この頁には、かつて様々な事典類で項目執筆した情報をアップしておきます。実際に出版された物では書き直している部分があるかも知れませんので、引用は公式な出版物を利用して下さい。
板倉政要 いたくらせいよう 明治書院 日本古典文学事典
最も流布した形は冊数不定の十巻。法制・実録。有名な近世初頭の京都所司代、板倉伊賀守勝重・周防守重宗・内膳正重矩三代の法令と裁きを集めたもの。写本で流通した。重矩の在任(寛文八年(一六六八)~十年(一六七〇))以降、本書を参照ざたと考えられる西鶴の『本朝桜陰比事』(元禄二年(一六八九))以前に成立したと考えられる。前半は法令集及び京都の町数・人別等、後半は三人の裁きとする説話六三編を収録する実録になっている。後半のみで伝存する写本も多い。前半は「板倉氏新式目」とも呼ばれ、京都の地方法とはいえ『公事方御定書』に先立つ近世初期の民事・刑事の法令集として重要な意義があり、後半は、収録された個々の説話は非常に短く表現も簡略であるものの、「大岡政談」や、浮世草子の裁判物等に先行する本朝初の裁判説話集として位置づけられる。
個々の説話は、中国の『棠陰比事』等による物もあり、必ずしも事実とは言えない。また、類話が多く、直接の典拠関係は明らかにし難いが、西鶴をはじめとする近世小説や、実録・落語などの舌耕文芸に取り上げられた説話の早い時期の記述としても大きな意義がある。後に『続板倉政要』のように増補されたものも生まれたが、江戸町奉行大岡越前守の活躍以後は、『板倉大岡両君政要』など、二人の名前を冠した話集が派生し、「縛られ地蔵」や「三方一両損」など、多くの有名な話は大岡政談物の中に大岡の裁きとして取り込まれてしまった。
(参考文献)中田薫「板倉氏新式目について」(『法制史論集』第三巻上、岩波書店、昭18)尚、前半は『日本経済大典』第三巻に、後半は「(史料翻刻)「板倉政要」第六巻~第十巻裁判説話の部」(熊倉功夫、『(筑波大学歴史・人類学系)歴史人類』15、昭62)にそれぞれ翻刻されている。
大岡政談 おおおかせいだん 明治書院 日本古典文学事典
八代将軍徳川吉宗の頃活躍した江戸南町奉行、大岡越前守忠相(一六七七~一七五一、在任一七一七~一七三六)を主人公とする、いわゆる「大岡裁き」を扱った実録。題材となった事件の殆どは大岡の事跡とは関係なく、馬場文耕・森川馬谷など、宝暦明和(一七五一~一七七二)頃の有力な講釈師の手を経て『棠陰比事』等、中国の裁判小説、大岡とは関係のない実在の事件、『板倉政要』等の先行する実録、後には『青砥藤綱模稜案』等といった読本を含む様々な材料を取り込んで成長し、幕末には独立した中編を含む大小合わせて数十話に上る一大説話群を形成する。伊勢山田の奉行時代の裁きに始まる町奉行昇進の逸話(吉宗の伝記であり、馬場文耕の作と言われる『近代公実厳秘録』に既に見えるほか、何通りかの話がある)から、「三方一両損」「実母継母論」「村井長庵」「直助権兵衛」「雲霧仁左衛門」など大小さまざまの裁き、「心中」の語の禁止や学問の奨励と言った政策、大名格への加増・寺社奉行への昇進に及ぶ。はじめは『銀の簪』『拾遺遠見録』等、大岡裁きを含む独立した実録が存在したが、多くは短編集で、一つの系統の中で成長している。概略を示すと、『隠秘録』(内閣文庫蔵、明和六年(一七六九)写)をはじめとする初期の作品群(『大岡忠相政要実録』『板倉大岡両君政要』など、二十数話を収める。各話が非常に短い)では、収録説話に若干の異同があり、本文も揺れているのに対し、寛政期(一七八九~一八〇一)に成立したと考えられる『大岡政要実録』『大岡仁政録』(「白子屋お熊」「煙草屋喜八」「天一坊一件」等の中編を含む)は、巻数や題名に違いがあっても内容はほぼ一致しており、残存点数も多い安定したグループを形成する。幕末には『大岡名誉政談』『大岡美談』(筑波大学付属図書館蔵本は後編共五十五巻。「籠釣瓶」や「桂川」等を含む)等の更に新しい話集が生まれる一方で、「天一坊」や「越後伝吉」等のような独立した中編が発生する。明治十年代後半に栄泉社から刊行された活字本「今古実録」には、『天一坊実記』(三巻)のほか『大岡仁政録』として十四編二十七冊を収録、幕末の講釈師乾坤坊良斎が関わったとされる『重櫛浮世情談』の系統を引き、歌舞伎でも有名な「切られ与三郎記」も載せている。講釈で盛んに演じられたほか、幕末維新期に至って読本(松亭金水作『大川仁政録』安政元年(一八五四)など)や歌舞伎(黙阿弥作『勧善懲悪覗機関』(文久二年(一八六二)など)に取り上げられ、また、草双紙などへの翻刻が相次いだ。その流れは、現代の時代小説やテレビドラマなどにまで受け継がれており、「縛られ地蔵」のように地域の伝説として定着した例もあるほど広く浸透している。
(参考文献) 大石慎三郎『大岡越前守忠相』( 岩波書店、昭49)、 辻達也『大岡越前守』(中央公論社、昭39)、同『大岡政談』(平凡社、昭59)
平井権八物 ひらいごんぱちもの 明治書院 日本古典文学事典
