「実録体小説」

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実録とは何か


 この文章は、有精堂から刊行される予定だった『時代別日本文学史事典 近世編』の「第二部 小説の世界 第6章 実録体小説」の原稿として作成された物ですが、残念ながら、刊行に至らず、97年に東京堂出版から改めて同書名で刊行されたものに収録されています。同社のご厚意により、出版前からWEB公開をしていました。出版された本文とは多少異同があるかも知れません。また、WEB版では図版を加えてありました。現在(2018年2月)、それらのリンクは切れていますが、追々、架蔵本を使いながら、増補し、更に詳しい「実録事典」的なものにしていこうと考えています。
 執筆当時に比べると、実録の研究もかなりの進展があり、情報が古いのは否定しようがありませんが、これはこれとして残し、注記の形で増殖していく解説記事にしようともくろんでいます。そんなわけで、この記事そのものは、上書き更新はしませんが、ハイパーリンクは時々増える予定です。

1 実録の概要
実録体小説(実録)は、近世に起こった様々な実在の事件・人物を、ほぼ実名で、事実を伝えることを標榜しつつ、小説風に綴ったもので、写本で流通した。主に半紙本で、数丁一冊の物から、十巻を超える大部のものまである。作者と思われる署名のあるものもあるが、多くは作者が不明で、書写の間に空想が盛り込まれ、成長変化する。その内実は、必ずしも史実とは言い難いが、他の戯作や歌舞伎等と比べて、荒唐無稽の趣向に走ることは少なく、もっともらしく構成されるため、知識人からは虚妄の書として非難されることもあったが、多くの享受者は事実の記録と信じていたとみられ、秘書として珍重された例も少なくない。
また、実録は、成立の背景に『太平記』読みなどの軍書講釈や、仏教・神道の説教、講釈が考えられているように、中世までの語り物と近縁関係にあり、特に、講釈師が個々の作品の成立、伝播に深く関わっていることから、談義本・咄本等とともに舌耕文芸の一つに数えられており、文字の文芸でありながら舌耕文芸としての特徴も持っている。
(文学史事典の)前章までに述べられてきたように、近世小説の中心は、版本にある。印刷技術や出版資本の形成発展、流通システムの発達などが、散文文芸を変質させたのが近世である。しかし、そうした状況の中で、散文文芸の全てが版本に移行したわけではなく、様々な理由で写本で残されたものも少なくない。実録もその一つで、時事的な題材を作品化したり出版したりすることが禁じられていたために出版を憚る、ということを主な理由として、写本で流通した。検閲の及びにくい写本はそれでもかなり流通し得たのである。その流通経路は、武士階級を中心とした個人的な貸与・書写、講釈師による配布、そして貸本屋による貸出し等があった。現存する写本には、貸本であったことを示す手ずれや落書、本屋の印、書写請負の広告等が見えるもの、或いは、個人的に貰ったり、懇願して借り受け、書写したことを示す奥書のあるものも見えるが、多くは署名も日付もなく、作者、成立・書写の時期や場所などの情報に乏しい。
また、実録写本の特徴として、一部に片仮名混じりで楷書体の物があるものの、ほぼ草書体で、かなり漢字が多く、基本的にはルビがないということが挙げられる。例えば読本は漢字が多いが行書、場合によっては楷書に近く、ほぼ総ルビであるし、草双紙の類は、草書中心だが仮名が殆どである。文章そのものは、読本のように難解ではなく、特別の知識は必要としないが、読んで書写するとなれば、一般的な戯作の読者の域を超えた漢字の読み書き能力を要求されることになる。この一見矛盾する表記の有り様は、ある程度の知識人による書写を含む享受と並行して、講釈を含めた読み聞かせによる享受のあったことを予想させる。
さて、以上が実録の概観であるが、ここで研究史に目を向けてみると、管見の及ぶところ、従来の日本文学史の講座やシリーズ物で「実録体小説(実録)」を立項して記述しているのは、学燈社の『日本文学全史4 近世』の第十三章、「舌耕文芸」のうち「2 軍記・実録・講釈」(延広真治、1978初版、1999増訂初版)が唯一である。「実録」を総合的に把握するものも、この他は、古典的な数名の言及の他には見当らない。その他の研究は、個別な実録をそれぞれの方法で扱うもの、他ジャンルとの影響関係を扱うもの、そして歴史や大衆文芸関係で、これらも多くはなく、研究はこれからの発展が期待されている分野である、ということになる。
