ニュース言語の江戸・明治
初期新聞の表現
日本の新聞小説は、明治十年前後、戯作者が関わった小新聞において事件報道を殊更に読み物化して連載した「続き物」と呼ばれる記事を起源とすると考えられている。そして、「続き物」とその後の小説との連続不連続については既に多くの研究があり、本号にもまた最新の研究が掲載されることと思う。主として近世の実録を研究材料として「事実」について考えてきた筆者の興味はその前段階、草創当時の新聞記事の記述そのものにある。
「続き物」等の読み物記事の多くは、七五調、掛詞などの修辞を多用し、ストーリー展開や人物設定にも作為が見られ、現代の我々が想像する新聞記事とは明らかに異質であって、「小説」「読み物」という呼称を与えることに殆ど抵抗を感じない。そのことを認めた上で、それならなぜ、はじめ、それらは新聞記事としてあり得たのか、と言う疑問が浮かぶはずだ。実際、「続き物」以前にも、修辞的、或いは作為的と取れる記事が無かった訳ではない。新聞錦絵に代表される明治初期の猥雑な報道は、しばしば写真週刊誌と関連づけて紹介された。そういう意味で、これらの新聞記事は、スポーツ紙やワイドショーの「報道」と通底していると言えるだろう。そして、近世の通俗時事(=歴史)読み物としての実録と地続きであるかのような印象もぬぐえない。江戸の実録は、メディアを変えて、明治初期の新聞や大衆小説を経て、現代のゴシップジャーナリズムまで脈々と生き延びたということなのだろうか。もしそうだとすれば、現在いうところの「客観報道」は、どこから生まれ、どこにあったのかを問う必要がある。我々は、一方で「まっとうな報道」を「まっとうな新聞」や「まっとうなニュース番組」を通して受け容れながら、一方で娯楽のようにニュースを消費している。そういう精神は、おそらく、いつの時代にも存在した。今検証する必要があるのは、日本で新聞が産声を上げたその時、「まっとうな記事」がどのようにしてあったのかと言う問題だろう。そして勿論「作為」や「まっとう」の内実も。
こうした問題に関連して、早くから新聞雑報記事に注目してきた山田俊治は、近著『大衆新聞が作る明治の〈日本〉』(1)において、初期の『読売新聞』記事を通して続き物及びその後の大衆小説を準備した大衆新聞のあり方について詳細に検討し、新聞というメディアが、大衆教化、国民統合のために大きな力となったことや、その中から娯楽的な物語として小説的に享受可能な雑報記事が立ち上がってくる過程を明らかにしている。
現在の所、新聞小説前史について、この本を超えて論じる事は、私にはできそうにない。本稿では、それより更に早い時期、草創期の新聞において事実はどの様に認知され、流通したのかと言う問題について、江戸時代との関連を意識しながら、必ずしも「小説」にこだわることなく考えてみたい。そのことはまた、現代に生きる我々にとってニュースとは何か、と言う問題に対しても示唆を与えてくれるものと思う。
以下、江戸時代のニュース感覚について概観した後、「新聞紙条例」前後(つまり明治二年始め)までの新聞記事を中心に実例を拾いながら右の問題について検討する。尚、注を伴わない初期新聞の引用は、全て『日本初期新聞全集』(2)による。現代の読者の読みやすさに配慮し、句読点を付し、現在通行の字体に改め、またルビを省略した。初期新聞を考える上で重要な改変であるが、ここでの論旨には影響しないので、これも個別には注記しない。
ニュース・歴史・物語
吉見俊哉は、「『ニュースの誕生』を問いなおす」(3)の中で「今日、ひたすらニュースの新しさを追い求め、次から次へと新しい事件が起こるのを欲望し、またメディアとしての新聞やテレビはそうした欲望を構造的に再生産しているようにも見える」一方で「我々は今日、必ずしもニュースの新しさだけを消費しているのではない」と述べている。こうした、一見矛盾するニュースへの感覚は、江戸時代にも存在している。
現在我々が見ることの出来る江戸時代の時事史料としては、原資料と見なされる古文書(これも書写されて流通した)の他に、仮名草子・浮世草子等の時事小説、世話物の戯曲、祭文・口説などの歌謡、読売・瓦版と呼ばれる刷り物、また、落首・落書、風聞集、実録等の写本類がある。情報統制がそれほど厳重でなかった享保の改革以前には、時事的な題材を扱った所謂際物は、小説としても芝居としても少なからず存在していたし、日記や随筆の類に書き留められた風聞は、これらの情報が如何に大量に流通していたかを物語っている。また、『藤岡屋日記』のように、ニュースが商品として流通していたことをうかがわせる資料も存在する。こうした、いわば新聞の先祖については、既に多くの新聞史で言及されており、現に手元にある数冊の新聞・ジャーナリズム史の書物も、新聞前史として、上に挙げたような資料を列挙している。しかし、これらでは浮世草子や戯曲は殆ど触れられず、実録写本も「聞書」に関する記述の一部にそれと認められる物が混在している程度で、正面から論じられてはいない。ここにはおそらく、吉見が前掲論文で問題にした「小野秀雄の『新聞=ニュース』観」と通底する問題がある。ニュースは新しさだけで消費されているのではない。少なくとも江戸の人々は新しさだけを求めて当代の事件をすぐに忘れることはなかった。回り道になるが、江戸時代人にとってのニュースについて概観しておこう。
