Research

教育言語学について

 教育言語学では、ことばをどうする(教える・学ぶ・獲得する)か、あるいはことばにどういう規則があるのかを問いません。むしろ、A「ことばの行動=対話」とB「ことばの省察=意味」を問います。どちらも「過程」とは何かを問うものです。そして、この2つの問いは相補的な関係にあり、行動を問うことで省察が明らかになると同時に、省察を問うことで行動も明らかになります。
 日本語の授業とは、日本語を学ぶための授業ではなく「日本語で学ぶ」授業です。たまたま手段と内容が日本語だというだけであり、その目的は「社会に貢献する人材になるため」「自己成長に寄与するため」「専門知識を得るため」等々になるでしょう。ここにおいて「どのような授業をするべきか」という問いが生まれます(問A)。また、文法を知って覚えるだけでは日本語の力がつきません。それは、文法が言語秩序を無理やり静止させて記述した理屈にすぎないからです。ここにおいて「実際に学習者のことばはどう変化していくのか」という問いが生まれます(問B)。問Aを考察することは日本語の働きを分析することです。問Bを考察することは学習者の形成に配慮した実践方法開発につながります。具体的には、問Aとは、ことばの働きを活かした教育内容(何を扱うか)、教育方法(どう扱うか)、教育評価(どう見るか)の解明です。問Bとは、教育に貢献することばの仕組み(学習者の理解や形成を促進することばの働き・学習環境を良質化することばの働き)の解明なのです。

 なぜ、このような「過程への問い」が有効なのでしょうか。それは、ことばが生態学的な存在であるからです。ことばが生態学的な存在であるということは、ことばの変化を「記号過程」、ことばの素材を「アフォーダンス」、ことばの関係性を「相互作用」、ことばの形成を「意味づくり」として捉えることが可能であるということです。現在、教育言語学は、対話(的行為)の働きや有効性を明らかにしています。対話をするためにはことばの力が必要です。ことばの力のためには良質な学習が必要です。良質な学習のためには良質な学習の場が必要です。良質な学習の場のためには環境づくりが必要です。そして、環境づくりのためには対話が必要なことが分かってきました。行動と省察はことばを介した循環の中で発生し続けるのです。

 このような教育言語学の研究成果は、良質な学習環境の構築、教員養成・教員研修への道筋、地域での言語教育の支援、対話の重要性の周知、教育現場・地域社会の活性化、従来の公教育への問い直し、多文化共生社会への理解と参画などに貢献します。また、貢献対象として、教育現場の教員、これから教員になろうという人材、地域の日本語教室の相談員、国語・外国語・日本語を学ぶ年少者、高等教育機関の(留学生を含む)学生、言語学・教育学・社会学・心理学研究者などが想定されるでしょう。

 

教育言語学を学ぶための基礎文献・厳選5冊

○フレイレ, P. (1979). 『被抑圧者の教育学』小沢有作・楠原彰・柿沼秀雄・伊藤周訳. 亜紀書房.
上意下達の従来型教育を「銀行預金型」と呼び、その人権を無視した体系からの解放を主張した名著。フレイレ自身も生涯を通して「課題提起型」と名づけた対話による教育を実践し続けその言動は今でも抑圧を受けている多くの市民に希望を与え続けています。過酷な弾圧を掻い潜り生き残ってきた思想や実践方法の中に、教育の在るべき姿が投影されているのではないでしょうか。少なくとも、「伝達を基盤とした教育」からの脱却を目指す方向性は、言葉の教育を考えるにあたっても非常に重要な観点を含んでいます。理論がどのように現場に還元されていくかという過程を検証する上でもフレイレが行った識字教育の実践は示唆に富むものです。

○リード, E. (2000). 『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』細田直哉訳. 新曜社.
アフォーダンス心理学の提唱者ギブソンの継承者と言われた新進気鋭の心理学者リードの大著の一つ。彼は本書出版後約1年で逝去するのですが、心理学領域に与えたインパクトは未だに衰えず、生態心理学が確固たる地位を確立する礎になっています。本書の中身は生態心理学の概説書とはいえ、価値(意味)を求める生命のニーズについての言及が読者をぐいぐい引き込んでいきます。改めて自分自身が地球上の生命体の一つであることを感じさせます。言葉の獲得については、まず「言葉ありき」の考え方を捨て「言語共同体の中で言語形式が生まれる」という主張をしています。これは昨今の認知主義(言語が心的表象である)とは対極に位置しており、お互いの理解の根源を「ルールの共有」に求める従来型議論の限界を示しています。今後は、言葉についてもますます「認知的な存在」から「環境的な存在」を踏まえた論考が増えてくるのではないかと思います。

○時枝誠記 (1941). 『国語学原論』岩波書店.
言語学の基本文献として推奨される著作ですが、「言語理論」というカテゴリーを離れて読んでみると言葉に対する見方に深い洞察が込められていることが分かります。言葉は、使い手である「主体」、主体の周りに存在するありとあらゆる「素材」、そして主体と素材の相互交渉の場である「場面」の3者がなければ成り立たない(存在し得ない)という主張は、世界中のどの言語学者の論考よりも言葉の本質を突いたものです。現在でこそ、言語学の祖とされるソシュール理論に対する論考が百出していますが、当時の強力な理論に対抗し得る考察は世界中のどこを見渡してみても時枝のものしかありませんでした。もちろん、時枝が展開した各論のほとんどはこれまでの言語学者によって反駁され説明力を失していますが、彼の唱えた原理は今でもその輝きを失っていません。それはヴィトゲンシュタインの言語哲学、チョムスキーの生成文法、ラネカーらを始祖とする認知言語学など現代の中核をなす言語理論との関連性について度々言及が行われることからも推察できます。私たちはもう一度原点に戻って「言葉とは何か」「言葉を教育するとはどういうことか」といった問を立てるべきではないでしょうか。

