人権の理論 (旧ホームページのテーマ)

※ 以下は研究室ホームページ開設(2000年頃)にあたり、研究室テーマとして掲げた文章です。いまなお人権教育といえば、権力を恣意的に行使しているお上の立場から「弱い人をいじめてはいけません」と教え諭す次元にとどまっているため、掲載する意義があると思われたので掲載することにしました。 2019.7.5

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ここでは近代立憲主義憲法学の人権理論に対するオルタナティブとなる新たな人権理論の構築を目指して行きます。

それは日常的な柔らかい用語としての「人権」と憲法学的な堅い用語としての「人権」との架橋を試みる作業でもあります。

正直のところ普段、「人権」という言葉を耳にしたとき、なんとなく重苦しい感じにとらわれたり、ある種の偽善的な響きを感じとってしまいがちではありませんか。

だからでしょうか、「人権」擁護の活動に携わっている人々の中でさえ、「人権」という言葉など使わない方がいいのではないかという人もいます。

これは、アジアの日本社会には、西欧生まれの「人権」というものがなかなか根付き得ないのだということを意味しているのでしょうか。

どうもそれは違うように思います。

それは日常的な用語としての「人権」が、「他人を差別してはならない」「他人を傷つけてはならない」「他人に優しく」といった禁止や命令のイメージに囚われているからであるように思います。

しかし、「人権」とはそもそも「わたしの自由」、「わたしのことはわたしが決める」ということです。たとえ力の強い者や立場が上の者(上司や先生、親などなど)であっても、またたとえ国家であったとしても、国民みんなであったとしても「わたしの自由」は奪うことができないのだということです。

日本におけるお上主導の、いわゆる「人権教育」なるものでは、一番肝心な国家権力への抵抗、つまり、たとえ国の法律や行政の命令であってもわたしを恣意的に支配するものにはイヤだといっていいのだ、ということを全く教えてきませんでした。

恣意的な支配の下で苦しんでいる人々の窮状には眼もくれず、ただお上は「おまえたちは遅れているから人を差別したり、いじめたりするのだ」「何でも知っているわたしたちエリートがおまえたちに新しい知識を授けよう」といった啓蒙主義的態度で振る舞いながら、「人権」という言葉を振りかざしてきたことも、重苦しい「人権」のイメージを作り上げた一因であるように思います。

人権とは、「強い者には従わねばならない」「長いものにはまかれろ」といった社会通念や国法をも覆しうるものなのです。

あらゆる権力への対抗が人権の本質なのです。

イヤなことをイヤと言えないでいるあなたが、イヤなことをイヤだと言えるようなチャンスを与えてくれるものが人権なのです。

どうですか、「人権」という言葉を聞くと何となくこころが軽くなり、晴れ晴れとしてきませんか?

さあ、いっしょにもう一人の自由な自分、もう一つの自由な社会を想像/創造していきましょう!

h.sasanuma
憲法学、人権理論の研究を専門としています。