二丁町研究稿

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 この頁には、社会学科の上利博規教授と共に2002年度から2006年度にかけて、学長裁量経費などによって進めた「駿府・静岡の芸能文化」に収録した拙稿の内、二丁町遊郭に関する記事2件を掲載する。本文中にも言及があるように、二丁町遊郭については、他にも多少関連する資料や図版、原稿があるので、今後、発掘・整理が出来たら別に公開するかも知れない。
 二丁町遊郭は、江戸吉原に先駆けて作られ「日本最古の公認遊郭」と言われている。近年、若い人達に、遊郭跡がファッション的に消費されているような話も漏れ聞こえてくるなか、あらためて、基礎的な研究の重要性について考えてみる必要がある様に思う。
 03年、06年と、かなり前に発表した物で、参考文献なども更新せずに掲載するが、新しく研究を始める人達の踏み台となり、その人たちが更新してくれれば有り難い。


二丁町遊廓研究の歴史と展望--二丁町関連文献目録 解題--

小二田誠二

はじめに

前置きがないと語りはじめられない研究対象が存在する。しかし、だからといって語らずに避けて通ることも、それはそれで現実から目をそらすことでしかない。遊廓・売買春の研究は、そうした分野の代表格だろう。
遊廓は悪所である。様々な原因による貧富の差が、性を商品化し、人身売買が公然と行われた。確実なことは知るよしもないが、売買春は、人類史上最も古い「職業」の一つとさえ言われることがあり、現在もなお、姿を変えつつ継続して存在する。法的規制やモラルの飛躍的向上が世界的に起こったとしても、おそらく地上から消えることはないだろう。
人間の根本的な欲望と、それ故に人間の尊厳にも関わる「職業」である売買春の歴史には、宗教や芸能(これらも相互に密接に関わり合っていたわけだが)との深い関係がある。それは、日本だけの特別な事情ではない。日本に特徴的であるのは、主として徳川時代に存在した遊里文化である。江戸文化に触れると、京の島原、江戸の吉原が文化史上に残した偉大な遺産に目を瞠らざるを得ない。大坂新町、長崎丸山がこれに続き、各地の城下町や宿場・港町でも、遊里は数多く存在し、その土地土地の文化と深く関わってきた。それらの遊里の内、幕府公認の遊廓が最初に生まれたのが駿河府中、安倍川町(二丁町)であるらしい。
多くの地方遊里が、或いは、近世後期以降代表的な遊廓も、単なる性欲処理の場所であったし、どの様に取り繕おうとも、売買春という行為その物の重大な問題は残る。しかし、それでも、そこが嘗て、文化芸術の一つの中心であったことを認めないわけにはいかない。後に掲げるように、『晁東仙郷志』を成した法月俊郎も、その序文で「花柳の事は士君子之を語るを愧づ、况して此を筆にすることは、醜を後世に残すものであるかも知れないが、江戸の風俗史から遊里吉原の世相を除けば殆んど価値を失う如く、静岡の歴史を語る上には、駿河の名物一富士に二丁町と称えられた、双街の変遷風俗巷説などを究める必要がある。その意味から晁東仙郷志を綴ったことは肯て無用のことでもないと思う」と述べている。
それは、和歌の長い歴史の中で育まれ、『伊勢物語』『源氏物語』を生んだ、古来の好色の美学の伝統と、江戸時代の家族・婚姻・経済制度の歪んだ結合の結果であるわけだが、本題から逸れてしまうので、ここでは、深く立ち入る事はひかえる。

こうした風俗文化の研究は、近代アカデミズムのためらいの中で、主として民間の所謂“好事家”の手で行われてきた。今、改めて、静岡で遊廓について研究することに何の意味があるのか、と言う問いを発する時、こうした先人達の声は示唆に富んでいる。後ろに【参考】として二つの古典的な発言を引いておいた。非常識な長い引用になったのは、これらが、一字一句として削りたくない味読すべき文章だからである。
阿部次郎の文章は、大学一年の時に読んだ高尾一彦の『近世の庶民文化』(日本歴史叢書 19680314 岩波書店)で知った、言わば、私の江戸研究の出発点の一冊である。センチメンタルを排斥せよと言いつつ剰りに昂揚した文章は、今なお感涙を禁じ得ない迫力を持って訴えてくる。はじめの文章は、冒頭近くにある。1922年にハイデルベルグの下宿に落ち着いた阿部は、歌麿の複製数葉を下宿の夫人に贈り、自分の部屋にも飾っておいたが、「心をかき紊すようになって」「うるさくなってそれをとりはずしてしまった」。引用したのは、それに気付いた夫人とのやりとりの部分である。「高める力はないが慰める力のある物」。私たちの受け継がなければならないもう一つの芸術は、確かに日本にあったし、それらの研究は十分になされてきたとは言えない。それらは「不幸なる芸術」であった。阿部は、日本の文化に深く親しんだ上で、ヨーロッパの芸術文化に関わり、「徳川時代の芸術」に引導を渡そうと言う。しかし、それは、その芸術としての精華を厳選して引き継いだ上での話である。私たちは、何を、どう引き継ぐのか。「現代の混乱を脱け出でて前代の回顧に美しい夢を結ぼうとする道楽」でも、「現代のまん中に徳川時代を復活させんとする」「時代錯誤」でもなく、それらが「未来を醗酵せしむべき酵母の一部分となること」のために何をすべきなのかが問われている。
もう一つは『増訂武江年表』(東洋文庫196806平凡社)「解説」の冒頭である。これは、詩人金子光晴が、『武江年表』の中味に触れる前段として、江戸の風俗を掘り起こすことの意義を語った部分で、今もなお江戸文化研究者に勇気を与え続けてくれる。
「誰かが指示し、立証してみせないかぎり、誰も気がつかない」「人々がうけついでいるなにか」を知り、「正確に江戸を認識することで、今日の日本及び日本人を鏡に映し、形容に就いて真底を質疑することは、これからの日本人の拠り所をしっかりさせるためにも、意外に肝要なことなのではないかと思う」という主張、「明治の末頃には、各界に、聞けばその路のことならば、なんでも識っていると言った人たちがいくらでもいたので、それをきく人も、語るほうも、ことさら書きのこすこともしないまま、今ではさぐりようもなくなった枝葉のことがいっばいあったにちがいないことは、容易に考えられる」と言う指摘は、戦前まで続いた静岡の遊廓・演芸文化に置き換えてみると、状況が殆ど変わっていないことがわかる。私たちにもまた時間がない。

不幸な時代の不幸な遺産も限りなく多い。その一方で、私たちは、その中で培われた、「いかなる逆境の下にあっても、枯渇しつくし、死滅しつくすことはできなかった」「普遍人間性と民族的創造性」を、正しく引き継ぐ努力を怠ってはならない。そのために、従来体系的な調査・研究のなされてこなかった庶民文化・大衆娯楽を、明暗・陰陽の別なく、可能な限り詳しく知ることこそが、まず第一に必要であるのは、繰り返すまでもない。そしてそれは、急を要する。

さて、駿府二丁町に話を戻そう。駿河の遊女は、中世には既に名前が知られていたが、遊廓として区画を定められ、公認されたのは、江戸時代に入ってからである。そして、そこが、単なる売買春の場ではなく、島原や吉原のような文化センターであったことは、西鶴をはじめとする小説や戯曲、或いは文人たちの随筆・紀行の類から推測出来る。ここに、二丁町遊廓を社会問題史・女性史だけでなく、地方文化史の視点からも捉え直すことの意味がある。以下、本稿では、これまでに二丁町遊廓について語られた文献資料について、大きな流れに分けて紹介しながら、この研究について展望していくことにする。つまり、本稿は、これまでの二丁町研究を、一旦総括すると共に、今後の研究の道筋を着けることを目的としている、と言う意味で、新たな二丁町研究への序章と位置づけることが出来る。
なお、巻末のリストは管見に入った文献を挙げたが、現時点では相当な漏れがあるものと思われる。この場を借りて、情報の提供をお願いする次第である。

少し話をそらすことになるが、本稿には、もう一つ重要な目的がある。それは、静岡郷土史研究史その物の豊饒さについて検証(顕彰)することである。静岡に来て暫くして、駿河版、そして二丁町や十返舎一九・山梨稲川と、興味を拡げていく内に、静岡は、戦災と大火によって貴重な文物を殆ど失ってしまったこと、しかし、戦前の郷土史研究者たちによって、翻刻・複製されて現在に伝えられた資料の少なくないことを知った。そして、なにより、『本道楽』は、決定的だった。郷土誌を超えた驚異的・圧倒的なレベルの高さは言葉に尽くしがたい。明治以来刊行されていた種々の新聞も、ここが一つの文化的中心たり得ていたことを証明している。これが、将軍の隠居地の底力であることを確信しないわけにはいかない。現在もなお、郷土に関する本は書かれ、シズオカ文化クラブのような多角的に活躍する文化団体や、駿府ウエイブのような研究熱心な観光ボランティア組織が存在しているのも、こうした伝統を受け継いだものと評価出来る。
しかし、それにしても、これらの貴重な研究業績は、現在の公的な地方史誌に十分に反映されているとは言いがたいし、多くの市民たちにとって、忘れられた存在であるように思えてならない。従って、これらの民間史の豊かな情報を現在の生活・文化に活用する状況にはほど遠いと言わざるを得ない。それはあまりに惜しい。そこには、地域の活性化に繋がる様々なヒントが隠されていることも、確信している。その事を、この機会に、是非広く理解して頂きたいと考えている。
国を、郷土を愛することその物だけを学ばせようとしても、おそらく挫折する。幸いに、ここには誇るべき、愛し継承すべき多くの遺産が存在する。巻頭の「概要」にも述べたが、こうした事業は、地域の歴史や文化、そしてそれらを大火や戦災を越えて継承してきた人々への敬意と感謝の念を多くの市民が共有し、豊かで魅力あふれる文化的な街をつくり、後世に継承していく意識その物を市民一人一人の中に生み出し、育んで行く事に直結する。それは、限られた誰かが経済的に潤うのではなく、多くの人がこの街に暮らすことに幸福と誇りを感じ、よりよい物として後世に託そうとする心の在りようとして、大きな遺産になると信じている。

