須田将司『昭和前期の報徳運動と報徳教育-「長所美点」をめぐる「対話」の教育史-』明誠書林、2021年を読む
初等教育にかかわる研究をここに紹介する意図は、教育の本旨からして、高等教育もつながるべき共通する問題が潜んでいると考えているからである。
本書は以下に紹介するように、近代日本で注目されてきた報徳運動の中でも、その教育機能というべき報徳教育が、どのように展開されていたのか、そしてその施策が、初等学校である公教育のレベルでどの程度認知されていたか、というより、いかに認知されていったのかを、全国的に注目されている地域の状況を博捜して、探求されてきた好著である。この作業では報徳思想と教育に共感する特定の官僚や研究者の取り組みが彼らの全国的に人事異動に伴って繰り広げられていったことを余すところなく追跡した本書の調査活動には大いに敬服すべきだろう。
ここに展開されている報徳教育とは何かをとらえて、著者自身が、実はあまりの多義性で定義が困難という。たしかに二宮尊徳の提唱に発した尊徳仕法と呼ぶ根底には、「太極」を基盤に、「至誠」、「勤労」、「分度」、「推譲」の推奨を基調に、田畑の効率的経営、畦畔(けいはん)改良事業、明治末の耕地整理法への展開、村落の経済向上策を展開するうえで、村落の公共事業への共同作業の取り組み、共同出資、金融支援策としても報徳社による取り組み、さらには信用組合組織化(信用組合法の整備)、信用金庫設立、産業組合(購買販売利用組合等を含む)の組織化など一連の近代産業発展の礎を築くことなどに積極的に展開していった。信用金庫の在り方では品川弥次郎内務大臣の時期に、演習の実地に足を運んで、報徳に学んだことが知られる。特に報徳運動の産業組合組織化(産業組合法整備)への貢献は戦前昭和恐慌期、国際連盟の大部の報告書[1]でも指摘されていたところであった。
むろん二宮尊徳の姿勢は現在にも通用するさまざまの問題提起があるといってもよいだろう。ただし果たして教育面での貢献をどこに定めるかは、本書の広範な取材によっても実は定かではない[2]。教育論としても本書が指摘するように、児童生徒に自ら認識を深める自学型の方式が、えてして徳目主義に流れていた教育への批判的視点を提供していった点は、報徳教育の中で得られたというのは功績であったかもしれない。この学ぶという側面では、徳目を覚えさせる手法がいいのか、自ら学び、教師とともに相互に学びあい、さらに子供たち相互でも学びあうことの必要性、いや重要性を指摘しているが、これ自体、教育の永遠の課題であり、かつ教育という運動の意味でもあるだろう。
またこれは初等教育から高等教育、果ては生涯学習の課題でもあるのだろう。教師はある意味で被教育者への適切な気付きを引き出すハイレベルなインストラクターに徹するのもよいのではないか?「正しい考え方に導く」ことが教育の本旨であるかのように認識されるのが大方かもしれないが、実は真理・真実に向かって認識を極めてゆく被教育者の活動であって、それを支えるのが教師の役割だろう。そのうえで教師も生徒から学ぶ姿勢を常日頃持ち続けることが、対象としての子供たちの学び方が決まるといえるかもしれないのだ[3]。ただしこの功績は、教育学的に見て他の認識からもすでに獲得されてきた知見でもあるので、特筆すべきことであるかどうかは疑問がないわけではない。また戦前の事実は、報徳思想に魅せられた富山県の高島秀一鷹栖尋常高等小学校校長をはじめ幾人かの校長たち、吉田清太郎神奈川県教育会主事や『日本精神と新興報徳』の著書を持つ内務官僚遠山信一郎のような人物が果たした役割のいかに大きかったことかを知ることも本書が提供する事例の集積である。遠山の場合、その異動、配置替えに伴って各道府県での活動に取り組んでいた。また、当然とはいえ尊徳の祀られた栃木県今市二宮神社や神奈川県小田原では活発に取り組まれていた。徳目主義的な日本の日露戦争期以降顕著となり、大正期の自由主義的教育観を別として、昭和戦前期に一層重大視されたあり方への対応としての報徳教育の転変は時代に生き抜こうとするその強靭性を見る一面で、あるいは支配体制への順応性を持っていた報徳運動ならではのその教育版とみてもよいのかもしれないと、本書を読みつつ感じさせられているところであった。
さらに述べると、戦前、報徳思想はともすれば「家庭の繁栄」が「社会の繁栄」、さらには「国の繁栄へ」という連関でとらえられて、明治末期日露戦争で疲弊した農村を中心に内務省が展開した社会改良運動では、報徳運動のメッカであった静岡県掛川の大日本報徳社の本拠であり、報徳組織者でもあった岡田佐平治の子息岡田良一郎、良平(良一郎子息)、一木喜徳郎(良一郎子息)など岡田家から出た彼らが文部、内務大臣、東京帝国大学教授、同総長、法制局長官等を歴任していたことなどが、報徳運動の認識を全国化するうえで大いに貢献したし、第一次大戦期から大戦後の民力涵養運動、昭和恐慌期の経済更生運動等々にも報徳思想が活用されたのも事実であった。だが報徳思想には儒教と同様に、個と国家、公共の関係ではなお不分明な部分があり、基調として個は公、国家に奉仕するとの立ち位置を持っていたはずであろう[4]。先に見たような報徳思想・報徳運動が戦時下には皇道報徳へと展開することが容易になされたというのは、本書では指摘されていないものの、実は国家的統合に共振化されやすい思想基盤を持っていたからではないだろうか?
