高柳健次郎アーカイブ

テレビジョン開発年譜

年月日 事項
1899年1月20日 高柳健次郎誕生。
1922年10月20日 浜松高等工業学校創立。
1924年5月 高柳、浜松高等工業学校助教授。テレビジョンの研究開始。
1926年12月25日 「イ」の字の送像・受像に成功。
1928年9月 電気学会誌に「テレビジョンの実験」の論文発表。
1930年5月 浜松高等工業学校教授。
5月30日 テレビジョンの実験を天皇陛下へ供覧する。
12月27日 「積分法撮像器」の特許出願。
1931年9月26日 広帯域映像増幅器の特許出願
10月20日 画素数1万個、走査線数100本、毎秒20枚の実験に成功。
1932年3月20日 第4回発明博覧会(東京・上野)JOAK特設館でテレビジョンの実験公開。
8月 浜松高工にテレビジョン研究棟完成。(電視研究室)
1935年11月12日 アイコノスコープカメラを試作、屋外光景の送像に成功。(220本、20枚)。
1937年8月 高柳教授、NHK技研に出向、テレビ開発のリーダーとなる。
10月3日 財団法人浜松電子工学奨励会設立。
1939年9月3日 第2次世界大戦始まる。
1945年8月15日 第2次世界大戦終わる。
1946年6月15日 NHKテレビジョンの研究を再開。
1947年4月 浜松工専・電子工学研究室テレビジョン研究再開。
1948年6月 NHK技研戦後初めてテレビジョン実験を一般公開。
1949年3月24日 天皇陛下にテレビジョン無線放送を供覧。
6月1日 新制静岡大学発足。
1953年2月1日 NHKテレビジョン本放送開始(白黒)。
1959年10月 高柳、2ヘッドビデオテープレコーダー完成、VHS方式の基礎を築いた。
1960年9月10日 NHKカラーTV放送開始。
1961年5月 国際通信連合の第1回世界テレビジョン祭典にて表彰される。
1963年4月 静大電子工学研究施設にてGaAs半導体レーザーを用いてテレビ光伝送に成功。
1965年4月1日 静大電子工学研究施設が付置研究所へ昇格、電子工学研究所となる。
1980年11月3日 高柳、文化功労者として表彰される。
1981年11月3日 高柳、文化勲章受章。
1987年7月1日 高柳、浜松市名誉市民。
1988年10月 高柳、日本人で初めてアメリカSMTPEの名誉会員に推挙される。
11月 静岡大学名誉博士。
1990年7月23日 高柳健次郎 没(91歳)
2004年 国際的研究教育拠点として「ナノビジョンサイエンスの拠点創成」採択(創造科学技術大学院・電子工学研究所)
2007年11月10日 高柳記念未来技術創造館リニューアルオープン
2009年11月 電子式テレビジョンの開発に対して米国IEEEよりマイルストーン賞を受賞

 

高柳健次郎語録

「こつこつ努力の大切さ」

どんなに難しいことでも、一つ一つ努力すればできる。

「10年先、20年先を目指せ」

10年先、20年先を目指して、今からこつこつ一生懸命努力すれば、そのときには必ず、世の中に役立つ人間になれる。

「幸運の女神には前髪があるが、後ろ髪がない」

幸運は後から追いかけて捕まえようとしても、決して捕まえられない。前から、待ちかまえていて前髪をつかめば、捕まえられる。

「無線遠視法」

テレビジョンの日本語訳がないとき高柳はこの言葉を考えた。

「電子式テレビ」

高柳が提案したブラウン管を使ったテレビ。早稲田式テレビ(機械式)に対して。

「チーム研究」

一つの目的に多人数が協力して研究する。アイコノスコープの発明者・アメリカのツヴォルキン博士を訪ねたとき、その研究スタイルを学んだ。帰国後直ちに、全電子式テレビの開発プロジェクトを作り、チーム研究によりこれを完成した。

「人工天才」

1人の天才に対して、一つの目的に結集した多人数の知恵は天才的な力を発揮する。

「天分に生きる」

高柳の好きな言葉。“人にはそれぞれ才能がある。それを生かして世の中のためになるような人間として生きること。”

「感謝」

高柳の最期の言葉。

 

テレビの父、高柳健次郎のあゆみ

高柳健次郎は明治32年(1899)静岡県浜名郡和田村(現・浜松市東区安新町)に、高柳太作・みつの長男として生まれました。小さい頃は体が弱かったのですが、母親の手厚い養育の結果、和田尋常小学校を卒業しました。

