上方の有り様とは違っているのではなかろうか。また、「連」と「編集者」という問題で行くならば、八文字屋本の問題(作者個人の消去・工房・芝居関係者との連携等々)も面白そうだ。そういえば名古屋にも文芸サークルがあったげな。雑話聞書写本の生成流通も面白い。切りがない。

かなり乱暴な「誤読」によってここ迄来てしまったが、そういう連想の喚起力が、この著者の最も大きな魅力なのだと思う。


●書評●  繁原央著 『山梨稲川と『肖山野録』』
小二田誠二
『国文学』(學燈社)47-3(02,3)

化政期に駿府を中心に活動した漢学者、山梨稲川について、その地元静岡で研究を続けて来た漢文学者による論集である。しかし本書は、稲川の評伝でも個別の作品を追究したものでもなく、稲川を取り巻く地方知識人社会そのものの研究である。

本書の過半は『肖山野録』という未刊に終わった漢文体説話集の翻刻・訳注に充てられる。著者によれば、『肖山野録』はこれまで、複数の戯号を用いた稲川の手になる漢文笑話集として理解されて来たが、実際には稲川を含む複数の作者達によって持ち寄られた説話を集めたものであると言う。内容も笑話ばかりではなく、怪談や儒仏論・養生論など、多岐にわたる。その雑多な性格、特に同時代文芸に通じる「戯作的臭味」を嗅ぎ取った著者は、本書成立の背景としての「稲川をめぐる楽山吟社の人々と、その教養」を確認する必要に迫られることになる。

第一章「山梨稲川と楽山吟社」では、簡潔な伝記と詳細な書誌に加え、書簡などの資料を駆使した交友関係や読書歴、特に駿府の楽山吟社社中とその活動を具体的に浮かび上がらせている。続く第二章「「鳴雁堂蔵書目録」と楽山吟社」では、『肖山野録』を刊行する予定だった駿府の貸本屋、雁金屋の蔵書目録(静岡県立中央図書館蔵)を翻刻した上で検討している。近世の地方貸本屋の目録としても貴重なものであるが、それが稲川や楽山吟社と関係があったとなれば、その意味はいよいよ大きい。地方都市の文化活動が貸本屋(当然版元でもある)と具体的に結びついていた実態を彷彿とさせる研究である。

第三章「翻刻・訳注『肖山野録』」では、漢文学者としての著者の実力が発揮される。前述のように、『肖山野録』は単なる笑話集ではないし、稲川単独作でもない。楽山吟社の活動の一環として作られた可能性のある話を含め、稲川の周辺で漢学を学ぶ人々の学問的戯文集である。作者として名前の挙がる人々の検討を通じてそのことがありありと浮かび上がってくる。咄本収録話の漢訳と思われるものから、昔話、艶笑譚まで、原文・書き下し文・語釈・通釈・余説と、資料としても読み物としても貴重なものになっている。

さて、『肖山野録』全三十五話のうち、第十九話は、平田篤胤の「稲生物怪録」を緑園公子なる人物が漢訳した「稲生霊怪録」である。そこで周到な著者は、第四章「「稲生物怪録」成立考」として、「物怪録」そのものの諸本調査を行い、系統づけた上で、「霊怪録」の物語文芸としての洗練を確認する。更に、稲川自身、宣長の国学に影響されて漢字音韻論の世界を開拓したこと、門弟の中には篤胤について国学を学ぶ者もいたこと、一方「稲生物怪録」そのものは例の「鳴雁堂蔵書目録」にも記載があることを語る。こうして本話が収録さていることをきっかけに、稲川を取り巻く文化圏が具体的な像を結び始めるのである。

著者自身言うように本書は「稲川の真骨頂」を「正面から」論じたものではない。しかし、その「変則的な形」が、『説文』の研究者、漢詩人と言った堅いイメージの稲川もまた化政期の戯作者と同じ時代の空気を吸っていたことを再認識させる。「蔵書目録」の巻末には「右の他膝栗毛浮世床類のしゃれ本数品……」と見える。同国出身の戯作者十返舎一九と、駿府の街角でまみえることもあったろうか。そんな想像を掻き立ててくれる本である。

─評者・静岡大学助教授─


高橋圭一著『実録研究――筋を通す文学――』
 小二田誠二  『国語と国文学』 (03,12)p63~67(書評)

著者の高橋圭一は、論文の中にしばしば近代小説(西洋の物も含む)を引用する。本書刊行後の第一論文である「薄田隼人の失態」(『国語国文』七二(二) 二〇〇三年二月)では、中島敦の「文字禍」から、先のバビロン王最期について諸説の中から一つを記録しなければならない若い歴史家の言葉を引いたあと、「幸いなことに、この若い歴史家の悩みは私には無縁である。色々な説をその真偽に拘泥せず拾い集めてゆこうと思う。一つの真理に収斂することよりも、様々な方向へ拡散して行くことの方が、実録研究には有益である」と述べる。「文字禍」は、「狐憑」と並んで私の授業の導入教材としてしばしば登場するし、私も「一つの真理」を求めるつもりはないのだけれど、それでも私の授業は寧ろこの歴史家、或いは、そのあとのナブ・アヘ・エリバの答えに導かれて、「書かれたもの」と「歴史」との関係について、答えのない思考に入り込んでいく。著者と私の研究スタイルは、細かいことを言い出すと、実は似通ってくるようにも思われるのだが、この「文字禍」の扱い方は、案外本質的な違いを示唆する物かも知れない。

と、いきなり本質的な部分に踏み込もうと考えたが、ここに大きな障碍がある。というのは、「実録」という江戸時代文芸の一ジャンルが、現在も猶、必ずしも世間に広く認知されているとは思えないからで、本稿で私は、この本を批評しながら、この分野そのものについても概観しなければならないように感じている。

序文の中で著者は「実録とは事実の記録風の小説の意であり、限られた情報を核に想像を膨らませた、虚構の読み物である」(二頁)と定義づけている。この定義は、本書を読み進める時、非常に重要になってくる。ある意味で、本書の結論と言っても良いし、別の意味では論争の引き金になりうる部分でもある。