寛文延宝(一六六一~一六八〇)頃実在の盗賊平井権八の一代記の実録。本庄兄弟の返り討ち・幡随院長兵衛の庇護・絹売弥市殺・遊女小紫の貞心(比翼塚由来)等、有名な逸話が多い。『玉滴隠見』によれば、延宝七年(一六七九)に木曾街道大宮で強盗を働き、捕らえられて品川で処刑されたが、死骸は何者かに持ち去られたといい、申渡書の写しなども伝えられている。侠客の列伝風の実録『関東血気物語』にややまとまった記述が見え、亀山の敵討の実録『石井明道士』の挿話として一代記の体裁を持つようになる。その後『石井明道士』から独立した一代記、その増補作(『平井権八一代記』『比翼塚物語』等)が生まれ、ついで幡随院長兵衛の一代記に取り込まれた。安永八年(一七七九)に『驪山比翼塚』で浄瑠璃化され、以下歌舞伎・読本・草双紙に盛んに取り入れられ、「鈴ヶ森」等の演目も生まれた。また、それらに影響されて実録も変容を続けて幕末に至った。
*参考文献
内田保廣「馬琴と権八小紫」『近世文芸』29(78,6)
小二田誠二「平井権八伝説と実録・読本」『日本文学』43-2(94,2) p43~53
実録 じつろく 明治書院 日本古典文学事典
実録体小説とも。近世に起こった様々な実在の事件・人物を、ほぼ実名で、事実を伝えることを標榜しつつ、小説風に綴ったもので、幕府の出版統制のため写本で流通した。早い物は元禄(一六八八~一七〇三)以前に作られたしいが、多くは享保(一七一六~一七三六)以降に成立、規制の緩む幕末頃読本等に翻刻され、明治に至って次第に生産されなくなった。多くは作者が不明で、書写の間に空想が盛り込まれ、成長変化する。その内容は必ずしも史実とは言い難く、知識人からは虚妄の書として非難されることもあったが、荒唐無稽の趣向に走ることは少なく、もっともらしく構成されるため、多くの享受者は事実の記録と信じていたとみられ、秘書として珍重された例も少なくない。成立の背景に『太平記』読みなどの軍書講釈や、仏教・神道の説教・講釈が考えられており、講釈師が個々の作品の成立、伝播に深く関わっていることから、談義本・咄本等とともに舌耕文芸の一つに数えられており、口承文芸的な特徴も持っている。扱う事件の内容によって、軍談・仇討・武勇伝・侠客伝・騒擾・御家騒動・裁判・怪談などに分類される他、成長推移の段階によって、原資料的な物、原始的な実録、安定して流布した物などに分類することができる。出版はされなかったが、貸本屋などを通して広く流通し、講談だけでなく演劇・小説などの重要な素材源となり、現在の時代小説・時代劇にまで大きな影響を与えている。
*参考文献三田村鳶魚『三田村鳶魚全集 第二十二巻』(中央公論社、一九七六)所収「文学史に省 かれた実録体小説」
中村幸彦『中村幸彦著述集 第十巻』(「舌耕文学談」、中央公論社、一九八三)
大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ) 勉誠社 日本奇談逸話伝説大事典
八代将軍徳川吉宗の頃、江戸南町奉行として名を馳せた幕臣。名は忠相。【生没】延宝五年~宝暦元年(一六七七~一七五一)。【伝説・歴史】旗本大岡忠高の四男として江戸に生まれ、十歳で同じく旗本の同族大岡忠真の養子となる。二十四歳で家督(一九二〇石)を継ぎ、書院番、徒頭、使番、目付を経て、三十六才で山田奉行。普請奉行を経て、吉宗将軍就任の翌年、享保二年(一七一七)四十一歳という若さで町奉行就任、その後二十年にわたってこれを勤め、元文元年(一七三六)寺社奉行に就任、役料とあわせて一万石の大名格となる。晩年は奏者番を兼ねた。七十五歳の宝暦元年(一七五一)十一月、病のため辞職を願い出、寺社奉行を免除、吉宗死去の半年後、同年十二月十九日死去。旗本として理想的な、異例とも言える昇進の道をたどった大岡は、有能な官僚として吉宗・家重二代の信任が厚かった。伝説としての大岡は、名裁判官として多くの逸話が伝えられるが、実際は、貨幣の改鋳・流通組織の確立といった経済改革、町火消の組織化・小石川養生所の設立・風俗の矯正といった江戸の民政改革、そして、裁判・処罰制度の整備・改革等の司法改革と、享保の改革に民政や司法の面で様々な業績を残した実務官僚としての側面が大きかった。彼の裁判や、人材登用、制度改革などに関する逸話は、「大岡政談」と呼ばれる説話群として巷間にも流布したが、特に裁判に関する逸話の多くは、他の奉行の関係した事件や、架空の話で、大岡とは関わりがない。こうした逸話・伝説が作られ広く流布した背景には、異例のスピード出世と、江戸の経済・社会の発展・安定に大きく寄与した功績があったと考えられる。尚、寺社奉行時代の日記が現存しており、彼の晩年の仕事ぶりなどを知ることが出来る。
【参考文献】大石慎三郎「大岡越前守忠相」(岩波新書、昭和四十九年)(小二田誠二)
大岡政談(おおおかせいだん) 勉誠社 日本奇談逸話伝説大事典