さて、以上、概要、及び研究の現況を見たところで、本題に入るのだが、実録は写本で流通したため、「実録の文学史」を記述する場合、作者による列伝体の記述は不可能であるし、内容(事件)による年代記は、近世を通じて発生する様々な事件が題材になっているため、事件史の記述になってしまう恐れがある。従って、複数の、特定の事件を扱った実録群を比較し、それらに共通する推移変化の様式や、ジャンルとしての特性を抽出するのが最も有効な方法であろう。
また、既に述べたように、実録は、舌耕、殊に講釈とは不可分の関係にある。しかし、前述『日本文学全史』の記述が「舌耕文芸」の章に収められて、現在の研究の成果を十分に示しており、ここでは、「小説の部」という事もあるので、散文文芸としての実録の消長を中心に述べることにする。最後に示した参考文献は、かなりの部分を講釈関係に割いているので、必ず併せて参照されたい。
2 初期の実録
冒頭に触れたように、実録は「小説風」の体裁を持つのであるが、実際に起きた事件について、「小説風」でなく書き留めることは、日記や書簡以外にも当然あった。戦国時代には、数多くの局地的な戦闘の記録が残されたし、それに続く近世の前期には、戦国時代を生き抜いた古老達の話を書き留めた物が数多く残っている。敵討や御家騒動、百姓一揆などがあればそれに関する記録も残る。そして、関心が大きければ、書写されて流布することになる。これらは、当事者・目撃者ないし非常に近い位置にいた人物--多くは武士や僧侶、町・村役人と考えられる--による記録であり、本来の意味での「実録」であり、原資料と言うべき物である。しかし、それらの中に、或いはそれらを装って、小説風のまとまりを持ったものが生まれてくるのは、範となるべき先行する記述形式が軍記などである以上、自然の成り行きであろう。
例えば由井正雪の慶安事件を扱った資料では、本当に当時の「原資料」であるのか、後に偽作されたものであるのかは疑問は残るものであるが、『草川覚書』、『慶安四年江戸駿府往復書』などと題される、覚書・書簡体の文書がかなり流布している。前者は駿府加番秋田安房守の家臣、草川五左衛門の覚書と称するもの、後者は江戸老中と駿府役人との往復書簡集である。次いで『油井根元記』という、小説風の記述が現れる。これは、巻末の「根元記出所之事」によれば、はじめ秋田安房守の臣(右筆という)山下弥惣右衛門が三巻としたものを鈴木理左衛門(『翁草』によれば松平伊豆守の臣)が増補し五巻としたものという。つまり、これを信じるなら、事件の直接の見聞に基づいているということになる。この本は、非常に多くの写本が残っているが、一方で様々な批判にさらされる。そして、これこそが真実、という形で次々に新しい実録を生んでゆくのだが、この過程では、明らかに兵法家流の講釈師が関わっている。このように、原資料に近い読物として生まれた初期の実録は、文芸活動、特に舌耕に関わる人物の手を経て大きく成長変化するようになると考えられる。
一方、仮名草紙、浮世草子として分類される版本小説の中にも、島原の乱や明暦の大火、亀山の敵討など、同時代に起こった事件を扱った、時事小説とでも言うべき作品が存在し、実録の内容、形式にも影響を与えている。これらが姿を消し、写本の実録が増加するのは、享保の改革による出版統制の強化に因るところが大きい。同時に、享保期は、神田白龍子など、有力な講釈師の出た時期で、講釈とともに、実録が一段発展したものと考えられる。例えば、享保十四年に起きた天一坊事件は白龍子の『雑話筆記』などに書き留められ、彼の講釈の題材になったとも考えられ、彼の手で独立した実録が作られたとも考えられている。
3 成長期の実録
前述の天一坊事件は、実際には町奉行の扱いではなかったが、実録では大岡越前守忠相の名裁きとして成長してゆく。この他にも、大岡裁きを集めた話集、所謂「大岡政談物」は、馬場文耕森川馬谷など、宝暦明和頃の有力な講釈師の手を経、中国の裁判小説、大岡とは関係のない実在の事件や『板倉政要』等の先行する実録、後には読本等といった、様々な材料を取り込んで成長し、幕末には、独立した中編を含む一大説話群を形成する。この、「大岡政談物」の成長過程には、ある程度の期間を経て成長する実録に共通する特徴が見られる。初期の作品群(『隠秘録』『大岡忠相政要実録』『板倉大岡両君政要』など)では、収録説話に異同があり、本文も揺れているのに対し、『大岡政要実録』『大岡仁政録』は、巻数や題名に違いがあっても、内容はほぼ一致しており、非常に安定したグループである。そして、幕末には、『大岡美談』『大岡名誉政談』等の更に新しい話集が生まれる一方で、「天一坊」や「越後伝吉」等のような独立した中編が発生するのである。つまり、実録は、必ずしも、書写の度毎に成長変化するわけではなく、初期の混沌とした時期を過ぎ、ある程度の完成を見たものは、かなり安定した書写が行なわれているのである。例えば、前述慶安事件の『油井根元記』及びそれを批判する作品群と『慶安太平記』、柳沢騒動物の『日光邯鄲枕』と『護国女太平記』なども、こうした過程を踏んでいる。この、二種の有り様を河竹氏以来「原始的実録」・「(所謂)実録」と分類することが多い。年代的には、およそ寛政期以降を後者としている。
