仕事について


 企業では複数の従業員が協力して製品やサービスの商品を作り出し、それらを消費者に提供することによって対価を得ている。複数の企業が仕様の似た商品を提供する場合、各企業は商品の単価が他社に比べて高くなりすぎないよう努力をしている。商品を作り出すまでのすべての工程は細分化され、それらを各従業員に分配することによって各作業は効率的になり、商品の単価が抑えられる。分業されるほど、自分のやっている仕事と最終商品との関係性が希薄になるため、何のために働いているか見失うようになってしまう。研究者も研究分野が細分化されすぎると何のための研究なのか、全体に対する位置づけを見失ってしまう。どうすれば細分化の進みすぎた仕事にも満足できるようになるであろうか?
 多少の交渉の余地はあるものの、組織で働く以上何をいつまでにするようにと指示をされるケースがほとんどである。その点は個人経営者も同様である。このように労働には何をいつまでにという制約がある。しかし、その仕事をどのように進めていくかについての自由度は与えられている。そこでは、自分が主体的に、自分の個性を発揮して、自分のやり方を工夫して、自分の納得するように、自分の仕事や結果に誇りを持って、働くことができる。「何を」や「いつまでに」は自分で決めて良いが、「どのように」が制約されている場合と比べてみるとどうであろうか。こんな「仕事」では続かないと考える人が多数であろう。
 禅の世界に三昧という言葉がある。対象に集中するあまり、自分という意識がなくなってしまい、対象と一つになる状態である。自他の区別がない状態である。取り組んでいる仕事に集中しているとそういう状態になる。ふと気づくと、とても楽しい時間を過ごしたように感じ、幸せな時間だったように思う。三昧の間にはそういう意識はない。我に返ってから気づくことである。これを繰り返して得られた結果は対象ではあるが、自分と切り離されたものではない感じがする。対象と自分がつながっているように感じる。仕事や結果に愛着を感じたり、誇りに思ったりするのは、対象と自分がつながっているように感じるからであろう。
 私には好きな回路がいくつかある。世界に何人かの共通の回路好きがいる。私が回路の問題を考えようとするときは、この答えが出たら彼らもきっと面白いと思ってくれるだろうと思うような問題である。あるいは、この問題の答えを知りたがっている人が何人かはいるだろうと、顔や名前を思い浮かべる。試行錯誤している時間を楽しく感じる。答えが出た瞬間は幸せだと思う。論文が受理されたという知らせをもらったときはうれしい。でも、一番良かったと思うのは、論文が出てから何年かして参考文献で引用され、自分の求めた結果が新しい仕事につながったことを知った瞬間である。自分につながる対象は自分の仕事だけでなく、他人のやった仕事にも広がるのである。
 遊びと仕事は対立する概念だろうか?自分は遊ぶことが何より大切で、働くのは遊ぶためのお金を作るためだ、という場合、遊びが主で仕事が従の関係だろうか?仕事は仕事で楽しみ、遊びは遊びで楽しむ、という場合、仕事と遊びは排他的な関係だろうか?遊びにもいろいろな種類がある。詩や歌を詠んだり絵をかいたりするのは、創作の過程を楽しみ残った作品が自分の分身であることを感じられる点は仕事と共通である。マラソンやサッカーなどのスポーツは時間と戦い、相手と戦うところが楽しい。これまでかなわなかった時間や相手に勝てたときはうれしい。作品と呼べるものが残らないのは、詩を作ったり、絵を描いたりする遊びとは違うように思うかもしれない。しかし、どうやってこれまでできなかった時間で走ることができたのか、これまで勝てなかった相手に勝つことができたのか、努力と工夫があればこそであったろう。結果は記録や記憶に残る。自分なりに工夫したことが楽しかったと思い、残った結果はその作品だと思うことができる。仕事を自分で工夫して進めて、結果を自分の作品だと思えるように仕事をした人は、遊びは仕事と対立する概念だとは思わないだろう。対象が違うだけのことである。遊びを楽しんでいる人は仕事を楽しむ工夫ができるはずである。
 今の仕事をそれになりきれるまでやってみたかどうか考えてみる。どうも上の空でしかできないなあ、という場合はなぜかを考えてみる。私の場合は、回路や数学や物理の問題を考えているときは我を忘れているが、シミュレーションするための環境を整えようとコンピュータのネットワークを設定したりソフトをインストールしたりしているときはそうはできないようだ。シミュレーションをすることが目的で、それを実現するための環境を整えているのは直接目的を達成する仕事ではないと無意識で思っているからであろう。ネットワークを構築することが仕事であったら、多分与えられた条件でどのように最適化しようか工夫してその仕事を楽しんでいたはずである。そうすると仕事にはそれに直接向き合うものとそうでないものがあることになる。三昧をしている時間をできるだけ長くとろうとするなら、そうでない時間はできるだけ短くするしかない。自分の仕事に割いている時間を見直してみて、工夫の余地がないか組織を含めて調べてみる価値があるかも知れない。

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