享保期の江戸南町奉行、大岡越前守忠相を主人公とする、「大岡裁き」を題材とする実録等の説話群の総称。【成立・展開】はじめは「銀の簪」「拾遺遠見録」(共に正木残光作と伝えられる)等、大岡裁きを含む独立した実録が存在したが、多くは短編集で、一つの系統の中で成長している。まず、「隠秘録」(明和六年(一七六九)写)をはじめとする初期の作品群では、裁判説話だけでなく政策の逸話を含む「板倉政要」と似た体裁になっており、収録説話にも本文にも異同がある。これに対し、寛政期に成立したと考えられる「大岡政要実録」「大岡仁政録」は、内容のほぼ一致し残存点数も多い非常に安定したグループを形成する。そして幕末には「大岡名誉政談」「大岡美談」等の更に新しい話集が生まれる一方で、「天一坊」や「越後伝吉」等のような独立した中編が発生する。明治十年代後半に栄泉社から刊行された活字本「今古実録」には、「天一坊実記」(三巻)のほか「大岡仁政録」として十四編二十七冊を収録、幕末の講釈師乾坤坊良斎が関わったとされる「重櫛浮世情談」の系統を引き、歌舞伎でも有名な「切られ与三郎記」も載せている。講談で盛んに演じられたほか、幕末維新期に至って読本(松亭金水「大川仁政録」安政元年(一八五四)など)や歌舞伎(黙阿弥「勧善懲悪覗機関」(文久二年(一八六二)など)に仕組まれ、また、草双紙などへの翻刻が相次いだ。その流れは、現代の時代小説やテレビドラマなどにまで受け継がれており、「縛られ地蔵」のように地域の伝説として定着した例もあるほど広く浸透している。【内容】語られる事件の殆どは大岡の事跡とは関係なく、馬場文耕・森川馬谷など、宝暦明和頃の有力な講釈師の手を経、「棠陰比事」等の中国の裁判説話、大岡とは関係のない実在の事件、「板倉政要」等の先行する実録、後には「青砥藤綱模稜案」等といった読本を含む様々な材料を取り込んで成長し、幕末には独立した中編を含む大小合わせて数十話に上る説話群を形成する。伊勢山田の奉行時代、紀州に媚びず公正な裁きをしたことを記憶していた吉宗が抜擢したという町奉行昇進に関する逸話(数種類ある)に始まり、「三方一両損」「実母継母論」「村井長庵」「直助権兵衛」「雲霧仁左衛門」「煙草屋喜八」「白子屋御熊」など大小さまざまの裁き、「心中」の語の禁止や学問の奨励、人材登用といった政策についての逸話も含まれ、大名格への加増・寺社奉行への昇進に及ぶ。また、大岡の人物像を窺わせる逸話は、実録の他にも、「翁草」や「甲子夜話」など、多くの随筆・聞書の類にも見える。名奉行として評判の人物は大岡の他にも多く伝えられるが、実際の業績と文学・芸能の流れとが相俟って、現代もなお生成を続ける伝説を形成した希有の例と言える。
【参考文献】
辻達也「大岡越前守」(中公新書・昭和三十九年)(小二田誠二)
平井権八(ひらいごんぱち) 勉誠社 日本奇談逸話伝説大事典
寛文延宝(一六六一~一六八〇)頃に実在した盗賊。権八郎とも。芝居や小説では白井権八。【生没】?~延宝七年(一六七九)【伝説・歴史】実在の権八は、同時代の見聞集「玉滴隠見」や侠客列伝風の実録「関東血気物語」等によれば、延宝七年(一六七九)に木曾街道大宮で強盗(小刀売りを殺害)を働き、捕らえられて品川で処刑されたが、死骸は何者かに持ち去られたといい、申渡書の写しなども伝えられている。数次の成長を遂げた「権八一代記物」実録の最も流布した話の概要は以下の通り。延宝八年、鳥取城主松平家中の平井庄左衛門は同僚本庄助太夫に飼犬の喧嘩の事で侮辱された。それを聞いた子息権八は助太夫を討って出奔、助太夫の倅助七・助八は城主の制止を聞かず権八の跡を追う。権八は悪事を重ねながら東下、鈴ヶ森で悪漢に襲われた時、江戸の男伊達の親分幡随院長兵衛と出会い食客となり、長兵衛の子分たちの案内で吉原へ行き遊女小紫と馴染むが、小紫に通うための金欲しさに辻切等の悪事を働く。一方本庄兄弟は浅草に住んで権八を探すが、五年間発見できずにいるうち、権八に返り討ちにされる。身を隠す必要がなくなった権八は、天和三年、長兵衛の許を去り、阿部豊後守家に徒士として奉公、出入りの上州の絹売弥市の持ち金に目を付け、同僚二人(本目・竹永)と熊谷土手で弥市を殺し金を奪うが同僚二人は捕えられ、自供によって権八の人相書が出回る。逃亡中、目黒の虚無僧寺の随仙の庇護を受けるが、随仙の許にも人相書の回っていることを知ってここを去り、大坂へ出、貞享八年、町奉行に出頭する。江戸へ護送される途中、藤沢で役人を騙して逃げ、長兵衛・随仙に礼を述べ、再び奉行に出頭し、九月、二十五歳で処刑される。処刑の時、小紫と作ったという「八重梅」を唄い、死体は長兵衛が引き取り、随仙によって葬られた。初七日の日、小紫が墓参に訪れ墓前で自害した。目黒行人坂の比翼塚はこれに由来する。この一代記物の実録は、年次があわず、事実とはかなり異なり、多くは虚構と考えられるが、美少年風の容貌、遊女との悲恋、幡随院長兵衛との男色的な関係、容貌に似合わぬ不良性と強さなど、魅力的な要素が多く、安永八年(一七七九)に「驪山比翼塚」で浄瑠璃化されて以来、歌舞伎・読本・草双紙に、実録種としては異例なほど盛んに取りこまれ、「鈴ヶ森」等の人気演目も生まれた。また、それらに影響されて実録も変容を続け、「幡随院長兵衛一代記物」に取り込まれる形で幕末に至った。なお、東下の途中、権八によって盗賊山中団九郎の手から救われた少女亀菊が後の小紫であったとする伝奇的な要素を付加した筋が、主に口説きの演目として各地に伝えられ、地方の民謡や地芝居にも取り入れられているほか、関連する伝説が鳥取(平井権八生家)・埼玉(権八物言い地蔵・逆さ柳など)に残っている。(小二田誠二)
