対話について

対話するとは、どういうことでしょうか。

世話人代表の論文から、これに関係する文章を紹介します。

広義の「対話」(dialogue)には、ひとり語り(monologue)を除く、すべての言語的コミュニケーション(communication)が含まれる。他者との言葉のやりとりを通して、なにかが共有され、共通のもの(common)になるのだ。なにを共有するかに応じて、言語的コミュニケーションは大きくかたちを変える。

死生学カフェの場合、「問い」が共有される。問いの設定の仕方は様々だ――ある人が抱える問いを共有する、絵本を読んで問いを立てる、問いをその場でゼロから立ち上げるなど。しかし、ひとたび問いが立てられれば、内輪の壁は取っ払われ、対話はすべての人に開かれる。問いが公共的な場を拓くのだ。答えを手にしている人はいない。だから問いは問いなのだ。ひとつの問いの前に共に立ち、(共に答えをもたないという)対等な立場で、互いの違いを喜び、活かしながら、共同で探究に赴くことができる。

死生学カフェの「対話」は、このように進められる。これを狭義の「対話」と呼び、「議論」、「討論」、「会話」から区別することにしよう。狭義の「対話」では、自他の意見を支える前提に光が投げかけられる。参加者Aは相応の事情、状況、判断に基づいて、Bという意見を抱くようになったはずだ。もちろんそこには本人の思いこみが投影されているかもしれない――だからこそボームは「想定」と呼ぶ。しかしその当否を判断することは、本人にとっても、また他の人にとっても、けっして容易ではない。だからこそ「対話」は、性急な判断を下すことなく、理由や背景に注意を払いながら、一つひとつの考え方をそのまま受けとめる。さらに深く知ろうと質問することはあっても、受け流したり、反論したりしない。この点で「対話」は、「議論」、「討論」、「会話」から区別される。議論、討論、会話では、表立って主張される意見や考え方が注視され、それを支える想定は隠されたままである。

以上のような「対話」の理解に基づいて、筆者は死生の諸課題を共有する対話の場を創り上げてきた。死生学カフェでは、多種の問いが立てられ、多様な対話が試みられてきた。

(竹之内裕文「死生を支え合うコミュニティの思想的拠り所 手がかりとしての『対話』と『コンパッション』」、『現代宗教2022』所収)