学んだこと


 1992年に東芝ULSI研究所に研究員として仲間に迎えて頂いた。私は学部・修士と理論物理を専攻しただけで、トランジスタが何かも知らない素人であった。修士の同期たちがハイテク産業の花形であった電気メーカ研究所を就職先に考えているのを知って、特にこれといった希望業種・職種のなかった自分もつられるように何社か見学してみた。会社見学に来た私に、ULSI研究所の舛岡部長(現東北大学名誉教授)が「世界一のことがしたければここにくるがいい」と言葉をかけて下さった。一連の会社見学で舛岡部長の言葉以上の魅力的なものはなかった。NANDフラッシュの発明者である舛岡東北大学名誉教授からすれば、世界一の半導体デバイスにしたいという夢が実現した後で初めて事実となるはずのメッセージであったが、当時の私は当然、そのようなことは全く分かっていなかった。バブルのピークは過ぎていたものの、1992年はまだ学生の売り手市場が続いており、学生側が就職企業を選択できた。私は、そのメッセージと職場の雰囲気が大学の研究室のそれに似たものを感じたことで、東芝ULSI研究所にお世話になることを決めた。
 2017年現在、NANDフラッシュメモリは全半導体生産量の10%を超える柱の一つとなっているが、入社当時は世界で東芝だけがNANDフラッシュを研究開発しているだけであった。NANDフラッシュは、不揮発性半導体メモリの一つである。メインメモリであるDRAMと異なって、電源から切り離してもデータを保持することができるメモリである。スマホの写真や音楽のデータを保存し、アプリのプログラムを格納する。Solid-State Drive (SSD)はHard-Disk Drive (HDD)と互換性を持ち、その高速性から高性能ノートパソコンやタブレットに用いられ始めた。SSDの記憶デバイスがNANDフラッシュである。HDDと比べてデータ当たりの電力が低いため、データセンターでもSSDへの置き換えが進んでいる。半導体チップの中でも成長頭になっているゆえんである。
 NANDフラッシュからデータを読み出す時には5V程度の電圧が必要である一方、データの書換えにはそれより十分高い25V程度の高電圧が必要となる。25V程度の高電圧で初めて電子がトンネル効果で浮遊ゲートに出入りすることができる。5V程度ではトンネル効果が起きないため、読み出し動作でデータは破壊されない。5Vや3Vの単一電源でNANDフラッシュを動作させようとするとき、集積回路上で25Vを発生しなければならない。「昇圧回路」は電源電圧から高電圧を発生する回路である。データ書き込みを短時間で行うためには25V電圧をできるだけ素早く発生する必要がある。入社後メンターの智晴さんから与えられた研究課題は、25V を如何に素早く発生できるようにするか、であった。
 昇圧回路はキャパシタとダイオードからなるユニットを複数接続する。3Vから25Vを発生するには最小でもそれらの比のユニット数が必要となり、3V/25Vの場合では通常10ユニット以上の構成となる。回路動作の解析は定常状態のものだけが知られていた。そのままでは立ち上がりの解析には用いることができない。最初は自分の理解のため、1ユニットの場合の動的な振る舞いを調べてみた。昇圧回路を構成するキャパシタはクロックを入力することで、電源からダイオードを通して電荷を取り込み、別のダイオードで出力に電荷を転送する。こうして出力電圧を電源電圧より高くすることができる。キャパシタの電位と出力の電位はクロックの度に上昇する。今の状態と次の状態の関係性は漸化式で表現できることに気づいた。1ユニットの場合は解析的に解が求まることが分かった。2ユニット以上では解析的に解が求まりそうになかった。求めた漸化式のセットを使えば数値的に計算は可能である。キャパシタの容量値、負荷容量値、ユニット数、電源電圧値、目標出力電圧値を与えれば、それらの条件での立ち上がり時間は計算できるようになった。
 昇圧回路はどのように最適化すべきであろうか?回路面積が与えられたとき、ユニット数とユニット当たりのキャパシタの容量値の積は一定となる。ユニット数を増やせば出力電位の到達可能電圧は上昇するが、ユニット当たりのキャパシタの容量値は減ってしまうため、立ち上がりに時間がかかるであろう。反対にユニット数が少ないと到達可能電圧は目標値に達しないであろう。それらの間に最も立ち上がりが速い条件が存在するはずである。条件を変えて数値計算を何度も繰り返せば解は求まるであろう。しかし条件が変われば同じ作業を繰り返さなければならない。最適化問題を汎用的に求めるには、昇圧回路の動的モデルを求めて解析的に最適化を行いたい。漸化式を解く代わりに、出力電圧が目標電圧に達するまでの動作を二つの独立な方法で計算してみることにした。
 一つは立ち上がり時も各クロック中には定常状態の式が適用できるとして、昇圧回路に入力する総電荷量は出力電圧が初期値から最終の目標値になるまでの出力電流のユニット数分を積分することで計算できる。もう一つは立ち上がり期間中に昇圧回路に入力した電荷総量を直接計算することによる。最終段のキャパシタを起動するドライバは出力負荷に蓄えられた電荷量の変化分だけ入力したはずである。その一つ前段のキャパシタを起動するドライバは出力負荷と最終段のキャパシタに蓄えられた電荷量の変化分だけ入力したことになる。これを入力までそれぞれ計算することによって、それらの総和を得ることができる。こうして求めた昇圧回路に入力した二つの総電荷量は等しいことから、出力電圧の時間発展を記述する式を解析的に求めることができた。