死霊解脱物語聞書(しりょうげだつものがたりききがき) 勉誠社 日本奇談逸話伝説大事典
浄土宗の勧化本。【作者】残寿。【成立】元禄三年(一六九〇)刊。正徳二年(一七一二)再版。その後も重刷・新版があり、西村重長の挿画がある物もある。また、題名を替え、写本として伝存する例も少なくない。【内容】後に増上寺三十六世となる祐天上人が所化時代に解決した憑霊事件を、残寿という人物が、祐天や事件を目撃した人々から取材して記録した物という。概要は以下の通り。下総国岡田郡羽生村の農家に入婿した与右衛門は、妻累の醜さを嫌って、正保四年、鬼怒川で殺害した。その後、与右衛門は六人の妻を持ったがいずれも死去、六人目の妻の子菊が十三歳の時、金五郎という婿を取った。菊十四歳の寛文十二年正月、菊に累の霊が憑き、殺害の様子を口走り、往生のための供養を求めて菊の身体を責め立てた。近くの弘経寺に所化として滞在していた祐天はこのことを聞きつけ、宗門の威信を懸けて菊の解脱に成功する。しかし、再び菊に何物かが取り憑いた。祐天が問いただすと、助という子供の霊であった。古老の話では、先に殺された累の実父、先代与右衛門は、助という連れ子に傷害があるのを嫌い、嫁にこの子を殺させた。その後生まれたのが累で、同様に醜く障害を持って生まれたのだった。祐天は、助にも十念を授け、戒名を与えて成仏させる。その後、出家を望む菊に対し、在家のまま血脈を授ける。北関東の寒村に起った事件は、村社会そのものの原罪を鋭く突き、浄土宗ならびに念仏の有難さを説く。菊の語る地獄極楽巡りや、悪霊祓いイベントの描写など、リアリティのある表現は特筆に値する。累事件は、本書を原典として、歌舞伎や小説の題材となっていく。尚、助と累の墓がある法蔵寺には累曼陀羅と呼ばれる掛け物があり、ほぼ同内容の絵解き説教が行われている。
【参考文献】高田衛「江戸の悪霊祓い師」(筑摩書房、平成三年)(小二田誠二)
天一坊(てんいちぼう) 勉誠社 日本奇談逸話伝説大事典
徳川吉宗の落胤を称して処刑された人物。【生没】?~享保十四(一七二九)【伝説・歴史】同時代の資料によれば、事件は享保十四年三月、関東郡代伊奈半左衛門の用人のもとに浪人が問い合わせに訪れて発覚した。品川宿の常楽院という山伏のもとに源氏坊(天一坊改行)という者がいて、高貴な由緒を言い立て、近々大名になると言って家臣を集めているが本物か、というのである。早速捕らえて吟味し、四月二十一日、天一坊は死罪、関係者も処罰され、訴えた浪人本多儀左衛門には褒賞があった。これが事件の概要である。母親が紀州家に関係があったのも事実らしく、本人は信じていた節もあり、初期の資料には偽物である根拠は示されていない。この事件は相当注目されたらしく、急速に尾鰭がついて行く。吟味の様子や紀州での吉宗と母親の逸話が生まれ、ついで出生から成長過程、一味の結成、計画の遂行・幕府方との対決などが、徐々に増補され、大岡政談の一つに数えられるようになる。こうして幕末まで成長を続け、最終段階に達したのが、初代神田伯山の講談と関係が深いと考えられる実録「天一坊実記」の形である。概要は以下の通り。吉宗(幼名徳太郎)は、故あって紀伊徳川家の家老加納将監に養育されたが、腰元沢の井(沢野)に手をつけ、金子・書付・短刀を与える。沢野は親、お三のもとで男子を生むが母子ともに死去。後に、お三が近所の山伏感応院の弟子宝沢にこのことを語ったところ、宝沢はお三と感応院を殺して出奔、熊本で成長し、主家の金を横領し、伊予で藤井紋太夫の倅で盗賊の赤川大膳と出会い、更に大膳の叔父で山伏の常楽院、宮家に仕えていた経歴を持つ浪人山内伊賀亮を加えて大坂、京を経て江戸へ乗り込む。老中松平伊豆守を始め、重役はこれを信じ、一時は大岡も伊賀亮の智弁に屈するが疑念を捨て得ず、再吟味を願い、重役に憎まれて閉門にあい、水戸綱条の助力と知恵によって用人が紀州を調査、定められた刻限が迫り、大岡切腹と言うところに用人が証拠を持ち帰る。大岡は先ず伊豆守にこのことを告げ将軍に報告させて手柄を譲る。これによって一味は召し捕られ処罰されるが、前夜に異変を察した伊賀亮は自害して死体は発見されなかった。物語の成長過程で興味の中心は天一坊の悪行から、大岡対伊賀亮の対決(網代問答)に移り、後には、この架空の人物を主人公とする「山内伊賀亮」という講談まで登場する。幕末まで実録・講談で成長したこの話は、徳川家に関わる話のためか、演劇や小説に直接現れることは殆ど無く、ごく早い時期の浄瑠璃「鎌倉比事青砥銭」(享保十八年)以外は、幕末から明治初期に歌舞伎や切附本が現れる程度である。近代に入ると浜尾四郎「殺された天一坊」(昭和四年)のような、天一坊は本物であったが、大岡が悩んだ末に国のために処罰するという新解釈が生まれる。また「明治天一坊」など、後々まで、有名人の御落胤詐称事件にはこの名が使われることがあった。(小二田誠二)