研究前史

二丁町関連の多くの書物に言及があるように、早い時期の駿府遊廓に関する記述としては、まず第一に、宮城野伝説に触れる『色道大鏡』を挙げなければならない。ついで『諸国色里案内』と続き、『好色一代男』をはじめとする西鶴の浮世草子類ではたびたび登場する。特に『好色一代女』には八人芸をする座頭“酒楽”の名が見え、『武道伝来記』には安倍川遊廓を舞台にした話がある。なお、西鶴では、“二丁町”の呼称は見えず、“安倍川”と言っている。
後の酒楽を輩出したこともあり、寛政改革前後の江戸戯作には、『吉野屋酒楽』を含め数点の二丁町関係の作品があるし、十返舎一九も、駿府出身であったから、『道中膝栗毛』の他にも、安倍川遊女の敵討など、二丁町に触れる作品がある。また、駿府で作られたと考えられる『安倍川の流』という洒落本が『洒落本大成』に収録されているほか、『本道楽』には、『当世青洒落』という別の洒落本も紹介されている。安倍川遊女の敵討は、『敵討駿河華』という黄表紙にもなったが、実録写本も存在したらしい。他に実録では、石井兄弟亀山の敵討や、『大岡政談』のうち、「雲切仁左衛門」にも駿府の遊里・遊女が登場する。
こうした、諸書に引かれる、芝居や小説などの舞台として二丁町遊廓が登場する例の他、曲亭馬琴、司馬江漢などの紀行文に取り上げられている例、更に、勿論『駿国雑志』も忘れてはならない。

酒楽の周辺

ここで、従来余り触れられていない歌麿の浮世絵について、ひと言触れておく必要がある。先に触れたように、寛政改革前後、二丁町に関わりの深かった吉野屋酒楽なる人物が、蔦屋重三郎と交流を持ったことによって、酒楽を介して二丁町が戯作の中に現れることになったが、その結果として、喜多川歌麿も、酒楽及び二丁町に関する作品を描くに至った。
東京国立博物館蔵「彩霞楼」(C49116)は、歌麿画・蔦屋重三郎板の中判錦絵であるが、冨士を背景に張り出した二階の欄干にもたれて談笑する三人の遊女を描く。彼女たちの頭上には、「□霞楼」(痛みが激しい)の額が見え、壁には「ひくといふ 名には 手のある かすみかな 金鶏」と言う発句が書かれている。この額と句は、山東京伝の『嗚呼奇々羅金鶏』(寛政元(1789)年・歌麿画・蔦屋板)にも見えているから、同時期の作品であろう。
また、ギメ東洋美術館他蔵「三保の松原道中」は、酒楽が四方赤良に入門した記念の出版と考えられ、「珠流河二丁町酒楽齋」と書かれている(『「喜多川歌麿」展図録』 浅野秀剛・ティモシー・クラーク 朝日新聞社 1995 なお、本図は、『本道楽』で野崎左文が紹介している)。
なお、問題の酒楽本人も、黄表紙『吉野屋酒楽』に書かれているように、煙管を銜えた一枚絵があったはずであるが、今のところ確認出来ていない。
この酒楽自身は、二丁町細見を復活させた人物として重要であり、西鶴が言及する、二丁町で有名だった幇間の名を襲った人物らしい。細見の版元としては、新通六丁目吉野屋吉兵衛である。京伝の黄表紙にもなり、芝居にも取り上げられてもいる(全て酒楽自身の入銀によると考えられている)が、正確なことはよくわかっていない(この時期の地方素封家の江戸戯作・出版界との関わりについては、鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(98 若草書房)を参照)。なお、この黄表紙も洒落本『安倍川の流』共々、原本が失われているが、戦前に模写され、謄写版印刷した資料によってその姿を知ることができる資料の一つである。なお、『安倍川の流』については、近年、新しい写本一本が発見され、静岡大学附属図書館の所蔵となっている。

二丁町の細見

酒楽に関連して、二丁町細見についても改めて情報を確認しておこう。「駿府の花街」で、漆畑弥一は、『晁東仙郷志』を引きながら細見について整理し、以下の四点を紹介している。

① 安永九 (1780)年  吉野屋酒楽版
*法月吐志楼旧蔵書には「安永九庚子年春正月板元駿府新通六丁目吉野屋七兵衛」という奥付がある由。
② 文政年間   版元不明 一枚摺り
③ 天保十三(1842)年  巴屋文助版 (『本道楽』に図版を収録)
④ 安政六 (1859)年 小松屋徳兵衛版 『駿府二丁町細見四季詠』

これらについて漆畑は、「以上の四種の細見は故法月吐志楼氏が所蔵していたが、惜しくも戦災で失われ、現存している物で所在のわかっているものはない。」と述べる。漆畑は、後に『静岡大百科事典』で、『静岡全盛花街一覧』(明治二十二年、山本正為刊)、『静岡双街見立鏡』(明治二十五年、野村知義刊)の二点を追加している。

しかし、現代の目録の整備、及び、田中明氏・丹羽謙治氏の御協力により、所在が判ったものがある。現時点では未確認のものもあるが、『国書総目録』等によれば、安永版は東京大学教養学部・早稲田大学(小寺玉晁旧蔵)・尾崎久弥蔵、安政六年版は都立中央図書館加賀文庫・学書言志所蔵となっている。
また、田中明氏は、弘化二(1845)年版『四季の詠』(版元不明)を、中野三敏氏が弘化四(1847)年を所蔵されている(丹羽謙治氏御教示)。さらに近代の物として、『静岡全盛双街一覧』(明治十四(1881)年九月、鈴木傳吉編・加藤清三郎刊)・『静岡全盛双街一覧表』(明治二十二(1889)年、松本恒刊)が国立国会図書館に収蔵されている。また、後に触れる渥美真砂子氏は明治十五年版の『静岡双街一覧図』から図面を起こしている。
これらが全て別の物を指すと考えると、都合十一点になる。このうち、安永九年版は、『晁東仙郷志』にかなり詳しく紹介されているので、ここでは触れない。更に、細見ではないが、明治十五(1882)年の『静岡芸妓評判記』が都立中央図書館(加賀文庫)に所蔵されている。これは、『全盛双街一覧』と同じ、桃杏子序・鈴木傳吉編(序文の内容から桃杏子は、鈴木の号であろう)の活字本で、二丁町を含む静岡の芸妓に関する評判記で、遊廓と市中の貸座敷、或いは江尻、さらには東京との関係、静岡の遊び風俗など、興味深い指摘も多い。また、国立国会図書館には、昭和初年に刊行された、数点の全国版の遊里案内が存在するが、内容については現在未確認である。
さて、これらの細見のうち、全く所在が判らないのは文政の一枚摺りと天保版である。馬琴は、酒楽自身が刊行した細見は前後一点であると述べているが、その安永九年版は、長く途絶えていた二丁町細見の復活版であったというから、更に古い細見が存在したことになるし、幕末・明治期にはかなり頻繁に刊行されていた可能性もある。漆畑の指摘によれば、天保版は多少凝った物らしいのに対し、安政版は面白みがないとみえる。実際、管見に及んだ弘化二年版と安政六年版を比べると、序文は同文、口絵も賛を書き換えた程度(ただし、明らかに別版)で、代わり映えがしない。ただし、さすがに十四年の開きがあるから、情報は全く違っている。中野氏所蔵の弘化四年版も、同一意匠で、情報や口絵の賛に異同がある。おそらく埋木などによって弘化二年版を部分的に改版した物であろう。幕末の細見は、同一の意匠で情報だけ更新した物であった可能性がある。或いは、安政版は久々の復刊であったのかもしれない。
今、田中氏蔵、弘化二年版の構成を示し、序文を、句読点を付して掲げておく。

田中氏蔵弘化二年版は、原表紙、原題簽(だいせん)と思われる。見返しに「年中月次もん日」一丁表・裏にわたって、以下のような序文がある。

四季詠
はるは花にうかれ、なつはたちはなのかをゆかしみ、秋はちくさにめうつり、ふゆは梅かヽみにしみて、ふるしら雪をさへ花とみなし、ときにつけつヽおもしろく、さそはぬひともたつねきにけり。ましてものいふはなならんには。
弘化二年正月
玄参書

二丁表には、柳の下に誰也行燈が描かれ、「気にいらぬ風もあらふに柳哉」の句が入る。この句は、仙厓の所謂「堪忍柳」であるが、原拠・書承関係は未詳。二丁裏・三丁表も口絵で、桜らしい木の下を行く花魁・禿と、提灯を持って先導する男が描かれている。二丁裏には「臨川 印」と見える落款がある。三丁裏は「年中行事」四丁表から五丁表は茶屋の目録に当たり、五丁裏からからが本文で、十丁裏まで、大小十七軒を載せる。十一丁表は上段が「男芸者の部」、下段が「たいこもちの部」、十一丁裏は「女芸者の部」で、後ろ見返しに揚代(二分と一分)、世話役 増田屋平四郎・駕籠屋 池田屋庄右衛門・女芸者 会所 増田屋平四郎・男芸者 会所 井筒屋金蔵 とある。
遊廓の細見は序文などに文芸的な興趣のある物もあるが、基本的に有効期限の短い実用書であったから、散佚も早く、保存されることは稀であるし、発行部数もそれほど多くはなかっただろう。しかし、近世の地方文人・絵師・版元との関わりを考えた時、非常に貴重な出版物であることに変わりはない。一方で、これらの資料は、安易に公開することに問題がないわけではないので、今後研究の上、適切に公開していく予定である。二丁町研究の複雑さを理解して頂くために、明治十四年版の序文を、句読点を付加して引用しておく。

○往昔(むかし)文禄の頃、幕府の鷹匠に伊部嘉右衛門といふ者ありしが、至て忠義厚く勤務(きんむ)怠らざるを愛せられしにや、旧主静岡へ帰城の際(さい)、安倍川の東隅に百間四面の土地を賜りしが、其頃貧しき家の娘等密かに淫売なす由の華説(うはさ)ある因、嘉右衛門是等に説(とひ)て此地に露甍(あばらや)ながら広く家屋を設け、遊女御免を願ひ出て茲に創(はじ)めて客を聘(むか)えしより、其家号を伏見屋と称(しやう)せり。然るに歳々同業増加して信濃屋若松屋大和屋小松屋奥州屋等いへる遊女屋出来たるも、遊女は僉客のあらざる期は耕作に出、或は糸を繰筵を織居たる由、三絃もありしといへるが、如何なる事を弾(ひき)しや。夫より歳移り星変りて芸妓といへる者も出来しが、天明の頃、此家々は亡滅せしといふ。只小松屋奥州屋而已は其頃の家なりと云。然るに解放(かいはう)の令(れい)出て一時消滅の体裁(すがた)なるも、再回(ふたたび)興(をこる)一ト廓(くるは)、花と月との双街(にちやうまち)、自由稼のおいらんは、雪の膚(はだゑ)の愛敬に、誰も一回(いちど)は迷ひがち、お釈迦(しやか)さんさへ羅怙羅(らこら)といふ児までなしたる凡夫の身、況(まし)て末(まつ)世の煩悩世界、惚(ほれ)て通ふに何恐怖(こわ)かろふ、闇の夜道も雨の日も、細い腕(かいな)を首に纏(まと)われ、可愛(かわい)うざんす最愛(いとしう)をすと、云はれて見ねば世間萬伴、愛情別離の相庭(そうば)が知れず、手練の鰹節手管の味淋、一ト口喰て憂晴(うさはら)し、義理と意気地の味合を、賢固(かたい)お方も噛(かみ)〆て、深くはまらず誤(あや)らず、一膳箸をとるまえに、此一覧を是非一寸、開て指名(なざし)の鼠泣、お馴染甲斐にお求めを乞ふ。
桃杏子述