ただし、『慶安太平記』について言えば、本書は明和八年の『禁書目録』にも見えることから、この時期までにほぼ成長を止めてしまったことになるのに対し、「大岡政談物」は、題材が新しいということもあるが、寛政期頃に『大岡仁政録』のグループが成立したと考えられている、というように、必ずしも年代によって混沌期・安定期、と整理することが出来るわけではない。また、成長した新しい実録が生まれてしまえば古いものは忘れられる、というわけではなく、明治初期まで並行して書写されており、それぞれに需要があったことがわかる。
4 実録の変容
冒頭で、実録は他の戯作や歌舞伎等と比べて、荒唐無稽の趣向に走ることは少なく、もっともらしく構成されると書いたが、近世後期、江戸戯作の発達時期には、実録の世界もこれらと相互に影響しあっている。前節で、実録が寛政期前後に変質すると書いたのは、江戸読本の発生、歌舞伎の隆盛があり、実録もそれに影響されているということなのである。例えば、権八小紫・幡随院長兵衛物の実録は、安永頃までには成立していた『石井明道士』という、亀山の敵討の実録中の挿話として見えたものが、浄瑠璃、歌舞伎、小説の題材にもなり、逆に芝居や読本の趣向を取り入れて独立して成長し『平井権八一代記』等を経て『幡随院長兵衛一代記』に至ったらしい、といった具合である。『幡随院長兵衛一代記』に見える「不破名古屋」との綯い交ぜは、鶴屋南北の歌舞伎『浮世柄比翼稲妻』の影響であって、逆ではないように考えられる、といった具合である。
こうして、幕末に至って戯作や芝居からの影響、特に読本からの影響を強く受けるようになると、例えば、『鼠小僧実記』で、永代橋で助けた蜆売りの菊松が後に奉公する店の番頭藤左衛門が、実は冒頭で次郎吉(幸蔵)を捨てた実父であった、というように、登場人物の関係が網の目のように複雑になったり、伝奇的な結びつきが出来たり、という、もっともらしさよりも、意外性の方に重心が移り、実録らしさは薄らぎ、娯楽としての講釈という性格を強めることになる。
実録は、段階的に成長するため、層状に話が増補されており、馬琴の読本のような複雑に絡み合った緊密な構成をとりにくい。これは、講談などによって、耳から受容する場合にも記憶し、理解しやすいという利点があり、緊密でないのは、その分柔軟に新しい要素を組み込める特徴でもあった。また、そのために却って事実として受容され易くもあって、緊密で閉鎖的な読本が、読書の愉しみは大きいが、それに基づいた伝説を生み出す力は弱いのに対して、実録に基づく伝説は、例えば、南蔵寺の縛られ地蔵(大岡政談)や目黒の比翼塚、熊谷の権八物言い地蔵(『平井権八一代記』)などとして定着しているのである。
5 実録の末路
天保の改革が失敗するに及んで実録的な内容の出版が事実上可能になると、戯作界に個性的な作者の払底していた事情もあって、合巻や切附本という形で実録の翻刻、ダイジェスト版が雪崩を打って出版されることになる。この状態は、明治に入って更に拍車がかかる。明治初期には、江戸時代から続く書肆、地本問屋に加えて、廃業した武士階級や地方からの流入組、或いは地方出版を含めた出版業への新規参入が増加する。彼らは手近な実録を小型の絵本に仕立てたり、明治式合巻と呼ばれる和装の活字本を経て、ボール紙表紙の洋装活字本を大量に出版することになる。なかでも、栄泉社の「今古実録」は、現在実録研究に欠かせない活字テキストとなっている「近世実録全書」の素材源にもなっている。
ところで、明治に入ると、実録そのものの生産にも変化が生まれてくる。それまで虚構を主眼としていた戯作が批判され、禁止されていた事実の表現が却って奨励されることになり、戯作者達は、当時黎明期にあった新聞界に参入、新聞錦絵や、続き物と呼ばれる連載記事を経て、実話中心の新聞小説を生むに至る。もとより、これらもまた客観報道とは程遠い読み物であったが、戯作者の手になり、活字として本文が固定されることもあって、それまでの写本実録とは、性格の異なるものになっている。写本の生産が明治に入っても行なわれていたことは、現存する写本の奥書などに明らかだが、出版統制の申し子の様にして発展してきた実録は、その統制が失われるに及んで、役割を終えることになったのである。