遠山金四郎(とおやまきんしろう) 勉誠社 日本奇談逸話伝説大事典
幕末の町奉行。【生没】寛政五年~安政二年(一七九三~一八五五)。【伝説・歴史】左衛門尉。名は景元。隠居して帰雲と号した。家系は以下のように複雑である。旗本遠山景好に子無く、景晋を養子として家督、その後景好に実子景善が生まれた。景晋は、寛政五年八月に出生した景元を届け出ず、寛政六年に先に生まれた景善を養子として家督を継がせた。景善は享和三年(一八〇三)景元を養子とし、後に生まれた実子景寿を旗本堀田家へ養子に出した。実父景晋の代から通称を金四郎といい、知行は千石。父景晋は、寛政六年の学問吟味で名を現し、幕末の外交政策に深く関わるなど、異例の出世を遂げた能吏で、知行地下総国夷隅郡では、年貢米免除などの政策のため領民に慕われ、「遠山講」と称して崇敬し続けられている。景元の履歴は、文政八年(一八二五)新規召出、西丸小納戸。頭取格・頭取・小普請奉行・作事奉行・勘定奉行を経て、天保十一年(一八四〇)三月北町奉行、天保十四年二月大目付となり、弘化二年(一八四五)三月再び町奉行(南)、嘉永五年(一八五二)三月二四日辞任。安政二年(一八五五)二月二十九日没。六十三歳。北町奉行時代が天保の改革と重なり、市中取締などに大きな功績を残した。寄席や芝居に対する政策では、水野等の強硬な姿勢に対し、芸能の存続を訴えた。裁判官としても有能で、両板倉・根岸肥前守・大岡越前守等と並び称された。佐久間長敬「江戸町奉行事跡問答」によれば、天保十二年の上聴裁判の折に褒賞を与えられ、将軍も、吟味の様子を、利害の趣など行届き、奉行たるものはこうあるべきだと賞賛したという。長敬は南町奉行時代に景元の裁きを実見し、毛太く丸顔、赤い顔の老人で、声が高く、威儀の整った、老練の役人であったと語り、刺青をしていたとも述べている。
【参考文献】藤田覚「遠山金四郎の時代」(校倉書房、平成四年)(小二田誠二)
遠山政談(とおやませいだん) 勉誠社 日本奇談逸話伝説大事典
天保時代の町奉行、遠山金四郎景元を主人公とした講談などの総称。【伝説・歴史】旗本、遠山景元は、天保十一年(一八四〇)三月から天保十四年二月まで北町奉行、大目付をはさんで弘化二年(一八四五)三月から嘉永五年(一八五二)三月まで、南町奉行を勤めた。このうち北町奉行時代は、老中水野忠邦が天保の改革を行ったときで、南町奉行の鳥居耀蔵とも重なっている。平生遊び人の金さんとして市中を徘徊し、白洲で悪人と対決する時、片肌脱ぎで啖呵を切る、いわゆる刺青奉行の伝説に関しては、現在のところ、江戸時代の資料や文芸作品が見つかっていない。実在の景元が刺青をしていたという証言は、幕末の軍艦奉行として名高い木村芥舟『黄梁一夢』(明治十六年)の、「以其左腕黥花紋」が最も早く、ついでこれを引く角田音吉『水野越前守』、中根香亭「帰雲子伝」(ともに明治二十六)と続くが、明治二十五年頃採録されたと考えられる、佐久間長敬の『江戸町奉行事跡問答』にも、「身体にほりものと唱墨を入れ」と見える。下情に通じ、放蕩無頼であったことも、佐久間長敬の、「書生の間はどのような場所へも立入り、よく下情を探索して後年立身の心掛け厚く、学力世才に長じ、有為の人物だったが、外見からは放蕩者で身持悪しく、身体にほりものをし、武家の鳶人足や大部屋、中間にまで交際し、遊び歩いたなどという評判を受けた」などの証言を始め、明治時代から伝えられている。裁判上手であったこともこれらの記事に見え、上聴裁判で褒賞も得ている。佐久間長敬は、晩年の景元に接していたから、これらの伝説は強ち根拠のないことではない。実際の景元の関与した裁きについては、「藤岡屋日記」などに若干の記録がある。金さん伝説が巷間に流布したのは、明治二十年代のようで、竹柴其水作「遠山桜天保日記」(明治二十六年明治座)など、景元を主人公とした芝居や講談が上演されはじめる。芝居や講談に仕組まれたのは、これらの特異な逸話に加え、スピード出世など、大岡らと共通する伝説化の要因を持ったためと考えられるが、景元にはもう一つ芸能と関わる要素があった。後に岡本綺堂が「天保演劇史」(昭和四年(一九二九)十二月発表(演芸画報所載)、昭和五年一月初演、歌舞伎座)で称揚したように、彼は、天保の改革で存亡の危機にあった寄席や芝居を曲がりなりにも救済した人物であったのである。「帰雲子伝」の記事や長唄の芳村家に伝わるという、芝居の囃子方をしていたという伝説も、演劇人が彼に親しみを覚えていた証左であろう。