大学論を読む(4)
天野郁夫『新制大学の誕生㊤ 大衆高等教育への道』
名古屋大学出版会、2016年8月、3,600円(税抜)、372頁
本書は、高等教育政策論のリーダーであり、大いに高等教育の改善に貢献してきた東京大学名誉教授であり国立学校財務センターで法人化する国立大学の在り方に心を砕き、文部省の大学政策の評価システム構築にも大きくかかわってきた人の著作である。この書物の守備範囲は
第Ⅰ部 戦時体制と高等教育
第1章 戦時下の高等教育改革、第2章 高等教育の決戦体制、
第Ⅱ部 戦後の高等教育改革
第3章 使節団報告書から学校教育上へ、第4章 学校教育法以後
からなっている。
主張の根底は戦時下の戦争動員型研究とこれに資する高等教育の諸改革がいかに教育の本旨を捻じ曲げていったかを告発し、これに対する戦後教育改革が確かに占領軍の巨大な示唆を受けた高等教育政策の展開であるとはいえ、国内の政策当局としての文部と専門家の丁々発止の論議を克明に議事録から提示されているのは大いに参考になる。
評者が注目したいのは、旧制の帝国大学と、その他の高等学校、専門分野別高等専門学校、それに師範学校をどのように高等教育の制度的位置づけを与えるかということでの苦慮であろう。
具体的に狭い専門的教育が戦前の軍国主義化を許した要因と認識されていた占領軍と日本側教育専門家の意識にそれほど大きな相違は見られなかった。
要するに世上、日本の戦後改革が占領軍の押しつけとする風評に対して、実態はそうではなく、日本側の良心的教育専門家たちの真摯な取り組みと連合国軍の教育政策認識それ自体に大きな違いはなかったことではないだろうか?
とはいえ日本側の少なくない教育専門家というか、個別高等教育機関側の姿勢が逆に狭い専門枠組みを基本とする大学設置を目指すという気風が生じていたこととのせめぎあいではないだろうか?
静岡大学に事例をとると、静岡高等学校が静岡文理大学を、浜松高等工業が浜松工業大学を、師範学校が静岡教育大学をという風に分立を期待していたわけである。
これに対して日本の専門家たちは、アメリカ流の教養教育liberal artsを学部の4年生で実施するとすれば前期2年間でというとらえ方であった。
しかしアメリカ流では大学教育の期間を通じて教養教育という認識であったから、明らかに大学の意味づけが異なっている。
要するに旧制大学はドイツ流とされているので、専門教育、高等学校がどちらかといえば語学を基盤とした教養教育だったという前提が簡単には変えられないというわけである。
また興味がひかれるのは大学教育を狭い専門枠に閉じ込めずに幅広く展開する立場から、旧制師範学校のみの教育大学づくりでは結局師範学校の焼き直しでしかないということが指摘されていた。同様のことは工科系教育にも当たるのである。
こうして形成される戦後高等教育では旧制高等学校のみが分離を兼ね備えた総合性を持つので、これを全学化するというために教養教育への貢献が問われたといってよいのだろう。まさに高等学校は新制大学の教養教育の基盤とされた。
東京大学でも第一高等学校を基礎に教養学部を設置し、南原繁、矢内原忠雄のような人々の力で教養学部を単に前期2年間にとどめず、教養学部の専門課程を設置した点でユニークな大学論を提起することになる。
(2020年10月26日)