〈書評〉北村年子著『「ホームレス」襲撃事件ー弱者いじめーの連鎖を断つ』
笹沼弘志
「道頓堀川で若者がホームレス殺人」。被災地神戸でのボランティア活動を終え、東京に戻った早々目にした記事に著者北村さんは驚愕した。いじめ自殺を契機に子どもの問題に取組み続け、またドヤ街釜が崎で半年間子どもたちと野宿者支援を行った経験をもつ北村さんは、なぜその若者ゼロが野宿者藤本さんを殺したのか調べずにはいられなかった。そして、ゼロの友人との交流、裁判傍聴を続けるなかでゼロと被害者藤本さんとの「隠された接点」が明らかされていく。この接点にこそ「弱者いじめの連鎖」を解く鍵があった。
てんかんの障害を持っていたが故にいじめられ、定職につけず、あてもなくミナミの街を徘徊し、戎橋で夜明かししていたゼロ。長い日雇い労働生活の末、足を怪我し、仕事にアブレ、野宿を余儀なくされ、繁華街で段ボールを集め一日数百円の金を稼いで生活していた藤本さん。いったい何が同じ弱い立場にいるはずのゼロに藤本さんを殺させたのか。
北村さんは能力主義社会の中での苛烈な競争に目を向ける。人は自分の弱さにいらだち、「ムカつく」。いじめられるものも、それが自分の弱さ故ではないかと自責の念に囚われ自分の弱さを呪い、自尊心を失っていく。そして、強者にあこがれ、より弱いものへの暴力へと走る。 法廷で自分の証言にさえ確信を持てないゼロの姿は、自尊心を打ち砕かれた者の窮状をありありと描き出している。ゼロの供述が一転したのも、学校でのいじめ以上に厳しい密室の中での警察の暴力から、警察に服従することで逃れようとしたためであった。弱者は強者に従わねばならない、強者にすりよってその場を生き延びようという、自尊を奪われた者の習性がゼロを追い込んでいく。
検察官や裁判官は「なぜいじめられた人間が浮浪者という弱い立場の人をいじめたのか、普通の人ならそんなことはしないはずだ」とくり返し問うた。ここに北村さんは「弱者いじめの連鎖」を生み出す、われわれ普通の人々の傲慢さを鋭く見抜く。
そもそも普通の人々は「ホームレス」をどのように扱っているのか振り返ってみよう。新宿西口から「ホームレス」を強制排除し、段ボールハウスを「清掃」した役人は、地裁判決でその非を責められたとき、「意外だ」を驚きを隠さなかった。それはまさに彼が、「ホームレス」はゴミのように汚く掃除されても当然だというわれわれ普通の人の常識を共有していたからだ。
野宿者の生活保護請求を退けた名古屋高裁判決も「ホームレス」は怠け者で好きであのような生活をしているのだという社会通念に支えられているのだといえよう。こうしたわれわれの常識を問い返すことなく、ゼロを責めることができるのか、「弱者いじめの連鎖」を断ち切れるのか。北村さんの問いかけはわれわれの胸の奥底に深く重く突き刺さる。
「弱者いじめの連鎖」を断ち切るためには、強者になろうとしてはいけないと北村さんはいう。むしろ傷つけられ自尊心を打砕かれた弱者は、自分の弱さを認めることによってこそ自尊心を取り戻すことができ、他人の弱さに共感して強い絆を作り出すことができるというのだ。これはナイーブな理想主義ではない。厳しい自省と勇気を必要とする。
はたして弱者がそうした可能性を持ちうるのか疑念を持つ者もいよう。被災地神戸で、釜が崎で、様々ないたみを持った人々が互いに受け入れ合っていく姿。そこに北村さんは弱さに共感し、強い絆を創り出していく可能性を実感している。そしてなにより、釜が崎で警察に「オッサンらにヤラせてんのやろ! 公衆便所!!」と罵声を浴びせられ、それに抗議した経験、いらだちを幼いわが子に向けてしまっていた自分の弱さへの自覚。これが彼女の確信を支えている。痛みを感じる自己の弱さを素直に認めていくこと、虐げられ蔑まれている者が、自己の尊厳を侵す力に対しノーと言い、怒りや痛みを当たり前に表していくこと。これこそ弱者いじめの連鎖を断ち切り、人間の尊厳を守る自由な社会を創り出す唯一の道なのである。「強さ」への強迫観念にとらわれた普通の人々にとって本書は痛烈な辛みはあるが、深い優しさで癒しを与えてくれる書物である。
【注】
この書評は『法学セミナー』1998年5月号に掲載したものです。
ただし、雑誌掲載の文章は字数の関係で一部削除されております。
また私の校正ミスで欠落部分もありますのでこのページの文章で確認して下さい。
なお、引用は『法学セミナー』1998年5月号からお願いします。