軍記から戦争報道へ――『東山新聞』の位相――

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軍記から戦争報道へ――『東山新聞』の位相――

小二田誠二
*最後に重要な追記(訂正)があります。

はじめに

今次の所謂「イラク戦争」には、日本人も含め、大量のジャーナリストが従軍し、現場から戦況を伝えた。史上初めて戦場からの同時放送も行われたのだという。一方、アメリカでは名門新聞の記者が現場の取材をせずに原稿を捏造して問題になった。日本では現場に行かなくても記者クラブにいれば情報の側からやって来るシステムがある。百四十年程前、日本に新聞ジャーナリズムが誕生した時、既に似たようなシステムの差異はあった。

しかし、従軍することと、発表ジャーナリズム以上の「事実」を報道をすることとは、例えそれが「生放送」であったとしても、別の問題であることもまた明らかだ。「情報戦」という言葉が頻繁に使われたように、イラク側、米英側の情報には明らかな齟齬があり、受け手としての我々は、それらの情報を「常識」に照らし、「事実」を見極める作業を強いられた。戦時では当然のこと、と言うより、戦争当事国では、片方からの情報を鵜呑みにするしかないのが古典的な戦争報道のありかたである。ただ、「イラク戦争」では、日々の発表、或いはそれに基づく報道内容が、どちら側からにせよ、「情報戦」の一環であって、「客観的事実」とは言えないと言う前提を自覚している報道が少なからず存在していた。そこでは、戦争と報道との関係が、従来の、例えば「大本営発表」とは異質であり、そういう意味では、現在の記者クラブ依存の発表ジャーナリズムより遙かに健全だとも言えるだろう。勿論、受け手の側にそれを正確に読みとるリテラシーが必要だし、そうした前提を隠蔽して、一方的な情報を刺激的な戦争ゲームのように扱う娯楽的なニュースメディアも存在しているのだが。

日本において、黎明期の新聞ジャーナリズムが戊辰戦争に関わる情報戦の舞台になったこと、その中での虚実意識については別に述べた(1)。本稿は、当時の戦争記事における戦況報告を越えるもの、いわば「文学的達成」について、一つの具体的な資料を用いながら検討する。前稿に対する一つの各論である。

こうした研究が『江戸文学』誌の《実録》特集にふさわしいものであるか否か、異論もあるに違いない。辛うじて慶応年間の材料を用いるとして、写本の実録を扱うわけではない。私の興味は、元々歴史記述その物の(不)可能性にあり、その現れとしての実録も報道も切り離して考えることは出来ない。むしろ、舌耕文芸・小説と言ったジャンルの中で、「文学」として研究することの方に違和感を感じてしまう。今回、文学研究の専門誌として初となる実録特集に寄稿するに当たって、外側からの視点を選択したのは、それによって、実録研究その物を考え直したいと考えたからだ。従って、実録特集という環境の中で、他の研究との参照関係に於いて理解して戴きたい。

以下、本稿では、前稿ですこしだけ触れた、会津落城に至る戦況を逐次伝えた『東山新聞』を中心に論を進めることにする。前稿同様、注を伴わない初期新聞の引用は、全て『日本初期新聞全集』(以下『全集』と略す)(2)による。原本は未確認のままである。引用は、現代読者の読みやすさに配慮し、句読点を付し、現在通行の字体に改め、またルビを省略した。初期新聞を考える上で重要な改変であるが、ここでの論旨には影響しないので、これも個別には注記しない。もっとも、『東山新聞』に限って言えば、変体仮名を含む行書体で、ルビは殆どない。補足すると、書体は非常に安定しており、全て一人の手になっていると思われ、編著者自身ではないかと思わせるところがある。