右に述べたように、新聞史の多くは、板本小説や浄瑠璃、そして実録も、新聞の先祖とは見なしていない。しかし、近世文芸の研究者達は、早くからこれらの作品群の「ジャーナリズム性」について議論しており、その成果として、近世の情報統制や筆禍、或いは商業主義や表現者の自主規制などについて、多くの実例が知られることになった。筆禍について言えば、宮武外骨の『筆禍史』も近世を含むジャーナリズム史研究の成果として忘れてはなるまい。
こうして集積された江戸期のニュース史料が新聞の先祖と見なされなかったのには、所謂定期刊行物(ジャーナル)でなかったことばかりでなく、「事実でなく虚構」、と言う弁別があったと考えられる。しかし、もはやそこからは何も語り得ない。実録についてみてみよう。
実録は、規制によって同時代の事件を出版できなかった近世にあって、写本で流通した。まれに日付のある写記があったとしても必ずしも信用できないと言う写本の宿命から、どの程度の速報性を持ったかを正確に知ることは難しい。ただ、馬場文耕のように、未解決の事件を講じた上で写本を配布した例が実際にあったとすれば、ニュースとしての意味も速報としての商品価値もそれなりに存在したと言える。しかし問題は、実録などの写本が、事件から遙かに時を隔ててなお話を増殖させ、書き継がれ、読み継がれていたという点にある。つまり、実録写本は、速報としての「ニュース」としてよりむしろ「歴史」あるいは「物語」として消費されていたことになる。近松の世話物にしても、事件から間を措かずに上演されたことに大きな意味があったし、近代に至って復活されるまでそのままの形では殆ど再演されることのない、その時限りの際物であったが、一方で物語としての完成度は近代以降高く評価されているのである。先にニュース史料として挙げた歌謡や聞き書きの類も確かに読売などとの関わりもあったが、必ずしもオンタイムの情報という訳ではない。特に歌謡、音頭・口説きの類は、各地に民謡として定着し歌い継がれている例もあって、消費の仕方はむしろ実録に近いと言える。我々現代人にとって、ニュースが日々生まれ、忘れ去られていく物であるのに対して、江戸時代のニュースは、時間をかけて物語として醸成され、記憶されていくものだと、少なくともある程度大きな事件に関して、取り敢えず位置づけられるだろう。否、物語として記憶されたからこそ大きな事件であり得たと言うべきか。ともあれ、常識に照らして、これらは「新聞」の先祖ではないと言うことも可能である。しかし、一方で、山田が明らかにした大衆新聞の物語る欲望と、出来事と解釈の確立までの時間に長短はあるものの、非常に類似した関係であることは指摘できるだろう。或いは、解釈(物語化)速度の問題でしかないと言えなくもないし、実はその事こそが、江戸と明治の隔てであったかも知れない。
風聞・見聞・スクラップ
一方、新聞の祖先の一つと認知される風聞の類は、どの様にまとめられ、利用されていたのだろうか。前にも触れたように『藤岡屋日記』(文化元年から慶応四年)は新聞の機能を持つ写本であったといえる。藤岡屋は古本屋であったが、主人由蔵は店頭で日記を付け続け、その情報を売った。その記事について吉原健一郎は「主観を排し、出来るだけ客観的に事実を記録しようと努力して」いるとし、山口孤剣『東都新繁盛記』の「本邦新聞通信業の祖ともいふべき」と言う評価や、横尾勇之助「由蔵小伝」の「見聞に係る処は柳営の沙汰、下馬の風聞市中の流行事の大小となく記したるものにして、其文章拙なりと雖も其事実の正確なる、余の信じ疑はざる処である」といった評価を紹介している(4)。また、藤岡屋の情報売買について南和男は『日本都市生活史料集成』の解題(5)で、「新しい情報を求めるため藤岡屋を訪れるものが増してきた。それはまず諸藩の記録方や留守居役であったろう。彼等は幕府の意向や城中の動きなどに敏感で、その詳報をいち早く掴む必要があり、またそれが彼等の重要な職務でもあったからである」「大きな大名であれば多数の家臣を使用し、独自の調査網を備えるなどして、かなりの情報収集が可能であろうが、貧乏大名ともなると、とてもできるはずがない。いきおい藤岡屋への依存度が高まらざるをえないのである。一方、由蔵のほうは(ペリー来航という=引用者注)時局の急転で思わぬ商売繁盛となり、人を使い、情報提供者に金を払ってもよい情報を手に入れ、高く売ろうとする。」と指摘する。その上で南は記事の変遷を概観し、「化政期の内容は概して新鮮味に乏しいが、天保以降は他書に容易にみられない江戸市中の様相を記した独自の記事が次第に増」すが「安政以降は……ペリー来航までにみられたような市井の記事は逆にいちじるしく減少する。」と言い、その事情を次のように推測する。
