【第165回】硝煙の消える日

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久保(安間)敦子(昭和37年農学部農芸化学科卒)

母校、静岡大学農学部は、大天龍川の下流に広がる磐田ケ原台地にあり、キャンパスは広大で、高台の教室には一日中からっ風が吹き抜けていました。

昭和33年、入学当時「我校に過ぎたるものの二つあり、一つは車寄せ、もう一つは百メートルの堀抜井戸」と言われました。確かに本部の佇まいは、旧陸軍中部129部隊航空隊駐屯地の跡とは思えない風雅な趣があり、山の手の貴人邸玄関の雰囲気がありました。設計者は判然としませんが、静岡県には、東京駅設計者、辰野金吾氏の系統を継ぐ、中村與資(よし)平(へい)、竹山謙三郎氏などが居り、多分その一門の方々の設計と思われます。

初代農学部長の大杉繁氏(後に第2代学長)は、ビタミンB発見者、鈴木梅太郎氏の薫陶を受けた学者で、京都大学名誉教授、元農学部長でもありました。浜松市出身の大杉氏は、郷里のために尽くしたいという思いから、農学部の前身の静岡農科大学長(当初は農林専門学校校長)を引き受けたとのことでした。

一方、百メートルの井戸は、天龍川の伏流水をなみなみと湛えており、この名水で富士を仰ぎ、新茶を嗜んだら、二度と他所へは移れないと呟いた教授も居りました。

さて、筆者の住む井の頭線の「明大前」は元、「火薬庫前」という駅名だったそうです。現在の明治大学のキャンパスがある場所は、かつて和泉村と呼ばれ、やはり、名水溢れる、のどかな村だったようですが、江戸幕府の硝煙倉(火薬庫)が置かれ、それを引き継いだ旧陸軍火薬庫の跡地です。

最近は、耀ようばかりの学舎が増築され、十代後半の若者が青春を謳歌しております。「火薬庫前、徒歩三分、と不動産屋の宣伝ビラがあったら客は引いてしまうからね」と古老が笑っていました。ワンコインランチを楽しむ若者を見るにつけ、二度と硝煙にまみれた戦の地に狩りだされぬよう切に祈っております。