一 『東山新聞』について

従来研究対象として殆ど触れられたことのない「作品」であるので、最初に『全集』の解題(北根豊)の全文を引いておく。

 慶応四年二月九日、有栖川熾仁親王を東征大総督として、東征軍は東海道、東山道、北陸道の三道から進軍を開始した。この『東山新聞』は、東山道に向かった東山道軍(総督岩倉具定、参謀板垣退助)の戦闘記録であり、薩摩、長州、大垣三藩の連合軍が、三月九日野州築田の戦いから記述が始まって、九月二十二日会津城の落城をもって終っている。なお追録として、十月東京城において天皇自ら激戦をくぐり抜けてきた兵の前に立って犒いの言葉をかけられたことを加えている。/終刊号である第三十六号の紙尾に筆者であろうと思われる「放浪子曰ク」とあるが、筆者の何人であるかは詳かでない。しかし本営に深く関わった人物でなければ、このような記録は残されなかったものと考えられる。その記録の詳細さは『太政官日誌』『東征日誌』の比ではなく、今日的に言えば、ジャーナリストの目をもってしての記録であるといえよう。/奥羽北越同盟軍の盟主として、最後まで東征軍に対して頑強に抵抗し、遂には落城を余儀なくされた会津藩に対して、その善戦を衷心から称讃し、一掬の涙を誘うほどにそれを紙尾に書き止どめた筆者の人柄が、今に強く忍ばれるほどの見事な記録である。/体裁はB5判。なお、本紙がどの程度流布されたものかは不明である。

 解題からも判るように、種々の情報を取り合わせて掲載する一般の新聞とは異なり、東征軍の戦況のみを伝える現場報告の体をなしている。しかし、所謂「御届」とは別の物であるし、私信を印刷したとも思えない。かといって印刷物として広範な読者を獲得したとも考えにくい。そもそも刊記のようなものもなく、影印では写本ではないかと疑いたくなる紙面であるが、後に触れるように、乱丁の存在によって板本であることは確認できる。そして何より、この新聞を特徴づけるのは、直截な言い方になるが、妙に感動的な評言である。

解題には、比較すべき新聞の存在も見える。このほかにも、会津の戦争を載せる新聞は数多存在するし、既に活字化されている会津をはじめとする“賊軍”側の史料、或いは、写本のまま残されている地方軍記や見聞集の類もかなりの数に上るだろう。また、西南戦争に関わる記事、小説の類など、比較して検討すべき材料は多い。その事は承知の上で、本稿では、私自身の力量を弁え、こうした比較検討は最小限にとどめ、『東山新聞』その物について整理・検討を加えながら軍記・実録の研究に向けて問題を提起し、後考を待つ事とする。

印刷されたこと、随って変化しないこと、個人的な感懐を述べること、どれもが写本の実録とは異なる特徴である。軍書講釈などの舌耕とも直接には関わりがない。しかし、歴史と文学、事実と虚構と言った、表現の根本的な問題を抱えている点で、それらは本質的に近い関係にあるのも確かなのだ。それがどんなに細く頼りない物であったにせよ、末期の軍記を近代戦記小説につなげる経路が、講釈や戯作ばかりではなく、初期ジャーナリズムの中にもまた確かに存在したことを確認したい、と言うのが、本稿の狙いである。

二 『東山新聞』の構成

以下、長くなるが、『全集』に基づき、全三十六号の構成について、【号数・日付(全てにある「慶応四年」は省略)・頁数(一頁は、八行、一行はほぼ二十二字)・見出し・内容時間・備考】の順に、やや詳しく記しておく。