気の利いた譬喩と語呂の良い語り口が、何故このような不快な材料で埋め尽くされなければならなかったのか。ここに、不幸がある。

絵画資料等

酒楽関係で触れたように、歌麿が二丁町や酒楽を描いているほか、広重の錦絵もあり、黄表紙や『膝栗毛』の挿絵に描かれた二丁町の様子は、近世の状況を伝えている。二丁町関連の錦絵は、静岡で製作された物が相当に存在したと考えられ、二丁町関連の文化水準の高さを示す格好の材料となりうる物である。『本道楽』にも数点収録されているが、現存はほぼ未確認である。
今回は、『晁東仙郷志』巻頭に、縮小して掲載されている蓬莱楼の六枚続きの錦絵と同意匠の作品を、所蔵者である田中明氏のご厚意によって、白黒ながら掲載することが出来た。刊年は不明な物の、『晁東仙郷志』の記事から、明治二十八年以降、三十三年まで行われた「御殿女中風の花魁行列」を写していると考えられる。包装付で、保存状態のきわめて良好なものである。熨斗紙の存在によって、この豪華な錦絵が、蓬莱楼の配り物であったことも判明する。将来、予算が付けばカラー印刷で公開したいと考えているが、短期的にはインターネットでの公開を考えている。
「同意匠の作品」としたことについて若干説明する。田中氏蔵の物(以下「A」)には、「印刷兼出版人 静岡市寺町二丁目 岡部信次郎 応需 梅笑楼主人 彫工 小川彫刻所」とあり、法月が「筆者は幾英で」と述べているのとは異なる。「梅笑楼主人」が「梅窓幾英」である可能性も否定出来ないが、疑問が残る。改めて麗澤叢書の鮮明な画像を確認すると、これらは明らかな別版である。但し刊記は判読できない。一方「二丁町花魁の錦絵に就て」では、三枚続の「静岡市遊廓蓬莱楼真景」が「明治三十三年一月七日印刷同月九日発行東京浅草区茅町一丁目十三番地印刷兼発行者片田長次郎画工豊原国輝筆彫工間瀬光義刻」であり「蓬莱楼の発行で、夜毎の遊客に配った物である。」とした上で、六枚続きの錦絵について「同一発行人で、矢張同楼から発行されている。この方が少し早く出来たか、兎に角同時代と見てもよい。」とする。確かに「印刷兼発行者」の下に「片□□次郎」と読めなくもない。以下、推測の域を出ないが、これらの情報を総合するに、「御殿女中風の花魁行列」の存在した明治三十年前後に、まず、東京の絵師・板元で作成された六枚続きがあり、それを、静岡で覆刻再版した物が、別に存在したと言うことではなかろうか。
更に、今回掲載が間に合わないが、Aと同版の六枚続きは、静岡県立中央図書館と静岡市産業振興部にも収蔵されている。これらをAと比較すると、前者は若干色合いに違いがある程度だが、後者は、Aとは色遣いにかなり違いがあり、明らかに別摺である。以上四点、それぞれ精粗の別も様々で、にわかに前後を判別出来ないため、これらについては今後の精密な調査に譲ることにする。
このほか、近年絵葉書や銅版画が覆刻されており、往時を偲ぶよすがとなっている。
また、地図は、『駿国雑志』に掲載されているほか、焼失した『安倍川の流』にも、簡略な図があったことが知られている。近代の物としては、町割図が覆刻されているほか、聞き書きによって再現された物もあり、細見などと照合しながらある程度変遷をたどることが可能な状態になってきている。
権利上の問題もあり、今回参考図版には、非常に重要な物と従来余り紹介されていない物について、当該部分のみを掲載することにした。駿府・静岡の地図の多くは、県史・市史の付録として複製が存在するので、そちらを参照されたい。

戦前の研究

二丁町は1945年、空襲によって消失した。それ以前の二丁町に関する記述は、史的回顧と言うよりはむしろ、いわば考現学の領域である。それでも単純に風俗記事に堕していないのは、歴史を語るに足る、二丁町の格式と伝統に因る所が大きいのだろう。坂井闡「府中より静岡へ」「静岡新繁昌記」など、多くは、『静岡民友新聞』などに連載されたもので、1980年代に入ってから民間の地方史研究者たちによって発掘され、謄写版印刷の冊子として刊行されている。現在ではマイクロフィルムもあり、検索も容易になったが、当時の苦労は並大抵のことではあるまい。繰り返すが、静岡の郷土史は、こうした民間の研究者たちの連綿と続く地道な努力によって築き上げられて来たことを深く銘記しておく必要がある。

『晁東仙郷志』

さて、二丁町遊廓の消失以前に、この町について研究した文献の内、もっとも大きな成果は法月俊郎(吐志楼)の『晁東仙郷志』(1927)で、これも後に『二丁町資料集』として謄写版印刷で復刊されている(本書には『安倍川の流』も収録)。筆者法月俊郎(1888~1968)は、駿河郷土史研究の第一人者として膨大な業績を残しており、これまた謄写版の著作集が刊行されているのであるが、本書は、現在もなお、二丁町研究の基本文献の第一に数えなければならない存在である。後に触れる漆畑弥一の「駿府の花街」が、読みやすい形で復刊していることを鑑み、今回、本書を読みやすい形で再刊することにした。法月俊郎は、他にも二丁町に言及した文章があり、『法月吐志楼著作集』によって読むことができるが、この『晁東仙郷志』は、それらの集大成と言って良いものである。なお、覆刻解題を参照のこと。

『本道楽』

『晁東仙郷志』が麗澤叢書の第三輯として刊行されたのが昭和二年、この前後、静岡には、『本道楽』という、画期的な地方出版雑誌が存在した。大正十五年創刊昭和十五年廃刊、通巻173号を数える。一冊三十丁程度の小さな本であるが、執筆者、記事内容共に、地方出版とは思えない質の高さである。編集者は、西ヶ谷潔(1876~1936)。庵原の名家で、俳諧誌・柑橘関係の産業啓蒙雑誌・書籍を刊行。それに、古書目録誌『ほん道楽』を創刊した。第一輯は大正十四年十一月、第二輯が十五年三月で、それを発展させたのが、『本道楽』である。また、『駿遠豆叢書』を刊行、先に紹介した『安倍川の流』は、この一冊として翻刻出版された為に、焼失後も存在が知られていたのである。西ヶ谷の業績については、正岡子規の新俳句を静岡に広めた功績も見逃すことが出来ないが、話題が逸れるのでここでは省略に従う。
それにしても、心しておかねばならないのは、江戸時代から続く、俳諧ネットワークの重要性である。酒楽の江戸進出も、雪中庵・時雨窓俳壇と、天明狂歌壇のネットワーク無しには考えられない。十返舎一九も文芸活動の出発点は時雨窓であったらしい。西ヶ谷も法月も、ともに俳諧作者であり、研究者であった。そして、今、この文章を為すに当たって貴重な資料を大量に提供して下さっている田中明氏も、その流れの中に位置づけることができる。彼等は、単に俳諧・文学にとどまらず、様々な文化活動、さらには政治・経済活動に到るまで、俳諧を介して連携している節がある。一見何の接点も持たないように見える“異業種”の人々が、俳文芸を通して交流し、社会に対して少なからざる影響力を持ったことは、特筆すべき事であろう。
さて、話を二丁町に戻そう。『本道楽』には、焼失前の貴重な資料が紹介されており、研究の材料として利用されている。リストに挙げた物の他にも、関連する資料もあるので、『総目録』を一覧されたい。
その上で、『本道楽』の完全な覆刻の実現を、この場を借りて訴えたい。戦前の静岡が、誇るべき高度な文化の発信地であったことは、本誌を一覧すれば、だれでも納得せざるを得ないだろう。
なお、前項及びこの項に関しては、田中明氏の作成された資料、及び御教示によるところが大きい。改めて記し、御礼申し上げる。

漆畑弥一

戦後の郷土史家にも優れた業績を残した人は少なくないが、文化史的な視点を十分に備えた人物として、漆畑弥一の名前は特別に重要である。「駿府の花街」は、彼の二丁町研究の集大成であり、おそらく現在考えられる二丁町に関する最大の研究文献である。法月の業績を踏襲した上で、統計資料などを駆使して非常に実証的な研究になっているところに特徴がある。先に触れたように、現在『ふるさと百話』の復刊に伴い、黒沢脩の補訂を得て、非常に読みやすい形で提供されているので、詳しく触れないが、二丁町研究の必読文献であることは言うまでもない。

女性史

戦後の二丁町研究に特徴的なのは、女性による、女性史としての二丁町への言及である。『静岡県近代史研究』に連載された小長谷澄子氏の「静岡の遊廓二丁町」は、嘗て遊女であった叔母の思い出から、女将や遊女への聞き書きを中心にまとめられたもので、最末期の遊廓の実像を語る資料として圧倒的である。また、小和田美智子氏は「駿府城下の女たち」「幕末の社会変動と娘の身売り」で、『本道楽』などに残された資料を援用しながら、女性史の観点から二丁町を取り上げ、渥美真砂子氏は「遊廓二丁町」で、遊廓周辺の聞き書きと資料収集(特に変遷の資料になる地図は特筆すべき)を行って貴重な成果を得ており、学ぶことが多い。

公的史誌

『静岡市史』『静岡県史』、および、その編纂資料は、膨大な量に上り、二丁町に関しても言及がある。特に、県史近代編に代表されるように、廃娼運動に関わる記述は、ここまでに紹介してきた民間の文献に比べ、多くの公的な資料を盛り込んでおり、学ぶべきところが多い。また、統計資料や豊富な地図等も利用価値は高い。しかし、これらは、公的であるが故に、二丁町の空気を伝えるものではないし、当然のことであるが、文化史的な視点を持ち合わせてもいない。我々の研究・事業は、こうした公的な史誌を補完する位置付けである。

花柳界について

細見の項にも書いたように、近代には、遊女だけでなく芸妓についての資料も存在するが、今回は調査が行き届かなかった。よく知られるように、北原白秋が「ちゃっきりぶし」を作ったのは二丁町遊廓で、〆吉という芸者の独り言をヒントに筆が進んだ、と言う逸話は、既に伝説の域に達している。「『ちゃっきりぶし』ができた頃」は、当時を記憶する芸者さんの座談として、異色、且つ貴重な資料である。茶畑の絵葉書に笑顔を見せる茶摘み娘が実は芸妓であったことを含め、嘗て“芸者”と呼ばれる人たちが、観光や芸能文化の担い手として如何に重要であったか、再認識させられる。江戸文芸の授業で、芸者と遊女の区別が付かず、男の芸者がいることに驚く学生ばかり相手にしていると、彼等についても、また、正しく理解していく必要を感じざるを得ない。これも、今後の研究課題である。