実録の研究は、大正期、三田村鳶魚・河竹繁俊によって本格的にはじまり、戦後、中村幸彦、延廣眞治などによって体系化されてきた。その間、重要性は認知されながらも、主として板本小説・戯曲・韻文と言った他の近世文芸の素材源として、補助的な研究対象と位置付けられて来たことは否定できない。それでも八十年代後半から、岡田哲・山本卓、そして本書の著者である高橋圭一、更に遅れて評者小二田と、この分野を主専攻として研究に関わる人が現れたが、それ以降も新しい研究者は、自分たちの直接指導した学生以外に殆ど現れていないのである。さて、実録は、写本で流通したため本文の異同が大きく、「中村幸彦氏が実録研究を提唱して以来、主に実録の変遷をたどる方向に研究は進められてきたと言ってよい」(七頁)。研究者は、ある事件や人物に関する資料を可能な限り博捜し、整序し、その変化の位相を意味付ける作業を繰り返してきた。関連する資料は、当面する事件や人物に関わる一次的なものから、実録を経て、小説・戯曲・歌謡・川柳に至るまで、中村幸彦自身「八幡の藪知らず」に喩えたように、際限がない。例えば、既にある『浮世草子の研究』『読本の研究』がともにそれぞれのジャンルについて網羅的に調査した上で、鳥瞰図を描いて見せたのに対し、実録は、そもそも、資料その物を網羅すること自体が想像しにくい状態にとどまっているのが実状で、勢い、各論を積み重ね、パズルのように一つ一つ埋めていくしかない。本書の各章に納められた論考は、それらの成果の一つ一つである。それぞれの事例は、新しく見出され意味付けられたものが殆どで、先行研究や情報源についても詳細に提示されているので、個別に俎上に載せる必要はあるまい。本書を通読することによって、江戸時代の有名な事件について多くの情報を獲得しながら、実録研究の基本的な方法論を学ぶことができる。

本書は三部構成。「あとがき」には、「それほど深い意味はなく発表順に並べてもよかったのである」と言いつつ「馬場文耕に関する論考」「文耕のからまない実録の論考群……比較的早い時期に書かれた作品の分析」「最も近年のもの……現在の私の興味の在りかを示している」という分類を載せている。実際に、?は、秋田騒動・板倉修理刃傷事件に関する実録、及び、『世間御旗本容気』のような短編集を含む、馬場文耕の作品とされる物を中心に四編、?では田沼騒動・宝暦明和事件・加賀騒動・浄瑠璃坂の敵討・金森騒動・『北海異談』・伊達騒動、それに芝居や読本との関わりなど、御家騒動を中心に、比較的有名な事件を扱って十編、?には、大久保彦左衛門・後藤又兵衛・妲妃のお百と、人物造形をめぐる論文が三編収められていて、大まかに、著者の興味の動きも、辿ることができる。以下、本の流れに沿って見ていこう。

この本の総論に当たるのは「序」であるが、これは『週刊朝日百科 世界の文学』に収録された一般向けの実録紹介記事で、本書の総括ではない。しかし、「序」と、それぞれの論文を関わらせながら読み進めると、著者の構想も見えてくる。先に序から重要な部分を引いておこう。

「実録は創作なのだが、あくまで事実を記してあると主張する。建て前に過ぎないが、それでも作る時の足枷にはなる。実録は、読者にでたらめと思われては失敗である」(四頁)・「すべては『見てきたような嘘』でしかない。であるのに、読む者に『さもありなん』と納得させる。実録はそういう風にストーリーを拵えてゆく(筋を通してゆく)文学である」(五頁)・「面白く読ませる(聴かせる)ための脚色は勿論である。がそれと共に、文耕は真実こうあって欲しい、
こうあるべきだ、という方向に事実を改変していることが読みとれる。『さもありなん』にとどまらず、そうあるべき同時代史としての実録を文耕は作り上げたのである」(六頁)……。

先の定義にもあったように、著者は、実録を講釈師などの具体的な「作者」の「創作」と位置付け、その営みを明らかにしようと目論んでいることを確認して本編に入ろう。

「?」では、宝暦頃の有名な講釈師馬場文耕とその作品を対象として、「種」(二七頁)を指摘し、時代背景を明らかにすることで、さらには他の講釈師の逸話を援用しながら、「創作の基本態度」(三〇頁)を推察する。こうして見えてくる講釈師馬場文耕は、「筋を通す」(八三頁)ことを重視し、版本よりも写本に事実はあると主張する(九一頁)と共に、「事実よりも話に花のあることの方を優先し」て「作為」(八九頁)もなすし、「内部事情を知ってそれを伝えようとしたのではなく、読者を意識し」(一一二頁)て創作もした。時代背景や、類似の事件、巷説から、必ずしも書物を経由するばかりではない「種」の可能性を拾い集めているが、一方で具体的に先行する書物からの引用も意外に多く、講釈師が、書かれた書物を参考に、享受者を相当に意識して創作している実態が明らかになる。これは本書の大きな成果である。その上で、書かれた物として残る書物は検証可能で、研究が進めば更に例を増やせるとして、具体的に検証しにくい口承的なものが相対的に小さくなってしまうことが、講釈師の問題としてどうなのか、考え所である。

「?」でも、「原初の姿に向かってできるだけ遡り、そこから今度はその変遷の跡をたどろうとする」(一二九頁)方法はほぼ共通する。その中で、読者の受け取り方、たとえば「信憑性」(一三九頁)、「世人の耳目を惹きやすいショッキングな事項」(一四〇頁)、「読者を信用させるだけの内容」(一五四頁)に注意を払う作者=講釈師の態度を追う。典拠、或いは史実について語る部分を引いておこう。

浮世草子などの作品研究では、典拠探しが盛んである。その目的の第一は、作者がいかに典拠をこなし改編してゆくかに、作者の手腕を探ろうとすることにあるだろう。実録も同様である。素材である史実に沿った部分と創作部分とは、できるだけ明確に区別されなければならない。そのためにも、史実と突き合わせつつ読んでゆくことは必要である。/「素材である史実」にも一考を要しよう。当然の事ながら、江戸時代にこれが加賀騒動の真相である、といった権威のある書はまとめられていない。種々の史実の集積の中から、関連があると思われる事項が選び出され、組み合わされ、多用な加賀騒動像が作り上げられていったはずである。騒動の起点をどこに置き、終結をどの時点とするか、そこからして人により時代により変わってくる。一様に加賀騒動を素材とするとは言え、ここの実録が呈する騒動像は相当に異なる。その違いを押さえ、違いの生じた事由を考えること、それは実録を読む面白さの一つであると考える。(一七九頁)

具体的には、「資料を先に列挙し、いかにもこれから語ることを真実らしく見せておいて段々に大きな嘘へと導いてゆく、途中事実に基づいた記述もちりばめておく、これが南豊の取った方法であった」(二六七頁)し、場合によっては「かすかながら講釈の反権威的な姿勢が感じ取られるように思える」(二七四頁)という。更に、『正説伊達騒動記』から、講釈師井口周口の「評」に見える「周口の実録論」を引き、「これはなお、個別調査を必要とするものではあるが、おそらく実録作者が共通して主張するところであったろう。その主張によって、細部の真偽よりも実録全体を貫く理の存在を重視し、ここではこのようなことがあってしかるべきであるとして、安心して先行作の間隙を埋めてゆくことができたのである。」(三一五頁)と述べてもいる。