一 〔三月〕
三・野州築田合戦 三月上旬・三月八日夕・翌九日暁・辰の上刻より午の刻
二 〔四月〕
三・総州岩井合戦 同月十八日・同廿日暁天・午の刻
三 〔四月〕
四・野州宇都宮攻 四月十九日・廿二日・翌廿三日早天・未ノ刻・申の下刻
四 〔閏四月〕
四・上州野口追討 閏四月頃・同し頃・同月十三日・翌朝・巳の刻はかり・翌朝
五 〔閏四月〕
七・野州塩ノ崎合戦 閏四月十八日・翌日・其夕・翌日・其夜・廿一日・暁天・其日九ツ時・其日八ツ時頃
六 〔閏四月〕
三・野州由井合戦 閏四月廿二日早天
七 〔閏四月〕
三・野州関谷合戦 閏四月下旬・同月廿三日・巳ノ刻
八 〔閏四月〕
四・奥州白川戦闘 閏四月下浣・同廿五日・其日 (五月廿六日記事予告)
九 〔五月〕
十四・奥州白川合戦 「官軍に随つて奥地に向ひし諸藩の内何れの藩にや/奥州白川よりの報告書有り其写に曰」 閏四月二十五日/本月朔日暁天・(図一・見解四)
拾遺〔日付無〕
十・大垣藩死傷之人名 (四月廿三日から九月廿六日)
十一〔五月〕
二十三・奥州白川籠城 五月廿日頃・同月廿六日早天・翌廿七日午刻・薄暮 (図〔奥州白川城之図 慶応四年六月廿七日形勢〕見開一・白一・乱二)
十二〔六月〕
四・奥州白川泉田斥候 六月朔日
十三〔六月〕
十一・奥州白川二度の篭城 此頃(江戸方)・六月十二日・未の刻・今朝・今日・巳ノ刻過
十四〔六月〕
十五・奥州棚倉合戦 五月中旬・五月十日頃・五月十五日早天・六月上旬(ここまで江戸方)・六月廿四日暁天・今日・其日九ツ時・其夜・廿五日早天・けさ・翌廿五日早天 (図〔奥州棚倉街道之略図〕見開一)
十五〔六月廿五日〕
五・奥州白川四度防戦 六月下旬・同月廿四日暁・此日・廿五日早天・今日
十六〔七月〕
六・賊軍白川を瓦解して退きし事 七月の初・廿九日暮方・七月朔日・翌二日暁
十七〔七月〕
四・奥州泉湯長谷戦争 六月上旬・同十七日(ここまで江戸方)・同十七日・同廿八日・廿九日・其次の日
十八〔七月〕
十六・奥州白川長寿院の墓祀り 藤原義誌 七月十五日 (追悼文・碑銘・詩歌等)
十九〔七月〕
四・奥州岩城平落城 七月朔日・翌二日早天・同十三日・其日の暮方・其夜八ツ時頃
廿 〔七月〕
四・奥州白川六度目防戦 七月十五日早天・八字頃
廿一〔六月〕
三・奥州浅川合戦 六月廿五日・七月十六日
廿二〔七月〕
五・奥州三春降参 七月廿四日・廿四日夜・廿六日 (因に曰)
廿三〔七月〕
三・奥州本宮合戦 七月廿七日
廿四〔七月〕
四・奥州本宮防戦  七月廿七日・其日巳の刻
廿五〔七月廿九日〕
二・奥州二本松防戦 七月廿九日
廿六〔八月〕
七・奥州会津討入 一 八月上旬・八月廿日・今日・此夜・同日・此日・今日未ノ刻・申ノ刻・其夜・翌日午ノ刻
廿七〔八月廿一日〕
三・奥州会津討入 二 保成合戦 今日・巳ノ刻下り・申ノ刻・此夜・此夜子ノ刻
廿八〔八月廿二日〕
四・奥州会津討入 三 猪苗代乗取 八月廿二日暁・其夜・此夕 (放浪子曰)
廿九〔八月廿三日〕
六・奥州会津討入 四 八月廿三日暁天・今日・夜明る頃・辰の刻過・巳ノ刻過・其日もはや夕陽と垂とす・暮方 (放浪子曰)

〔八月廿四日〕 五・会兵篭城 八月廿四日早天・此日・(図〔会津城之略図〕見開一)
一〔八月廿五日〕
六・若松に於て官軍防戦 八月廿五日暁・同日巳ノ刻過・同日申刻・今日未刻
二〔八月廿六日〕
五・会兵渡辺綱之助戦死 八月廿六日暮方
三〔八月廿九日〕
六・若松に於て官軍防戦 八月廿九日・今日
四〔九月〕
五・会津再度の攻防 九月五日・此日・同日・同十日・今日・連日連夜・其頃・其節・其翌日
五〔九月〕
十六・会津降参 九月廿一日・今日巳ノ刻・廿二日朝黎明・此日・正午・今日・同廿三日 (乱?一)
六〔九月〕
十一・会津城渡し 九月廿四日・申ノ刻・後日に聞けば・今日・九月の末より十月上旬迄・十月十二日・同廿四日・其日正午・同廿五日・正午・同廿六日・其日未刻 (乱一・放浪子曰)