未確認史料

ここまでに紹介してきた資料の多くは、既に述べたように、郷土史家によって調査された物である。戦前の資料に言及されていながら現在は所在不明と思われていたもので、今回再発見された物が含まれているのは喜ばしい。しかし、まだ見付けられない物、あるいは、存在する可能性が見えてきた物もあり、今後更に調査が必要である。静岡の歴史を研究する際、必ずぶつかる困難は、戦災と大火によって貴重な資料があらかた焼失した、という無視出来ない事実である。しかし、それでも出版物なら東京を含め地方へ流出したことも考えられるし、市内でも災禍を免れた資料はまだ存在するはずである。所謂古文書に比べて従来軽んじられてきた可能性のあるこうした資料の発掘も、我々に課された急を要する課題である。
その他、明治以降の原資料として、統計資料や新聞記事などが、殆ど手着かずのままに残ることになってしまった。新聞記事の内、『静岡民友新聞』の坂井闡の記事に代表されるように、連載物の中には、既にまとめられ、資料化された物も存在するが、実際の記事や広告などについては、全く手が着けられていない。
今回は、芸能関係で、『静岡民友新聞』の明治40年~42年に掲載された若竹座などに関する記事の抄録を掲載した。二丁町関係についても同様の作業が必要である。今後、このような、研究以外の証言についても改めて資料集を作成したいと考えている。

さいごに

冒頭に、「前置きがないと語りはじめられない研究対象」と書いた。教育にも研究にも経済効果が期待される今日、文学や歴史の基礎研究は、存立の危機にある。まして、大衆娯楽、遊芸、況や遊廓である。しかし、ここまでの研究史、そして資料の山を前にして、これらに対する検証作業の意義については、かなり理解して戴けたものと思う。
「不幸なる芸術」を見つめ直すことは、実は我々の今を考え、未来に何を伝えるのかを考える契機として、短期的な経済効果を遙かに超える精神的な影響力を持つ物であることを、重ねて指摘しておく。

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【参考】

1 『徳川時代の芸術と社会』 阿部次郎 角川選書48 19711030 角川書店

私は、それはerhebend(エルヘーベンド)(高める力のあるもの)でなくていやになったから取りはずしてしまったのですと答えると、彼女はドイツ流の率直をもって、ではなぜそんなものを私に下すったのですと反問した。「それはerhebendではないがanmutend(アンムーテンド)〈慰める力のあるもの〉です、それでいいじゃありませんか」――これが私の答えであった。そうして私は今でもこれを遁辞だとは思っていないのである。
これらの芸術が人の心を高めることをしなくしてしかもこれを楽しましめることの多いのはなぜであるか。人をanmutendする点においてきわめて長所を持っていながら、これをerhebendする力を欠くような芸術はいかなる地盤から生まれてきたか――これがヨーロッパから私の持ってきた問題の一つである。
(6 大正十四年八月)

私は深い溜息をもって、過去七年にわたる徳川芸術考察の筆を、ここに抛つ。それは、いつまで見まわしても、どこを見まわしても、「落行く先は」ことごとく、同じメルジーネの玉手匣(たまてばこ)である。私は七年の間、ほとんど痴に近い愛をもって、このメルジーネの玉手匣を、と見こう見した。そのうちから永遠に保存するに価いするものを、拾えるだけは拾い出した。なお細部に無限の問題が残されていることは自明を極めているが、最初から大観を任務とした私は、もうこの程度でお暇を頂戴してもよろしい時期に到達したであろう。しかも私の大観は、引導を渡す目的のための大観だった。私は初めから引導を渡すためにここにきたのだった。私は今ここから幾つかの珠玉を拾いあげて、この領域を立ち去ろうとする。そうして別離に、最後の弔問の鐘を鳴らす。不幸なる徳川時代の芸術よ、よき子孫によって未来に冥福を享くるを得んことを。子孫の新しき創造を待つ外に、汝の不幸なる魂は、永遠に成仏得脱の機会を持ち得ないのである。
汝はたしかに男一匹だった。汝の底に潜在する普遍人間性と民族的創造性とは、いかなる逆境の下にあっても、枯渇しつくし、死滅しつくすことはできなかった。しかし歪曲は社会関係の根本にあった。それは不滅なるべき普遍人間性と民族的創造性とを、右にひんまげ、左にひきまわして飽くことを知らなかった。汝は時として絶望の悲鳴をあげた。時としてはその不幸を忘れて浮かれ狂うことができるほどに深く不幸だった。しかもこの不幸の中にいながら、最後が近づくまで、絶えず生産的であり得たのはたしかに汝の名誉である。汝の名誉は汝の子孫の創造力に対するきわめてよき保証として、未来まで生きのびるであろう。しかし汝の不幸は汝の生産を小さくした。汝の生産物は、その悲鳴も絶望も、憧憬も歓喜も、すべてメルジーネの玉手匣に拾い集めるにふさわしい玩具に変形した。したがって汝の創造の結果になお永遠の生命があるのはむしろ偶然である。汝の本質的の名誉は、その生活力にある。いかなる事情の下にあっても、潜むだけで死滅するを得ぬ普遍人間性と民族的創造性とが、汝の小さい体躯の下にもなお自己を主張し通したところにある。ふたたび余のごとくには生きるな、ふたたび余のごときものは生産するな――おそらく汝が汝の子孫に叫びかける腹の底からの叫びはこうであろう。およそその父を、永遠にふたたびせぬことが最大の孝養であるばかりではなく、特にこの場合、父自身が最も自らに満足していないのである。もとより幸福なる父のうちには、汝らの創造において余の事業を参考せよと言い得る者がある。また幸福なる子が、その創造において、父の事業を偉大なる模範とする場合もまたけっして少なしとしない。しかしこの二つの可能性は、この特殊の場合には、二、三の例外と自然的条件とを除けば明瞭に拒斥せられなければならぬ。父はひたすらにその子によって自己からの得脱を望んでいるからである。子は勇敢に父の事業に反離することによって、不幸な父の魂を成仏せしむることを最大の義務とするからである。徳川時代の平民芸術よ、安らかに眠れ、汝の子孫は、彼らの新しい創造によって、必ず汝の憧憬を死後において満たしてくれるであろう――これが汝に対して私の発し得る唯一の慰籍の言葉である。
……私は以上の言葉を最後の引導として徳川芸術の問題を離れる。今日以後私はただ、散歩のついでに時々この地域に立ち寄るぐらいにすぎないであろう。そうして私がこれをもって最後の引導とするとき、今日の徳川研究における二つの立場と明瞭に自分を区別したのである。現代の混乱を脱け出でて前代の回顧に美しい夢を結ぼうとする道楽は、もはや新生活の創造に参加する精根の抜け果てた、耄碌(もうろく)頭巾をかぶった隠居どもの玩具にあてがっておけ。私はそんな閑人の仲間入りはごめんである。また現代のまん中に徳川時代を復活させんとする努力は、その実、現代をふたたびあのような混沌たる堕落の中にひき戻そうとする甚しい時代錯誤である。徳川時代の平民芸術は、現代の民衆芸術を基礎付けすべき権利と実力とを全然欠如している。むしろ徳川時代の民衆芸術を、その根本精神においては全然排斥せよ。ただその中から永遠に価いするもののみを、精選してしかして保存せよ。おそらくそうすることによってのみ、それは未来を醗酵せしむべき酵母の一部分となることができるであろう。徳川時代の認識が私にとって問題となるのは、それが脱離の努力にとって必要であるからである。私は過去に対するとともに未来に対して敬虔であることを欲する。そうしてこの人類全体に対する厳粛な敬虔の感情は、過去に対するセンチメンタルな耽溺を、断乎として許容しないのである。
私は徳川時代の研究について、ただ一つの立場に同感する――それは逃避と復活とのまやかしを離れて、民族発展における特殊なる一節としての歴史的認識を求め、これによって現代に新しき進路を指示せんとする立場である。
(59 昭和六年二月十六日釈稿)