大川内洋士「実説・遠山の金さん」(近代文芸社、平成八年)によれば、白洲で遣手婆から「おや金さん」と声をかけられたが冷静に対処した話、講釈師の田辺南鶴の助言によって番所(南鶴番所)を作った話、一揆の農民たちが遠山の月番を待った話、飯岡助五郎・相模屋政五郎・新門辰五郎等との関係、護持院河原の敵討との関係など、現在伝えられる逸話は、必ずしも全て否定できる物ではないが、どれも確証が無いといい、いくつかの話は、他の町奉行の話を付会したものであることが判っている。また、同書によると、片肌脱ぎの刺青奉行を創出したのは「荒獅子奉行」等の作品がある陣出達朗であったろうといい、現在のテレビシリーズにも、彼の原案が受け継がれているという。講談では、大岡越前守、依田豊前守、曲淵甲斐守、根岸肥前守と並んで、江戸の名奉行とされており、一代記物では、複雑な家系による放蕩、廓の用心棒や芝居の囃子方時代の行状、家督相続から役人としての業績に及び、市川団十郎、鶴屋南北、柳亭種彦、林家正蔵、大塩平八郎、鼠小僧など、同時代の有名な人物を絡める一方、水野忠邦、鳥居耀蔵らの強硬な改革を庶民の感覚から批判する役割を演じさせている。
祐天上人(ゆうてんしょうにん) 勉誠社 日本奇談逸話伝説大事典
江戸時代中期に活躍した浄土宗の僧。【生没】寛永十四年~享保三年(一六三七~一七一八)。【伝説・歴史】増上寺第三十六世。大僧正。陸奥国岩城郡に生まれる。父は千葉氏族で後に帰農したという新妻重政。伝説では、出生は四月八日、幼くして出家、増上寺袋谷壇通上人に学ぶが、愚昧で経文を憶えられず勘当を受け、成田山に参籠、不動の剣を飲み込むという霊夢を見て知恵を授かる。その後は壇通上人を慕って関東の壇林寺院を巡り、説法で頭角を現し、延宝二年(一六七四)、勘当を許され、壇通入寂の後、貞享三年(一六八六)、下総国葛西領牛島に拠点を置いて諸国を巡り数々の奇瑞を現す。元禄十二年(一六九九)綱吉の命によって下総国生実大巌寺住持となり、元禄十三年飯沼弘経寺、宝永元年(一七〇四)伝通院住持を経て、正徳元年(一七一一)増上寺第三十六世、即席大僧正となる。正徳四年、麻布一本松に隠棲、享保三年(一七一八)七月十五日入寂。八十二歳。火葬の時、舌根は焼け残ったと言われ、弟子の祐海が建立した祐天寺の寺宝となったという。徳川綱吉、家宣を始め、桂昌院など、大奥方の信仰も厚く、幕府の護持僧となり、同じく護持僧として権威を振るった隆光失脚後も信仰を集めた。東北の農民の子から江戸宗教界の最高峰にまで登り詰めた立志伝中の人物である。実際の業績としては、奈良、鎌倉両大仏の再興を始め、多くの廃寺を復興せしめ、また、浄土宗の五重相伝を復興、六字名号を書いて配るなど、在家の信仰生活に大きな影響を与えたことが挙げられる。彼の伝記は奇瑞譚として早くから伝説化され、「祐天大僧正御一代記」など、写本としても流布したほか、文化五年(一八〇八)には五十一件もの奇瑞譚を集めた説話集、「祐天大僧正利益記」が刊行された。奇瑞譚の中で最も名高い話が寛文十二年下総国羽生村で、農民与右衛門の娘菊に取り憑いた累と助の死霊を成仏させた、いわゆる累事件で、「死霊解脱物語聞書」という板本になって流布し、小説や芝居にも取り組まれて広く知られた。このほかに、祐天上人自筆の六字名号によって命を救われたといった話や、累同様の怨霊成仏に関する逸話など、数々の奇瑞譚がある。これらの伝説は、念仏の功徳を説く浄土宗の仏教説話としての性格が強い。累事件は、口減らし目的の殺人、間引きを村落共同体が隠蔽する構造を暴き、虐げられた女性の救済を描いているが、他の説話でも、女性の嫉妬や出産に関わる話題が多く、大奥での絶大な信仰も、死産や流産の多い大奥の不安な現実という背景がある。祐天の活動は、必ずしも浄土宗教団に歓迎される物ではなく、むしろ、法問や談義を得意とし、大衆から将軍家まで広く受け容れられたところに特徴がある。
【参考文献】村上博了「祐天上人伝」(祐天上人250年忌記念事業委員会、昭和四十三年)・高田衛「江戸の悪霊祓い師」(筑摩書房、平成三年)(小二田誠二)
お岩 学研 『図説・江戸の人物254―決定版 (歴史群像シリーズ)』
お岩さんは、四世鶴屋南北の歌舞伎『東海道四谷怪談』(文政八年初演)によって広く知られている。しかし、それより前から草双紙や読本に取り上げられていた。それらのもとになったのは『四谷雑談』という実録写本である。それによれば、お岩は零細旗本田宮家の跡取り娘だが、幼時の疱瘡で醜い顔となり、性格も悪かったため、婿の来手が無く、仲人又市の仲介で伊右衛門を婿に取った。伊右衛門は上司伊藤喜兵衛の妾ことと惹かれ合い、喜兵衛と共謀して岩を追い出し、喜兵衛の子を宿したことと結婚、染(喜兵衛の子)、権八郎、銕之丞、菊をもうける。後に事情を知った岩は狂乱して出奔、行方不明になるが、その後怪異が絶えず、田宮・伊藤、それに荷担した秋山の三家が尽く滅びたという。
『四谷雑談』中には、伊藤家衰亡の直接の原因になった殺人事件が盛り込まれており、それによって伊藤喜兵衛の実在も確認できる。公式の名鑑類には名前を見出せないが実在したと考えられる下級の武家に立て続けに起こった不幸を、岩の祟りという因果で読み解くしかなかった近世人が作り出した物語である。怪異はともかく、跡取り娘の悲劇を生きたお岩さんは、実在したと考えて良い。