○van Lier, L. (2004). The Ecology and Semiotics of language Learning: A Sociocultural Perspective. Kluwer Academic Publishers.
「教育における言葉の役割は、母語や第二言語の教室に限られたものではなく、全ての科目における教育に及ぶ。 (中略)あらゆる教育は言語教育である、なぜなら言葉はいわば人間になるための決定的な特質だからである。(中略)私は本書での生態学的説明を通して、言葉と教育に対する統合的で全体的な見方が、教育の質に対する深い理解にいかに寄与していくかを示したい。(中略)言葉と教育との緊密な結びつきが、言語学習の生態学的接近法の核として存在する。私は本書の中で、教育的観点から言葉を、そして言語学的観点から教育を見つめていく。この結びつきには、実践的、教育的、理論的、そして哲学的観点を必要とする。生態学的接近法とは理論でも方法論でもない。それは思考の仕方、行為の仕方なのである。 (中略)教育言語学の目的は、お仕着せの答えや処方箋を提供するものにあらず、思考の糧を与え、言葉と教育について省察を促し、批判的議論を励起するところにある。(同著: 2-3)」

このような捉え方は、従来の言語学や(言語)教育学とは一線を画しています。同時に、2つの学問分野を結びつけるには本書のような生態学的分析が必要不可欠であることが論じられます。これからの言語教育を支える革新的な論考です。多くの方が手に取られることを希望します。(訳書:宇都宮裕章(2009), 『生態学が教育を変える-多言語社会の処方箋』ふくろう出版.)

○ヴィゴツキー, L. (2001). 『(新訳版)思考と言語』柴田義松訳. 新読書社.
「最近接発達領域」という心理学にとっても教育学にとっても重要な捉え方を提唱した心理学者の著作です。子どもは大人(見守る人)の支えがあってこそ成長する、という私たちの直観を実証した論考でもあります。また、概念と言葉という切っても切り離せないもの同士の関係性を明らかにした論考としても名高く、様々な領域の研究者に取り上げられる理論です。中でも、思考と言語の関係を「物ではなく過程」とし、両者の相互交渉によって「真の意味の発達」となる変化を遂げるという主張は首肯に値するものです。心理学・教育学と言えばピアジェの理論が有名ですが、子どもが幼い時に発する「自己中心的言語」についてのヴィゴツキーの解釈が、当時のピアジェ理論をも改変させたというエピソードも知られています。そんなところからも、教育をめぐる理論の多様性を知る重要な一冊なのではないでしょうか。

重要な研究方法・概念

●場の課題共存型研究
生態学的妥当性を充足した調査・分析方法。研究員が調査対象から高い価値を持つ資料を抽出すると同時に、対象の利益を最大限に発生させる手法。研究過程と成果還元が同期するため、現場の通常業務を阻害せず、潜在的な知見を発掘できる。

●アクションリサーチ
研究員が自らの課題を携えて現場に入り、実践者の役目を果たしながら状況を観察・分析する調査方法。予め計画した行動を遂行し、状況観察と結果分析を行い、内省を通して再び計画の改定をする。現状改善と社会生活への還元が目的となる点で、生態学的妥当性を満たす手法の一つ。

●参与観察
研究員が現場の中に入り、当該事象に関わる形で行う観察方法。研究員が参与するためありのままの(生態学的妥当性が高い)状況保持には至らないが、観察者が完全な部外者の立場にはならないので、対象との良好な関係性を維持しながら高度な観察(行為の意味を明らかにする等)ができる。

●形成性
従来の「一般性」「客観性」「普遍性」「予測性」に代わる研究条件の概念。過程の様相を詳述することにより、当該活動が個々の事象の進展や成長に寄与しているかどうかを問う。予測が困難でも、対象の変化に影響を与えるもの・対象の変化の過程を明確にすることで変化の方向性を知ることができる。

●文脈性
従来の「妥当性」「正確性」「反証可能性」に代わる研究条件の概念。当該研究が自然な行動場面において行われているかどうかを問う条件。生態学的妥当性・現象学的妥当性とも言われる。研究対象とする事象にできるかぎり手を加えず、実験室的な環境をつくらないことが重視される。

●依存性
従来の「信頼性」「安定性」「再現性」に代わる研究条件の概念。研究対象としている事象の生起(確実に発生したこと・確実なデータが残っていること)を複数の手段で照合可能かどうかによって評価する。

●過程分析
ある事象(言語現象など)の原因、あるいは事象の結果を探究するのではなく、今現在何が発生しているのか、現事象の意味とは何かを問う分析方法。当該事象に伴う多様な解釈、観点変更による現れの異なり等に対しての説明理論を構築していく。理論そのものの質は、上述の「形成性」「文脈性」「依存性」によって検証する。