文科省による国立大学統治政策から見える大学の歴史と現状

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文科省は,以下のような類型化を行うことにより,明らかにさまざまの補助金行政の差別化が不可避的に行われ,さらには,法人の独自性を強調させるということによって財源,人的資源,分野的多様性の区別による相当の差別化を不可避にしているのが現状だ。これは今に始まった問題というだけではないが,2004年の国立大学法人化によって「競争的環境」が喧伝されることによっていっそう激化してきた。要するに競争と選択の時代,ネオリベラリズム的教育統治政策の時代といってもよいのだろう。

筆者が今も責めを負う国立大学史に照らすと,1978年前後,第一次石油危機後の経済状況の下で,「格差」問題として意識され,国大協も格差是正特別委員会を設置し,1982年までに報告書を提出した時期もあった。当時は、社会が公正と公平を求めていた時期に当たっていた。だから教育、福祉等いずれでも、公平が重要だったのだ。

それに当時は2つの旧帝大とその他といってもよいほどの区分で済んだし,理系と文系格差の是正の指摘もあり,理工系偏重という1960年代以来のマンパワーポリシーの所産への是正の必要から,理工系大学院設置を地方国立大学にも進め,一部の博士課程の設置も行われる。

そしてその後の臨調行革で,大学政策は縮減の方向に舵が切られてゆき,一部には経費の掛からない人文社会系を多少増加させるという形でお茶を濁しつつ,1990年代には法人化の方向性を示しながら,大学側には財政措置の乏しい大きな変革課題が突き付けられてゆく。それが教養課程の独自教育を排除し,専門教育の低学年からの実施であった。

 

筆者は,善意で,就職当時から,学部教員が一年生段階から,また教養部教員が4年生まで教えることを通じて,全学教養教育の意味をとらえたいと願って,経済学科の初年次教育問題も先輩教師の実践に学び,2年次社会科学基礎演習を引き継いで,1年次からの入門ゼミの開設の本格化に努めていた。これは一面では,大学のマス化,ユニバーサル化の流れの中で生じつつあった入学生の学びの機会が,以前には自ら学ぶサークル活動などによって相互に学習する環境があったことから,その状況を貧弱にさせていったことが大きく作用したことへの補助的役割を果たさせようと意図したこととも関連する。

 

でも結果として,大綱化の波に飲み込まれ,あれほど教養教育の重大性を語っていた旧教養部教員が見事にその哲理を失って,専門教員に統合してしまったことの教養教育認識の根の浅さを感じざるを得ない。それは同時に学部専門課程に配置された教員の専門的知見と教養教育の必要性に関する無関心ともかかわっていたといっても過言ではないだろう。むろん少数ではあれ,奮闘する群像もあったことは事実であるが,大方はそれぞれの教員の研究者として要請されていた時代の専門学部に戻るかそれに近い分野に戻るのが実態であった。むろんそうした傾向を支える根拠もあった。それは大学人といえども、日本の大学では教養教育をお添え物と認識し、自己の達成してきた専門研究の成果を競う、あるいは採用人事もそれを物差しにしている以上、大学人自から、戦後の教育体制で教養教育の意味を十分に認識してこなかったことも大きいだろう。

 

もっと大学における教育の意味を詰めるべきであった。戦後の教育理念が埋め込まれていた旧教育基本法の教育の理念としての人格の陶冶,市民社会への貢献者としての学徒,分野を超えた知の教育などの求められるべき教育などがあったはずなのだ。ちょうど今もユニバーサル化の先輩アメリカのメジャーな大学では4年間を通じて教養的文理融合的教育に特色を持ち,大学院にして初めて本格的専門的学びを,しかも多面的に行うというあり方など。大学の大衆化の中で,もっともっと検討すべきことがあったはずだ。

 

今さらながらに,筆者も含めて戦後教育があまりに狭い専門的知育に傾きすぎてもっと大局的な知を学ぶ前提の多様性の中での自由な価値観の交差と融合などの方法をキチンとすべきだったと思う。戦後初期の南原繁さんたちの理想とした初期の政策などに学ぶべきだったのだろう。東京大学が教養学部を残したのはせめてもの救いかもしれない。戦後高等教育論はすでにこの時代に一層深化させるべき先駆的な改革方向を示していたのに,それを曖昧にしてしまった点が悔やまれる。

 