題材となる実在の事件

中村幸彦氏は、『日本古典文学大辞典』(岩波書店、1984)「実録」の項で、講談の分類を応用して、内容を便宜的に、御記録・軍談・御家騒動物・捌き物・仇討物・武勇伝・侠客物・白浪物・騒擾物・巷談、の十に分類している。つまり、題材は、近世に発生し、話題となった事件の殆ど全てに及ぶと言ってもいい。

実名

近世の小説や戯曲では、同時代の事件を題材とする場合、舞台を別の時代、場所に移し、その時代の人物や、事件の当事者とよく似た架空の人名を用いることを通例とした。

戯作の読者

野崎左文「草雙紙と明治初期の新聞小説」(『早稲田文学』261(1927、10))によれば、少年時代の左文は、読本は「漢字ずくめである為めに、傍訓のことを便りとして通読する迄で、漢字の字義まで穿鑿する余力がなく」、草雙紙は「本文が悉く仮名書きで、之を読むのに天窓をつかふたり、肩を凝らす世話が無かった為め」「入り易かった」とある。

慶安事件

慶安四(1651)年、由井正雪一党の騒擾事件。『慶安太平記』は「近世実録全書」巻16所収、これと『由井根元記』の中間に位置する代表的な実録『望遠雑録』は『日本歴史文庫』(1913、集文社)に「由井正雪記」と改題して翻刻がある。

出版統制

出版に関する禁令は以前から繰り返し行なわれていたが、享保の改革によって書物の統制機構が確立した。尚、今田洋三『江戸の禁書』(吉川弘文館、1981)参照。

神田白龍子

延宝八(1680)~宝暦十(1760)、名は勝久。武家屋敷に出入りし、兵学・軍書の講釈をした。『雑話筆記』(享保十五(1730)年序)は彼の見聞などを記した随筆。

