コンテンツへスキップ

デカルトの「方法序説』は同時代に発表され注目を集めたハーヴェイの血液循環論の紹介に相当の分量を当てている。それまで神秘的な領域であると考えられていた「生命」という現象が、心臓というポンプによって全身に血液が送られるというきわめて「機械」的な過程によって支えられていることがわかったことについての当時の人々の素朴な驚きがこのような取り扱いの背景にある。

しかしデカルトは、他方でこのような意味での「機械」に置き換えることができない領域として「心」の独自性を強く主張した。それが彼の「心身二元論」である。彼はしばしば「心」の存在を人間のみに認め、自然や生命を「心」なき「機械」に還元したと批判されるが、逆に言えば、人間の身体ですら「機械」に過ぎないことがわかってしまった時代に、「心」を「機械」的過程とは明確に区別された独自の対象として守ろうとしたとも言える。

人間の「心」をその「創造性=異なった要素を結びつけて新たな発想を生み出す能力」の故に「人工知能」とは原理的に区別されるものであると主張する人々は、知らず知らずのうちにこのようなデカルトの議論を繰り返していると言ってよい。「心」は「人工知能」のような「機械」的過程には還元できない独自の存在だというわけである。

他方で最近Transhumanismという極端な考え方をよく耳にするようになった。こちらは逆に人間の「心」は将来的には完全に「人工知能」に置き換え可能となり、個々の「人格」も「機械」のなかのデータとして半永久的に保存可能になるという主張である。データとしての「心」は個別的「身体」から切り離されて永遠の命を得るという一種宗教的な霊魂不滅論と言えるであろう。

このような考え方自体は私の知る限りでは、J.D.バナールの「宇宙・肉体・悪魔』(1929)ですでに展開されており、特に目新しいものではない(ちなみに1953年に出版されたA.C.クラークの「幼年期の終わり』はこの作品に触発されたと言われている)。しかし最近の「人工知能」の技術的発展を背景にこのような発想がより現実性を増したと見られているようである(例えば有名なイーロン・マスクもこのところこのような主張をしている)。

おそらく真実はこのようなデカルト主義とTranshumanismの中間にある。「心」は広い意味での「機械」的過程に還元できないほど神秘的な対象ではないと同時に、コンピュータのなかのデータという狭い定義には当てはまらないほどには「身体」や「世界」と一体的な存在として「地続き」になっている。

現実的には我々の「心」が担ってきた仕事のどの部分が「人工知能」によって担われて行くのかが現在様々な場面で問われているが、忘れてはならないのは、我々人間はあくまで生物として自然環境、社会環境のなかで生きている存在であり、「心」と「人工知能」の関係も、このような「人間ー環境」という全体的視点から常に考察されなければならないということである。

(学長就任以来、これまで毎月末に「学術路線」のブログを書くというやり方をしてきましたが、そろそろ「心象風景」的なものも交える路線に転換して行くつもりです。)