多少の幸せがあるとすれば旧商科大学の流れをくんだ母校では初年次教育の専門家を意識的に配置されず,それぞれの専門分野の学部教員が初年次教育を施してくれたことである。筆者も経済学だけではなく,自然系の先端の知を大いに学ぶ機会が与えられて,教養科目が実に面白かったと今も覚えている。克明にノートをとっていたので。今も経済学や近代日本史,地質学の初年次のノートをもっている。

今こそ多様な価値観を提供できる全学教養システムの再構築と『静岡大学の五十年』で危惧していた東西の一体性の再構築を教育面で実践されなければ,ますます狭隘な静岡地区以上に、浜松の教育システムがやせ細ってきているというほかない。東西でそれぞれに不足分野があれば,それを相互に助け合えば教養科目の一層の拡充と大学の一体的運営に資するであろう。それがオンラインであれ対面方式であれ。これはまさに若い世代への私たちに突き付けられた教育責任ではないだろうか?

教養部解体後の後続組織である情報学部は歴史分野その他,語学等も2010年代から相当大幅に縮減し,その上,新規採用人事で科目変更が行われてしまっている。まるで地球的課題を担わねばならない若い学生世代には真逆の狭い教育に陥っているように見える。おそらく情報学部専門課程の分野の多彩性は草創期ほどには確保されていないはずである。

これは私学にも強く働いた。

強制はしていないと文科省は今も言うけれども実際は内面指導による教養課程廃止が全国一斉に進められ,東京大学のみが教養学部の形態で一部教養学部,専門課程を維持した教養教育の独自組織を残した。これは1994,95年のこと。ところが突如起きた1995年3月のオウム真理教事件で,慌てて教養教育の必要性を改めて強調するに至るが,これ自体自らの政策と真逆のゆえにまさに噴飯ものであった。

他方,1978年以来の全国共通テストは国大協をはじめ全国の大学での反対意思を無視して自民党文教族を中心に採用され,偏差値輪切りの局地を国公私大学に強制していった。受験産業花盛りの一世を風靡する。

しかし結果として学生たちが多くは不本意入学や諦め入学を生み出し,学園の活性を喪失するのは容易だったというほかない。また受験生の父母の財産格差が,大学に覆ってきた冷酷さも無視できない。仄聞するところ,この傾向はそもそも小中学校にも大きく影を落とし続けてきた。また一面的価値観によって縛られた視野の狭い学生を形成する結果にもなった。社会は社会改革のための社会運動を忘れて,若い学生時代の感性を育てることには成功していない。この面でも,世界の状況とも相当に異なった局面を呈している。むろんそれでも昔の自治運動とは局面を異にする若い世代の社会への向き合い方も見えるが,青年層としての力になりきっていないのも事実だろう。

経済成長期には,まだ格差是正とか社会保障とかといった政策論が支配的だったけれども,大きく見れば国民にとっては1980年代以降の停滞的経済成長の今日までの40年,人々に競争環境に敗れて社会的弱者になっても,それは自己責任論であきらめさせる仕掛けが働いてきたというほかない。こうして正規,非正規,大企業・中小企業の労働の格差,性別格差の再燃などを含みながら,余力のある家庭では遊びを通じて学ぶ時代をも無視した塾漬けや習い事が横行する時代を長期にわたって経験してきた社会,これが日本である。

こうした社会環境は当然,大学教育や研究環境でも自己責任論が横行し,大学運営の国際的標準である自治論が欠落してトップリーダー独裁をも不可逆的に生じさせる大学経営論が,いま花盛りだ。

こうなれば財政支援以前に稼げる大学をという志向性が期待され,ついには基礎科学よりも応用科学優先,長期研究よりも短期研究で業績を上げることが強いられる大学世界が,いまそこにあるわけだ。

こうして基礎科学の長期にわたる成果としてこの間ノーベル賞受賞者が存在してきたけれども,今後は見通しがないと受賞者自ら声を大にしなければならないほどになった。大学でもかつては存在できた教養課程の中にあった多様な基礎科学分野の存在の必要性が奪われ,それによっても裏打ちされて今日の研究危機が生じていることは言うまでもない。