端的に言えば、確かに幕末小田原藩で展開された小田原藩の取り組みをモデルとすれば、その下敷きの上で、近代でも国家的取り組みが容易であったといってよいかもしれないが、何よりも良一郎をはじめ官僚として、大学人として、尊徳の高弟安居院義道の示唆を受けて幕末期に小笠郡倉真村(現掛川市倉真)の農村振興運動に取り組んだ岡田佐平治を先頭に小笠郡倉真村岡田家が政治の中枢部にいたことが、ロールモデルとしての報徳運動家の現場情報を伝える有効な手立てでもあったろう。何よりも二宮の報徳思想が最終的には「天道」(これは容易に戦時下、特に強調された「神の御子」天皇崇敬に収れんさせられよう)に行き着く内容を持っていたことが、皇道報徳への転化が容易であったともいえるかもしれない。そこでは近代思想としての個と国家の関係は問われず、国家・社会・公のために個は尽くすべき存在であったからである。
この支配的意識への同調的志向性は第二次大戦後の占領体制の下での、占領当局への協調性へとつながる問題でもあったろう。たしかに教育方法論的に見ても、積極的な子どもの認識発達に沿う対話と共感、自主性による相互の学びという歴史貫通的ではあるが、リベラルの側面を持つ教育方法自体が持つあり方での展開が占領当局の同意を得られやすく持ち込めたということだろう。
もっとも、本書では報徳運動と報徳教育の在り方について、こうした論議にまで触れられているわけではない。占領軍にとって、日本の戦後復興に何らかの進展を加速させる道具立てが必要であったはずである。望蜀の観かもしれないが。ここから見れば、占領軍に同調させた力は、むしろ宗教意識、または宗教精神としてのプロテスタンティズムの勤倹貯蓄に沿わせての説明であったかと思われるがどうであろうか?
これは国家と宗教の関係から戦後日本の立ち上げを願った南原繁東京大学総長[5]、西洋経済史研究の面から近代化を願い近代化の人間学的基礎としてのキリスト教の重要性を論じた大塚久雄東大教授[6]とも相通じる認識であったろう。
[1]International Labour Office: Industrial Labour in Japan(series A Industrial Relations No.37,Geneva)。最初の簡単な紹介としては山本義彦著「戦間期日本資本主義の労資関係と権威的秩序の再編」『近代日本資本主義史研究』ミネルヴァ書房、2002年[原著は藤田勇編著『権威的秩序と国家』東京大学出版会、1987年所収]。
[2]そもそも尊徳の報徳思想の基本的特徴として、経済と道徳を関連付けることに主眼が置かれていて、教育論に及ぶ体系的展開を示すものではなく、報徳教育ではそれを尊徳思想の普及の一環としての勤労や分度の面で語るという点があったのではないだろうか?ちょうどそれは渋沢栄一が儒教と算盤と関連付けての議論もまた同様であった。渋沢がしばしば論じていたように、経済活動がえてして自己利益追求に終わり、道義性を失いがちであることから、儒教の教えと結合する姿勢が必要だとした認識に符合するように、尊徳はそれを特定の儒教精神のようなものとして認識せず、具体的な農事経営と結び付けた認識を表明していたといえるだろう。
[3]ここで指摘しておいてもよいのは、そもそも教育の本質からして、教化を目的にしない限り、学び手が自ら学び、自らの潜在する能力を引き出すことができれば成功なはずだとすれば、
[4]夏目漱石は「私の個人主義」と題して、1914年11月25日、学習院輔仁会で講演している。漱石はこの講演の中で、個人主義とっても、国家や公を全く否定するなどということはあり得ないが、とはいえ逆に国家の側による一方的な個へのその言動等に対しての掣肘が絶対的であるべきだとは見ていない。むしろ教育にあっては個性の十全の発揮を願う立場から、個を重視して個性の伸びやかな成長を期待している。