記述の大半は幕府の諸国への通達、城中における人事をはじめ諸侯の上書や願書・届書といった具合の記事となる。そのためときには幕府の公式記録書かと錯覚させられるような部分が少なくない。以前のように情報提供者が市井の町人によったと思われるものから転じて、茶坊主などのように江戸城内で情報収集に便をもつと思われるものからの情報がいちじるしく増加する。したがって江戸市中の庶民の動向を伝える記事は捜すのがしだいに困難となってくるほど少量となる。ペリー来航以降政局の動揺にともない、由蔵は情報の媒介者として諸藩の留守居や記録方の要望にそった内容の収集に努めたため、『藤岡屋日記』の内容が変容したものと思われる。
長い引用になったが、これは、初期の新聞が新聞紙条例以降、政局の安定にともなって再出発した時の状況を反転させたかのように対照的である。日記が慶応四年三月で終わっているのも象徴的である。
南の指摘したように、柳営はもとより、各藩邸には情報収集を職務とする家臣がいた。彼等のサークルの中から黄表紙という江戸戯作の新しいジャンルが生み出され、やがて寛政の改革で咎めを受けたことを想起しても良いかも知れない。このような情報収集・報告書の代表格として、水野為長が松平定信のために「世間の風評もとりぐ様々なりしを、翁見るにつけ聞に付つヽ、その事を撰ばずことごとく筆にしるし」た『よしの冊子』(6)が思い出されるし、『元禄世間咄風聞集』は大名を含む貴顕のサークル内での情報交換の記録であり、筆者も大名の家臣らしい(7)。町奉行だった根岸鎮衛の『耳嚢』はそうした情報流通の場に講釈師の関わったことを示してもいる(8)。享保期の講釈師、神田白龍子の『雑話筆記』なども大名家との関わりの中で生まれた物であろう。このような「咄」の場は、戦国時代の御伽衆を引き継ぎ、竹斎や浮世坊の出自としてだけでなく、時事的な仮名草子の成立基盤とも考えられるように、近世以前から情報流通に重要な意味を持って存在し続けたのである。
ところで、『藤岡屋日記』を一般向けに紹介(リライト)した鈴木棠三は日記の文章について興味深い指摘をしている(9)。これも初期新聞を考える大きなヒントが大量に含まれているので、長くなるが引用しておく。
藤岡屋日記は面白い本だが、よく読みこなせないので、興味が半減するという批判をよく耳にする。実録物に共通な文体も脈絡が不十分で理解を妨げる。……に付、……の由、……の間、さり乍、然る間と言った接続詞が安易に頻出すると、時間の関係や人物の位置が掴めなくなるので、右の批判も尤もであると感じる。(…略…)話を運ぶのに不用意であり、読む者に甚だ不親切である。(…略…)また実録物には描写がない。すべて叙述で、それからそれからといった流儀である。
藤岡屋日記の七、八割を占める物語は、事件の中心を占める人物に対する判決文を骨子としている。その前書として、事件の前段、いきさつなどの叙述がある。関係者は大抵複数であることが多いから、それらの各人に対する判決文が幾つも並ぶことになる。(…略…)しかしこうした口書を採用することによって、同一事件の経緯について各人の自供が一致を欠く部分を生じ、奉行はいったいどちらを採用したのかと疑われる場合も生れる。どちらとも一決できなかったから、そうしたのだと言われるかも知れないが、そこをはっきりしてもらわぬと、事件を叙述する者は困ることがあるのは事実である。判決文だから、処罰ははっきりしている。だが、断罪に至らないで吟味中という場合もあり、断罪されてその後どうなったか書いてない例が少なくないのはやむを得ない。しかし、物語に結末がないということは、読者の感興を削ぐことおびただしい。もちろん、藤岡屋由蔵は、極力後日譚を蒐集して追補をしている。
一つの噂話は、次々に噂話を産む。伝播の速度が速いばかりではなく、いや俺はそうは聞かなかったぞと、異説を付け加える者が出てくる。それをさらに綜合する者もある。藤岡屋日記の著者にも、そうした志向が強いが、口頭の噂話の場合は、水面の泡が自然に寄り合ったり消えたりする現象に似ている。それから、さらにひと才覚ある者は、狂歌や落書を作って、締め括りを付けたりする。藤岡屋由蔵自身そうした傾向が強い。
現地調査であれこれと聞き集めると、互いに矛盾し合う資料があったり、まとめても一つのすっきりした話にしかねる場合などが往々にある。(…略…)通報者から、ひとまとめにして提供された話の場合は、比較的自在に調理しやすいが、自分が聞き集めたいくつもの断片は、わりあいとすっきりまとめにくいのである。