?では、人物造型について、関連資料を縦横に駆使して、武家説話・近世説話の流れと関わらせながら論じている。「私にとって最も興味深いのは主要登場人物の変身である。よって、その人物を追って実録以前に遡り、また実録以降へと尋ねていった追跡記録である。追いかけるのは基本的に私が好ましく思う人物なので楽しい作業なのであるが、少々時間が掛かりすぎることと、内容が散漫に陥りやすいことが難である」(四五三頁)と述べている通り、著者自身楽しみながら調べ、書いている様子で、丁寧な現代語の梗概もあって、歴史読み物としても楽しめる。

さて、本書の副題「筋を通す文学」については「あとがき」に言及がある。『胡堂百話』を引き、「最も合理的につなげられるのが右の筋道であった。……ただし断っておくが、右の筋道が真実であるという保証はどこにもな」く、「筋を通す文学」は、「散らばった事実をできるだけ巧妙に、読者が納得できるように糸でつないで見せるのが作者の手腕であ」り、その上で「『かくありたし』と言う理想主義の裏付けがあると、現代でも通用する『筋を通す』ということになる。文耕の作中に見られる筋の通し方は正にそのようなものであった」(四五一頁)と言う。

理想主義、反権威主義、享受者を意識した娯楽性。これらは、著者の引く胡堂や大佛次郎などの近代大衆文芸と通底する。さて、それなら講釈師達の意識は小説家とどう異なるのか、と言うことが問題になるだろう。実録を読む我々は、余りに近代以降の小説に慣れすぎていないか。文学として読むのか歴史として読むのか、と言う問題も問い直しが必要である。そこから見えてくるものもあり、見えなくなってしまうものもある。「文学からも歴史からも、せめ残されたリザーブこそ重い。その意味では反歴史であり、反文学でもあるものこそが歴史文学なのである。反事実であり反虚構であるものとよみかえてもよい」(『複眼の視座』)という松田修の言葉を改めて噛みしめたい。

(二〇〇二年一一月二〇日刊 A5判四七八頁 一一〇〇〇円 清文堂出版)
(静岡大学助教授)

事実は虚構であり歴史は文学であること
『日本文学』43-6(94,6子午線) p68~69
四月二日にテレビ朝日系で放送された『ザ・スクープ』、「調査報告・九三年九月一一日放送について」は、放送の現場において「事実」の映像がどのようにして捏造され、報道として成立してしまうのかを関係者(実行犯)の証言も取り入れて検証し、非常に迫力のある番組になっていた。それでさえ、「やらせ」が入り込んでいるのではないか、と、まず疑ってしまう自分がいるのも事実なのだけれど。

実際にそうした事例が多くなったのか、問題意識が高まったのかは知らないが、ここ数年、特に報道番組の所謂「やらせ」が話題になることが多いように感じている。

年度替りの「特番」でも、各国の報道カメラや、素人のビデオによって記録された「事実」が大量に流されていた。映画やテレビドラマの広告を見ても「実話だけが生むこの感動」と言ったコピーをよく目にする。一方で、古い話になるが、『一杯のかけそば』を実話と信じて泣いた人たちは、一杯食わされたと言って怒った。中身が泣ける話ならなぜフィクションでもいいとは思わなかったのだろうか。

ところで、堀切実氏『『おくのほそ道』を読む』(岩波ブックレット、93年)によれば、私立A大学国文学科三年生の九一年度演習受講者一五三人に『おくのほそ道』はなぜつまらないか、というアンケートを行ったところ、理由のトップは「記述の内容が“虚”なのか“実”なのかあいまいな点--いいかえれば、物語性と事実性とが中途半端に叙述されている点に親しめない」というもので、八九人に達したという。

これには、そういう捉え方でしかこの作品を説明して来なかった研究の歴史にも重大な責任があるのだが、それは措いて、強引に前に触れたような事例と合わせて考えると、若い学生の意識の問題、というにとどまる問題ではないことが判る。所謂女流日記にしても、『おくのほそ道』や『一杯のかけそば』にしても、それが「事実」でないと知るや、裏切られたような気分になる人が多い。「芭蕉さんが嘘をつくはずはない」のだ。

「事実」が問われている。否、問われているのは、依然として、「事実」か「虚構」か、でしかない状態が続いている。問われるべき「事実」そのものについては、殆ど検討しないままに、国連やアメリカが「正義」で、イラクは「悪」で、心配なく、必ず最後に「愛」が勝つのと同じように、「事実」は存在しているものらしい。

やや話が逸れるが、湾岸戦争における情報のトリミングと、娯楽的報道番組の「やらせ」には、明らかに違いがある。前者は、思想的、政策的な方針に従って、都合のいいように作った「事実」であるのに対して、後者は、多くの場合伝達される「内容」そのものに思想的なメッセージを含ませるための細工はなされていない。むしろ「事実」を、より「事実」としてそれらしく伝達するために行った細工である。報道は誠実であって欲しいという我々の願望の裏に、それでも映像は驚くべき事実を直接伝えられるメディアであり、そこで伝えられた「事実」は小説よりも奇な、面白いものであるはずだという無条件の前提が存在していることを、作る側は視聴率という形で確信している。そういう意味で視聴者である我々は、製作側と共犯関係にあるといえる。

近世の実録の形成過程にもそういった共犯関係は存在するが、この場合には作り手の像が現代のジャーナリズムの場合と比べて見えにくい。文耕の様に署名のあるのはかなり特殊で(それにしても実像は分からないし、署名の信憑性にも問題はあるのだが)、実録には普通作者名が記されていない。人名が出てくる場合には、例えば『油井根元記』が、はじめ駿府加番秋田安房守の右筆山下弥惣右衛門が三巻本を作り、後に老中松平伊豆守の臣鈴木理左衛門が増補して五巻とした、というように、事件の当事者、或いはその周辺にいた人によって作られたという形で示される。こうした例は、実録だけでなく、軍記等にもみることができる。それらの全てが信用できないというつもりはないが、部分的には近世に既に疑問が呈されている。

先に、実録の場合、作り手の像が現代のジャーナリズムの場合と比べて見えにくいと書いたが、問題が起こらない限りに於いては、現代のジャーナリズムの場合も、作り手の姿は見えない。特に映像メディアの場合には、報道機関は透明な媒体であって、作為は介在しないという幻想を多くの人が持っている。殊に日本の報道は、基本的に無署名でなされているためにそうした傾向が強い。

実録に作者名がないのは、このことと関わりがある。「事実」を、そのまま記録し伝達するのであれば、「作者」があってはならないのだ。馬場文耕は、「記録者」という肩書きを使ったことがある。近世の実録で、このことがどれほど自覚的に行われていたのかはともかく、その効果は否定できないのではないか。事実を伝えるメディアとしての「人」は「作者」であってはならず、透明であることが求められる。