 この解析式はテブナンの等価回路のように電源と出力抵抗からなる定常状態を示す素子と、動的振る舞いを与える容量素子からなる等価回路を示していることに気づいた。この容量素子は昇圧回路の内部容量を表し、全容量値のおよそ三分の一が負荷容量に並列に接続されていることを示していた。等価電源・抵抗・容量のそれぞれは、回路パラメータで表されているため、前述の最適化を解析的に行うことができた。電源電圧と目標高電圧が与えられたときに必要最小限の段数の1.4倍の段数に分割すれば、立ち上がり時間を最小にすることができることが初めて分かった。これまで誰も知らなかった答えを得た瞬間は最高に幸せであった。この問題に取り組むことができたタイミング、理論物理を教わってきたこと、ユーモアあふれるNANDのチーム。このハッピーさはこれらの重ね合わせが与えてくれたことだったと思う。
 最適化問題はそれだけではない。定常状態で流す出力電流を最大にする最適化や消費電力が最小になる最適化も重要な問題である。例えば、立ち上がり時間を最小にする最適化がもし大きな消費電力を伴うものであって、消費電力が問題になっていたらどうであろうか。このようなトレードオフの問題は常にあることを忘れてはいけない。どちらもぼちぼち、という点を最適とすべきである。
 2004年にマイクロン・ジャパン(現マイクロンメモリ ジャパン)に移ってからも回路の解析や最適化を定式化の問題を考え続けた。2010年ごろに突然、昇圧回路に関連した本を書きたいと思った。週末家でやろうと決心した。読んでくれそうな人を思うと日本語ではほとんど役立たない、英語で書くしかないと思った。ところが、持ち合わせの内容を全部足しても百ページ足らずであった。回路の本は薄いものでも二百ページ近くはある。どうやって二倍にしようか?章の構成を見直してみるといくつか抜けている議論があることに気づいた。キャパシタとスイッチからなる高電圧発生回路は百年前からあるのに、集積化した回路のトポロジーはどうして今あるようなものなのか?リチウムの原子核を人類で初めて崩壊させたコッククロフトとウォルトンの使った回路ではなぜいけないのか?集積化昇圧回路の最適なトポロジーを決める理屈があるはずである。昇圧回路を動作させるために必要なクロックは周波数を上げていけば出力電流も増えていく。高すぎると一周期内に電荷が転送できなくなるため出力電流は減っていくだろう。出力電流を最大にする最適な周波数があるはずである。これまではクロックの周波数は与えられたものとして扱っていた。それも最適化したい。最適化には電力も考慮しなければならないであろう。こうして一つの問題が解けると、次の問題が見つかっていくという、正のスパイラルに入っていった。この辺りになると、どれも会社の仕事とはみなせないような基礎問題である。これらも週末や通勤電車で解くことにした。
 幸い私が所属した二つの会社は懐が広く、会社の仕事とは直結しない内容の論文の投稿や国際学会の発表を許可して頂けた。もっともあまりに会社の研究内容が詰まったものになると、NANDが製品開発競争に入って以降は論文投稿が非常に難しいようだ。若い研究者にはぜひ、職務時間のわずかを使って製品開発研究とは少しだけ離れた内容を研究して論文発表をして頂きたいと思う。それも気が引けるなら、職務時間以外でやって頂きたい。自分や自分の所属するチームが製品に貢献したことを知ったときはとても幸せに感じる。そして自分とつながるまでになった、業務とは独立した研究でも幸せに感じることができる。ぜひ研究でハッピーになってほしいと願う。
 論文は最初の投稿で受理されることは一度もなかった。差し戻しとなって修正版で受理されることもあれば、されないこともある。受理されなかったときには、この論文は発表するに値するものか見直してみる。そこでやめるべきと判断したことは一度もない。自分には価値のあるものだと考えたから投稿したのだ。別の論文雑誌に投稿する。一番長い場合には四つ目の雑誌で受理された。実践ビジネス英会話の杉田先生のQuate ..unquateで何度か出ていた”There is no failure except in no longer trying” は真実であると思う。受理されるまで手を入れながら投稿続けるべきである。
 研究を本にするための第二のアクションとして、何かフィードバックになるものを期待して、学会のチュートリアルで研究のまとめを発表することにしてみた。当人が直接私のチュートリアルを聴いたか不明であるが、アメリカの出版社の編集者がコンタクトしてきてくれて本にしないかと誘ってくれた。チュートリアルからのフィードバックは特になかったが、チュートリアルをした甲斐があった。自分でできる範囲のことはやってみる、自分が制御できない領域のことには悩まない、が教訓となっている。