ここまで『藤岡屋日記』に対する先学の指摘を引いてきて疑問に思うのは、由蔵はどこからこのような商売を思いついたのか、ということである。店頭で日記を付けた行為の効果を考えれば、最初から商売を意識した可能性は十分にある。南和男は前引の解題で、よく似た例として『日本永代蔵』巻二「世界の借屋大将」に見える京都の藤屋市兵衛を紹介し、「まさに経済通信社のはしり」と評している。由蔵は江戸で、藤市は洛中で重宝がられたが、この手の情報屋は地方を含めて他にも相当存在したことが予想される。例えば、『梅桜一対奴』(10)に見える越谷の百姓小右衛門は「年八十にあまりてむかし作りとてがんじやうなる生れにて、しかも物覚よく、所の重宝と、仇名して日記小右衛門」と呼ばれたと言い、この時事小説の主人公の仇敵探索を助ける人物で、由蔵の地方版といった趣である。情報の新しさということを棚上げすれば、都市にも村にも、そして様々な組織にも、こうした有職家は必須であった。実際、初期新聞の重要な部分を占める事になる法令の類も、こうした役割を担う人々によって書き留められているのである。新聞の先祖を考える時、最も重要なのは、実は高札場に掲げられた触れや申渡書の類であり、『太政官日誌』が印刷物として全国に均質な情報を行き渡らせた功績はそれとして、近世にも同様の官製の公文書流通機構があったことを忘れてはならない。
それにしても、彼らがこうした情報の記録と公開を商売と考えたかどうかは別の問題、というより、由蔵の場合、社会情勢が「思わぬ商売繁盛」をもたらしたのかも知れない。一方、公務や商売を抜きに考えればこうした記録魔・記憶魔は更に多く存在する。『甲子夜話』のように、内部的には読み継がれることを想定し、目次を作らせた例もあるから、現在「随筆」と呼び慣わされている多くの見聞・風聞集も、案外そうした需要を見越して書かれていたのかも知れない。記事の質も文体も、戯作調の文章、既にルポルタージュとして高い評価のなされているものから、断片的な情報の未整理な集積まで様々だが、彼らは彼らなりの本文批判を行い、実録を含めた異説を整理して実説に辿り着こうと言う姿勢(それはそれで彼等の物語への志向なのだが)も見える。
一方、情報を自分の言葉を介さずにそのまま残そうと考えた人もいる。例えば、幕臣宮崎成身は、『視聴草』百七十八冊を編纂した。膨大なスクラップブックである。彼はその「緒言」で編集の意図を述べている(11)。
奇を好み新を喜ふは人の常情なり。然れとも世の好みはおほく一時の談柄となして雲烟の眼を過るかことし。予これをおしみ凡そ平生耳目に接する事は片言隻辞といへとも必らす筆録して篋笥に投す。積こと年あり。飜閲に煩らはしきを厭ひ即はち別に改写して冊をなし名つけて見聞艸といふ。十冊を一集として二集三集接続して編録せんと欲るなり。もとより古今雅俗を別たす雑然として併せ録す。又侘人の著作筆記の類も零篇砕冊は繕写して其中に収め永く伝へむことを謀る。此書もとより世に公にせんとすにあらす。深くわか帳秘として座右の使用(雨窓の消遣)に備ふるのみ。 庚寅仲冬月 城北百拙齋識
生前に他見を許したかどうかは明確に出来ないが、『続徳川実紀』や『古事類苑』に引用されていることが解題に指摘されている。また、同様のスクラップを大槻磐渓も作成していたことが、工藤宜『江戸文人のスクラップブック』(12)に紹介されている。必ずしも同時代の資料ばかりでないこれらのスクラップブックは、当時の情報流通のすさまじさを物語っている。世間一般ではニュースは通り過ぎ消えていく煙のようなものである。その情報を押し留め、固定すること。必ずしも後の検索に対して配慮がなされたとは思えないその蒐集・保存は、しかし、氷山の一角であって、個人的な嗜好と断じるわけにもいくまい。
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さて、ここまで、江戸時代のニュース感覚について、情報の収集・記録・保存・公開といった問題を頭の隅に置きながらたどってみた。実録や各種文芸でも風聞集でも、出来事を物語的に理解し記述しようとする意志は同じであり、風聞集の類ではそれが果たせない場合もあり、資料その物を収集することさえあったことなどが確認できた。『視聴草』のいう「一時の談柄」云々は、他者によって短期間に解釈し尽くし語り捨てる行為として在ったのであり、解釈を加えないスクラップの方法は「通報者から、ひとまとめにして提供された話」の収集であって、必ずしも物語の欲望その物の放棄とは言えないことは確認しておく必要がある。こうした前近代の感覚について押さえておくことで、初期新聞のあり方はどの様に見えてくるだろうか。明治の新聞に話を戻そう。
物語として