実録に興味を持つのは、それが、ある時期確かに「事実」として形成され、そのように享受されていたということに因る。そうした「事実」が、写本という形で、様々なヴァリアントとして残っている。それは最終的には享受者からも荒唐無稽だと言われるまでに変容してしまうのだが、そこまでの変容の道筋には、「事実」の認識とその表現を問う重要なヒントが隠されていると考えている。それらの写本群を、現代の目から冷静に腑分けして「事実/虚構」の座標軸の中に配列し、「文学性」を測ることが目標なわけではないのだ。

敢えて極論すれば、人間が認識し表現しなければ「事実」は存在しないし、書かれていない「歴史」は無かったも同じこと。ならば、書かれてあるものは何か。書くとは何か。 「事実/虚構」:「歴史/文学」という対立項の設定そのものを根本的に考え直す必要がある。それは、従来「文学」圏外にあったノンフィクションを立派に「文学」として読もう、などという事ではなくて、そういう対立の軸そのものが存在し得ないということを認める必要があるのだ。でないと、結局また、「面白い」とか「技巧的」とか、果ては「人間が描かれている」とか言った「文学性」の評価による囲い込み、選別が繰り返されるだけで、言語による現実の認識と表現という、得体の知れない「文学」なるものの根源的な問題へ接近するチャンスを逃してしまうような気がするのである。


 「文学」私見 『日本文学』43-10(94,10 第49回大会テーマ「<文学として読む>とはどういうことか」へ向けてⅡ) p72~73
「<文学として読む>とは何か」、これが今年度の大会テーマである。「文学とは何か」ではない。そういう問い掛けならこれまでにも様々に追求されてきた。そしてその時々の成果もないではない。しかし、最早こうした問い掛けの有効性を信じる人は少数派であろう。去年の大会テーマ「文学とはどういう文化か」にしても、十一月の「<近代文学>という領域」や一月の「<文学>を越境する」にしても、問題は、「文学」そのものへの疑いにある。我々は「文学」というものが自明の物として存在しているという幻想の中で「文学研究」を業とし、常に落ち着かなさを抱えて来た。問題への視座を変える必要がある。「<文学とは何か>とは何か」こそが問われなければならない。そうした問題意識の中で、<文学として読む>という行為への問い掛けが始まろうとしているわけである。

さて、「<文学として読む>とは何か」、例えば<文学としてでなく読む>というのとどう違うのか、<非文学として読む>のとは。ここには言語芸術としての美学的な価値判断が見え隠れしている。殊に、所謂「近代文学」は「文学者」なる特別な個人によって<文学として書>かれた書物を安心して<文学として読む>ことが学問としての「文学」であった時期が長かったし、古典に関しても同様なことが言える。岩波の「日本古典文学大系」に収められていればまぁ、安心して「文学」である。こういう類の書物を読むのは、<文学を読む>という。ここには、「文学」そのものに対する問い掛けがない。あるのは<文学という文化>である。こうした伝統は、今まで圏外にあったものを新たに「文学」に祭り上げることで何かが解決するという勘違いまで生んでしまっている。

こういう、何だか分からないが「文学」という、芸術的(文化的?)な価値のあるものが既にあって、それを読むのだ、という立場に立てば、例えば推理小説を読んで犯人探しをする、ゲームブックで遊ぶ、ポルノ小説を読んで発情する、こういうのは、おそらく<文学としてでなく読む>部類だろう。勿論、新聞記事を読む、取扱説明書、保険の約款、調査報告、学術論文を読む、というのも然り。しかし、ひとたび推理小説の犯人の登場の形式や主人公の推理の矛盾に、或いはポルノ小説の扇情力の優劣に、そして説明書の解りにくさ、論文の引用の方法に注意が向いてしまえば、これは、立派に一つの<文学として読む>行為に他ならないだろう。逆に、世間一般に「文学」として認められた作品だからといって、それを単に娯楽として享受する場合、或いは『白鯨』を読んで百五十年前の鯨や捕鯨についての知識を得る場合も、<文学として読む>と言えるのだろうか。<文学を読む>ことと<文学として読む>ことは同じなのかどうか。

学部の卒業論文以来、私に一貫したテーマがあるとすればそれは、「歴史記述の表現」ということになると思う。以来今までに扱ってきた材料の殆どは、「虚構」を多分に含むという理由によって「歴史」ではなく「文学」だと位置付けられ、その上で美学的な理由で--つまり「読むに堪えない」ので--「文学」としては一般に低い評価を下されているものたちである。そうした書物の書き手たちは「文学」ということなど考えたこともないに違いないだろうに。私の興味はそのこと、つまり「文学」など意識しない、むしろ、所謂「文学」なるものとは対極をめざして書かれたはずの物を、今我々が<文学にして読>んでいるというところにあった。

つまり、<文学として読む>ことを問う前に、<文学として書く>こと、さらには<非文学として(或いは文学を意識せずに)書く/読む>ことについて、殊に、<文学を意識せずに書かれたものを文学として読む>という自分の行為そのものについて常に問い直し続ける必要があったのである。それが「歴史」や「事実」に対する「文学」や「虚構」という単純な問題でないことは、既に本誌六月号の「子午線」でも触れた。「歴史は文学である」という言い方は、いささか短絡的で言葉足らずであったかもしれないが、つまりは、「全ての歴史記述は<文学として読む>ことが可能である」という、至極当然のことを言いたかったまでのことである。

「歴史」、或いは「事実」を、いかに文字言語に変換するか、という問題は歴史学や哲学だけが扱う事柄ではなく、すぐれて「文学」的なテーマなのだ、ということなのである。それは、そういう書物そのものを「文学」であると認知せよ、というのではない。私にとって、それはどうでもいいことであって、ことは「書く」、或いは「読む」、という行為にかかわる問題なのだ。<文学として読む>とは、「読む」行為に対して自覚的であるということ、つまり、書き手が自覚しているか否かにかかわらず、文字による情報伝達において、伝えられる情報内容以外の部分を明確に意識しながら読むことである。

「作者は何を言いたかったのか」ではなく、「それをどう伝えた(書いた)のか」が、「主人公はこの時どう思ったのか」ではなく「どう思ったと読めるのか、それはなぜか」が問題になる。その時<文学として書>いたものか否かは既に問題ではなく、その意味では「文学/非文学」という対立そのものが成立しなくなっているはずなのである。