昇圧回路の研究を通じて学んだこと
東芝ULSI研究所のNANDチームは灰色の事務机が四行二列に並んだ“島”が二つしかない小さなものであった。その後外へ出た先輩や同僚は現在、湘南工科大、台湾交通大、東北大、中央大の教員となられ、あるいはIEEEフェローやマイクロン・フェローに認められている。先輩同僚は大学での専攻も電気電子だけでなく、物理、化学、原子核など様々であった。このことから私は次のように言えるのではないかと思う。多様なバックグランドの研究者がいる世界一を目指すチームの門を叩いてご縁がつながり、研究がある程度の期間は継続できるような環境がある、という幸運があれば、一人一人が自分の研究分野を持って、誰も答えの知らなかった問題を解くことができる。継続が可能になるのは、気持ちと予算に余裕があるところ、つまり時間制限が強くなくユーモアのあるところしかないかもしれない。周りに世界一を目指すチームがなく、あるいは研究が継続できるという幸運がなかった場合でも、自分の情熱と自分の自由時間を使って始めることはできるはずだ。新人には注目すべき課題と運動量が与えられるので、それでとにかく答えが出るまでやり続ける。対象に集中するあまり、自分という意識がなくなってしまい、対象と一つになる状態になる。自他の区別がない状態で、禅の言う三昧の状態である。取り組んでいる仕事に集中しているとそういう状態になる。ふと気づくと、とても楽しい時間を過ごしたように感じ、幸せな時間だったように思う。三昧の間にはそういう意識はない。我に返ってから気づくことである。これを繰り返して得られた結果は対象ではあるが、自分と切り離されたものではない感じがする。対象と自分がつながっているように感じる。仕事や結果に愛着を感じたり、誇りに思ったりすることができるのは、対象と自分がつながっているように感じるからであろう。こうして自分の問題に対する自分の答えが出ると、次の「その答えが他人も知りたくなるような問題」を考え出そうとする。私には世界に何人かの共通の回路好きがいる。私が回路の問題を考えようとするときは、この答えが出たら彼らもきっと面白いと思ってくれるだろうと思うような問題である。その問いに対する答えが出るまで問題に取り組み続けていると、その慣性力で止まれなくなる。ここに帰還ができて、正のスパイラルが完成する(図1)。答えが出た瞬間は幸せだと思う。特許成立や論文受理の知らせをもらったときはうれしい。でも、一番良かったと思うのは、特許や論文が出てから何年かして参考文献で引用され、自分の立てた問題や求めた結果が新しい仕事につながったことを知った瞬間である。自分につながる対象は自分の仕事だけでなく、他人のやった仕事にも広がるのである。

 

2017/6/21

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