ここで再び山田の論攷に目を向けよう。山田は、「新聞は日常的な現実を定位してくれる仕掛けであり」、「出来事が生起する〈世界〉を〈物語〉的な世界によって代替し、その言葉による世界を現実として受容した」と指摘し、現実の出来事を物語として定位し「言葉によって意味付けられた世界を現実と見る感性を人々が所有し、それ以外の〈世界〉は狂気や架空な非合理という枠で隔離したとき、人々は安心して虚構を現実と化す模写の理論を受容することができた」(13)という。
実際、近世における際物、例えば近松の世話物や時事的な浮世草子の類も、出来事を安心できる物語として定位することで成り立っている。敵討も心中や殺人も、それぞれに固有の、しかも普遍的に理解可能な理由や原因があり、納得のいく結末が存在する。既に論じたことがある(14)が、これは実録写本にも通じることである。理解できない、驚くべき出来事は、時間をかけてその落ち着きどころを求めて増補・修訂され、その社会が納得できる物語として定位され、歴史として認知される。実録本文の流動・増補は、出来事を意味付け、理解する欲望によって続けられるのである。つまり実録は、出来事を物語として位置づけることを通して、現実世界を理解可能な物として可視化する役割を持っていたと言える。既に触れたように、音頭・口説きの類も、一つの完結した事件を、由来を尋ねる伝統的な語りの作法で表現するスタイルを持っており、出来事は「物語」として提示されている。これらの記述(或いは語り)の有り様は、常識的には「まっとうな報道」とは言いにくい。受け手にとって必要なのは、その出来事の、疑問の余地のない意味である。
ところで、ここで語られる「物語」は必ずしも権力や特定の個人によって意図的に操作された情報というわけではない。噂話と同様、出来事の解釈は、多分に保守的な、共同体の声である。明治初年は、御一新・文明開化という大きな物語が、国家レベルでメディアを席巻した時代であった。その時大衆紙は江戸の民衆に新しい物語を植え込む恰好の場であったろう。新しい物語が共同体の発想の骨肉となれば、あとはどんな出来事にも安定した解釈が自然に成り立つ。否、新しい物語は、一つの出来事に同じ解釈をするように、共同体その物を自らに合わせて再構築したのであった。ここまで来れば、江戸戯作に代わる新しい大衆小説の発生も時間の問題だろう。
さて、先に引用した山田の論文も近著も、明治十年前後の新聞記事を対象としている。それは、それ以前の新聞が必ずしも庶民大衆に直接的な影響力を持ちえなかったことによる。開化期の「国民」と大衆小説の起源を論じるには、メディアとして弱すぎたということだろう。しかし、おそらくそれだけではない。初期新聞と、新しい新聞の間には、見逃すことの出来ない断層が存在するのである。節を改めて、新聞紙条例以前の新聞について概観してみよう。
初期新聞の位相
『日本初期新聞全集』は、第二十巻までが第一期で、安政四年から慶応四(明治元)年までを掲載している。そのうち前半の殆どは外国語の新聞であり、日本語で書かれていても多くは翻訳である。日本人による文章が中心になるのは慶応年間に入ってから、それでも翻訳や引用が多くを占め、その新聞固有の記事はなかなか見つけられない。つまり、たとえ物語への意志が読みとれたとしても、それは記事のソースの側の問題でしかない状態だった。新聞とはそういうものであったということをまず記憶しておく必要がある。『バタビヤ新聞』が『阿蘭陀風説書』を引き継いで刊行された物であることが象徴するように、新聞は、外(或いは上)からもたらされる情報をそのまま広めるもの、まさに風聞集であった。記事の殆どが「の報告に拠れば」「或る新聞にいへるは」といった引用の枠組みを持っている。こうした状況が崩れ始めるのが慶応四年である、と断定してしまうのは強引に過ぎるだろうか。しかし、実際、『日本初期新聞全集』所収の年表によれば、慶応四(明治元)年には、それ以前の総数を超える五十紙以上が創刊している。量が質を凌駕しようとしていた。戊辰戦争が、新聞記事、或いは新聞その物のあり方を変質させる大きな意味を持ったのは疑いようがない。関東近郊も戦場になるのである。
例えば、閏四月十七日『内外新報』第十五号の記事。
閏四月二日午後零時十五分に品川沖のかたに当りて砲声きこゆ。横浜に於て外国船祝砲をうつかと思ひて袖時儀を見るに砲発の間あるひは三秒あるは十五秒あるひは一秒又は三十秒等にして時間そろはず。その音も空砲とはちがひてあとにひヾきあり。翌三日の夜十時ごろに本所のかたに火の光り見ゆ。夜半すぎて滅せず。五日の夜もまた同しかたに火の光りを見る。行徳、市川、八幡、船橋、の辺に戦争ありし由なり。されどもいまだ其確報を得さればこヽに其詳なることをのせず。