歌舞伎の岩は、伊東家からもたらされた薬によって醜い姿に変えられ、壮絶な最期を遂げた後、アクロバティックな幽霊として姿を現し、観客を驚かすが、『四谷雑談』では、気配ばかりで殆ど明確な姿を現さないのが、却って怖い。
お菊 学研 『図説・江戸の人物254―決定版 (歴史群像シリーズ)』
草木も眠る丑満時、荒れた屋敷の古井戸から「一枚、二枚……」と皿を数える悲しい声が聞こえる。誰もが知っているお菊さんの話が、この後どう決着するのかは、案外知られていない。
上方落語では、その後も出続けて繁昌するが、江戸の実録・講談では、「九枚」まで数えた菊に伝通院の了誉上人(室町時代に実在した高僧)が「十」と足すと安心して成仏してしまう。
そもそもお菊は皿とは関係ないらしい。横暴な主人に無実の罪(針が関係することが多い)で殺され、後に奇跡を起こして主家を滅ぼす「菊」の話は、皿を割って同じ様な目に遭いながら高僧に救済される別の女性の話とともに各地に存在していた。これらは仏教説話の一つとして、唱導に関わる僧達が伝えた話と考えられる。それが、享保年間頃、播州姫路で合体し、室町時代の御家騒動の話として講談や芝居等に仕立てられた。江戸でも講談などが行われ、こちらでは旗本奴の横暴や、千姫淫婦伝説などを絡め、また平内堂など、江戸の流行神の由来とも結びついた伝承になっている。
それぞれに、古い伝説と「菊・青山・ハリ(バン)と言ったキーワードを骨格に、その土地柄にあった具体的な人物像を与えて現実味を帯びた新しい伝説として定着し、所縁の寺社には、現在もなお関連する「証拠の品」が残されている。
近代に入って岡本綺堂は『番町皿屋敷』で、主人青山主膳と腰元菊の、もどかしい恋愛コミュニケーションの悲劇として再解釈し、現在でも度々上演されている。
累 学研 『図説・江戸の人物254―決定版 (歴史群像シリーズ)』
江戸時代を通して最も有名な幽霊、累は、その原典『死霊解脱物語聞書』の中では最後まで姿を現さない。
下総国羽生村の農家の娘累は醜女で、入婿与右衛門に嫌われ、鬼怒川で殺された。与右衛門はその後六人の妻を持ったがいずれも死去、六人目の妻の子菊が十四歳の時、累は菊に取り憑き、殺害の様子を口走り、供養を求めて責め立てる。近くの弘経寺に学んでいた祐天は、宗門の威信を懸けて累の解脱に成功する。しかし、再び菊に何物かが取り憑いた。助という子供の霊であった。古老の話では、先に殺された累の実父、先代与右衛門は、助という連れ子に傷害があるのを嫌い、嫁に殺させた。その後、醜く生まれたのが累だった。祐天の悪霊祓いを見守る群衆は、西日の差し込む座敷に幼子の姿を見て思わず念仏を称える。霊媒によって次々に明らかにされる村社会の原罪。
累の物語はその後、歌舞伎や小説の題材となって広く知られて行く。尚、助と累の墓がある法蔵寺には累曼陀羅と呼ばれる掛け物が現存し、ほぼ同内容の絵解き説教が行われている。
雲霧仁左衛門 学研 『図説・江戸の人物254―決定版 (歴史群像シリーズ)』
甲斐国の盗賊雲切仁左衛門は、肥前の小猿・向こう見ずの三吉とともに関所破りを脅迫、その後大岡越前守の名を騙って土蔵に封すると見せて密かに金品を盗み出し、それを元手に泥棒稼業を辞め、江戸で商売をはじめる。しかし、うまくいかない三吉にゆすられて彼を殺害、最後の盗みで足がつき、鈴ヶ森で処刑された。
モデルについては、早く三田村鳶魚が、文化四年に捕らえられた盗賊暁星右衛門と、甲州にあった偽役人事件を指摘していたが、近年、モデルとなった事件が確認された。それによれば、甲州荊沢村市川家では、安永七年、偽役人によって三百両が盗まれたほか、それより前の享保二十年、山伏延学に土蔵を破られ五百七十両と反物が盗まれた。後者では、被害者でありながら、膨大な財産故に大岡越前守の吟味を受けたという。
一方「五人男」は、初代・二代の伯円の講談から生まれ、文久元年、三世桜田治助・河竹黙阿弥作の歌舞伎『竜三升高根雲霧』で定着した。歌舞伎の「五人男」は、雲霧仁左衛門を含み、因果小僧六之助・おさらば伝次・素走り熊五郎・木鼠吉五郎。講談では若干の出入りがある。歌舞伎の「五人男」は不評で十五日間で終演。明治に入ってから「因果小僧」だけの二幕物として復活した。
興味の中心は、盗賊としての活躍より、犯罪から足を洗い、それぞれに平穏な暮らしを営むが、やがてほころびが生まれ、もとの道に引き戻され、結局は罰せられるという、前科者の悲しい行く末にある。
天一坊 学研 『図説・江戸の人物254―決定版 (歴史群像シリーズ)』
八代将軍徳川吉宗が腰元に生ませた子供が早世、腰元の母から証拠の品を奪った山伏宝沢が御落胤を称し、山内伊賀亮等とともに江戸に乗り込み、大岡と対決する。犯罪や対決に見せ場も多く、『大岡政談』中最大の事件とされるが、実際の事件は大岡には関わりがない。