[5]占領下の教育改革の立役者であり内村鑑三の弟子として無教会派クリスチャンであった南原繁『国家と宗教』岩波書店、本書は戦時下1942年。西欧の歴史と関連させた場合、何らかの宗教思想が近代国家に求められると認識し、それが西欧では中世のカトリシズムからプロテスタンティズムに転換したことの意味を重視した。
[6]大塚久雄『近代化の人間的基礎』白日書院、1948年。大塚氏は、マックス・ウェーバーとマルクス主義歴史学的方法認識を駆使して、プロテスタンティズムの倫理を近代資本主義に不可欠の思想的基盤として評価して、何よりもその勤倹貯蓄の、また勤労の精神が不可欠だと見た。ここまでくると、報徳思想とも親近性を持つように見える。
以下、参考までに、本書の構成を目次の紹介によって示しておこう。
構 成
序 章「報徳教育」という言葉、その多義性
第一節 課題意識
第二節 危機や困難を背景とした「主体」や「対話」の強調
第三節 昭和前期の報徳運動と報徳教育をめぐる研究状況―
1「徳」=「長所美点」について 34
2 昭和前期の報徳運動に関する先行研究
3 昭和前期の報徳教育に関する先行研究
第四節 本書の視点・構成
第Ⅰ部「新興報徳運動」の展開と報徳教育―内務官僚・遠山信一郎に着目して
第一章「新興報徳運動」のはじまり
序
第一節 遠山信一郎の模索
第二節 土方村の事業
1 特別指定村事業の開始
2 「自力主義」と「教化」の重視
3 記名投票
第三節 佐々井信太郎の報徳理論と長期講習会の開始
1 佐々井信太郎の報徳理論
2 土方村をモデルとして
小括
第二章 神奈川県における報徳教育の創出
序
第一節 足柄上郡教育会二宮先生研究部の組織化と報徳教育論の形成
1 二宮尊徳の生誕地・桜井小学校を中心として
2 初期の報徳教育論
3 米山要助の「二宮先生と動労教育」.と「報徳教の教育的一考察J
第二節『報徳研究録』にみる実践研究の展開
1 「委員研究会」から「一人一研究」へ
2 [新興報徳運動]や「日本精神」との接点
第三節 神奈川県内における報徳教育の展開
1 教育会・校長会を通じた広がり
2 県教育会主事・吉田清太郎による神奈川県教育会二宮尊徳研究会結成
3 懸賞論文による報徳教育の権威付けと県指定研究
小括
第三章 富山県における報徳教育の創出―学校報徳社・児童常会の端緒
第一節 富山県における「新興報徳運動」の開始と報徳教育の勃興
1 遠山信一郎の「辣腕」発揮
2 報徳教育の勃興
第二節 指定教化村下の学校報徳社・児童常会
1 鷹栖小学校の報徳教育
2 高島校長の「学校仕法」論
3 ほかの指定教化村下の報徳教育-北般若小学校の児童常会に着目して
第三節 学校報徳社・児童常会の問い直しと錬成論的展開
1 県議会での疑義の噴出と遠山の転出
2 鷹栖小学校における報徳教育の変容
3 北般若小学校における児童常会・学校報徳社の時差的展開
小括
第四章 埼玉県における「新興報徳運動」と報徳教育
序
第一節 埼玉県における「新興報徳運動」のはじまり
1 遠山信一郎の着任
2 埼玉県振興報徳会の結成
3 講習会による指導者養成
4 運動の広がりと批判の萌芽
第二節 一九三六年度以降の「新興報徳運動」の変転
1 川西実三知事の着任
2 埼玉県農村更生協会の結成と遠山の転任
第三節 報徳教育の姿
1 遠山のみた教育関係者の姿から
2 埼玉県における報徳教育情報
3『更生埼玉』誌上にみる校長たちの発言
小括
第五章 北海道における「新興報徳運動」と報徳教育
序
第一節 「新興報徳運動」の萌芽期
1 佐上信一長官による「特別指導町村」設定と「町村教育是」制定の働きかけ
2 報徳講習会の開催
第二節 遠山信一郎の着任後の展開
1 長期講習会派遣と道内各地の運動
2 道庁振興報徳会の結成と活動
3 北海道振興報徳会の結成
第三節 遠山の転任とその後の展開
1 運動の批判と遠山への「ざん訴中傷」
2 一九三九年度の「北海道振興報徳会」
3 一九四二年度の「北海道振興報徳会」総会決議報告から
小括
第Ⅱ部「新興報徳運動」と報徳教育の伝播
第六章 栃木県における「新興報徳運動」と報徳教育
序
第一節 昭和恐慌後の報徳仕法への関心
第二節 一九三五~一九三六年における「新興報徳運動」