2 『増訂武江年表』(東洋文庫196806平凡社)「解説」(金子光晴)冒頭

自然の整理はきびしいものである。私の弱冠のころは、働きざかりとよばれる年配の人たちの多くは文久・元治などの生れ、功成り、名遂げた人は、安政・天保の生れが普通であったが、今日、身辺を見廻して、元治・慶応はおろか、明治の初年の人たちすら、百歳か、それに近く、この地上から悉く、姿を消したといっていい。いまでは、明治すらが昔語りなのだ。明治は、旧幕時代の制度のみならず、気質・風俗からも脱皮しようとして抵抗した時代で、江戸を蔑にすることが進歩人というような青年の気風があり、ことごとに新旧が対立した時代であった。そして、私たちは、蟻燭のあかりがくらいように江戸はくらく、江戸の文化は半開で、とるにも足らないもののように教えられた。今日の若い世代の人たちにとって、江戸も、明治もおなじように遠く、殊更、江戸を疎んずる要もなく、一応公平な眼でながめていいわけだが、誤った通説も、反証する江戸生れがいないから、そのまま通すほかはないという失もあるようである。
私たちが、今日猶、伝承している風俗習慣やものの考えかた、感じかたにいたるまで、日本人らしいとよばれるものは、歴史上いちばん近いつながりをもつ、江戸から直接引きついだものと見てまちがいない。祖先の顔は知らなくても、遺産がけっこう子孫をうるおしているのである。江戸はまた、その前代から物質的・精神的な富をうけたにちがいないが、世界の歴史に類をみない昌平三百年が積みあげた人文の精華は、爛熟、精緻の極限をきわめたということができる。欧米文化の表面を模倣した明治の新文化などの太刀打ちできるものではない。江戸を知ることが今日いかに重要であるかは、日本人がじぶんたちの来歴を知ることの重大さと繋がっている。
しかし、江戸に抵抗を感じていた明治から大正へかけては、好まないにしても、まだ断ち切れない江戸とのつながりがあった。のこっている江戸人が生活していたというだけではなく、そののこっている江戸人のあいだで、江戸を引きついで生きてゆくよりほかない職業や、家筋があった。遊芸人や、老舗や、職人たち、一部の市井人や、文墨の徒なども、そのなかに入れることができる。世相の急変についてゆけない旧文化は、進展するには実生活の基盤がなく、旧態のままで、ますますかけはなれてゆくばかりなのは、自然の趨勢と言うよりほかはあるまい。そして、太平洋戦争も終って二十余年の今日、江戸はもう好奇心の対象でしかなくなったが、抵抗もなくなったかわりに、はっきり断絶したとも言える。江戸から猶、人々がうけついでいるなにかがあるとしても、それを誰かが指示し、立証してみせないかぎり、誰も気がつかない。それを承認する気持のなかにも、卑屈なおもいや、苦汁の影は伴わない。現代の日本人は、はじめて、ストレンジャーの眼で、新しいおどろきで、じぶんたちの父祖の遺したものに眼をみはる。じぶんたちの過去を、改めてふりかえり、定着しょうというこの時機は、大切な時であるとともに、方法をあやまてば、それこそとりかえしのつかない時にもなるのだ。
それと言うのも、今日の江戸認識には、明治がためにするために歪曲し、あるいは、欧米文化崇拝から感情的に擯斥した結果が、大きな汚染となってひろがり、眼前を妨げている点が多いとおもう。
時には、疎雑な模放文化にあきたらず、ことさらな美意識をもって、江戸を郷愁の場として再認識しようという徒輩が、それぞれの時期にいなかったわけでもない。例えば、永井荷風、邦枝完二等の三田派の文士たちなど、大勢からは反動とみなされる人たちであるが、好尚の恣意にもかかわらず、耳貸す人も多かったのは、埋没されかけた富の大きさに、ひそかに人が気付いていたからであろう。
大正期の江戸再認識は、こうした文人の所謂、江戸趣味であって、名に示す通り、それは趣味にかたより、偏奇に過ぎるうらみがある。と同時にまた、浅薄、皮相をまぬかれない。一部学者や市井の研究者、あるいは、特殊の部門に堪能な知識をもった人たちも少なくなかったが、そうした経験的な含蓄をもったものは、大正期をすぎて、昭和のはじまり頃をもって、年齢的な限界を示し、そののちの人たちは文献的な学者の徒で、折角の精緻と正確も、生活の雰囲気や、肉づけに乏しいのをいかんともするすべがない。がらくた芝居や、映画などによって、一般人は、江戸の影像をつくりあげているようであるが、それもまた、浅黄裏の天下の“開化と旧弊”の物尺でなければ、錦の御旗の正義感、もしくは遊侠の徒の義理人情などの類で、三百年がかもし出した、重厚で、洗練された江戸人のセンスをつたえるものは、稀というより皆無と言っていい。
江戸に関することと言えば、封建制のもとでの人間蔑視、藩公への藩士たちの強いられたみじめな忠誠、あるいは武士の切捨て御免、町人文化の淫靡、低俗、遊里を中心に栄えた流行風俗、個人よりも家中心の家長の絶対権力、家系をたやさないための蓄妾の正当化、その他の悪政、悪風俗、鎖国による世界の水準からの万般のおくれなど、否定面ばかりがとり立てられてきたのは、それによって明治の新政の優越性を強調するための国策の線に添うての選択であって、政治的色彩の濃いものであることは、言うを侯たない。勿論、江戸の政治が圧力政治で、その政策が、愚民政策であり、人民の平和が、生簀のなかの平和であったことは弁解できないし、明治の政治が、圧力のうえでは、さらに重さを加えながらも、列国の趨勢に鑑みて、諸般の平等自由を人民に約束している点を進歩とみることができる。さらに血肉と化してすでにわれわれのものとなっている日本人気質とも言うべきもののなかから、あきらかにそれと指摘できる、「岡っぴき根性」とか、権力や利害に弱い「ながいものには巻かれろ主義」とか、「御馳走政策」とか、「なあなあ主義」とか、封建制下の上から下までの人間の身の処しかたで、今日の処世の智慧としてのこっているものがなかなか多いことも事実である。
誤られていることを正すと同時に、短所は短所として認めねばならない。贔屓の引き倒しになってはなるまい。正確に江戸を認識することで、今日の日本及び日本人を鏡に映し、形容に就いて真底を質疑することは、これからの日本人の拠り所をしっかりさせるためにも、意外に肝要なことなのではないかと思う。それには、まず私達の受けついでいるものの多い、近い江戸を正しく認識するために、江戸をつまびらかに知ることが必要である。
時代が近いので、各方面の文献にはこと欠かないし、江戸時代に出版された書籍、明治以降に書かれたものを蒐集すれば、それこそ汗牛充棟もただならないということになる。名所図会、繁昌記、見聞録、随筆、雑筆、開き書のたぐい、刊本、写本をふくめて、風俗・人情の研究の資料となるものだけでもおびただしい量だし、稗史小説、院本、脚本、稽古本のなかにも、江戸庶民の生活感情のデタイユ(細部)をさぐるタネは、いくらでもころがっている。物故した三田村鳶魚のような物識り、古川柳の阪井久良伎翁や、江戸の招牌を手づから写し集めた画家の伊藤晴雨老人など、私も一面識あるそれらの人たちは、いづれも江戸については、自家の見識をもった人たちであった。むろんその人たちの遺著は、江戸を識るうえに参考になるものであることは言うまでもないが、明治の末頃には、各界に、聞けばその路のことならば、なんでも識っていると言った人たちがいくらでもいたので、それをきく人も、語るほうも、ことさら書きのこすこともしないまま、今ではさぐりようもなくなった枝葉のことがいっばいあったにちがいないことは、容易に考えられる。
先にも言ったように、明治末大正頃まで生きて、江戸を知っている人も、まず、天保まで遡ることがむずかしい。たとえ、文政年間に生れても、襁褓では、化政の爛熟の江戸のことは、親おじどもの昔語りできくのがせいぜいで、その人たちが成人するころは、すでに、物情騒然とした崩壊前夜の江戸であった。外患や内憂の風声鶴唳、偸盗の跋扈、人心の荒廃など、末日に脅えた日々の印象によって語られる生きのこりの追憶談などは、その時勢を識るにはいいが、それをもって江戸全般を律するようなことは、不当というものである。開府から王政復古までの大観した江戸を把握するには、所謂、歴史家の歴史があって、ほば誤りのない通説を開陳してみせてくれるだろう。大小の事件は、前述の文献によって、そのときどきの記述をさぐれば事足りると思う。

参考文献一覧

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19920321 海野福寿 「廃娼運動」 『静岡県史』 資料編18 静岡県
19930320 海野福寿 「廃娼運動」 『静岡県史』 資料編19 静岡県
19930622 山内政三(解説) 『明治前期静岡町割絵図集成』 静岡郷土出版社
19931115 若林敦之(監修) 『写真集 静岡県の絵はがき』 羽衣出版
19940521 宮下拓三 『街が語った物語』 静岡新聞社
19940820 静岡県近代史研究会 『史跡が語る静岡の十五年戦争』 青木書店
19940901 小和田美智子 「幕末の社会変動と娘の身売り」 『江戸期おんな考』 5 桂文庫
19950324 静岡県 『静岡県史 資料編22』 近現代七(統計) 静岡県
19950324 静岡県 『静岡県統計概表』 『静岡県史 資料編22』 付録 静岡県
19981128 漆畑弥一 「駿府の花街」 『ふるさと百話』 2 静岡新聞社
20000201 渥美眞砂子 「遊郭二丁町」 『お茶の実』 伊豆屋伝八文化振興財団
20000327 静岡市茶流通業史編集委員会 『「ちゃっきりぶし」ができた頃』 『静岡市茶流通業史編集資料』 1 静岡茶商工業協同組合
20001000 (無署名) 「二丁町物語」 『静岡文化情報「街かど」』 16 静岡市文化振興財団
20011018 前田匡一郎 「戦火と共に消えた二丁町」 西部公民館歴史講座 講演資料


二丁町研究の現在

小二田 誠二

はじめに

駿府・静岡にあった遊廓、安倍川町(二丁町)については、最初の『駿府・静岡の芸能文化』(〇三年三月。巻号表示はないが、以下、便宜的に「第一巻」とする)に、「二丁町遊廓研究の歴史と展望」として、研究史の概要や、意義などについて簡単に述べ、その時点で管見に及んだ文献のリストを掲載した。それから三年の間に、随分新しい情報ももたらされており、その一部は、既に第二巻などでも紹介している通りである。
本稿では、前稿を補うことを目標としつつ、二丁町そのものについて、概観しておくことにする。
なお、本稿は、私的な研究会である「駿府学問所」の第二回公開御座敷講釈(〇四年四月二十日)に基づき、また、第一巻の在庫が無くなってしまったことも考慮して、資料の引用は、重複する部分があることをお断りしておく。

一 大義名分

遊廓研究には、様々な困難がある。どこの都市のも、必ず存在したはずのものだが、行政にとっては、或いは、そこに住む多くの人たちにとっても、忘れてしまいたい負の遺産であることが多い。何をどう繕おうとも、所詮、性の商品化に過ぎない。
それは、確かに、現代的な視点から言えば、その通りである。売買春を公認すれば、性犯罪や感染症が抑えられる、等と言うつもりは毛頭無い。ただ、歴史的に見て、それは確かにあったし、そこには、「文化」が存在した。
例えば京都で重要文化財に指定されている揚屋、島原の角屋をどう評価すればいいのか。狩野博幸氏は「「遊里文化」という言葉を使っている。
……この語の意味するところは二つに分かれるように思う。一つは遊里が本然的にもっている文化で、島原内での年中行事、遊びの規範などがそれである。……島原・吉原・新町などの公許の遊廓が“悦楽の園”の面のみをもち、文化施設としての役割を果たしていなかったならば、厖大な情熱の集積というも愚かなあの遊里のエンサイクロペディア『色道大鏡』は決して生まれなかったであろう。……遊里が媒体となり文化の底上げが実現したのは厳然たる事実である「遊里文化」の第二の意味とはこれをさす。……
『角屋名品図録』一九九二〇三〇一 狩野博幸編 角屋文芸社

実際、二丁町遊廓が、単なる売春窟であったなら、ことは簡単だ。ここは、島原や吉原ほどではないにしても、近世は愚か、近代以降も、特異な文化拠点として機能していたことは認めておく必要がある。実際に、どのようなものであったのかを、まず確認しておこう。それから、なぜ、と言う話になる。

二 安倍川町(二丁町)の場合

二丁町に遊廓が出来たのは、家康が駿府に入って以降のことのようであるが、東海道の大きな宿場として、その前から遊女は居たらしい。
幕末にはかなり廃れた時期もあったようだが、駿府は、今川文化の伝統もあり、徳川将軍家の家臣たちとともに、芸術・文化の面でも地方の拠点であったから、遊廓にもその空気はあったと考えられる。
近代にはいると、鉄道工事がはじまり、まずは、工事従事者、ついで、観光客たちが、地方遊廓の客となる。やがて、清水が開港し、茶などの輸出によって、一大国際都市になると、静岡全体が潤い、遊廓にも新しい文化が次々と入ってくる。更に、城内にあった静岡連隊が、多くの若年男性を抱えていたこともあり、遊廓の「需要」には事欠かなかったようである。
こうした経済的・文化的な背景がある駿府・静岡では、遊廓が、江戸や京都と同様に、文化の拠点としての役割を持っていたものと思われる。吉原同様、廓の主人が俳諧をたしなみ、芸術家と交流し、経済的な支えになったこともわかっている。

三 二丁町細見

「吉原細見」同様、二丁町にも、遊里のガイドブックが存在していたことは、よく知られている。これは、単に風俗資料としてのみならず、地方印刷出版文化の資料として、非常に価値の高いものである。前稿では、様々な情報を総合して、すくなくとも以下の十点が存在したことを明らかにした。