これだけでも、注意すべき情報は多い。先ず第一に、『全集』には、第十号が収録されず、その場所に掲載されている「拾遺」は、第三十七号に相当する事、明白である。また、解題にも示されているように、九月付の第三十六号に十月の記事が見える、と言った例は他にも多く存在し、各号の日付が、執筆乃至刊行時点を意味するのではなく、記事内容の最初の月日を表している事も判明する。その上で、各号によって生じている頁数の甚だしいばらつきは、この新聞が全ての後に安定的に供給された読み物ではなく、報道或いは報告としての意味を持ち、戦争の進行と並行して、おそらく現地で随時作成された物であることを示すと見てほぼ間違いない。特に第八号(記事内容は閏四月下旬)に見られる五月二十五日の未確認情報(第十一号の記事に相当)に関する言及は、執筆・刊行時期、更には執筆者の居場所を示唆する物として注目される。なお、(乱)と注記した号には、乱丁乃至錯簡と思われる混乱が見られる。特に第十一号については、通常の製版印刷の袋綴じでは考えにくい乱れがあり、原本に当たる必要があるが、未確認である。

さて、「放浪子」は第二十八・二十九号にも顔を出すが、他にも無署名でかなり長い感慨を記した場所があり、同じ人物の主観的な記事と考えられる。解題で北根が称讃するように、この新聞の決定的な特徴は、筆者と見られるこの人物の戦争観によるところが多い。このことについては後に詳しく述べる。筆者に関する明確な情報はなく、一人の仕事であると断定する根拠もないのだが、「拾遺」等に顕著なように、記事内容から、実際に従軍している大垣藩士であることはほぼ間違いない。

三 表現について

前節で、おおよその内容・構成は把握できたと思う。次に、この新聞を特徴づける文体について実例を示しておく。若干問題のある箇所でもあるので、第八号の本文を引用する。

閏四月下浣官軍追々野州に打入山籠の賊徒を度々打退け既に同国芦野まで進みけるが、同廿五日奥州白河城へ押寄戦闘有しが、其日官軍遂に利有あらすして引退きしよし。其訳は此以前連日野州にをゐて戦ひ有之、戦士悉く疲れし上、昨廿四日夜も通夜道を馳て押寄ける故、奮撃突進日頃に似ず、賊は待設けし事なれば、切所要地に兵を配り、出没自在に防戦せし由。此日官軍は只本道をひた押に進しかは、死傷人は多く有之将士気勢を挫きしかば、遂に其日は兵を纏め芦野駅まで引帰せしと云。

 点検 (省略。 *官軍は各隊毎、賊軍については「後日白川町人ニ聞」た、死傷者数の記録。ほぼ毎号にある)

五月廿六日より賊兵大挙して白川城を襲ひ連日戦争闘撃有りし。然れ共官軍の備へ厳固にして諸手の持口少しも揺かず。却て賊兵瘡を被り散々に敗する由なり。其事情実未た詳なるを得ず。近日記得出行すべし。

特に際だった特徴のある文章ではない。この時期の新聞としては読みやすい和文で、「由」「と云」という伝聞の体裁も、ほぼ全編にわたっている。一々引用しないが、このほか、所々に地勢や地名の由来などを解説的に述べた箇所があり、時として、必要以上に漢語や故事、比喩的な表現を用いることもある。また、小状況について結果を記した後に経過を述べるスタイルと、ほぼ時系列に従う実況的なスタイルが有り、後で触れるように、幾つかの箇所では大状況には直接関わらないと思われる小さな逸話を詳細に描写する事がある。更に、他の官軍や江戸からの情報を伝聞的に伝える箇所も幾つか有る。これらのことから、備忘の為の日記のようでありながら、そこにいない読者に配慮した表現者としての強い意識を読みとることが出来る。

第八号に戻ろう。二十日に会津に奪われていた白川城は二十五日も奪還できずに終わった。それを、敗れたのではなく強行軍による疲労をによって退却したという。その後形勢は逆転し、白川城も再び官軍の手に落ちるのは歴史の知るところであるし、そもそも筆者もそれを知った時点で書いている。一ヶ月も先の攻防について予告的にここに記した意図も透けて見える。

他の新聞の多くは、二十日の敗戦について、確実な情報のないまま、原因を推察しながら伝えている。『東山新聞』が、それを詳細に載せていないのは、第五号に、喜連川逗留中の十九日、「道路の説には何れの賊にや此頃奥州白川城を乗取り勢ひに乗して野州へも打て出るの気色有りと云」とある通り、自分の隊がまだそこに居なかったからであった。