健次郎は、教師になりたいと思い、静岡師範学校(現・静岡大学教育学部)に進みました。そこで、物理学ことに電子による蛍光発光に強い興味を持ち、東京高等工業学校(現・東京工業大学)に進学し、大正10年同校を卒業しました。その後、神奈川県立工業学校の教師となりましたが、これは、高柳の希望を満足させるものではありませんでした。

大正13年、浜松に新設された浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の助教授として迎えられ、かねてより考えていたテレビジョンの研究をしたい、という希望を校長に申し出て、ここで「無線遠視法」(現:テレビジョン)の研究を始めました。当時ラジオ放送も未だ一般的には普及していない頃で、普通の人には想像もつかないものでした。

大正15年(1926)ニポー円板による撮像とブラウン管による表示方法で「イ」の字の表示に成功しました。電子式テレビジョンの世界最初の実験でした。昭和5年(1930)には昭和天皇にもテレビジョンの実験をお見せすることができました。その後、昭和10年にはアイコノスコープによる撮像方式を取り入れ、全電子式テレビジョンを完成させました。この頃、テレビジョンの将来性に期待がもたれ、昭和15年に予定されていた東京オリンピックをテレビ放送するという計画が国家プロジェクトとして取り上げられ、研究が大きく加速されました。高柳は昭和12年浜松高等工業学校教授のまま、NHK技術研究所に出向し、日本のテレビ技術開発のリーダーを努め、昭和13年には現在のテレビ規格に近い走査線数441本毎秒25枚の技術を完成させました。その後、第2次せ界大戦の勃発によリテレビジョンの研究は中断されました。

戦後、高柳はテレビジョンの研究を進めるために、日本ビクター(株)に入社し、テレビジョンの技術革新とテレビ放送の実用化に尽力しました。昭和24年(1949)にはテレビジョンの放送が始まり、昭和35年(1960)にはカラーテレビの放送も始まりました。この間、高柳は日本のテレビ開発、テレビ産業技術のリーダーとして活躍しました。

昭和34年(1959)には世界に先駆けて、2ヘッド方式のビデオテープレコーダーを完成させ、ホームビデオの世界的普及と∨TR産業の発展に貢献しました。このように、高柳はテレビジョンに関する技術の礎を築き、さらに、大きなテレビ産業として発展する技術のリーダーとしての役割を果たしました。その結果、日本のテレビジョンの技術は世界で最も進んだものとなりました。

こうした功績により、昭和56年(1981)文化勲章を受賞、昭和62年浜松市名誉市民に推挙され、昭和63年日本人では初めてアメリカSMPTE(映画テレビ技術者協会)の名誉会員に選ばれました。平成元年(1989)勲一等瑞宝章を授与されました

高柳健次郎の最初のテレビ実験

高柳はブラウン管を使用した電子式テレビジョンを世界で初めて提案しました。当時(大正13年~15年)送像側の装置として電子式のものができなかったので、とりあえず、二ポー円板を用いて送像側の信号を作りました。

高柳健次郎の最初のテレビ実験

図において、墨で「イ」の字を書いた雲母板を二ポー円板の直前に置き、ランプハウスから照明をあてる。二ポー円板にはうず巻き状に小さい孔があり、円板が回転すると孔が順番に「イ」の字の部分を走査する。この小さい走査孔から出た光を集め、光電管で電気信号に変換し、これを真空管増幅器で増幅・伝送して、受信器側でブラウン管の電子ビームを映像信号に応じて調節する。一方、二ポー円板のうず巻き状走査孔の外周にはその小孔と各孔に対応した位置にもう一つの孔があり、これは走査線の始めを合図する同期信号を作るものである。この孔からの光に応じた合図の電気信号を受信器に送り、ブラウン管の電子ビーム走査をスタートする。二ポー円板の回転と同時にブラウン管の走査を行うとブラウン管の蛍光面上に「イ」の字が再現される。

このようにして、大正15年(1926)12月25日「イ」の字の送像と受像に成功しました。

 

アナログテレビジョンの原理

テレビジョンは画像を電気信号として遠くに送りそれをもう一度画像として表示することです。そのために、次の4つの手順が必要です。

(1)画像を絵素に分解して、線上に順番に電気信号に変換する。・・・・・・撮像
(2)映像の電気信号を増幅する・・・・・・・増幅
(3)送像側と受像側の走査が、空間的に全く同じに行えるように、同期信号を走査線のはじめと、画面のはじめとにつけて、伝送する。
(4)順番に送られてきた電気信号を、同期信号を出発点として線上に順番に発光点(絵素)として整列させ、画像を再現する。・・・・・受像(時系列信号を走査によって2次元空間信号に変換し、画像を再構成する。)