それは左の図からも明らかだろう。理工系中心の国立大学の法人化以降の期待された「競争環境」がゆがんで見えるというほかないだろう。

日本学術会議会員候補の任命拒否事件も,今や明らかになっているように,ユネスコ21世紀高等教育宣言の趣旨にも反して,軍事研究を公然とできる体制づくりを実施しようとする政府に対するアカデミアの抵抗だ。かの宣言は,明らかに民族紛争,社会格差を直すべき学術,平和のための学問こそが21世紀に要請されていることを強調している。そこには決して軍事研究を推奨する愚論は一切見られない。

この展望に立つとき、大学は専門性を多様に保持しつつ、社会と自然に立ち向かうことが重要であることを認識させられる。左図を参照すれば、国際的にも国内的にも総合性がまずは求められる大学としての強靭性であり、次に日本を見ると、医学を含む総合性と、東京工業大学のような理工系総合の特殊な位置を占める大学が重要であろう。

2000年代初頭に国立大学法人化をまたぐ時期、多くの単科の国立医科大学が地域の中小規模大学と合併を繰り返したのも、結果としてみれば、大学史の文脈では一定の意味ある転換ととらえることができるだろう。それに直近の2022年の報道に見る東京工業大学と東京医科歯科大学の統合の動きもまた、評価可能な動向であろう。この2校は東大、京大、筑波、名古屋、大阪、東北、一橋と並んで、指定国立大学法人の位置を既に与えられているので、研究面で起爆力のある合併と期待されてのことではあろう。残念ながら今日の大学政策の方向から見て、小さくまとまって存続するというのは受験生へのアピール効果はもとより、21世紀型の科学の展望から見ても、また明らかに受験生の減少傾向が不可避的な時代に、期待される環境ではなさそうである。

以下の文科省の資料は,財政投資を効率よく展開する上での基準を明確にする指針として機能しているだろう。これに2020年には東大,京大などに指定国立大学法人を設定し,支援の優遇を図ったから,一層格差化を強化してきた。

 

以上,大学政策の現状を愚考してみた。

こうした格差支配の下で,大学運営と組織の未来をどう描くかが問われているのが全国の状況であろう。結局は旧帝大,それも圧倒的な東大,京大を先頭とする指定法人とその他旧帝大,さらにその他大学の区分の上に,医学部を持つ総合大学か,それも5学部以上かどうか,医学部を持たない総合大学か,そして2学部程度の大学か,単科大学かで明らかに格差性を前提にした統治が行われてきたのである。

 

愚考に触れた文科省の区分表も2020年代のものであり,およそ1970年代までの状況を引きずっているというほかないだろう。決してこの図表は現状追認の区分であるわけではなく,種々の補助金行政に色濃くまといつき,結果としていわば国立大学の貧窮分解を生じてきたのであろう。

 

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資料3‐2 国立大学法人の類型化について(案)

資料3‐2 国立大学法人の類型化について(案):文部科学省 (mext.go.jp)

1.基本的考え方

国立大学法人の類型化にあたっては,規模,学部構成,附属病院の有無など様々な切り口が考えられるが,財務分析は財政構造が類似した国立大学法人間で比較考量することにより財政状態や運営状況の客観的把握が可能と考えられる。

財政構造に直接的に影響を及ぼすのは,財政規模及び収支構造への影響の2点である。

また,国立大学法人の類型毎に一定規模を確保可能なよう配慮する必要があると考えられる。

2.国立大学法人の類型化

(1)財政規模

財政規模による類型化にあたっては,保有資産の額,事業費規模,学部数,学生収容定員,教職員数などが主な指標として考えられる。

財政規模が相当規模以上の国立大学法人においては,附属病院及び多数の附置研究所を有し収支構造が特徴的と考えられること,管理部門におけるスケールメリット発現が想定されることなどから,大規模大学を一類型とする。なお,以下,学生収容定員は,中期計画におけるものとする。

大規模大学:学生収容定員1万人以上(学校基本調査),学部等数概ね10学部以上(学群,学類制などの場合は,学生収容定員のみ)

(2)収支構造への影響

相当規模未満の大学は,財政規模が比較的小さいため,学部が医科系学部のみで構成される国立大学法人における附属病院,及び学部が教育学部のみで構成される国立大学法人における附属学校が相当程度影響すると考えられること,また,大学院のみで構成される大学,短期学部のみで構成される大学は,財政構造においても顕著な特徴を有すると考えられることから,同様の学部で構成される国立大学法人をもって類型化する。