比較の為、この攻防についてまとまった記述のある他の新聞も若干引用しておこう。

……二十五日の暁天やうやく進発にをよびしところ敵方にはいかヾして官軍の企をさぐり知りしや、あらかじめ伏兵を設けをき、白河より一里三十丁ほど西なる白坂といふ所まで出張し備をかためて待居たり。官軍には此ことを夢にもしらず思慮なくすヽみしところ、はしなく敵兵に出会いひ、あるひは討たれあるひは伏勢にをちいり、亦はうち死し、終に敗軍となり一トまづ芦野の(ママ)いふところへ引退きしよし。……(『東西新聞』第二号 閏四月廿日)

閏四月廿五日会津勢脱走勢仙台侯の人数援兵として走加はり、また白川の城をせめる。此日官軍手負死人おびたヾしく再び白川の城を開き大田原まで引揚るといふ。(『海陸新聞』第六編 無日付)

同月廿五日官軍方薩州土州藤堂侯の人数、北国方は会津仙台二本松福島棚倉侯の人数戦争に及候始末、初め仙台の兵白河城を引払ひ矢吹宿へ陣しける処、廿五日暁七ツ半時頃白坂宿へ屯営の官軍不残出陣して白河城の後ろ手に廻り不意に乗じて城中へ向け大砲打掛け候処、城兵も兼て手配有之に付早速防戦いたし破裂丸を寄手え打込み互に殺傷有之候処、城兵敗北の姿と相成候折柄、矢吹宿之仙台兵払暁より白河之方に当り火の手相見へ砲声頓に相聞候より進軍之号令を下し、五ツ時頃白河へ馳来る。其勢凡六百人余、直に斥候を以て戦争之様子探索為致、密に下町より寄手の後ろへ出て大砲両三発打掛け候に付、寄手に於ては裏切之兵有之歟と疑念を生し候処え、右之六百人鎗を入れ、接戦となる。城兵も力を得、打て出寄手は前後に敵を受け、遂に敗軍となり戦死手負余程有之、城兵も死傷二百人余有之候由。(『江湖新聞』第十九号 五月十三日)

采女正分隊人数野州芦野駅去る廿五日暁出立、白川城より壱里程手前カゴ原と申所まで進軍候処、同所山林に賊兵出没発砲に及び候故、薩長忍并弊藩の兵、間近く相進み昼九ツ時迄死力を尽し攻撃いたし候処、彼は衆我は寡、殊に討死手負多分に相成候間、白坂と申所迄退ぎ暫時休息、再び押寄可申之遂軍議候処、大田原在陣の薩長忍并弊藩の後詰駆付、当衆議の処、暁天よりの苦戦にて追々疲れ果候勢之義故、芦野駅迄退陣可然と相決し、同日八ツ時過同宿へ帰陣、兵力を養ひ罷在候旨申来り候間、此段不取敢御届申上候。/討死手負左之通り(省略)/因に云、去る頃の戦ひ敗れ同藩の士見苦しき体にて落行碓氷峠にかヽみ居たりと記せしと書ありと、甚しき虚説なり。(『内外新報』第三十九号 五月十四日「五月朔日大垣侯の届書」)

 後にまとめられた物であるが、会津側の資料として『七年史』(3)の当該箇所も引いておく。

二十四日間諜報じて云ふ、薩長佐土原の兵、今朝大田原を発し、今夜芦野に宿すと、鈴木作右衛門、木村熊之進、小池周吾、野田進等の将長、戦略を定め、白坂口へは、新撰組山口次郎を先手とし、遊撃隊遠山伊右衛門之に次ぎ、棚倉口へは純義隊小池周吾、原方街道へは青龍一番隊鈴木作右衛門之に当りて、西軍を待つ。

二十五日暁天、西軍来りて白坂口関門を攻めければ、山口次郎、遠山伊右衛門等隊兵を指揮して戦ひけり。大平口日向茂太郎は進んで米村に在りしが、砲声を聞き、急に進んで白坂口の横合よりし、砲兵隊樋口久吾は白川九番町より進んで苦戦しけり。棚倉口より小池周吾、原方街道よろ鈴木作右衛門進撃し、又横合いより義集隊今泉伝之介、井口源吾等歩兵を率ゐ来りて戦ふ、西兵河籠原にて撤兵となりて来る、東軍亦散布して西兵の来るに応じけり。西軍の参謀伊地知正治急に兵を収む、東軍追撃して境明神に至りて軍を白川に還へしけり。彼我の死傷頗る多し。

