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来週の水曜日10月23日の14時から共通教育棟A301教室で、かねて学生諸君から要望のあった法人統合・大学再編をテーマとする「対話集会」が開催されることになったので、それを期に特に静岡キャンパスの学生諸君に向けて、これまでのブログとできるだけ重ならない形で今私が考えていることを述べておきたい。

(1)静岡キャンパスの「衰退」への懸念

静岡キャンパスの学生諸君の法人統合・大学再編に対する懸念の一つは、浜松キャンパスと別大学になることによって静岡キャンパスが「衰退」するのではないかという点にあるように思う。しかし私の考えでは、静岡キャンパスが今後「発展」するか「衰退」するかは、ひとえに静岡キャンパスの各学部が、これまでの枠組みにとらわれない大きな自己変革を通じて、大学における教育と研究に対する「社会的ニーズ」にどれだけ積極的に応えられるかにかかっている。

私自身、静岡キャンパスの教育学部の教員を長く務め、哲学という比較的社会との直接的接点の少ない分野を専門としてきたので実感としてよくわかるのだが、静岡キャンパスの教員には社会的ニーズにできるだけ縛られることなく、「自由な学問的関心に基づいて教育・研究に当たりたい」というタイプが多い。教育学部は「教員養成」という明確な社会的ニーズを前提とする学部であるが、そのような学部においてさえ、「教員養成という狭い目的に限定されない深い専門的な学問を追求することが、結局は本当の意味での優れた教員を育てることにつながる」というレトリックがどちらかというと支配的であり、授業内容において例えば文学部や理学部といった専門学部の授業とそれ自体としては区別できない場合も多かった。

このような静岡キャンパスの「社会との接点の弱さ」が如実に示されたのが、以前のブログでも触れた2000年を境とする静岡キャンパスから浜松キャンパスへの学生数の大移動であった。教養教育を担う教員組織であった「教養部」の廃止と教員採用数の減少に伴う教育学部の学生定員減という20世紀末以降の国立大学の全国的動向への対応について、静岡大学の選択肢は2つあった。つまり(1)人文学部(当時)を中心とする既存学部の再編も含めて静岡キャンパスに新たな学部を作り、そこに教養部の教員と教育学部の学生定員を移す(2)工学部の情報系の学科を分離し、そこに教養部の教員と教育学部の学生定員を移して、浜松キャンパスに新たに文工融合の「情報」をキーワードとする新学部を作る、という2案である。

しかし(1)案は、「国際」「福祉」といった様々なキーワードが浮上したものの、結局既存の学部を大胆に再編して「社会的ニーズ」に対応する新たな学部を構想することができず挫折し、(2)案が実現されることになった。「社会との接点」を広い意味での「工学」分野以外には確立できなかったことが、浜松キャンパスへの新学部設置とキャンパス単位での4年一貫教育という現状の静岡大学の姿を生み、学生数の割合が静岡:浜松が7:2から5:4となる歴史的「大移動」につながったのである。これは学生数、教員数の規模という観点から見れば非常に明確な静岡キャンパスの「衰退」であった(工学部生が途中でキャンパスを移る必要がなくなったという明らかなプラスがあったので、それ自体を否定的に評価するつもりはないが)。

7月10日付の私のブログではこのような「工学」分野頼みの姿勢を「他地区とくっついていないと自分たちだけでは魅力が出せない」という「他人任せの情けない発想」と呼んだが、これは静岡キャンパスに立地する各部局の専門分野に即した独自の「社会との接点」(その一つが同じブログで触れた「持続可能性」をキーワードとする「未来社会デザイン教育・研究機構」である)を模索しなければ、世紀の変わり目に静岡キャンパスが経験した規模面での「衰退」を再び繰り返すことになるだろうと考えているからである。とりわけ今年の6月に文科省が示した「国立大学改革方針」では教員養成学部の規模の更なる縮小を明確に掲げており、イノベーションや地域貢献といった「社会的ニーズ」への対応の重要性が強調されていることも考慮すれば、「静岡キャンパスは自由な学問的関心に基づく教育・研究に専心し、社会との接点は浜松キャンパスにお任せします」という姿勢の帰結はあまりにも明らかであろう。

(2)今は「立ち止まって考える」べき時か?

学生諸君や静岡キャンパスの教員のなかには、法人統合・大学再編についてはまだ反対論や懸念があるのだから「立ち止まって考える」べき時ではないかという声があることはよく知っている。しかし上記の「国立大学改革方針」は2022年度から始まる国立大学法人の「第4期中期計画・目標」の策定に向けた動きの第一弾であり、前年度2021年度の早い時期にその素案を各大学に提出を求める際の指針作りにつながるものとされている。国立大学法人には、6年間の「中期計画・目標」ごとに基本的な予算枠組が設定され、その達成度による評価を受けた上で次の期間の予算枠組が示されるという仕組みがあり、統合・再編の議論を始めてから1年半以上が経過している今またさらに「立ち止まって」考えていては、来年度早々にも出される予定の国として基本指針を踏まえて第4期に大学として何をするのかを具体的に定め国に対して説明するという「納期」には間に合わなくなってしまうのである。

「社会的ニーズ」と並んで静岡キャンパスの教員がしばしば見失いがちなのは、この「納期」という概念である。確かに「学問的真理」を求めるだけならば「納期」などに縛られる必要はない。私の専門である哲学という学問分野においては2000年以上も「存在」「善」といった根本問題について「納期」抜きに問いを積み重ねてきている。しかし6年ごとの評価にさらされている国立大学法人の運営やその時々の「社会的ニーズ」への対応には常に「納期」があり、いつまでも議論を続けて製品を納める「納期」に遅れれば、組織としての評価は下がり、次の注文は来なくなる(=予算が削減される)のである。

浜松キャンパスで支配的な工学分野の教員にとって「社会的ニーズ」と「納期」は不可欠の前提だが、「自由な学問的関心」を重視する静岡キャンパスの教員のなかには「納期」の設定自体を不当と感じる人もいる。「時間をかけて議論しよう」とか「立ち止まって考えよう」という主張そのものは時と場合によっては正しいかもしれないが、議論すべき論点が論じ尽くされているのになお、「説明が十分でない」「納得していない人がいる」「胸に落ちない」といった曖昧な言い方で明確な理由がないのに議論を引き延ばそうとすることは、結果としてこの大学の運営に大きな打撃を与えることになりかねない。学生諸君にも是非この「納期」という概念にも目を向けてもらいたい。

「対話集会」では学生諸君からの多様な意見に学長として耳を傾け、それに対して答えるべき点があれば答えるというやり方で行きたいと考えているので、私の側からは特に長々と説明する時間は取らないつもりでいる。そのためにも、できる限り以前のものも含め、私のブログを一読した上で集会に参加して下さるようお願いしたい。