天一坊事件

享保十四(1729)年に処刑された天一坊改行による吉宗落胤詐称事件。実録では、天一坊は宝沢と名乗る。初めて大岡裁きとして実録化された『拾遺遠見録』は「近世実録全書」巻1所収、『天一坊実記』は同全書巻2所収。

馬場文耕

享保三(1718)年?~宝暦八(1758)年、中井氏、通称左馬次。講釈師。幕政批判などの科で刑死した。元幕臣で、出家の経験もあるといい、吉宗時代を賛美し、家重時代を批判する基調が強く、著書『明君享保録』・『近世江都著聞集』などには、大岡政談物と関係する話を載せている。尚、今田洋三『江戸の禁書』参照。

森川馬谷

正徳四(1714)~寛政三(1791)、通称伝吉。講釈師。文耕の門人。具体的な内容は不明だが「大岡仁政談」を講じたらしい。
尚、講釈師については関根只誠『只誠埃録』(関根文庫選集)を参照。

『板倉政要』

京都所司代板倉勝重・重宗二代の法令と捌きの話を載せるが、必ずしも、二人の実話のみではなく、元禄以前に成立した実録の一。『本朝桜陰比事』(元禄二)以下、「大岡政談物」などにも影響を与えている。

柳沢騒動物

徳川綱吉及びその寵臣柳沢吉保を中心に政策を批判し、綱吉の死去、吉保の失脚を描く。初期の『日光かんたん枕』は、通夜物語の形式を持ち、他の御家騒動物や、浮世草子などにも影響を与えた。『増補日光邯鄲枕』は「近世実録全書」巻1に、『護国女太平記』は同全書巻8に収録。

『禁書目録』

明和八(1771)年刊、京都書林三組行司編。キリスト教関係書・好色本等、絶版、売買禁止本の目録。「書本」として、実録・雑史の類を一一二部を載せる。「日本書目大成」4所収。

権八小紫・幡随院長兵衛物

はじめ、『石井明道士』(「今古実録」所収)の挿話として見える本庄兄弟の敵討、平井権八・三浦屋小紫の情話が、独立成長し、権八を保護する幡随院長兵衛の一代記『幡随院長兵衛一代記』(「近世実録全書」巻10所収)に至る。特に、芝居や小説に多く取り入れられた。

『鼠小僧実記』

天保三(1832)年、獄門に処せられた盗賊、鼠小僧次郎吉の一代記。幕末の講釈師によって作られたと考えられ、現在のところ写本の存在は不明。「近世実録全書」巻7所収本は「今古実録」本に比べて省略がある。

明治期の出版界

前田愛『近代読者の成立』(前田愛著作集第二巻、筑摩書房、1989)参照。個々の書籍商の出自については『東京書籍商組合史及組合員概歴』(東京書籍商組合、1912)が参考になる。

「近世実録全書」

早稲田大学出版部、1919、全20巻。実録物の翻刻は、他に、帝国文庫、有朋堂文庫、叢書江戸文庫などがある。

参考文献

三田村鳶魚『三田村鳶魚全集 第二22巻』(中央公論社、1976)所収「文学史に省
かれた実録体小説」

河竹繁俊『近世実録全書 第一巻』(早稲田大学出版部、1919)所収「実録の沿革」

田村栄太郎『実録小説考』(雄山閣、1960)

中村幸彦『中村幸彦著述集 第十巻』(「舌耕文学談」、中央公論社、1938)

山本卓・高橋圭一・小二田誠二編『読本研究文献目録』(横山邦治監修、渓水社、1993)
所収「実録体小説関係研究文献目録」

延広真治『新・古典文学研究必携』(別冊国文学40、市古貞次編、学燈社、1990,11)所収「舌耕文芸」

*尚、個々の事件に関する実録については、『日本古典文学大辞典』のそれぞれの項目、「近世実録全書」の解題を参照。


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