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今年の3月に経済産業省が取り纏めた「理工系人材を中心とする産業人材に求められる専門知識分野と大学等における教育の状況に関する実態調査」という文章を最近目にする機会があった。
http://www.meti.go.jp/meti_lib/report/H28FY/000601.pdf
そのなかでいくつか興味深い分析結果があったのでご紹介し、多少のコメントをしておきたい。

(1)大学の研究者数の多い分野と産業界の技術系人材が業務で必要とする分野とのギャップ

報告書は大学の研究者数の多い分野がバイオ分野であるのに対して、業務で必要とされる分野は機械、電気・電子、材料化学、生産・安全・経営・社会、特にIT分野であり、この点に両者の基本的なミスマッチがあることを指摘している。
またこの先5〜15年後にイノベーションが生み出されることを期待される分野としては、「人工知能を予測する回答者が、圧倒的に多かったが、続いて同じ分野の情報ネットワークも多かった。他には情報分野では、ソフトウエア基礎、応用ソフト、ミドルウェア。機械分野では、設計工学やメカトロニクス。電気・電子分野では、電子デバイス、電気・化学・材料・物理等の学際領域になるナノテク、同じ学際領域になる太陽光・二酸化炭素発電・燃料電池・無線電送等を扱うエネルギー変換・貯蔵学。化学分野では高分子化学を予測する研究者が多かった」としている。
このようなギャップがとりわけ女性の理工系出身者に強く表れているという指摘は重要である。女性は男性に比べて「生活・家政やバイオ系など産業ニーズが比較的低い分野からの輩出が多い」との指摘である。
なお上記のようなギャップを高校段階での進路指導教員に共有してもらおうという試みとして河合塾のWebsiteも開設されている。
https://www.wakuwaku-catch.com/career/161101/

(2)業務で必要とする分野を卒業後に学んでいるという実態及び「絶滅危惧分野」の存在

上記のようなギャップを企業等の技術系人材は主に企業内研修、オンライン研修、自主的研修等による卒業後の学習によって補っていると報告書は述べている。このような実態は、例えば狭い専門分野の教育よりもダブルメジャー等のより広い分野の教育に対する高い要望が出てくる背景ともなっている。
また専門分野別のギャップとは別に報告書が「絶滅危惧分野」と呼ぶ「特定のモノづくりのためには、その技術分野を習得した人材が不可欠であるにも関わらず、その分野が成熟してしまったために大学での研究テーマがなくなってしまい、その分野の研究ポストがどんどん少なくなる」分野における教育サービスの低下の故のギャップも指摘されている。例えばアナログ回路や基本ソフト、歯車等の機械要素、建築構造・材料等の分野は新たな研究成果を得るのが難しく研究者の数は減っているが、実際の業務には不可欠であるので教育プログラムとしては求められているというようなケースである。

(3)Society 5.0や工学系教育改革要求と「学問の府」としての大学、「社会的存在」としての大学

最近政府が情報分野の重視や、工学系教育におけるより柔軟な専門性の必要性を強調しているのもこのようなギャップが今後ともより深刻になるであろうという予想に基づくものであることは明らかである。
しかしここで問題となるのはそれぞれの分野における最先端の研究成果を求める「学問の府」としての大学の在り方と社会が求める人材を養成することが期待される「社会的存在」としての大学の在り方との間のギャップである。例えばやり玉にあがっているバイオ分野は新たなゲノム編集技術として脚光を浴びているクリスパーや山中教授のiPS細胞研究等に見られるように研究分野としては今後も大きな研究成果が期待され、決して衰退分野とは言えない。逆に「絶滅危惧分野」をめぐる議論が示しているように、同じ情報分野でも人材養成の場で求められているのが基本ソフトやアルゴリズムといったレベルの教育であるのに対して、研究面での成果はより高度なAI等の分野であってこの点でも社会的ニーズと有望な研究分野の間には一定のギャップがある。
このようなギャップは必ずしも新しいものではなく、例えば原子力発電所が1960年代以降相次いで建設された時期には、その後の展開が示すように技術面での課題は多々あったとは言え、物理学理論としての核分裂や核融合についての研究はすでに成熟期を迎え、新たな研究成果は期待できなくなっていたので物理学者はこの分野に対する関心を失っていたといった例が思い起こされる(吉岡斉『原子力の社会史』)
従って大学の「学問の府」としての側面と「社会的存在」としての側面を性急に完全に一致させようとすることにはもともと無理があり、質の高い論文の生産やノーベル賞受賞者を増加させ、世界大学ランキングを上げようとするならむしろ前者の側面に重点を置かなければならないであろう。しかし他方でバイオ分野を中心とするオーバードクター問題がいわゆる「高学歴ワーキングプア」輩出の象徴であり、このような出口面での行き詰まりが国際的に見た博士号取得者の頭打ちの主因となっていることも厳然たる事実であり、この点では経済産業省の報告書はよく現実の姿の一面を描き出していると言ってよい。またこのような矛盾がバイオ分野に多い女性研究者にとりわけ大きな負担をかけていることにも注意する必要がある。
大学の研究者は「学問の府」の一員であるという意識に自足しがちであり、もう一方の「社会的存在」としての大学という側面に目を閉ざしてしまうことが多い。その意味で今回の経済産業省の報告書に大学人は是非一度目を通しておいた方がよいであろう。