フランスで大統領に選出されたエマニュエル・マクロン氏が、ルーブル美術館のガラスのピラミッドの前で行った勝利演説のなかで、継承すべきフランスの伝統の一つとして「近年脅かされつつある啓蒙の精神」をあげたことは、カント哲学をはじめとする啓蒙期の哲学を専門としてきた私としてはたいへん印象的でした。
「啓蒙」という言葉は、知識を持っている人が無知蒙昧な人々に真理を「授ける」という上から目線の姿勢を連想させるのか、最近の日本ではどちらかというと否定的な意味で用いられることが多いですが、元々の出発点はむしろ、自分たちの狭い経験やアイデンティティにとらわれることなく、他者たちの思想や立場を寛容に受入れ、より普遍的な立場から物事を考えようという運動を指す言葉でした。
私の大学の先輩でもある法政大学の笠原賢介教授の『ドイツ啓蒙と非ヨーロッパ世界』(未来社)が最近出版されましたが、この本のなかで笠原さんは、非ヨーロッパ的な世界観も含めた異なる文化や思想に対して開かれた態度を貫こうとする「社交性」こそが「啓蒙」の本質的特徴であることを説得的に示しています(レッシングの『賢人ナータン』や森鴎外の『知恵袋』の種本であるクニッゲの『人間交際術』等が典型例とされています)。マクロン大統領が擁護しようとしている「啓蒙」も、異質な要素を排除しようとする「国民戦線」的世界観とは対局にあるこのような「社交性」の側面に重きを置いたもののように思われます。
静岡大学の理念「自由啓発」の英語訳はFreedom and Enlightnmentであり、まさにこのような意味での「啓蒙の精神」を含んでいるというのが私の解釈です。マクロン大統領のやろうとしてることすべてを無批判に礼賛するつもりはありませんが、少なくともこの点では彼を陰ながら応援したいと考えています。