研究室にもメダリストがいる



 

    30年前の物理学科では最終学年になると、自分の興味のある研究をされている先生が主催する洋書の専門書を輪講する会に参加することになっていた。宇宙論の本はそれ自体読んで面白かったことを覚えているが、自分がそこに書かれていることを発展させることは期待されていなかったし、当時を振り返って中身の薄い一年を過ごしたように感じる。言い換えれば、自分の興味を深める時間は十分にあったはずなのだが、自分にはその時間を有効に使わなかったということだ。
 工学部だからか、30年後の今だからなのか不明だが、現在工学部では最終学年に卒業研究を必修単位として、それを行うことになっている。各学生には独立した研究課題が与えられ、一年をかけてその答えを見つけるため研究を行う。目指した答えまで到達しなかったとしても、得られたものがこれまでに発表された研究にない場合、それは研究成果と認められる。得られた結果に進歩性が十分認められなくても、そこへのアプローチには独自性があるはずだ。つまり成果のあるなしによらず「研究すること」を体験することができ、そのこと自体に意義がある。これから工学の問題を解決する研究者・技術者の第一歩となるからだ。
 研究発表はわずかな時間しか与えられないが、自分だけの問題とそれに対して自分が取り組んだ行き方をアピールする機会となる。自分固有のタイトルの付いた競技で自分の技を披露するようなものだ。競技の相手は他人ではない。聴いている人たちに自分のやったことをしっかり理解してもらえるプレゼンテーションができる理想の自分が相手だ。研究内容は卒業研究論文にまとめ学科に提出する。大学図書館に保管されることなく、受付印が押されて即日返却される。中をみるのは担当教員くらいだし、いくらでも手を抜くことができるシステムだ。しかし、他人が見るとか見ないとかに関わらず、手を抜かずに書き上げたと思う学生はその競技の勝利者だ。他人のつけた「合格」よりずっと価値のあるメダルになる。
 と言っても、それで満足したくはない。やったことを興味のあるかも知れない外部の研究者・技術者に伝えるために、在学中に学会の研究会などの機会にぜひ発表できるようにしよう。タイミングを計って発表要旨を研究室のウェッブサイトにLinkして公開しよう。一年間考えたことが他の人の研究につながっていく契機になる。その瞬間が社会に対する貢献だ。非公開ではそのような機会を失ってしまう。
 担当教員が喜ぶ瞬間は恐らく、研究室を出た学生がその後も卒業研究を通じて獲得した研究の取り組み方を工夫し続けていって、身の回りの世界に自分のやったことを積み上げていっているのを知ったときだろう。しかしそれは疑う余地のないほど今すでに明らかだし、もう喜んじゃっていいのではないかと思う。なのでそうしよう。
(2018/3/3)
戻る