① 安永九(一七八〇)年   吉野屋酒楽版
② 文政年間        版元不明(一枚摺り)
③ 天保十三(一八四二)年  巴屋文助版 (『本道楽』に図版を収録)
④ 弘化二(一八四五)年   版元不明 『四季の詠』
⑤ 弘化四(一八四七)年   版元不明 『四季の詠』
⑥ 安政六(一八五九)年   小松屋徳兵衛版  『駿府二丁町細見四季詠』
⑦ 明治十四(一八八一)年  鈴木傳吉編・加藤清三郎刊 『静岡全盛双街一覧』
⑧ 明治二十二(一八八九)年 松本恒刊 『静岡全盛双街一覧表』
⑨ 明治二十二(一八八九)年 山本正為刊 『静岡全盛花街一覧』
⑩ 明治二十五(一八九二)年 野村知義刊 『静岡双街見立鏡』

このうち、②③はその時点で実物の所在が不明であった。
また、細見以外の関連出版物として、
① 明治十五(一八八二)年  『静岡双街一覧図』(コピーあり)
② 明治十五(一八八二)年  桃杏子序・鈴木傳吉編 『静岡芸妓評判記』
にも言及している。

その後、ネット公開している報告書の第一巻をご覧になった島田市の川柳研究家、杉山和佳氏からご連絡を戴き、情報交換があった。杉山氏は、早くから、二丁町細見の覆刻を志し、情報収集をされており、このご縁で、〇五年二月、上記のうち、①④⑤⑥⑨の五点を、和装極小本『駿府二丁町細見集』乾坤二冊として複製、私家版として刊行された。
同書の後書きに杉山氏が「時機というのはあるもので」と書かれた通り、これと前後して、やはりインターネットで知り合い、今回資料紹介を掲載した漆畑氏から、③の、天保版を所持している旨、連絡をいただき、早速杉山氏にも通報すると、あっという間、六月には、「補」一冊として本書を複製刊行された。これは、「今回の天保十三年版の発見によって、現在判明している冊子型二丁町細見は全て覆刻することができた」(杉山氏「はしがき」)ことになる。画期的なお仕事であり、僅かながらではあるが、お力添えが出来たことを誇らしく思っている。

四 その他の関連資料

漆畑氏が紹介された増田屋文書は、ネットオークションに出品されていたもので、冒頭にあるように「駿府学問所」メンバーである、田中傑氏と、両人で購入、今回の紹介となった。本資料の位置づけは漆畑氏の解題にある通りで、個別の茶屋や揚屋ではなく、二丁町遊廓の老舗であり、中核でありつづけた増田屋の、見番に関する文書として、二丁町のみならず、遊里の制度を考える上でも、貴重なものと考えられる。
このほかに、近代の二丁町に関わる資料、或いは、写真、そして、蓬莱楼の錦絵の東京版など、新しく資料が出現していることは、第二巻で触れた通りである。
今後も資料収集に努めるとともに、改めて、聞き取り調査を急ぐ必要を痛感している。

次に、二丁町の年譜稿を掲載するが、その前に二丁町遊廓の沿革について、前稿で紹介しなかったものを一点あげておく。これは、 久保田甚作編『御成婚記念静岡県職業名鑑』(静岡県職業名鑑編纂会 大正十四年)所収「双街沿革大要」である。この記事は、後に出版された、森惠作『静岡遊廓史話』と文章が一致するため、森惠作の草稿などから抄出されたものと思われる。

静岡は元駿府と称し徳川将軍の老せし地にして東海道中中々古き歴史を有し従て人口多く市街も繁栄したり遊廓の設けられしは今を去る事三百余年前慶長二三年の頃城州伏見の人にて伊部加右衛門と云ふ人家康公の鷹匠役を務め居りしが年既に老いて其の職に堪へ難く官に請ひて其職を辞し老後の隠居役として府中の南隅即今の二丁町にして遊廓の在る所に当時切支丹屋敷と称し百間四方の土地を下賜せられ市内に散在して風俗を猥せる淫売婦の取締をなさんとて此の地に集めて遊廓を設けしを始めとして爾来引続き今日に至まで糸竹の響き絶ゆる時なし、静岡市制を施行して初めて安倍川町と称し旧の如く一廓をなし俗に二丁町と称し居れり此の二丁町と称するは元方二町許りなるを以て斯く称へたりとも云ひ或一説には元と七町なりしが元和年間江戸の新吉原へ五町を移して遊廓を設置したるを以て残り二丁なりしかば二丁町と唱へたりとも云ひ兎に角駿府遊廓より江戸新吉原(元鎌倉河岸)に移転せる事跡は種々の書物に遺り又当業者言ひ伝へにも事実たり、昨今は万光の街灯影鮮かなる所にして其の大門の両柱には富嶽煙華是其富双街花柳本無双と書せられあり、旧時純樸なりし時代に於て何故斯遊廓を公許せしかと云ふに将軍却て治平を図らんが為公然之を許して其の弊害を矯め一方には盗賊其他無頼漢等が此の遊廓に入りて遊興せるを窺つて捜索逮捕の便に供せんとの考へよりして之れを公許するに至りしものと云ふ以て如何に幕府が治を図りしかを知るべし、往時此二丁町僅かに七軒ありしのみにて即ち伏見屋嘉右衛門、小松屋七右衛門、信濃屋小左衛門、奥州屋清六、若松屋半蔵、大和屋某、丁字屋左右衛門等にして其の後松岡屋順次、吉村屋藤吉の二軒を増して七軒が九軒となり尚其後嘉永年間に至りて徳和屋七左衛門を増し十軒となれり其の後伏見屋末孫が安見世即ち切見世と称したる遊女屋を出願し千葉屋金子屋、岸本、三津屋、三春屋等ありしも中途風俗を乱したれば遂に差止められたり、昔より大門と云ふものありて番人二人置き尚中番に一人奥番に一人都合四人を置きて廓内を取締り且つ町内総ての小使にも使用したり此の遊廓は昔より花魁の健康を診断する医師の外何人たりとも駕籠りの侭出入りするを禁じたり、芸妓を監督するには見番と称しまた遊女屋の監督を三業事務所と称するも其の実客の廓内の喧嘩口論其他種々の出来事を取扱ふ所にして文政の頃より廓内の人にして侠客たりし増田屋飯田平四郎なる者町内に起りたる事件を悉く取扱ひ其人親切にして努めて平和を謀りしかば人望頗る厚し為めに見番の役をば挙げて同人に委託する事になれり盗難其他取調事出来たる時は係員出張して取調る前に其の下調べは必ず見番にてする事と成り居れり、今は遊廓の年中行事の如きは漸く其の一部分を備ふるのみにて殆ど古例を行ふもの少しと雖も往時繁昌したる頃に於て年中行事として必ず廓内にて為すべき事とさだめられ居たり当時は全国に於て類少なかりし呈静岡遊廓は名声高かりしものなり、其の当時の年中行事種々あれ共此処には之れを略す、静岡遊廓として特記すべき一美談あり遊女の敵討として有名なる事にして略記すれば元美濃国郡上城主四万八千石を領する青山大蔵大輔家来郡奉行遠藤嘉平治が信州高遠の領主内藤某の家来に廣瀬軍蔵と云ふものありて後浪人して前述の嘉平治に引立てられ推挙されて青山家に仕へ居りしが其恩義を忘れて恩人遠藤嘉平治の妻に横恋慕し意の如くならざる為め嘉平治と口論し遂に宝永二年八月十四日同人を殺して逃亡したり当時嘉平治に下婢として勤め居たる本名コヨ事主人の敵を討たんと此の廓内信濃屋に抱へられ豊里と名乗りて遊女となりて敵を捜索中常に念ずる敵討の大望神も援けたりしか敵改名したる大館九郎兵衛事廣瀬軍蔵と出会ひ享保二年八月廿四日即ち主人の殺されたる日を以て安倍川原に目出度敵を討ち取りたると云ふ一事なり、明治初年火災の為二丁町は不幸にして其厄に罹り当時営業せる主なる小松屋、吉村屋、松岡屋、奥州屋、徳和屋丁字屋、千葉屋、末の屋の八軒と外に安見世卅六軒ありき此の火災の為楼主も変り以前の繁昌影なき有様となれり、現在の楼閣は皆火災後のものにして楼十三軒引手茶屋三軒あり、今昔を紀念すべく俗に御酉神社境内に記念碑を建立し静岡遊廓の起源を記す

右に見える「現在」の「楼十三軒」は、同書にそれぞれ紹介されている。いま、それを創業年代順に並べ替えて以下に列挙してみよう。

貸座敷業 小松楼 徳川中期時代創業 森とも
当廓創始時代大松楼より分れたるものにして喜報楼と共に最も古き歴史を有す(由緒)
明治三十八年小林七兵衛氏より森氏買収して開業
貸座敷業 喜報楼 徳川中期頃創業 森惠作
当喜報楼は廓内に於て古代よりの歴史を有する事第二位に当り前身吉村楼を森氏創業に当り喜報楼と改称せしものにして当主は其の四代目なり(由緒)
貸座敷業 江戸楼 明治維新前後創業 村松もと
貸座敷業 蓬莱楼及洋装 明治三年創業 手塚忠告
日本三大楼の一 明治十八年洋館建設
貸座敷業 吉田楼 明治十六年三月創業 川口平次郎
二十有五年にして家業の発展をなし多大の蓄財をなし現時に至る尚ほ氏は書画骨董に趣味を有し珍貴の品を多く貯蔵す、中にも崋山の名画等数幅を蔵せる
貸座敷業 清水楼 明治三十二年七月二日創業 清水譲平
貸座敷業 巴楼 明治三十六年七月創業(鈴木屋。魚大の合資により関本為吉氏より移管、後三ヶ年にして全部引受) 飯田栄次郎
貸座敷業 若松楼 明治四十五年一月一日創業 松下亀吉
貸座敷業 音羽楼 大正三年十一月一日創業(元吉野楼を引受) 福井音吉
貸座敷業 高砂楼 大正十一年四月創業(元福井楼を買収改称) 中村圓次郎
貸座敷業 恵比寿楼(元増田楼、大正十二年改称) 飯田
貸座敷業 三河楼 大正十一年八月創業(元松月の後を買収改称) 江村倉次郎
明治三十九年岡崎市で萬年楼を経営(経歴)
貸座敷業 初音楼本店 (先代創業)市川竹蔵

沿革にあるように、近代の二丁町遊廓が、意外と新しい店によって構成されていることが、改めて確認できる。なお、ここに登場する十三楼の多くは、二丁町の最後まで続いていたと考えられる。