 これらの比較から、それぞれの新聞が、限られた情報源から状況把握に努め、記事の精粗も敗戦の語り方もまちまちになっていることも、両軍共に「間諜」「斥候」を利用していることも判る。実際、『東山新聞』からは、公式な情報だけでなく「道路の説」「土人」の「報」「噂」といった情報によっても軍の方針を決めていたことが窺える。時にそれは「全く浮説流言」であった。新聞の日付が、必ずしも刊行日を指すとは言えない以上、速報性の検証は困難であるが、これらの記事が、全ての後に俯瞰的に記述された物ではないことは、確認しておこう。現代の我々は、こうした断片を集めて比較し、再構成することで、複雑な歴史物語を作ることが出来るが、彼等には望むべくもない。寧ろ自分たちの情報源、或いは行動の根拠がどの様な物であったかについて、正確に書き留めようとしているように見える。それは時として、自分たちの行動を正当化する根拠でもあった。

四 放浪子

第一号において、築田の勝利を述べたあと、「嗟呼彼は死を以て其君を犯し血を以て其親に洫く、不倶戴天の罪人といふへし。寡は固より衆に適せずといへども烏合蠅集の兵を以て豈官兵に抗する事を得んや、鬼神も必す憎み給ふへし。」と言う感慨が記されている。敵は鬼神も憎む不倶戴天の賊である。新聞記事中に現れる主観的な感慨は確かに異質ではあるが、これだけ読む分には官軍のプロパガンダと見ても違和感はない。ところが、味方に大量の死者を出した白川の敗戦を経て、第九号では「敵となり味方となるとも順逆二縁の値遇にして不倶戴天の讐有るに非す、止むを得ざるの争戦なれ共、公裁何ぞ私激の兵をゆるさんや。天人共に伐する所なり。然れ共彼れは其君乃ために身命を抛ち、食の為に難きを辞せず、従容として向ふ所、是耶非耶を謂せす。死を以て其身を潔くす。是も一時の忠臣なり。死傷多しと豈これを快とせんや。共に悲しむ処なり。彼れ必父母有らん、必兄弟妻子有るへし。朝夕門閭に音信なきをかこち、夜るは閨房に暁け久しきを恨まん。然るに当日死せしと聞かは、必旻天に号泣して其非命を訴へん歟。嗟呼兵は凶器なり、危事なり」と、戦争その物への疑いが生まれている。そして第十二号では、危うく難を逃れた退却を「憶ふに此等は偶然にして只僥倖にして免れたるのみ」と語る。実際の戦場にあるのは、もはや正義でも兵力でも、まして神仏の加護でもない。こうした戦場をくぐり抜け、第三十六号では、会津城を落として江戸へ戻り、天皇直々の褒賞に預かって「歓喜落涙に堪へず、服皷雀躍して退出」したものの、「余甚会兵の驍勇なるを感ぜり。纔廿万余の領石をもつて十八諸侯の荷担を固請し、遂ひに奥羽の兵を駆つて決然天下の兵を引請、幾たびか王師を抗阨して篭城の日は卅余日を保てり。畢竟軍門に降ると豈も、一たび官軍の打入りし日より城中士卒を始として、老婦幼女に至る迄も、悉く命を惜しむ者なく、婦女の白刃に伏して死せりしことは藩邸家毎に五人三人つヽ有りけり。中にもいと哀れなるは、母一人として子三人を刺殺し其身も同じ枕に俯して死して有りけり。去れば古語にも所謂忠孝無他有情於其君父也、唯夫有情是以不忍以其不忍故能自忍於死生之際焉耳 余は会兵の情を悲しみ、其勇を烈とす」と、敗れた会津方を却って称讃し、共に悲しむ述懐を記すに至る。こうした認識は、戦場の実感に基づくものと見てよい。婦女子が多く自ら命を絶ったことは、会津側の証言(4)によって、今はよく知られているが、官軍側として、勝利は勝利としつつ、この時期にこうした悲劇を記し得たのも、戦争その物の悲惨さを実体験した故であろう。