それでも尚「文学」という言葉が指し示す何かがあるとすれば、それは、言葉、特に文字言語というメディアによって情報を伝えるというコミュニケーションの有り様、技術、或いは制度を問題にすることなのだと思う。言い換えれば、「文学」とは「文」の「学」、「作文学」(<文学として書く>ことを含む。その最も高度なのが「文学」ではない表現を模索し続けることであろう)と「読文学」ということになる。従って、「歴史」を含め、存在する全ての「文」は、<文学として読む>ことが可能なのである。「文学」は、「作品」という実体ではなく、「文学作品」は存在しない。「文学」は「書く」「読む」という行為であり関係である。私は、そう思う。

随分大風呂敷を広げてしまったが、結局のところ、何も答えは見えて来ないし、ここに書いたことなどとうの昔に語り尽されたことかもしれない。ただ、私という一人の「文学徒」が、今、ここで何をしようとしているのか、それだけを確認して、大会に臨みたい。


同上初案

原稿も書かず、運営委員会にも行かずにだらだら七月を迎えてしまったが、この一週間ばかりの間には、随分大きな事件があった。元重役の自殺、容疑者の逮捕、台風、原油流出……。またしても、文学なんかやってていいんだろうか、ということになってしまうのだけれど。

その神戸の殺人事件では、文学者もちょっと顔を出して、「声明文」の分析なんかをやっていたけれども、蓋を開けてみたら十四才の少年と言うことで、「読み」なんてこんなもんだという印象。こういう重大な事件を引き合いに出すのは不謹慎だという批判はあるだろうけれど、今回の事件は様々な意味で「文学的」だった。

「声明文」の解釈を巡っては、「典拠」探しが競われ、「蔵書目録」が想像され、著述環境に至っては、作成ツールにまで分析が及んでいた。そして、想像される「作者(ボク)」像は、なぜか目撃証言まで一致して三十代ぐらいのがっちり型の男。容疑者逮捕後は「作者」を巡る言説が急増急変、「作品」の読みに決定的な変更を迫った。「虚構(作っている)」なのか「事実(真情の吐露)」なのか。家庭環境・学校環境・過去の行動が、急速に因果の糸(意図?)に結ばれて、当然の帰結のように事件へ至る「歴史/物語」は編まれた。

一方で、それを巡る表現についても議論があった。顔を載せた『FOCUS』は糾弾され、それを入手したワイドショーはモザイク入りで放送する。新聞も放送も、こぞって「A少年」の近辺に取材し、彼の環境や行動を暴き立てた。少年法第六十一条は、実名と写真だけを禁じているのではない。本人が特定できる情報はいかんと言っているのだから『FOCUS』を責める資格は連中にもない。しかし、そういう情報がなぜかくも沢山流れるかと言えば、需要があるからだ。
容疑者逮捕の第一報は、台風の放送をしていたNHKのニュース特番から切り替わって報じられたが、警察署前の群衆の嬉々とした表情がとても異様だった。そこに映っていた彼ら、「A少年」について証言する彼らは、テレビに映ること、或いはこの事件にコミットできるこの情況を明らかに楽しんでいるのだ。メディアが狂気を作っている。残虐なビデオや書物だって、変質者だけが手にしているのではない。古典的名作や「純文学」が振るわない中、多くの需要があるから本屋もレンタルビデオ屋も沢山置いているのだ。多くの享受者はそれによって、異常な行動をとることはしない。むしろ抑止力になっているかも知れない。

情報の送り手と受け手の関係、メディアの意味、受け手の行動との因果、作品への反映、表現とその読み、こうした分析、或いは表現は「文学」が磨き上げてきた手法・技術に他ならない。「文学」が「芸術」であることを前提にして、そこに何かの「意義」を見出そうとするならこうした議論は無駄になる。人を残虐な行動へ突き動かす「感動」を生む「作品」が「芸術」なのか「実用品」なのか僕には判らないけれど、「文学」こそがそこへ深く関わり得るツールであるに違いないと思っている。重大事件だけでなく、日常のコミュニケーションだって同じ事だ。そんな物は「文学」じゃない、と言う人には、「だから静岡大学では「言語文化学科」なんですよ」と言っておこう。


「文学にできること」ができるために

ここのところ、「文学」を巡る気になる話題が少なくない。例の神戸の事件に関しては、「声明文」の解釈を巡って、様々な文学的手法が駆使されたし、作者(容疑者)自身の創作活動に関するコメントもあったように思う。そういう意味では、我々が日夜磨きをかけている技術や方法が、世の中にコミットし得た一例だったと言える。しかしこの事件では「作者」像が急変したこともあって「解釈」の恣意性というか、胡散臭さも露呈した。

「文芸家協会」に入会を拒まれた死刑囚に刑が執行された。入会拒否騒動当時は、「文学」や「文学者」「文芸家」なんて、いずれにしろ胡散臭いものじゃないか、心が狭いな、と言うような感想を持ったように思う。彼がもし「文芸家」「作家」という肩書きを得ていたら何か変わったのだろうか。新聞に依れば、死刑が確定してから編集者との面会が制限され、作風に変化があったと言う。一つの可能性の芽が摘まれたのかも知れない。「文学」は彼らを救えたのだろうか。そうだとすれば、それを阻んだのは何か、そうでないとすれば、何なら彼らを救えたのか。この議論はあまり意味がない。彼らにとって「救済」とは何だったのかも判らないんだし。

「文学」が「芸術」なら、「何が出来るか」を問うのは意味のないことのような気がする。芸術に何が出来るだろうか。創作することによって自分を救った人が居たかも知れない。鑑賞することによって人生をよりよい方向へ向かわせた人が居たかも知れない。しかし、その逆だって大いにあり得た。死刑になった文士は、何も彼が最初ではないし、自ら命を絶った作家なら簡単に名前を挙げることができる。それでも「文学」は善なのか。読者を悪の道に誘うのが「有害図書」で、美しい人間の真実を描き、人を善に導くのがよい芸術なら、戦争に協力した文芸は善なのかどうか。そもそもよい芸術と悪い芸術というものがあるのかどうか。

ところで、この議論には<芸術は、表現する者や、受け取る者の心を動かす>という前提がある。美術館に行って、或いはコンサートに行って、なんだか解らないけれどぞくっと来たことがある。逆に、すごいもんだと聞いていても、なんだこりゃ、と言う経験もある。文学にしても、例えば「古池や」はすごいんだと言うことになっている。「理解」は不要なのだろうか。「文学」がやっかいなのは、素材そのものは誰でもが日常使っている「言葉」だと言うところにある。「理解」出来ないのは「芸術」だからなのか。

問題は「芸術」以前にある。思った通りのこと、見た通りの事実を、話したり書いたりすることが非常に困難だと言うことに気づく必要がある。その上で、何が語られているのかを正確に理解しなければならない。「すごい」以前に、「何を言っているか」を、理解すること。国語教育関係の論文を読むとその実践には頭が下がる。そういう努力が、「国語」とか「文学」とかいう範疇を超えて様々な場面で行われなければならない。まずは、言葉のコミュニケーションでさえ非常に困難なものだと言う当たり前のことを自覚するところから出直してみる必要があるように思う。そこから「言葉の力」が見えて来るんじゃないかと思っている。


