giveとgiven



アメリカ人のステレオタイプに、GiveしようとするときはTakeを求める、というものがある。その瞬間の取引であればGiveと同程度の価値のTakeと交換が可能である。しかし、この世に生を受け、生きてきたこれまでの全体を振り返ると、GiveしたものとGivenされたものは交換可能な程度までバランスがとれているものであろうか?自分というものの存在に気づいたときにはすでに日本語を聴いて理解し、話しができるようになっている。言葉、食べもの、飲みもの、着るもの、雨をしのぎ暖かく眠ることができるもの、酸素、明かり、トイレ、すべてが自分でないもののお陰で与えられてきた。他の人のためにお手伝いをしたものはGiveに入れることができるが、その他は?

こうしてみるとGivenが圧倒的にGiveより多いようにみえるが、自然界の法則、すなわちエネルギー保存の法則や不増不減または不生不滅から言えばバランスしているはずである。何がGivenを補うのだろうか?私 ( I )というものが、自分( i )と先生、同僚、問題、読み、話し、聞いたことなどの対象 (j )との相互作用 (Λij(t) )の総和の時間積分で表せるとしよう (式1)。

AさんがいたからΛij(t)j=Aも計算に入っている。Aさんがいなければ私(I)は別の自分になっていたことになる。Iが今の自分であるのは自分と直接間接に関わった人すべてがいたからである。他の誰かにとってみれば、私との関わりがその人の一部になっている。自分がいなければ世界は別の世界になっていたことになる。こうして、圧倒的と思われたGivenにバランスするようにGiveしていることが分かる。つまり、他人と関わって生きていることがGivenを埋め合わせるほど大きいことであったことが分かる。自分がしてきた仕事は大したことではなかったと思う人(私もその一人)は、家族や仲間との関わりという大したことをやってきている、と考えていい。その人のやり方で、小さなことをこつこつやって誰かと関わっていく。それに胸を張って生きていくだけでいいんだと思う。
(2017/8/14)

戻る

 

日本国憲法の定める国民の権利と義務

義務
第二十六条 2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。
第二十七条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
第三十条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。

権利
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
第十六条 何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
第二十六条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
第二十七条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
第二十八条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。
第三十二条 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。