ここにあるリアリティは、周りの記事から浮き出て見える程に圧倒的である。「聞き」「思い」「見」た。伝聞ではない。戦場へ行ったわけではないが、確かな体験を記事にしている。出来事が向こうからやってきてしまった。このような、「意味」の確定しない断片的な「描写」記事は、戦争以外にも、偶々事件を目撃した記者の手によって書かれたと思われるものを指摘することができる(『遠近新聞』第十七号(五月十五日)・同第二十一号(五月二十日)など)。本稿考察の範囲を超えるが、これらの記者は偶然その場にいたのであって、まだ取材に赴くと言う状態にはない点、記憶しておくべきであろう。
これより前、二月には堺事件があって、外国紙と国内情報との乱れもあった。二月二十八日『中外新聞』第二号は、「二十一日付『横浜新聞』の訳」を掲載した後「右文中に云へる如くキウシウ船に託したる書状到着せず。堺に於ての人殺しの始末明白に相分るべし。依て其以前種々の異説ありとも敢て信せざるべし。」と注記した。このような情報の混乱は、「確報」「詳報」の確保を意識させると同時に、速報性との兼ね合いも問題化した。官軍につくか幕府につくかという立場の問題もある。こうした情勢のただ中、慶応四年二月二十三日に『太政官日誌』は刊行を開始し、維新政府は佐幕的な新聞への圧力を強めていく。こうして、開国に伴って世界情勢を知らしめるために発生したはずの初期新聞は、「政局の動揺にともない」情報戦の舞台になっていくのである。
情報戦の中で
戦時において正確な情報の収集・分析と計画的な発信が不可欠であることは、いつの世も変わらない。戊辰戦争は、新聞という新しいメディアを通して戦争当事者以外にまで情報が拡散した点が新しい。その情報によってどれほど一般民衆が影響を受けたかは別として、新聞の力が戦争当事者達にとって無視できるものではなかったからこそ『太政官日誌』は生まれたし、それに伴う情報規制もあった。慶応四年に数多くの新聞が創刊され、強い規制の中で多くが短命に終わったのもそうした情報戦と深く関わっている。もう暫く戊辰戦争に関わる記事を追ってみよう。
前に触れた船橋の戦闘については各紙が継続的に取り上げることになる。中でも『横浜新報もしほ草』は、早く第一編(閏四月十一日)に「勝敗はいまだつまびらかならず」として風聞を掲載していたが、第十編(五月十日)で次のような断り書きとともに改めて「実説」を掲載している。
このころ江戸の友人より両総合戦の実記をおくりきたれり。これは其いくさに出てたヽかひたる人のみづから書しなりといへり。初篇に載たる舟橋合戦とはおほいにたがへり。あれは閏四月六日に江戸より送来る書状によりてかきのせたるなり。其書状ハおほく世間に流布したるものと見えて其後二三人も同文の写を送来れり。されどあの説には江戸脱走方の兵おほいに勝たるやうにいへり。其後日蓮宗のぼうず行徳よりきたりしがこのもしほぐさ初篇を見てこれはうそばかりかいてあるとてわらへり。その実説をきかまほしとたづねしにいそがしけれどとてしばしものがたりぬ。つまびらかならねどたしからしければそれもうちまじへてこヽにしるす。
この「実説」記事は、第十編の全部を占めるばかりか、「木更津真如寺両処の戦争勝敗及び委細の事件ハ第十一篇にあらはすべし」として、実際十一篇巻頭に「両総合戦のつヾき」を「官軍勝利」の結末まで掲載している。『もしほ草』はそれより前、第三編(閏四月十九日)から「滑耀先生日記」という北関東の戦況に関する臨場感のある連載記事を掲載しており、後に本邦初の従軍記者と称される岸田吟香の報道感覚の一端を伺うことができる。
ところで、この記事は、単なる訂正・確報と言うにとどまらない興味深い事態を示している。第一編に掲載した書状は「多く世間に流布した」ものだというのである。佐幕的な記事を批判された吟香のバランス感覚を割り引く必要はあるにしても、「合戦の実記」が、当時なお、写本で、しかもかなりの速度で流通する物であったことを示しているだろう。近世以前の軍記本文の素材がどの様なものであったかを彷彿とさせる資料である。これらは、戦闘当事者の情報戦の一環として、或いは勲功の言い立ての為にあったはずで、それが新聞という新しいメディアに載ることで、思いがけない波紋を生んだことになる。
風聞そのものにもある種の作為があるかも知れない。『遠近新聞』第二十一号(五月二十日)は、五月十五日夕刻に紀州家上屋敷から二百人ばかりの士が去った「よし」を報じたが、これについて第二十七号(五月三十日)で「第廿一号に紀藩の士云々の事を載せしが今日一報あり右ハ全く伝聞の誤りなりといふ」と言う短い訂正記事を載せている。これに対し、『中外新聞』第四十三号(六月三日)は、前の『遠近新聞』の記事をほぼそのまま引用した上で、「右は跡方も無き風説にて取るに足らざる虚談なれとも知らざる者は実説と思ふ者もあらん。(…略…)此新聞出てより本藩の士さへ疑惑を生する者あり。各藩の将士豈疑を起さざらんや。此の如くなれは一句一章と雖も関係少からず。貴局の中外新聞は従来事実のみを記して此の類の妄説を採用せられざる事衆人の信する所なり。希くは此誤を弁して吾か藩の冤を一洗せよと紀藩士より申来れり。」と記す。他紙に対する不信と自紙に対する信頼を併存させる部外者の意見は、裏を読みたくなる程に好都合である。