「文学」から「言語文化」へ 

ここの所、大地震やらオウム真理教やら、我々の常識や想像力を遥かに超えてしまうようなことが続けて起っている。震災に関しては、既に文集や歌集のようなものも続々出版されて、こういう事柄に対して「文学」に何が出来るのか、ということが議論されているし、オウムに関してもそういう議論が始まりつつある。湾岸戦争の時もそうだったが、「文学」とか「文学研究」とか言うものが、現実の生活にどうやって関われるのか、そういう非常事態にどれほどの力を持ち得るのか、という問題は、「文学」に関わっている者にとって悩みの種になって来ている。勿論、実用性だけが学問の価値を決めるはずもないのだけれど。

そういう疑問に付け入るように、明治維新以来の「実学」重視の政策が学問の現場を脅かしている。「実学」を自認する学問の内実や効用については、今は問うまい。問題は、「虚学」とでも言うべき「文学」が、メディア、情報の発達し続ける現代社会を生きて行く上で如何に重要であるか、ということを明確に認識することなのだ。

実際の所、「文学」の重要性については、政治家とか官僚とかいう連中はかなり詳しいようで、戦後五十年の決議や教科書検定にしても、選挙後の言い訳にしても、みな言葉を巡る攻防であって、すぐれて「文学」的な問題なのである。

そんなのは「文学」じゃない、という人がいるかも知れない。そう。だから我々の学科は「言語文化学科」なのだ。古今東西の言葉や表現を知り、言語表現、コミュニケーションの可能性とその限界を認識すること。様々な情報を正しく読み取り、的確なメディアで正確に表現すること。それは、今を生きて行く為に身につけるべき最も重要な技能なのだ。 詩を学ぶことを無駄だと思う人は、科学や政治や経済を学んでもやっぱり無駄だ、と、私は思う。


「言語文化」と言うこと

「私は、人文学部言語文化学科日本アジア言語文化コースの教員で、日本言語文化を専攻しています」という自己紹介で、どんな学問、どんな授業をしている人か、想像がつきますか?

私の卒業論文は、「記録と文芸--近世主婦の日記から--」という物でした。それ以来、二十年近く、ずっと、事実と虚構を巡る表現について研究してきました。そういう学問は、主に文学や歴史学、或いは哲学という領域で行われてきたのですが、今、所属しているのは、「言語文化」です。私は、この学科名をとても気に入っています。

静岡大学には、六つの学部があります。それらは、文系・理系というような範疇で分類されることもありますが、教育学部や情報学部のように、両方にまたがることもありますし、人文学部でも、大型計算機を使って統計処理をしている人もいますし、理学部で物の存在とは何か、などと哲学のようなことを考えている人もいますね。わたしたちの学問というのは、もともと、そういう根元的な問いかけから生まれたのでしょう。それが、様々なメディアの登場、発達に連れて細分化し、全く別の形で存在しているわけです。

さて、そこで「言語文化」です。「言語文化」は、言語・文学、或いは文化の寄せ集めではありません。私たちが何かを考えたり、表現したり受け取ったりする時に必ず介在する言語的なもの、情報伝達の最も基本的なメディアについて考える学問です。

好きな人に気持ちを伝えたいとき、「好きです」とひとこと言うべきなのか、メロディーをつけるのか、花を添えるのか、場面設定をどうするのか、そもそも相手がどんな人なのかも、ちゃんと解っていないといけませんね。その時詩が生まれれば文学、主語や目的語や、敬語表現を問題にすれば語学、などと言ってはいられませんね。そういった事柄の一つ一つが、極めて言語的な問題なのです。場所や服装を気にするのは、そういった一つ一つに「意味」があることを知っているからです。

現代人は論理的な思考が苦手、国語力が低下している、そういう指摘をよく耳にします。しかし、インターネットや電子メールの世界では、沢山の言葉が飛び交っていて、中にははっとさせられる表現もあります。情報化社会、とか、コンピュータの時代、とか言いますが、そういう時代だからこそ、様々な情報を正しく読み取り、的確なメディアで正確に表現することが、生きて行く為に身につけるべき最も重要な技能なのです。そのためには、学部や専門に関係なく、古今東西の言葉や表現を知り、言語表現、コミュニケーションの可能性とその限界を認識することがとても重要だと思いませんか。山の上の遠いところで、役にも立たない娯楽を学問にしている暇な人たちの集団に見えるかも知れませんが、ホントは、結構大事なことをやってるんです。たまにはのぞいてみてください。


生協 coop life 「学生に読んでもらいたい本の紹介」
題名       『言語としてのニュージャーナリズム』
著者名      玉木明
出版社名     學藝書林
刊行年      1992年
定価(初版当時) 2000円
「事実」とは、或いは「事実」を語ると言うのはどういうことだろうか。小説や物語と、新聞記事は、何が違っているのだろうか。
紙や活字の質や、書かれている内容の違いも勿論重要な要素に違いない。しかし、ある文章に書かれている内容の「事実」らしさを保証しているのは、文章そのものである。
日本の新聞の多くは無署名で書かれている。無署名であることは、文章の語り手を消去してしまうことにつながる。交通事故や殺人事件が、まるで現場で見ていたかのように書かれながら、誰が見たのか判らない。そういう文章の背景には、「中立公正」「客観報道」といった大義によりかかりつつ警察や官庁の発表をそのまま記事にする報道の体質が存在する。そういう無責任な報道から脱却して、ジャーナリズムが正面から世界と向かい合うためには、どうしたらいいのだろうか。
こういう話はジャーナリズム論の領域のようで、実は所謂「文学」の領域と深く関わっている。と言うより、ジャーナリズムの言語がどういう物であるのか、と言うことを考えるのは、優れて「文学」的な行為なのだ。私自身、江戸時代に「事実」がどう表現されていたかを中心に研究しているが、この本は十分に刺激的だ。
この本は、ノンフィクション小説とジャーナリズムのあわいに生まれたアメリカのニュージャーナリズムの文章や、沢木耕太郎などの文章を対象に、吉本隆明などを援用しながら表現の問題を追求したものである。サリン事件など、具体的な日本の報道の問題については、同じ著者の『ニュース報道の言語論』(洋泉社96年)や、『客観報道』(筑摩書房 93年)など、一連の浅野健一氏の著書をお薦めする。


