韮山反射炉(s)

静岡県伊豆の国市にある「韮山反射炉」に行ってきました。「反射炉」とは金属を溶かし大砲などを鋳造するための溶解炉です。


(訪問時、改修中でした。足場を外した反射炉の画像は静岡県公式ホームページの
「世界遺産登録10周年!未来へ残す韮山反射炉」
伊豆の国市観光協会のサイト
などを見てください)

江戸時代末期、1853年、伊豆下田にて築造を開始し、1857年(安政4年)に完成しました。建造の中心となったのは、幕末期の代官江川英龍(坦庵)と、その後を継いだその子英敏です。1922年(大正11年)国の史跡に指定され、2015年(平成27年)7月、韮山反射炉は「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録されました。

そこに、石碑が建てられています。「碑額」(石碑の上部に書かれた篆書の題字)には「反射爐碑」と載仁親王によって書かれています。

石碑の本文は漢文で三島毅によって書かれています。冒頭は以下のようになっています。

反射爐何鎔銅鐵鑄大砲也創製之者誰坦庵江川先生也先生方幕府恬嬉之世夙察外國競富強遂窺我邊海建議曰國防有三要焉鑄砲一也……

入試問題の漢文とは異なり、正真正銘の漢文なので句読点も返り点も送り仮名もありません。これを解読していく必要があります。書き下し文は以下のようになります。

反射爐とは何ぞや。銅鐵を鎔かし大砲を鑄(い)るものなり。之を創製する者は誰ぞや。坦庵江川先生なり。先生、幕府恬嬉の世に方(あた)り、夙(つと)に外國富強を競いて遂に我が邊海を窺うを察し、建議して曰く、國防に三要有り、砲を鑄るは一なり……。

現代日本語訳をすると、以下のようになります。

反射炉とはなんであろうか。それは銅や鉄を溶かし、大砲を鋳造する施設である。この反射炉を製造した人は誰だろうか。それは江川坦庵である。江川坦庵は江戸幕府が平穏な時期にありながら、諸外国が富国強兵を競い、その流れで日本周辺の海域で日本を窺いみていたのを察知し、幕府に建議して、こう言った。「国防には三つの重要点があります。大砲を鋳造するのが第一で、……」。

この中に難しい語があり、それを調べていく必要があります。たとえば、「恬嬉」は見慣れない言葉です。調査すると、中国の唐の時代の文人、韓愈の「淮西を平ぐの碑」のなかにある

相臣將臣文習熟見聞以為當然

という表現に行きつきます。これを訓読すると、「相臣將臣、文は恬(やす)んじて武は嬉び、見聞に習熟し、以て當然と為す」となり、これは「家臣たちは文官も武官も安穏な空気に浸り、見聞きすることがらに慣れきって、異変の到来を想像もしなかった」という意味とわかります。執筆者の三島毅は当然これを踏まえています。周囲の空気に流されず、国防の重要性を見抜いていた江川坦庵にふさわしい用例と言えます。

その江川坦庵の邸宅跡には韮山反射炉から歩いて行けます。邸宅内はこのようになっており、使用人なども多く、大量の煮炊きが可能な大きな邸宅であったことがわかります。

この江川坦庵は日本で最初にパンを作った人ともされています。食べてみましたが、素朴な「固いパン」という感じでした。

この石碑の文章を書いた三島毅(1831-1919)は江戸時代末から大正時代の漢学者で、二松学舎大学の前身の創立者です。江戸では昌平黌で漢学を学び、東京師範大学、東京大学、國學院大学、早稲田大学でも教鞭をとりました。

碑文の字を書いたのは野村素介(1842-1927)です。彼は政治家としても書家としても活躍しました。
石工(石に字を刻した職人)は井亀泉です。「せい・きせん」と読み、名工として名高いひとです。