この時期、他紙に掲載された記事に対する事実誤認の指摘は少なくないし、実際に当事者からの抗議文をそのまま掲載して謝罪する例(『日々新聞』第九輯(五月六日))もある。また、「看客の総代括嚢軒」なる人物は、新聞の数が増え記事の重複が多くなったことを批判し、情報の一元化を求める投書を複数の新聞社に対して送っている(『中外新聞』第二十四号(閏四月十二日)・『内外新報』第二十一号(閏四月二十四日))。こうした、情報の受け手の側の困惑は、外国の新聞、例えば陽暦十一月八日『ニューヨーク・タイムズ』の、九月二十日付横浜からの報告として載る「でたらめな新聞ばかり氾濫するこの町で、政府が発行するものより信頼できて、日刊新聞が情報の拠り所としている現在の支離滅裂な情報源よりましな情報をくれる人がほしい。そうすれば、今はばらばらの内容しか伝えない「朝のニュース」にも、ときどきは同じ内容のものがでるようになるだろう。」という嘆き(15)からも窺うことができる。
戦争ばかりではない。『内外新報』第十五号は、先に引いた砲声の記事の直前に、『中外新聞』第十六号(四月二十三日)の「髪切の怪談」と題する、小川町歩兵屯所での怪事記事(「社友元来奇怪の説を信ぜず。然れども左の奇事を目撃せりと云ふ人の有るに任せて付録して以て博物君子の定論を俟つ」と言う、解釈を保留したものだった)を引用した上で、「これは狸の祟りなりといふ人あり」とし、屯所中の稲荷に狸が住むのも知らず石を投げ込んだために髪を切られたのだと述べて「併稲荷の社に狐の住まずして狸の住しハ一奇事と言べし」と結んでいる。戦争情報のただ中におかれたこうした記事は、事実を確定する解釈軸そのものの不在を窺わせる。
「唯一つの事実」への欲求は、当然、発行者側にもある。しかし、いかんせん、情報を評価する時間が、そしてその手立ても、彼等にはない。「新聞紙の主意は確説を告知るにあり。されど互ひに速なるを競へバ伝聞の誤なきを免れず。勿論本号出板の後確報あれバ必ず其誤を正して次号に載すと雖元来伝聞のまヽ之を誌し敢て私意を加へざるが故に確報を得ざれバ之を改ること能はず。看官確証有りて謬誤を知り賜はバ遠近新聞社中江と御認め書林又ハ絵草紙屋まで御投じ被下候ハヾ幸甚」(『遠近新聞』第二十六号(五月二十九日))と言うように、彼等は勿論「実説」「確報」の収集に努め、主観を排し、誤りの指摘を求めてもいる。更に、報酬を出して情報提供を求める広告も見える(『中外新聞外編』巻之二十三(六月)、『内外新聞』第十一(八月)等)。しかし、一方で彼等は、事実その物がもはや一元的には存在し得ないことにも気付いている。「類多くして始て真偽を分ち確証を得るに至るべし」(『公私雑報』第一号(四月二十七日))、「粗漏を厭ふときハ新聞の所詮を失ふべし」(『内外新聞』第四(五月八日))、「天下の広き事実多き数百種の新聞ありといへどいもいまだその事の欠漏なしといふべからず。況てわづかに十種なるをや。且多植の新聞并出て競善は不日にしてかならず精純いたらん。」(『東西新聞』第一号(五月十四日))、など、情報の混沌、整理の不可能性を認めた上で、情報の量が事実の隙間を埋めるという主張も展開される。更に、「方今民間ニ流伝スル戦争ノ新聞紙ハ虚談妄説多ク治安ノ道ニ於テ毫モ益ナキ而已ナラス徒ラニ人心ヲシテ動揺セシムルニ至ル。是故ニ戦争ノ事件ハ虚実ヲ問ハス都テ此書ニ載セサルヲ以テ社中ノ確則トス。覧者ソレ之ヲ稟ケヨ」(『都鄙新聞』第三(五月)。京都発行の民間新聞で、内実は明確に官軍より)と言い切るものまで現れる。判断の放棄。この事態は、情報に意味を与え物語を紡ぎ出すことができないということと、「事実」その物が安定的に存在できないことが同義であることを露呈している。プロパガンダを超える事実を模索しながら検証不可能な伝聞を即時に流し続けなければならない状況の中で、情報の量が事実を支えることを可能にするという発想が生まれ、福沢諭吉の夢想した開化啓蒙という新聞の機能は、あらぬ方向に迷走していたのである。こうした事実認識(或いはその欠如)は、おそらく、新聞という出版メディアが、口頭、或いは書写によって「実説」が流動しながら流通した近世のメディア感覚を引き継いでしまった事による。絶えず上書きされ、更新される中で徐々に形成されるはずの「事実」が、うごめくアメーバを瞬時に凍結してしまうように固定された文字情報として印刷されて残る。しかも、実否を判断しようのない人々にまで広く流通する。新聞は、不安定な政局故に急速に普及したのであったが、それ故に混乱を生んだとも言える。勝手な憶測だが、戊辰戦争がなければ新聞小説の登場はもっと早まった気がする。