「江戸文芸百科事典計画」の現状
『ACADEMIC RESOURCE GUIDE』13 羅針盤(98,12,05)
ワープロを導入して5年ほど経っていたけれど、コンピュータはまるでだめ。しかし、Windows95がブレイクした翌年に、勢いでパソコンを買って(勿論研究費)インターネットを始め、取り敢えず自分の学問や趣味を紹介するページを作り、その中に近世文芸に関するリンク集を作ろうと考えた。集めてみると、細かくページがわかれていたり、ターゲットを入れている例が多く、うまく索引を作れば、事典のような物が出来ると考えた。この計画は、そう言う素人考えから始まっている。インターネットで何が出来るのか、出来ないのかの判断は、全く棚上げだった。しかし、自分一人では手に負えなそうだという判断はあったので、既にホームページを公開していた親しい同業者二人を引き込んで「計画」はスタートした。始めは張り切っているし、リンクを辿ってもそれほど専門的な情報は多くなかったから、作業も進んだ。この頃は秀丸だけで書いていたので、リンクもコピーしては一々タグを張り付ける手作業だった。

江戸文化に関わる情報は、様々な参考書もあり、インターネットでも歴史愛好家達によって、多くの情報が飛び交っている。これらの中には有り難い貴重な情報も有れば、著作権違反や思いこみだけの物もあって、まさに玉石混淆と言うところ。しかし、こうした情報を取り敢えず50音順にでも並べておけば、あとで調べるのに重宝だ。「goo」のような優れた検索システムはあるが、いらない物までヒットしてしまうので却って手間がかかることもあるから、専門家の判断する「まともな」情報のリンクは有った方がいい。

この考えは今も変わらない。誰かがそう言う物を作ってくれれば大喜びで利用するだろう。しかし、現実にこの計画を進めるためには、多くの障害がある。

まず第一に問題になるのは、手間である。日々新しいページが生まれており、更新される物も有れば消えてしまう物も・る(貴重な情報が図書館や博物館の特別展だったりすることが間々ある)。そう言う情報を正確に把握してリンクを管理する事は、恒常的に張り付いている人が居なければ無理な話で、本業の片手間では到底不可能。しかも、現在我が人文学部のサーバーはFTPの設定がなされていないので、更新はFDを持っていって自分で上書きするという手作業によっているから、人に手伝って貰うわけにもいかない。分類索引が必要だという声も理解できるが、到底手が回らない。

次に、権利の問題。最初は一々許可を求めていたけれど、返事が来ない場合もあり、途中から断念。半端な気持ちで作業を続けることになる。最近は特にフレームが複雑になっているので、構造を無視して中のターゲットに直接リンクするのは気が引ける。

決定的な問題がまだある。江戸を扱った情報はかなりあるとはいえ、肝心の近世文芸に関して、高校の文学史の教科書程度の情報さえ網羅されてはいない、と言うこと。インターネットは、受容する人だけでは成り立たない通信メディアであり、誰かが発信しなければ永遠の空白が残る。

正直言って私は今、これらの問題を解決する方法がわからずに独りで立ち往生していると言っていい。時間を作ることは簡単ではないが、学生を動員することは不可能ではないし、サーバーの問題は近い将来解決すると思う。しかし、本音を言えば、どこか別の所に、複数の同人(誰でも、だと結局玉石混淆になるので、審査機関は必要だろう)が情報を添削出来る場所が有ればいいと思っている。立項の仕方についても、様々な意見交換がなされる場が有れば解決できるだろう。権利の問題は、これから盛んに議論されていくことだろうし、この計画が認知されれば、理解や協力は得やすくなると思う。

三つ目の問題は、利用者の協力を仰ぐしかない。インターネットを個人で閲覧できる環境にある人は、容量に制限はあるものの、殆どホームページを持つ権利も持っている筈だ。そう言う一人一人が、事典の項目執筆の様に、それぞれの得意ジャンルを一つでもいいから自分のページに置いてくれれば、ネットに乗ることで無限の百科事典ができるのだということを理解して、協力して戴きたい。

大風呂敷を広げた壮大な計画は、かくして座礁したままである。しかし、同様の企画は他のジャンルに既にあるとも聞いている。多くの方々にこの計画をご理解戴き、知恵と情報(それに場所)の提供をお願いするばかりである。


研究余滴に浮ぶ塵 好事家的考証の楽しみ
『近世部会会報』7 (84冬)p13~14
そんなことが判ったからといって作品の理解には何の役にも立たないのだけれど、些細な事物の考証、殊に「当時何々は無かった」という事を実証するのは、困難なだけに楽しい。そんな一例を『四谷怪談』から。

序幕、お梅一行が楊枝店を物色する場面、尾扇の台詞の中の「役者の紋所を書きましたの」は、紋楊枝であると集成の注にある。紋楊枝については『嬉遊笑覧』(文政十三)に、『男色大鑑』の例と共に「其頃(元禄期)の俳諧集に野郎の紋やうじ付合の句往々見えたるよし柳亭子いへり。思ふに紋の摸を作り、楊の木の軟かなれぱその摸を打たるものと見ゆ」とある。「柳亭子いへり」とは、おそらく『還魂紙料』(文政九)の記述を指している。ここで種彦は『江戸三吟』(延宝六)の中、桃青の「空青く楊枝百本けづるらん」に付けた信章の「野良ぞろひの紋のうつり香」を取り上げ、「此附意を按るに、楊枝に野良の紋と附たるは野良紋楊枝なめり」と言い、『紀子大矢数』や『男色大鑑』を例に引いて考証している。これら二つの記述から考えられることは、■庭も種彦も現物を見ていない、つまり当時無かったのではないか、ということである。このことは、”紋楊枝”の用例を集めてみても延宝から貞享頃に限定されることでも証明される。一方紋の付いた商品は、『役者花見幕』(文政八)の記述、「当時江戸中諸商人のしろ物に此人(団十郎)のもやうを付ぬハなく菓子や歯磨やハいふに及ハず何商売でも此人の紋を付る」を始め、多く見える様に、文政当時多くあり、『四谷怪談』の文脈に戻って見れぱ、これは歯磨のことであるのは、ほば間違いない。
南北の生世話が、文政当時の浅草を舞台に現出していたとすれば、その棚に紋楊枝は並んではいなかったと考えられるのである。殆んど意味の無いことではあるけれど、こんな小さな発見が付いて来るのも近世文学のおもしろさのひとつである。