五 安倍川町年代記を試みる

さて、第一巻以来の文献資料の収集によって、二丁町遊廓の大まかな歴史をたどることが、可能になってきているように思う。以下、あつめた資料にある事柄を、とりあえず年代順に配列してみることにしよう。
ここで使用した文献の殆どは、第一巻に掲載した文献目録に掲載したもので、いちいち列挙しないが、敢えて、別に加えたものがある。それは、田中明氏による、駿河の俳諧史研究の成果と、森田鶴堂という職人の事績(白鳥金次郎『森田鶴堂翁傳』森田鶴堂翁顕彰刊行会 昭和三十年 による)である。
駿河俳壇は、雪中庵の流れを汲む時雨窓を中心として、中央とも盛んに交流していた。田中氏の資料発見によって、十返舎一九も少年時代に駿府で俳諧をたしなんでいたことが明らかになっている。そして、年譜にあるように、二丁町丁子屋の主は代々、俳諧師として聞こえた。
森田鶴堂は、現在、殆ど知られていない人物であるが、伊豆の長八と並び称される鏝絵の名手で、両替町に現存する不去来庵の扉絵など、僅かに作品も現存している。彼は、明治から昭和にかけて、静岡のみならず、全国の旅館・遊廓に作品を残し、また、展示会を催して鏝絵の普及に努めるなど、静岡左官業の最重要人物である。そして、その仕事の中心となったのが、二丁町蓬莱楼の内装であった。これは、焼けるまで存在しており、遊客でなくとも、見物することが出来たらしい。
これらの情報を、二丁町の年譜と併せてみた時、冒頭で述べたような、文化の問題も、朧気ながら見えてくるように思われるのである。

二丁町遊廓年譜稿(未定稿・原資料ほぼ未確認)