五 会兵渡辺綱之助戦死

終刊に近い第三十二号は、本名かどうか疑いたくなるような一人の会津兵に焦点を当てている。

八月廿六日暮方に至り、長垣の持場なる桂林寺口の方よりして一人の猛賊忍び来り、垣の大?の車台を潜て突然として立顕れ、吾は渡辺綱之助なりと名乗て垣の手へ切て掛りければ、火急の事なれは短砲を放つ間もなく只抜連れて切合ひしが、中々手練の知恵者にして、一戦輙く打取がたく、既に味方一人疵を被りけり。此時傍に居し長州兵小銃を切て放ちければ、伺ひ外れず、胸板に中り、二言と謂わず死してけり。此者余りに潔よき振舞なりしかば、彼れが懐中を探り見れば、朱に染たる懐紙のうちに辞世の詩歌なと有りしなれども、皆腐敗して読みがたく、兎角してあちこちも索むるうちにようく一句の文字を得たり。/■衣(ツヅレ)着て帰るや四方の錦時 芝蘭/ 生年廿八歳と有りけり。去れば此人世に有りし頃は文武の道に志深くして天晴名誉の者なりしにや、斯る闘争の事繁きにも日頃嗜む道を以て爰に千万の意を述べしにて、纔十七字の俳句を見てさへ其肺肝は察するに足れりと、見る人是を感ぜぬはなし。実にや所謂国乱れて忠臣起り、家貧にして孝子顕ると、子も亦時の不祥に逢へる歟。其身臣として君辱しめらるヽの際に至つては、百事用なく只に一死の有るのみなり。然るに往昔未然の初めに何ぞ国家の安危を図りて君を万金に誘なわざりしや。一とたび名分を誤つてより爰に社稷の敗頽に及べり。包胥の救ひを乞ひしに有らずば比干の諫死も更に益なく、紀信の節死も今は詮なく、是臣たる者の罪なるべくして、大ひに愧る所なるべし。去れば今将百計尽きて泉下故郷へ帰るの日には錦と飾る物はなくして、慚愧遺憾のやるかたなさに■衣を着てといヽしなる歟。折しも秋の末なれは四方の山々錦着て、春花咲かぬ梢々も紅葉しにける時得し顔は、さても敢果なき浮世なるかなと、彼と是とに感触して、斯くは咏ぜし物ならん歟、押量られて哀れ深し。

残念ながら、この人物についてはまだ他の資料による傍証が得られていない。婦女子の悲劇を描きながら、我々のよく知る白虎隊に触れないのは、おそらく筆者がそれを知らなかったからだと考えられる。逆に、渡辺綱之介、俳号芝蘭なる人物については、たまたまそこに居合わせた筆者によって書きとどめられ、会津側には記録されなかったということだろうか。『会津戊辰戦史』(5)には、この戦闘について、「此の夜一ノ町に在る西軍本営を進撃するの令下る、鈴木一郎右衛門は一中隊、竹村幸之進は一小隊、春日佐久良は一小隊を率ゐ発するに臨み、二公将士を召して見て酒?を賜ふ、朱雀三番寄合組隊、別選組隊は融通寺町門より進発す、狙撃隊竹村先鋒たり、進んで七日町近傍に至るや西兵已で七日町に在りて忽ち応戦す、朱雀三番寄合隊小隊頭神尾左仲は兵を率ゐて彼の備へざるを襲はんとし、桂林寺町門を入り大町に進み六ノ町に至りて戦ふ、衆寡敵せず本三ノ町より本二ノ町を経て融通寺町門に至れば大垣の兵来り戦ふ、我が兵利あらずして退く。」とあるのみ。二十八歳と言うから、綱之介も朱雀隊士の一人だったのだろう。会津側の資料は、このような辞世を懐中した兵士の多かったことも伝えているが、官軍によって報じられることは少なかったに違いない。

大局に毫も影響を与えない、一兵卒の無謀な死でしかなかった出来事を、筆者は終局を見通した上で、滅び行く者への哀悼と畏敬の念を以て描いた。敵ながら天晴れ、と言う捉え方は、勝者の余裕であるかも知れない。しかし、官許の新聞に同じ事が出来たかどうか。一個人の死を焦点化し、荘厳することで戦争その物を語る手法は、あざとい程に見事である。筆者自身が遺体を改め、発句を見出したかのような、却って創作の疑いさえ抱かせるほどの臨場感は、古来の軍記や軍書講釈の影響を感じさせる(寧ろ影響を受けたのは、戦場に散った兵士たち自身であったか)。講釈とは無縁の場所で、戦況報告は勿論、同時代の報道のレベルからも明らかに飛び抜けた「作品」が生まれたのである。