医科大学:学部が医科系学部のみで構成される国立大学法人

教育大学:学部が教育系学部のみで構成される国立大学法人

大学院大学:大学院のみで構成される国立大学法人

短期大学:短期大学のみで構成される国立大学法人

(3)財政規模及び収支構造への影響の組み合わせ

相当規模未満の大学で,学部等の構成により収支構造において顕著な特徴を有しているとはいえない大学は相当数に及ぶことから,さらに,財政規模及び学部等の構成の双方に着目して分類を行う。

着目点として,附属病院は財政構造に与える影響が相当程度に及ぶことから,医科大学以外の大学で附属病院を擁する大学を一類型とする。

当該分類において附属病院を擁する大学を除外しても,残余の大学が相当数に及ぶことから,当該区分を一類型とすることは,他の区分との権衡にかんがみると適当ではないと考えられる。

一般に,教育研究活動において実験等を必然的に伴う学部等とその他の学部等において,所要経費は大きく異なることから,学部・大学院の学生収容定員に着目して理工系中心と文科系中心の類型に区分し,学生収容定員からは理工系,文科系のいずれに区分し難い大学については,総合的な類型に区分することとする。

中規模病院有大学:大規模大学を除き,学部が医科系学部その他の学部で構成される国立大学法人

中規模病院無大学:医科系学部を有さず,理工系中心大学又は文科系中心大学のいずれにも属さない国立大学法人

理工系中心大学:医科系学部を有さず,学生収容定員に占める理工系学生数が文科系学生数の概ね2倍を上回る国立大学法人

文科系中心大学:医科系学部を有さず,学生収容定員に占める文科系学生数が理工系学生数の概ね2倍を上回る国立大学法人

(4)その他の要素

上記の分類を基礎としつつ,目的に応じて,例えば,附置研究所が概ね10以上あり相対的に必須の自己収入が少ないと考えられる国立大学法人とその他の国立大学法人,研究経費が教育経費を上回っている研究志向型国立大学法人とその他の国立大学法人などと類型化することも考えられる。なお,この場合であっても,時系列的な比較の重要性に鑑み,一旦定めた類型を保持する必要があることに留意すべきと考えられる。

3.国立大学法人の類型

区分 大学

病院有

1.大規模大学

<13大学> 北海道大学,東北大学,筑波大学,千葉大学,東京大学,新潟大学,名古屋大学,京都大学,大阪大学,神戸大学,岡山大学,広島大学,九州大学

2.中規模病院有大学

<24大学> 弘前大学,秋田大学,山形大学,群馬大学,金沢大学,福井大学,山梨大学,信州大学,岐阜大学,三重大学,鳥取大学,島根大学,山口大学,徳島大学,香川大学,愛媛大学,高知大学,佐賀大学,長崎大学,熊本大学,大分大学,宮崎大学,鹿児島大学,琉球大学

3.医科大学

<5大学> 旭川医科大学,東京医科歯科大学,富山医科薬科大学,浜松医科大学,滋賀医科大学

病院無

4.中規模病院無大学

<10大学> 岩手大学,茨城大学,宇都宮大学,埼玉大学,お茶の水大学,横浜国立大学,富山大学,静岡大学,奈良女子大学,和歌山大学

5.理工系中心大学

<13大学> 室蘭工業大学,帯広畜産大学,北見工業大学,東京農工大学,東京工業大学,東京海洋大学,電気通信大学,長岡技術科学大学,名古屋工業大学,豊橋技術科学大学,京都工芸繊維大学,九州工業大学,鹿屋体育大学

6.文科系中心大学

<7大学> 小樽商科大学,福島大学,東京外国語大学,東京芸術大学,一橋大学,滋賀大学,大阪外国語大学

7.教育大学

<11大学> 北海道教育大学,宮城教育大学,東京学芸大学,上越教育大学,愛知教育大学,京都教育大学,大阪教育大学,兵庫教育大学,奈良教育大学,鳴門教育大学,福岡教育大学

8.大学院大学

<4大学> 北陸先端科学技術大学院大学,奈良先端科学技術大学院大学,総合研究大学院大学,政策研究大学院大学

9.短期大学

<2大学> 筑波技術短期大学,高岡短期大学

 

こうした類型化の前に種々の累計評価視点が示されているのは下のウェッブに見られる。

資料3-2(2/2) 2.大学の機能別分化と大学間連携の促進について (mext.go.jp)