新聞紙条例前後
新聞紙の取り締まりに関する町触・布告は、六月にはじまり、翌明治二年二月の所謂「新聞紙印行条例」となり、以降も改訂が進んでいく(16)。こうした法令の流れを受けて廃刊する新聞もあったが、一方で、官許を得て刊行を続け、或いは新創刊する新聞もある。いずれにしても、条例以降の新聞は官許を得たことを公表し、情報源の明確化、公正中立と言った、現在の新聞に近いスローガンを掲げる。実際、戊辰戦争は、十一月会津落城のあとは、江戸を出港し函館に至った榎本武揚らの動静のみが越年した形であったから大勢は既に決していた。この間、会津落城に至る東北の戦況を逐次伝えた『東山新聞』や、『太政官日誌』に連載された「松代藩北越戦記」などは維新軍記として、それが新聞に連載されたと言うこととともに、特に記憶しておいて良い質と量を備えてもいる。しかし、政局を誘導し、或いは理解しようと言う欲望によって突き動かされてきた新聞が、この期に及んで、つい半年前の勢いを失うのは、ある意味当然のことであろう。法令云々以前に、政局が安定に向かっている。そこでは、「公正」は新体制において「正当」であることと同義である。明治二年三月二十日創刊『六合新聞』第一号には、新聞の効能を説いたあと、「世の人おそらく新聞といへば軍の取さた御大名の建白書其外おほきな間違ひなどをのせざるものは新聞ならずと思ふもの多けれどしかるべからず。そもそも此新聞ハ遠き近きのうはさ売もの買ものヽかけひきまよひ子のありか落しものヽ在所開帳見世ものヽ噺芝居の善悪お祭の賑ひ迄あまさず漏さずしるしつれば今のありたるをいましりて居ながら浮世のさまをもしりまたは雨夜のつれづれをもなぐさめ女童をして知恵をまさするの端ともなれば出版ことに日を争かならず見置たまわれかし」と、福沢流の新聞観への回帰をうたっている。「回帰」どころか、これまで一度もそんな新聞はなかったのだが。こうして、新聞の興味は政局から徐々に離れ、心中や仇討、私的な殺人、或いは孝子貞婦など、再び市井の雑事に目を向けるようになる。先に触れた通り、『藤岡屋日記』の逆を行く事態である。しかし全てが江戸時代に戻ってしまったわけではない。文芸・芸能にまで及ぶ民衆教化システムの整備に伴い、やがて心中や仇討は否定されるべき旧弊として記述され、半信半疑で書かれた怪異の伝聞にも現実的な解釈が付与されるに違いない。物語る欲望も出来事それ自体もそのままに、解釈の軸が、即ち事実そのものが、差し替えられてしまうのである。それらのことは『大衆新聞が作る明治の〈日本〉』に詳しい。否、正直に言おう。本稿も山田の出発点を終着として私の夢想した予定調和の物語に過ぎないのだ。終わりは始めからあった。
初期新聞の混乱と安定化の道筋は、客観的であること、正確であることを指向することそれ自体の矛盾、不可能性を見せつける。その事は、翻って、今、我々が受け容れている客観的で正確な、「まっとうな」新聞記事が、実は、我々の物語の実体化に他ならないことを示してもいる。万人を支配する史観の不在によって生じている現在の歴史や事実認識の混乱を、新しい「正しい」物語によってではなく、我々に内在する物語を意識化し、相対化する別の思考の枠組みを模索することで乗り越えることこそが求められる。
注
(1) 日本放送出版協会 2002年10月
(2) ぺりかん社 1986-2000年
(3) 『ニュースの誕生』(東京大学総合研究博物館1999年11月)所収。
(4) 『江戸の情報屋』 日本放送出版協会 1978年12月
(5) 『日本都市生活史料集成』二 三都篇 2 1977年10月 解題。
(6) 『随筆百花苑』第八巻(中央公論社 1980年11月)所収。田中親輔序。
(7) 岩波文庫(1994年11月)長谷川解説を参照。
(8) 岩波文庫(1991年1-6月)長谷川強解説を参照。
(9) 『江戸巷談藤岡屋ばなし』・『江戸巷談藤岡屋ばなし 続集』 三一書房 1991年8月・1992年5月
(10) 『読本研究』第二輯下套(1988年6月)所収。 解題・翻刻 佐藤悟
(11) 『視聴草』1 汲古書院 内閣文庫所蔵史籍叢刊 特刊第二1984年11月 福井保解説を参照。
(12) 新潮社 1989年8月
(13) 「明治初期新聞雑報の文体─現実という「制度」をめぐって─」 『国文学研究』第100集(1990年3月)所収。
(14) 「実録体小説は小説か─事実と表現への試論─」(『日本文学』50(12)(2001年12月)所収。
(15) 『国際ニュース事典 外国新聞に見る日本』 ?1852-1873 本編(毎日コミュニケーションズ 1989年9月)所収の日本語訳による。
(16) 『言論とメディア』日本近代思想体系11(岩波書店1990年5月)を参照。