おわりに 軍記から戦争報道へ

調べが足りず、比較して論ずべき多くの資料を用いないまま作品紹介に終始してしまったことは正直に認めなければならない。しかし、一方で、後世に殆ど影響力を持ち得なかったにせよ、これほどまでに質の高いルポルタージュがこの時期に存在したことを、先ず認知することから始めなければならないのもまた確かなのである。引用し、紹介したい箇所はまだまだある。

漢文体の軍記にはじまり、語り物としての軍記があり、『太平記』を経て、近世には多くの軍書・軍記が生まれた。それらは、歴史記述であり、宗教的な慰めであり、また娯楽でもあった。近代に入っても、従軍体験に基づく戦記文学は存在する。戦争は、それぞれの時代に、社会の求めに応じてそれを語るスタイルを変化させてきた。戊辰戦争は、印刷物による報道と戦争とが結びついた新しい状況であった。その中で、官軍側の立場を保ちつつ、官製ジャーナリズムを越えて悲惨な戦争その物を描いた『東山新聞』の意味は大きい。

最後に、強引に実録に話を戻そう。実録写本の多くが、貸本屋や蔵書家の手によって写されたものであるにしても、それらのテクストを紡ぎ出したのは、やはり講釈師達であったと考えて、おそらく間違いではない。しかし、講釈師達は実際に現場に居合わせたわけではない。彼等は意外なことに多くの情報を書物から得ていたらしいことは、高橋圭一の近著『実録研究』(6)に詳しい。講釈師達は、原資料的な文書を探り、類似する事件や先行する様々な話を関連づけながら一つの物語を構成していったのである。しかし、こうした作業その物は、講釈師だけに与えられた特権的な営みではなく、情報と想像力さえ有れば、誰でもが実録の作者になり得た。従って、講釈と関わりのない実録も数多くあったに違いない。例えば歴史の渦中に身を置きながら、一方的、断片的な、当ての見えない記録・報告を綴り続けた人物が、事の結末を見届けて、そこに意味のある物語を見出すのは、当然の成り行きだろう。そういう意味で『東山新聞』は、それが新聞というメディアに載った迄のこと、と言えなくもない。しかし、既に送り出してしまったテクストを遡って再構成することは出来ない。『東山新聞』は、逐次刊行物という制約のもとで、出来事の断片が一つの歴史物語に生まれ変わろうとする、生成の過程を見せてくれる貴重な作品なのである。それは、近代ジャーナリズムの誕生、新しい時代の小説の兆しであるとともに、写本による実録の時代が終わろうとしていることを示す物でもあった。

(1)「ニュース言語の江戸・明治」(『文学』四(一)二〇〇三年一月 所収)

(2)ぺりかん社 一九八六~二〇〇〇年

(3)続日本史籍協会叢書 日本史籍協会 東京大学出版会 一九八七年十月(覆刻)

(4)『会津戊辰戦争資料集』(宮崎十三八 新人物往来社 一九九一年十月)等。

(5)続日本史籍協会叢書 日本史籍協会 東京大学出版会 一九八七年三・十月(覆刻)

(6) 清文堂出版 二〇〇二年一一月

『江戸文学』 29(03,11) p158~170
追記
 本文中にもあるように、本稿は、原本未見のまま、初期新聞全集の影印によって執筆しました。その際、写本では無いかと疑ったのですが、明確に出来ないまま、板本であろうと推測して論を進めています。
 ふと思い出して、国立公文書館デジタルアーカイブを確認したところ、画像公開され、一括ダウンロードも出来るようになっています。そして、書誌情報によれば、これは写本のようです。
 03年の時点でも、冊子目録等で確認する手段はあったはずですが、怠った私のミスです。
 お詫びのしようもない事態で、論文の主旨にも影響がありますが、写本であっても逐次的に生産され、書き替えられていないとすれば(ここは現状では推測)、まさに、板本ジャーナリズム黎明期に起こった写本ジャーナリズムの一例として興味深いものであるとも言えそうです。
 戊辰戦争150年という年でもあり、改めて読んでみようと思っています。皆様のご指導をお願いします。
2018年4月12日 小二田誠二