一六〇七 慶長十二年  家康駿府入。
一六〇八 慶長十三年 五月二十日 「大水。駿府かぶき女并傾城……」『当代記』 ◎八月二十五日 「駿府遊女共……町を割被渡……」『当代記』
一六〇九 慶長十四年  五月二十五日 駿府ノ娼家……安倍川ノ辺ニ其地ヲ定ラル」『武徳編年集成』 ◎五月 伊部勘右衛門、官許遊廓造営(安倍川町。弥勒?)。
一六一六 元和二年  家康歿。
一六一八 元和四年  十一月 江戸吉原開業。
一六四七 正保四年  二月 伊部勘右衛門歿。墓所は上石町明泉寺。
一六七五 延宝三年  十一月二十六日 安倍川原敵討(遊女協力) (→『遠藤孝貞記』『敵討駿河華』)
一六九二 元禄五年 二月 「町数並家数人数覚帳」(漆)
一七〇三 元禄十六年 裏門・内門を閉め切り、通り抜け禁止。(漆)
*寛保年間 遊女廓外外出禁止。暮れ六ッに大門閉鎖。(漆)
一七六三 宝暦十三年  八月八日 風一窓(小島)葛才(安倍川町 丁字屋七代半右衛門)、盤古(羽州寒河江の人。大島蓼太門。時雨窓初代・月巣)・都雁と関西旅行。(田中)
一七六五 明和二年 十返舎一九(戯作者・両替町)生。
一七六六 明和三年  五月十七日 葛才歿。二十五才。(田)
一七七八 安永七年  七月 水茎葛人(葛才弟。松柯亭、水茎廬、武左衛門。丁字屋八代。「駿陽十哲」の一人。妻武舞・子羯楼・姪紫英も俳諧(漆))『ものの親』(葛才十三回忌追善)成。(田)
一七八〇 安永九年  春 新通六丁目吉野屋七兵衛(酒楽)『二丁町細見』刊。
*天明年間~ 矢入葛渓(呉服町一丁目)、日記に登楼記事。文人・武士・商人交流。重田家(一九生家?)も。(道楽)
一七八一 天明一年  『敵討駿河華』(黄表紙 伊庭可笑作 北尾政演画 岩戸屋)刊。
一七八二 天明二年 十二月 『雪中庵蓼太評月次三題納会書抜』刊。一九入集。(田)
一七八三 天明三年  一月 蓼太『歳旦歳暮』時雨窓連、一九入集。(田) ◎十一月 葛人『ものの親』刊。(田)
一七七四 天明四年  春 月巣、葛人と江戸に遊び発病。(田)
一七八五 天明五年  一月五日 月巣歿。五十六歳。 (田) ◎正月『重重人重歌曽我』(歌舞伎 江戸桐座)に市川門之助が「駿河二丁町吉野屋の酒楽実は吉田の下部軍助」。 ◎冬 高井几董、丁字屋葛人のもとにに遊ぶ。「興津鯛 冬のわさびも たヾならず」。
一七八六 天明六年  五月一日 矢入葛渓、文母に誘われ丁字屋へ登楼、葛人・酒楽と呑む。葛人の馳走。(道楽)
一七八七 天明七年 大島完来、駿河行脚、時雨窓滞在。(田) ◎九月七日 大島蓼太歿。七十歳。(田) ◎九月二十三日 葛人歿。三十七歳。完来、霊前に免許状を手向ける。(田) ◎十月 『桑の願』(葛人追悼・時雨窓文母編。駿陽渡辺伊逸)刊。(田)
一七八八 天明八年 四月四日 『葛のうら葉』(小島葛才追善 呆々庵兀子編)刊。(田) ◎『吉野屋酒楽』(黄表紙 山東京伝作・北尾政美画 蔦屋重三郎)刊。 ◎五月十一日 司馬江漢駿府に逗留。『西遊日記』 ◎この年?「(酒楽鹿島立図)」(錦絵二枚続き・歌麿画・蔦屋版)
一七八九 寛政一年  『鳴呼奇々羅金鶏』(黄表紙 山東京伝作・喜多川歌麿画・蔦屋)刊。*吉野屋酒楽登場。
一七九〇 寛政二年  『呼継金成植』(黄表紙 時鳥館主人作・桜川文橋画・山東京伝序・秩父屋)刊。*吉野屋酒楽登場。 『絵本駿河舞』(金鶏序・歌麿画・蔦屋)刊。*酒楽狂歌入集。 ◎八月十六日 葛渓、「狂歌月の摺物」を見る(天明八年、蔦屋刊、「戯歌月乃奈賀免」か。酒楽入集?)。(道楽)
一七九三 寛政五年  時雨窓歳旦に酒楽入集。(道楽)
一七九四 寛政六年 時雨窓歳旦に酒楽・遊女小紫「思ふ枝風にまかせて柳哉」入集。(道楽)
一七九八 寛政十年 吉野屋酒楽歿か。
一八〇二 享和二年 曲亭馬琴、駿府逗留。『覉旅漫録』に二丁町記事。
一八〇三 享和三年  『道中膝栗毛』二編(滑稽本 十返舎一九)刊。
一八〇五 文化二年 『復讐阿部花街』『恋仇被形容』『朧月安西堤』(黄表紙 一九作 喜多川月麿画 村田屋)刊。
一八一三 文化十年  『安倍川の流』(洒落本 雨雪軒谷水作 未刊)成。
文政年間 版元不明一枚摺りの「細見」。(漆畑)
一八四二 天保十三年 『駿国雑誌』成。 ◎十月「細見」(巴屋文助)刊。
*天保年間? 『当世青洒落』(洒落本)成?(道楽)
一八四五 弘化二年 『四季の詠』(細見)刊。
一八四七 弘化四年 『四季の詠』(細見・一部改版)刊。
一八五四 安政一年 十一月 地震。
一八五五 安政二年 「駿府安倍川町遊女屋江戸表え出稼願書下案」。(道楽)
一八五六 安政三年 『蔦紅葉宇都谷峠』初演。
一八五七 安政四年 『鼠小紋東君新形』初演。
一七五八 安政五年 「大小の桜二十本を植うる」(道楽)
一八五九 安政六年 『四季の詠』(細見) 小松屋徳兵衛刊。
一八六四 元治一年 『處女翫浮名横櫛』初演。
一八六八 慶応四・明治一年 三月二十七日 安西火事、市中不穏。 ◎六月二十日 府中宿に遊女屋(伝馬町遊廓)。(漆) ◎十月六日 廓出火。
一八六九 明治二年  静岡遊廓復興。
一八七〇 明治三年 十二月 伝馬町遊廓廃止。二丁町に移転も。 ◎鶴堂、馬場町愛嬌亭で刺青(「大蛇丸」。六世伊豆屋伝八から刺青始め代として一両受ける)。
一八七一 明治四年 六月四日 臨済寺門前情死(江尻菓子屋甥岩本和三郎・安倍川町小松屋遊女薄雲)。 ◎六月十日 住職(今川貞山)施餓鬼修行(鴛鴦塚)。中村敬宇作・向山黄村跋「情死論」朗読。翌十一日夜、副司智堂の床傍に男女の霊。 ◎この年「徳和屋七右衛門抱遊女並禿」記録(道楽・漆)
一八七二 明治五年  十月二日 娼妓解放令。
一八七四 明治七年頃  鶴堂、師範学校破風下に「鯉」三匹施工。
一八七六 明治九年  「女紅場」設立。四徳教育。(漆 八年十一月説) ◎「私娼衒売罰則」余録) ◎四月五日 「娼妓黴毒検査諸施設方」 ◎八月二日 『重新静岡新聞』に私娼取締記事。 ◎八月二十四日 小松楼芸妓「おたか」売淫、罰金八円。(『重新静岡新聞』)(漆)
一八七七 明治十年  県令により芸妓を廓内に居住せしむ。
一八七八 明治十一年 「明治十一年第六月売高一覧」(貸座敷行事)(道楽)
一八七九 明治十二年 九月 教育例発布、女紅場、私立修行女学校と改名、三十年頃廃校。後に県立黴毒病院。
一八八〇 明治十三年 『静岡繁昌小記』(新井金尞)(漆)
一八八一 明治十四年 一月四日「静岡花くらべ」(『静岡新聞』付録)(漆) ◎三~五月 鶴堂、静岡滞在中の入江長八を訪問。 ◎九月三十日 『静岡全盛双街一覧』(鈴木傳吉編・加藤清三郎)刊。 この年、町芸者許可。(余録)
一八八二 明治十五年 二月 県「娼妓並貸座敷引手茶屋取締規則」「同賦金徴収規則」(漆) ◎二月六日『静岡芸妓評判記』(桃杏子序・安倍川町鈴木傳吉編・出版)御届。 ◎『静岡双街一覧図』刊。
一八八五 明治十八年 七月 蓬莱楼増築、洋装娼妓を置く。
一八八七 明治二十年 五月 蓬莱楼、女学生風張見世。
一八八九 明治二十二年 東海道線開通。 ◎春 鶴堂、蓬莱楼の二・三階の戸袋に「神代諸神」鏝絵壁画。(漆) ◎六月十日 『廓全盛うでくらべ』(一枚摺り番付)(漆) ◎『静岡全盛花街一覧』(山本正為)刊。 ◎六月一九日『静岡全盛双街一覧表』(山本正為編 松本恒発行)刊。 ◎七月十日~ 鶴堂等、富貴寄席で彫刻展覧会。その後横浜、東京で鏝細工興行。 ◎十二月 鶴堂、蓬莱楼と「由比民部之助正雪公肖像」契約。 ◎この年? 島田奚欵(英学者。御器屋町に私塾、漢学・英学教授)大門に「富嶽煙霞真是富、双街柳本無双」。
一八九〇 明治二十三年 九月二十日~十月三日 鶴堂、新吉原松戸楼の戸袋等に施工。次いで小塚原世界楼にも施工。
一八九一 明治二十四年 鶴堂、鏝細工、東海地方興業。
一八九二 明治二十五年 鶴堂、蓬莱楼(西洋館)に「四季花の間」(四畳半・八室 椿・紅葉・藤・松・竹・梅・雁))・入口土間天井(龍)施工。 ◎十月 蓬莱楼、屋内花魁道中(チャンリン)開催。二十八年五月まで。別に御殿女中風の張見世三十三年まで(→錦絵一八九九) ◎この年『静岡双街見立鏡』(野村知義)刊。(道楽)
一八九三 明治二十六年 『静岡繁盛記』(野村鉄太郎)(漆)
一八九四 明治二十七年 三月十七日~四月三十日 鶴堂、江の島恵比寿屋(蓬莱楼縁戚)壁面施工。 ◎六月 鶴堂、第四回内国勧業博覧会に額面六、柱かけ一出品。 ◎この年 「静岡双街記念之碑」(星野鉄太郎撰文)建立。
一八九五 明治二十八年 二月、鶴堂、蓬莱楼高塔(二間二尺四方、高さ二間三尺)内に原田重吉(日清戦争功名者)平壌城内外再現。 ◎三月 鶴堂、蓬莱楼に「武者の間」(七室 一ノ谷・曽我復讐・楠公・尼崎(秀吉)・登城(江戸城)・義士復讐・威海衛海戦)(三十年?) ◎五月九日~ 鶴堂、新京極で展覧会。 この年、鶴堂、静岡商品陳列館出品作品、紀州公買い上げ。
*日清戦争(一八九四~九五)前後 二丁町定価表貼出し(吉原より数年早い)。*蓬莱楼石版画この頃か?
一八九六 明治二十九年 鶴堂、蓬莱楼入口土間天井(間口三間半、奥行二間)に「雲に一匹龍」。一日で施工。
一八九七 明治三十年  静岡連隊設置。(漆) ◎二月十七日~ 鶴堂、江の島恵比寿屋壁画施工。
一八九八 明治三十一年 五月 手塚忠兵衛(蓬莱楼)、宝台院大修理寄進。 ◎七月七日~ 鶴堂、新吉原松登楼戸袋施工。続いて野村楼・世界楼・松村楼・稲本楼も壁画、置物等。
一八九九 明治三十二年 三月 手塚忠兵衛、宝台院に日清戦争戦死者木像・大額七面寄進。鶴堂は額を制作。娼妓も拠金。 ◎九月二十七日 「静岡市蓬莱楼御殿女中張見世之図・静岡市蓬莱楼御殿女中行列之図」(錦絵六枚続)「東京市浅草区茅町一丁目十三番地印刷兼発行者片田長次郎画工東都幾英筆 彫工間瀬光義(刻)」。 *「印刷兼出版人 静岡市寺町二丁目 岡部信次郎 応需 梅笑楼主人 彫工 小川彫刻所」)の別版あり。前後不詳。 ◎十一月十五日 『花がたみ』(三上康正編 紺屋町酔興社)第四号刊。「芸妓教訓狂歌」(森正風)「静岡花街大鳥神社奉燈情歌及び発句」(判者一葉)。 ◎この年鶴堂、蓬莱楼洗面所(九尺四面)天井に「羽衣天女」、壁に「三保の松原富士」小壁に「漁師伯梁」小天井に「楽器尽」。同年喜報楼戸袋に「曾我兄弟夜討」。 ◎この年、清水開港。
一九〇〇 明治三十三年 一月一日『花がたみ』第六号刊。「静岡市芸妓三優投票第弐回得点披露」 ◎一月九日 「静岡市遊廓蓬莱楼真景」(錦絵三枚続)。「東京浅草区茅町一丁目十三番地印刷兼発行者片田長次郎画工豊原国輝筆彫工間瀬光義刻」(娼妓揚代・道楽・荒木磯吉蔵) ◎夏 小松楼小太夫脱出美普教会に駆け込み、騒動。 ◎十月二日、娼妓取締規則発布、自由廃業認可。 ◎十一月五日~二十九日 鶴堂、豊橋伝馬町豊田屋化粧室その他施工。
一九〇一 明治三十四年 二月二十日~三月九日 鶴堂、江の島恵比寿屋浴室に元禄女性姿。 ◎三月二十二日「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則」「同 取扱心得」(県令)。(小長谷)
一九〇二 明治三十六年 六月 鶴堂、江の島恵比寿屋「水族館」施工。
一九〇四 明治三十八年 一月一日「口演」(料金改正ビラ)。(小長谷) ◎四月二十八日 手塚忠兵衛、感応寺に鶴堂肉筆彩色の額三十九面(内三十七面は「日蓮上人一代記」)奉納。本堂・柱に龍、釣り壁に四天王。 ◎七月『花柳風俗誌』刊(漆) ◎この年 鶴堂、伊伝不去来庵戸前に仁王像施工。左右唐戸上に忍冬唐草模様。
一九〇五 明治三十九年 鶴堂、左官彫刻工友塾発足。 ◎鶴堂、藤枝清水楼の戸袋に鶴と松。
一九〇七 明治四十一年 一月二十二日 小林藕塘(小松楼十三代の息。渡辺崋山・椿椿山に学び、教導職)歿。七十七歳。(漆)
一九〇八 明治四十二年 鶴堂、新門家の斡旋で浅草料亭等に壁画。新門の印半纏を贈られる。
一九一四 大正三年  六月 鶴堂、息太津蔵を御大礼用京都駅貴賓室人造マーブル工事に派遣。秋、上海人造マーブル工事にも。 ◎八月二十九日 洪水。
一九一五 大正四年 十一月八日 シカゴ大学教授フレデリック・スター、二丁町訪問。蓬莱楼の漆喰細工を日記に記す。
一九一六 大正五年 一月十五日 鶴堂、左官組合を六十歳で隠退。彫刻下絵四十余枚を寄贈。
一九一七 大正六年 一月十一日 鶴堂、左官組合弐番組に聖徳太子像寄贈。 ◎一月、鶴堂、「七福神図」に自讃。 ◎五月 鶴堂、外国人茶商の通訳鞍智某の紹介で漆喰セメントで箱庭を作り米国へ送る。 ◎七月 鶴堂、浅草料亭橋本屋に「山水」、中清に「紅葉と竹」。 ◎九月 鶴堂、喜報楼戸袋に「曽我復讐図」、小松楼表小壁に「松に鶴」、「雁」。
一九一九 大正八年 夏? 鶴堂、キネマ館正面裸体美人塑像・庇にライオン。 ◎九月 鶴堂、蓬莱楼の「神代図」・「八またの大蛇図」彩色修理。 ◎この年? 鶴堂、静岡博覧会に金鯱製作。
一九二二 大正十年 十一月 鶴堂、名古屋中村町大国楼の戸袋に「曽我夜討」。 ◎三月~十月 鶴堂、蓬莱楼四階(「玄武門」を壊して改装)に「動物園」施工。
一九二三 大正十一年 鶴堂、廿日会祭当番町の車町に「花咲爺」の飾り物製作。
一九二四 大正十二年 鶴堂、等身大花嫁人形、五分の一位の嫁入り行列、製茶人形一体を米国へ、白象の香炉を印度へ。
一九二六 大正十四年 安倍川町、廿日会祭当番町。(小泉)
一九二七 大正十五年 三月 張見世廃止、写真見世に。(小長谷) ◎春 鶴堂、彫刻工友会に「技術研究部」発足。
*大正末期  鶴堂の作品、松月楼壁面に「波に千鳥」、安倍川町寿司國表戸袋に「白鯉二匹と波」、清水美濃輪稲荷茶屋の戸袋に「花馬」、清水松原町大島組宅に「仁徳天皇高殿図」、東草深渡辺別荘の小壁に「川の流れに水鳥」。
一九二七 昭和二年 三月十六日『晁東仙郷志』(法月吐志楼 麗澤叢書刊行会)刊。 ◎五月 北原白秋小松楼で芸妓〆吉から「きゃぁるがなくんで雨ずらよ」。 ◎この年 山田長政の縁でシャム国王から静岡市に釈迦像寄贈。鶴堂、像を乗せる模型の象を、若竹座道具部屋で作成。その後、像は狐ヶ崎遊園釈迦堂に安置されたが盗難。
一九二八 昭和三年 十一月 静岡市左官組合、本通六丁目極楽寺に聖徳太子像建立。
一九二九 昭和四年 六月二十五日『全国花街めぐり』(松川二郎著 誠文堂)刊。
一九三〇 昭和五年 四月三日『静岡遊廓史話』(森惠作 安倍川町貸座敷取締事務所)刊。「今は貸座敷十三戸、引手茶屋二戸、取締事務所一、芸妓見番一、其他飲食店カフエー等なり。十数年前双街全盛の時は、娼妓の総数二百五十名を数へたりしも、今は減じて娼妓大凡百九十人芸妓十一人となれり。」 ◎四月五日 「花魁道中」(小長谷) ◎七月七日『全国遊廓案内』(日本遊覧社)刊。「茲には廓音頭と云ふ華かな踊りがある。」 ◎八月一日 「改正御遊興料」(静岡市安倍川町貸座敷取締事務所)(小長谷)
一九三一 昭和六年 四月 鶴堂、聖徳太子像掛軸頒布会。 ◎七月下旬~九月下旬 鶴堂、安立寺音羽移転に伴い、欄間の壁に「十六羅漢」見返しに「天女」。 ◎十二月~七年三月下旬 鶴堂、研屋町顕光院位牌堂内部壁面に、釈迦如来・阿弥陀如来等施工。
一九三二 昭和七年 十一月 鶴堂、手越東林寺本堂正面釣り壁に「十六羅漢図」。
昭和六、七年頃 「二丁町入口」ネオン取り付け。(小長谷)
一九三三 昭和八年 夏 鶴堂、浜松大平楼浴室に「川魚」一式。
一九三四 昭和九年 七月二十三日 鶴堂歿。七十八歳。墓所は安立寺。
一九四〇 昭和十五年 一月十五日 静岡大火。
一九四三 昭和十八年 暮頃 住友金属高松工場工員宿舎として売却契約、中島へ移転も。(小長谷)
*このころ 遊女も勤労動員、廓内に畑も。(漆)
一九四四 昭和十九年 七月頃 朝鮮人女性「慰安婦」約百名静岡へ。後に一部は静浜基地建設現場へ。(小長谷)
一九四五 昭和二十年 六月十九日・二十日 空襲により遊廓焼失。
一九四六 昭和二十一年 公娼廃止。