仮説を証明するために

工学は、物理や化学の法則に基づいた現象を利用して社会に役立つものや情報を作り出すことが使命だ。利用しようとする現象を物理モデルで説明できるか調べてみて、そのモデルが妥当そうなら、どのような構造のものをどのような大きさでどのように製造すればいいか検討していく。物理モデルを立てるときは、それはまだ仮説であって妥当かどうかは不明である。これまで自分が学んできたことから単に予想したものに過ぎない。いろいろな事象に対してもそれが矛盾しないことをコツコツ積み重ねていって、ある程度確信が持てたらそのモデルを基礎にして次のステップに進むことができる。つまり、仮説を立ててそれを証明することが最初のステップだ。

哲学者の三木清は著書の中で、各人は一つの仮説を証明するために生きている、と書いた。~何に価値を置いて生きていくかを決めて生きていく。これは仮説にすぎないけれど、それで生きていくということはそれを自分の人生で証明しようと取り組むことに他ならない。~

生きることを、理想に向かう行為、あるいは理想を行うことだとすると、その理想は(どの理想も)普遍的に正しいと証明されたものではないから仮説でしかない、ということだろう。各人が正しいと信じた道を選んで進んでいくことが人生を歩むことであるから、各自の人生は各自の仮説の証明に向けた努力である。自分が正しいと思う道はどこにあるか?先人の知恵を尋ねようと思うと、長い歴史の中で生き続けている思想あるいは古典だろう。今の自分で考えて一番正しいと思う道を行くしかない。Aという道とBという道も同じように正しいと思うならその間に道を作っていくこともできる。それは全くの自由。ここまで来たけれど、Cという道も正しそうだから少し方向を変えて行こう、ということも自由。いつでも途中修正が可能な自由度の高い道だ。ただ、理想は到達することのないものだし死は突然なことだから、生きている間にあるいは死の直前に「自分の仮説は正しいと証明された」と言うことはできない。できることがあるとすると、それは「今仮説を部分的に証明した」という瞬間を持つことだけだ。学ぶとは、先人の証明してきた仮説を学ぶことだ。

こうして、工学分野で生きていこうと考える者は、学んだことを基礎に自分の工学分野の対象に仮説を立てて、それを実証することを行い続けるそのことがそのまま、工学で生きるという仮説を自分が実証しているんだと思う。
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