春町黄表紙の典拠小察
『近世部会会報』8 (86夏)p10~11
昨年度、学習院の演習で、広瀬朝光氏編の『演習黄表紙(二)』(昭和五十二・笠間)を扱った。以下は、担当の延広真治先生の御許諾を得て、典拠を中心に報告するものです。▼所載順に、「唐倭画伝鑑」は、中国と日本の名画・画人の逸話集で、安永五年刊ということもあり、黄表紙らしくない作品である。後半の日本の逸話の典拠は未詳であるが、前半の中国種は、「太平広記」「太平御覧」に見え、直接には了意の「新語園」(天和二刊)巻之五、八の文をほばそのまま用いている。同書による引用は序及び十七話中の十話にのぼる。尚、中国種のうち同書にない漢の武帝の話は近松の「双生隅田川」(草保五初演)に見える。絵については、顧■之の維摩居士が「画本手鑑」(大岡春ト、宝暦十一刊)や「探幽縮図」に見える探幽の物の特徴を残し、また元信の鳥の図は現存し、絵本では「画巧潜覧」(春ト、元文五刊)に見え、左右を反転させていることがわかる。以上小二田他。▼次の「間違曲輪遊」は京を舞台にした、隠居が息子に放蕩を勧める話に、風の神送りを緩めたもので、「傾城色三味線」(其■、元禄十四刊)、京之巻第一、四に拠っている。ここで春町は、傾城買送りと魂の憑依を一話から、人物設定と筋の構成を四話から取り、巧みに合成している。以上三好君他。▼「金山寺大黒伝記」は中央大学の紀要に翻刻・評釈があるが、芝居種について、「何とて松は…」の歌は「菅原伝授手習鑑」(延享三初演)等に見える他、台詞等は更に直接の典拠があったと思われる。以上中泉嬢他。▼「通言神代巻」は、当世風神代巻という趣向で、先行作に「風流神代巻」(都の錦、元禄十五刊)があるが直接の関係は見出し難い。尚本作の刊年について夙に宮永氏が疑問を投げかけているが、中洲の繁栄、千川上水工事、大島爆発、洪水等が取り入れられているとも考えられ、井上隆明氏『朝西大尽と晩得』によれば、「江戸の幸」は安永三刊だが「うみのさち」は安永七年刊で、それ以前に本作が成立したとするのは困難であろう。とすれぱ、中洲築立と国生みを趣向化したのは、「大低御覧」(朱楽菅江、安永八刊)を踏襲した事になる。その他本作は「八雲立つ…」の歌をはじめ、「神代巻」のバロディが見えるが、直接の典拠は未詳、以上遠藤嬢他。▼「菅荘兵衛文集」は間題の多い作であるが、授業では扱えず残念。以上参加学生全員の名前を記さず申し訳ありません。皆様の努力の賜物でありまし
た。尚不備の点等について大方の御教示をお待ちしています。

「大岡仁政録」の謎又は『近世実録全書』種本考
『近世部会会報』9 (88春) p13~14
『近世実録全書』には、「天一坊実記」の他に四編の大岡物が収められており、皆「大岡仁政録の中」とある。ところが世上に流布した写本「大岡仁政録」とは明らかに別系統の本で、原拠不明である。『全書』には同様に原拠の確認できない物が多く、利用に際しての不安材料となっている。『全書』は「発行の趣旨」で”最善なる写本”を底本とし、異本によって校訂、若干の訂正を加えた事を述べる一方、「実録の沿革」では、”栄泉社本””兎屋本”を紹介し、「それら既刊書中の粋を輯録したにとどまらず—-写本のまヽの実録—-」と、明治期刊本の利用も匂わせている。右のうち栄泉社本とは、明治十五年に創刊された、半紙本、和装で、初版には美麗な錦絵の表紙が付いた『今古実録』の事である。広告によれば、十九年までに「五版より十版に及び」「二百八十余種」「数万部」を捌いた大企画であった。ここで、大岡物は「天一坊実記」以外の十四編が「大岡仁政録」としてまとめられている。この時点で種本となったものが一まとまりの写本ではなかったらしい事は、このシリーズ刊行前年の広告に、「大岡名誉政談全二冊(原書二十巻」とあったものが実現しなかった事から窺い知る事ができる。右の写本「大岡名誉政談」は筑波大などに現存するもので、勿論どちらの”仁政録”とも別の本である。つまり、幕末明初に急速に成長した大岡物の中から新たに編集された、明治出来の大岡裁き集が、この「大岡仁政録」の正体なのである。

実際『全書』のうち、第一巻と第十七~二十巻を除く五十一編の内、『今古実録』と共通する物は四十編を超える。詳細は末調査で、中にはかなりの異文を含む例もあるが、多くは同文、或いは一部を削除しただけの物と思われる。『今古実録』も原拠不明で、現存写本と若干の違いもあるが、実録の成長の最終段階を知るためには、『全書』よりも良質と思われ、他の明治期刊行の実録・絵本等を合せて注意すべきである。尚、第一巻を含め、『今古実録』にない物の写本の多
くは、国会図書館や早大図書館に残っている。

矢口丹演記念文庫のこと
『近世部会会報』10 p6~7
九月二十三、四の両日、大谷女子大の高橋圭一氏と、高崎の矢口丹波記念文庫に御邪魔して来た。この文庫は八幡神社の神主だった矢日家の蔵書を、同地出身の上野洋三氏が世に広めたもので、国文学研究資料館がマィクロ資料に収めつつある。歌書・俳書・浄瑠璃本・算術書・医書と、並べれば切りがない。中でも私にとって貴重なのは実録写本、それも珍しいものが多いということで、高橋氏と相談、上野氏の御高配を仰いで”特別研究員証”なるものを発行して戴いた次第。当日は連休とあって上野発八時半の特急あさまは満員で、一時間十分立ち通し(帰りもそうだった)。前夜東京に泊った高橋氏も、久々早起きの私も少々バテ気味。しかも初めての訪間でかなり緊張。ところが駅の近くで道をきいている所へ当代の矢口米三氏が迎えに来て下さった。とにかく話し好きの人の好い方で、貴重な本を拝見させて下さった上に色々ともてなして下さって……。感謝!

さて、この文庫には、現代のコレクターには絶対に真似のできない離れ技的特長がある。というのは、この文庫の殆どを書写したと思われる八代目、矢日丹波正正喜(宝暦七~文政二)の異常なまでの書写狂いのおかげで、殆どの本の書写年代が確認できるのだ。署名、しかもその正体がはっきり判っている人のが入っていて、年月はおろか、日付に書き始めと書き終りの時刻まで記すマニアックぷりには頭が下がるありがたさ。実録の流布の年代を知るにはかけがえのない資料の宝庫だ。しかも珍しいものが少なくない。前にちょっとだけ使った『敵討膏薬奴』はここでしか見てないし、『大岡政要実録』も収録話の組み合わせ方は初めて見るものだ。”皿屋敷”もあるし、『四谷雑談集』(享保十二年奥付ありの宝暦五年写!)なんてのもある。敵討や盗賊物にも事欠かない……と、本当に興味も尽きないし話題も尽きない。でもそろそろ紙数が尽きそうだ、というところでとりあえず報告のみ。