1 栃木県尊徳会結成と「二宮尊徳八十年祭」
2 相野田学務部長の働きかけと報徳教育の実践化
3 遠山のみた教育関係者の教育関係者の姿
第三節 栃木県における報徳教育の理論と実践
1 丈風生「報徳仕法取扱淙々と教育」
2 「新興」報徳から「皇道」報徳へ
小括
第七章 島根県における「新興報徳運動」と報徳教育
序
第一節 酒井栄吉学務部長の働きかけ
第二節 教育視察と報徳教育情報の伝播……
1 島根県師範学校附属小学校と島根県教育会の教育視察
2 報徳教育情報の伝播
第三節 島根県内における報徳教育の実践化
1 性急な実践化への応答
2「教育仕法」論
小括
第八章 報徳教育の錬成論的な形成と展開
序
第一節 加藤仁平による「報徳教育」論の提唱
1 加藤仁平と「新興報徳運動」との接点
2 日本諸学振興委員会における研究発表
第二節「報徳経済学が組織される頃迄には、報徳教育学を組織立てたい」
1 報徳経済学研究会と加藤仁平
2 「報徳教育学」の構想化
第三節『新興報徳教育』から『皇道報徳教育』への転換
1 『皇道報徳教育』の発刊
2 新体制運動・国民学校令への対応
小括
第九章 戦時下に広がる「学校常会」論
序
第一節 国民訓育連盟による「学校常会」論と実践研究
1 国民訓育連盟と報徳教育との接続
2 国民訓育連盟における「学校常会」への着目
3 第七回「教育と行の講習会」
4 連盟内に広がる「学校常会」論議
第二節 日本青年教師団による「学校常会」論と実践研究
1 国民精神総動員中央連盟と日本青年教師団
2 教師団幹部層による「学校常会」論議
3 東京市西巣鴨第一小学校の「教育隣組」
4 大日本青少年団との結びつき
第三節 少年団常会の一般化
1 「日、米開戦と共に青少年常会は殊更喫緊の急務となった」
2 「皇国の道に絶対随順する」常会の一般化
小括
第一〇章 神奈川県尊徳会の結成と総力戦体制下の報徳教育
序
第一節 神奈川県尊徳会の結成と県指定研究
1 神奈川県尊徳会の結成
2 国民学校長会における指示と県指定研究
第二節 一九四〇年における報徳教育の変容-福沢小学校の事例-
1 米山要助校長の報徳教育
2 児童常会の導入と婦人常会との合流
3 小澤校長の報徳教育論
4 「感心な人の発表」
第三節 「反省録」と「躾の調」による日常生活指導の徹底
1 小澤校長の「反省」論
2 「反省録」と「躾の調」
3 保護者の認識
小括
第Ⅲ部 戦後復興期における報徳教育
第十一章 戦後福沢国民学校における報徳教育の再評価
序
第一節 戦後福沢国民学校の実践構築-「空白の一九四六年度」に起こったこと-
1 新教育研究の開始と石山脩平の招聘
2 研究体制の確立
3 「新教育研究報告会」の年月日
4 新教育研究から社会科研究へ
第二節 報徳教育の再評価
1 報徳教育と新教育との対比
2 「本校の新教育の底流を流れる原理的なるもの」
3 新教育への再構築
第三節 「農村地域社会学校」に継承された「母子常会」
小括
第十二章『民主報徳』にみる戦後の報徳教育
序
第一節敗戦直後の加藤仁平
第二節報徳教育家の再結集
1 桜井小学校を中心とした報徳青年運動・報徳教育
2 各地・個人からの短信
第三節 田中茂一の報徳教育論
1 福沢校・井上喜一郎との共通点
2「解説報徳新教育」の連載
3 一九五三年における「逆コース」論争
第四節 『民主報徳』誌上にみる報徳教育
1 一九五四年の「報徳の新雛形作成審議会」における「新教育体制」A案・B案
2 愛知県五並中学校の『荒地につなぐ手』
3 加藤仁平「本誌一〇〇号を迎えて」で挙げられた「報徳教育の記録」から
小括
結 章 「昭和前期における報徳教育」とは何だったのか
一 昭和戦前における錬成論的な深化と教育学的な深化
二 報徳教育からの「学校常会」の抽出と一般化
三 昭和戦後の報徳教育
四 「長所美点」をめぐる「対話」の教育史
あとがき
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