同時代の資料によれば、事件は享保十四年三月、関東郡代伊奈半左衛門の用人のもとに、品川宿の常楽院という山伏の所に源氏坊(天一坊改行)という者がおり、近々大名になると言って家臣を集めているが本物か、という問い合わせがあって発覚した。早速捕らえて吟味し、四月二十一日、天一坊は死罪、関係者も処罰され、訴えた浪人本多儀左衛門には褒賞があった。母親が紀州家に関係があったのも事実らしく、本人は御落胤であると信じていた節もあり、初期の資料には偽物である根拠は示されていない。
近代に入って浜尾四郎は『殺された天一坊』(昭和四年)で、天一坊は本物であったが、大岡が悩んだ末に国のために、偽物ということにして処刑した、という新解釈を示した。
白井権八 学研 『図説・江戸の人物254―決定版 (歴史群像シリーズ)』
鳥取松平家中の平井権八(芝居等では白井)は親同士のいさかいから、父の同僚を討って出奔、悪事を重ねながら東下、鈴ヶ森で江戸の男伊達の親分幡随院長兵衛と出会い食客となり、吉原の遊女小紫と馴染む。その間にも悪事を重ね、鳥取の敵討は返り討ちにしたが、熊谷の強盗殺人で逮捕、処刑された。その初七日の日、小紫が墓前で自害した。目黒行人坂の比翼塚の由来である。
美少年風の容貌に似合わぬ不良性と強さを備えた権八は、江戸時代後半、既に歌舞伎や小説のスターであり、鳥取や埼玉など、ゆかりの地方には、様々な伝説や民謡なども残っている。しかし、それぞれのエピソードには年代的に合わないところも多く、講釈師や芝居作者達によって結びつけられたと考えられる。
実在の権八は、同時代の見聞集『玉滴隠見』や侠客列伝風の実録『関東血気物語』等によれば、延宝七年に木曾街道大宮で強盗(小刀売りを殺害)を働き、捕らえられて品川で処刑されたが、死骸は何者かに持ち去られたといい、申渡書の写しなども伝えられている。
福助 学研 『図説・江戸の人物254―決定版 (歴史群像シリーズ)』
異様に大きな頭に低い背丈、福耳、多くはちょんまげに裃姿で座布団の上に正座している。福助人形は、享和四年(文化元年)頃、爆発的な人気を呼んだ流行神のひとつで叶福助と呼ばれた。この時期、「縁起」と称する滑稽な読み物や多くの小咄が生まれた。それらの由来話は信用できる物でないことは言うまでもないが、それなりにモデルらしい話も伝わっている。
一つは摂津の国の百姓佐五右衛門の子佐太郎。彼はまさに福助その物の容貌で、江戸で見せ物に出て評判を呼び、旗本に召し抱えられて一家を構える幸運に恵まれたという。或いは、京の呉服屋大文字屋説、江戸の武士が京都在勤の折りに召し抱えた中間福助の忠誠を偲んで人形を作ったと言う説などもある。
いずれにしても、発祥は上方らしく、深草焼きが先にあったらしい。当時の小咄でも、今戸焼きの福介は頭が異様に大きいのに対し、深草焼きは頭がへこんでおり、彩りがよいとされている。
七福神がそれぞれに異形であるように、福助も特別な姿故に神聖であった。
吉四六 学研 『図説・江戸の人物254―決定版 (歴史群像シリーズ)』
山へ薪を採りに行った吉四六さんは、沢山の重い荷で辛そうな馬を哀れんで薪を全部背負ってやると、そのまま自分も馬にまたがって山を下りた。
滑稽話で有名な吉四六さんは、現在の大分県大野郡野津町に実在した広田吉右衛門(具体的に何代目かは不明)という人物がモデルとされている。「きちえもん」がなまって「きっちょむ」と呼ばれたという。広田家は苗字帯刀を許された名家で、江戸時代後期には酒造業を営んだ。おそらく、愉快な知恵者として、地域で親しまれた人物であったのだろう。
幕末の聞き書きに基づくと言われる数十話には、頓知話だけでなく、むしろ愚か者としての話もあり、滑稽な昔話のあらゆる要素を備えていると言われる。様々な難問を思いがけない発想で解決する話の集大成と言える。
各地に残るこうした滑稽話の主人公達の中で、九州の地方昔話である吉四六が全国的に有名になった背景には、柳田国男によって紹介され、早くから教科書に取り上げられたという事情もあったと考えられる。
お露 学研 『図説・江戸の人物254―決定版 (歴史群像シリーズ)』(不採用)
「上野の夜の八ツの鐘がボーンと忍ヶ岡の池に響き、向ヶ丘の清水の流れる音がそよくと聞へ、山に当る秋風の音ばかりで、陰々寂寞、世間がしんとすると、いつもに変らず根津の清水の下から駒下駄の音高くカランコロンく……」。
叶わぬ恋に焦がれ死にしたお露は幽霊となって毎晩萩原新三郎の許に通う。正体を知った新三郎はお札で拒むが……。
『牡丹燈籠』の原話は、明代の怪異小説『剪燈新話』を元に、浅井了意の『伽婢子』など、日本の話に作りかえられて流通した。三遊亭圓朝は、この話に牛込軽子坂の田中某という旗本の隠居から聞いた旗本飯島某の敵討の話や、深川の玄米問屋近江屋、飯島喜左衛門(後の四代荻江露友)から聞いた家の伝承を結びつけて、仇討と妖艶な怪談の絡み合った『怪談牡丹燈籠』を生み出した。お露の名は、露友からの話に基づくと言われている。焦がれ死にした女の幽霊が男の許を尋ねてくる話は一緒だが、こちらの男「弁次郎」は出家したらしい。「待たない女」の一途な愛情は、結局男を滅ぼすことになるとは、やりきれない教訓咄である。