[2020/06/22]創立70周年記念誌を発刊しました。
あらまし 本書は60周年に引き続いて、70周年史として編まれた。本書も先の50周年史同様の立場、視角に基づいて編集している。国立大学法人評価の定めにより第3期、次いで第4期の計画策定期間に当たる。この期間で特筆すべきことは、先の法人化当初では運営費交付金の金額を国立大学の水準を落とさないようにとの衆参両院の付帯決議の効果もあってであろうが、交付金額は人件費の毎年度1%削減を外せば現状維持に近い状況であったが、この時期には削減額を全国的に文科省は集めて、評価に基づく傾斜配分を本格化させてきた。加えて2012年には教授会権限を当該部局の教学の狭い枠に設定し、学長が特段の要請をした事項の審議は行うにせよ、あくまで決定ではなく意見具申にとどめられた。また、学部長等の役職者の学長による先決も行うことが可能とされ、学部自治はもはや消滅したに等しい。また大学の特色づけが強く要請され、大学・学部のミッションを明示することで、静岡大学は国際的研究型、教育型に対して、地域奉仕型の大学として自己を位置づけた。法人化以降、特に顕著な展開を見せてきたのは大学の独自組織化の道であり、国立大学時代以来、長く電子工学研究所が存続してきたが、これに加えてグリーン科学研究所を設置し、より分野総合的視点からの研究レベルアップが図られたことであろう。教育面ではNIFEEプログラム(National InterFacing Engineering Education)、さらにレベルアップを図ったアジアブリッジプログラム(ABP)、部局を超えた地域支援をも込め、学生の若い知による総合的フィールド教育システムとしての地域創造学環などおよそ国立大学時代には組織化できないような取り組みにチャレンジしてきた。
「静岡大学の10年 2009-2019」
2020(令和2)年3月発刊
[2020/07/20]創立70周年記念誌正誤表を掲載しました。
(正誤表)創立70周年 静岡大学の10年 2009-2019
[2020/09/28]文教速報に掲載されました。
2020(令和2)年9月18日(金曜日)文教速報 第8890号 掲載
[2020/07/01]創立60周年記念誌を掲載しました。
あらまし 本書は創立50周年から10年後の2009年に十年間をまとめることを目的に刊行された。この期間に、戦後、あるいは戦前以来の国立大学を政府直轄の機関から、2004年に独立した国立大学法人となった。そして、その設置者を、個別大学の上部に立つ国立大学法人とし、この法人の長を学長と同一人物、そしてそのもとに一定数の役員(理事)を置き、この役員会とした。この機関が大学経営の全般に責任を負っている。外部の意見を徴するために経営協議会を設置し、さらに外部者半数以上の学長選考会議を置き、教職員の意向投票を参考に学長を選任し、監事2名を置き、大学運営の財務と経営面を監査する。そして大学は、6年間の中期目標・計画を策定し、文部科学大臣がその上申を受けて、「決定」公表する。さらに毎年度計画を作成し、これの実施状況を国立大学評価委員が行い、評価によっては、運営費交付金額に影響を与えることになった。つまりこの十年は前半の国立大学時代から後半の国立大学法人時代へと制度の変革を経験する。その制度改革によって何が起きたか。従来は、財務上、従来の教官等積算校費、学生等積算校費を中核とし、教職員人件費や旅費日当等は別途支給され、教職員定数管理も職階毎に定められていたシステムか変革された。この校費に相当する金額を当初はできる限り近づけて「国立大学運営費交付金」とされ授業料等各種納付金部分は、それぞれの大学の「自己資金」財源とされた。さらに詳細は本史を紐解いていただこう。この十年の静岡大学の取り組み状況をこの書によって理解していただくことにする。
「静岡大学の10年 1999-2009」
2010(平成22)年3月発刊
[2020/07/27]創立50周年記念誌を掲載しました。
あらまし 本書は戦後の1949年6月に、ほぼ全国一斉に成立した国立大学の一つとしての静岡大学の創立50周年を祝うべく、1996年以来、編集委員会を設置して、1999年の記念式典に合わせて取りまとめられた。その叙述にあたっての方法的観点は、第一に静岡大学として形成される前の、明治近代教育の始まりから戦後の50年間をとらえた大学の歴史を対象として展開することによって、現代の静岡大学の個性を歴史的に見ることである。第二には、大学は部局あって大学なしという批判を聞くことが多い。しかし実際には各部局が国に対して独自の予算要求権限を持っているわけではない地方国立大学の場合、むしろ逆の一体性のほうが強いことがわかる。第三に戦後の大学制度は、戦前の狭い専門教育主義を超えて、幅広い教養の上に専門を育てるという発想の下で、教養課程を入学後2年間、専門課程を後期2年間という制度的枠組みを持った。しかし、それ以来ほぼ37年間の歴史経過をもって1996年には部局としての教養部(成立は1964年)を廃止し、教養教育科目を全学年に分散することとした。第四に、大学は学生と教職員が集う場であることを考慮して、学生自治活動等多面的な取り組みを加えていることである。第五に、そもそも高等教育としての大学教育の歴史をとらえるうえで重視すべきなのは個別大学史にとどまらず、全国と世界の高等教育の潮流と文教政策、地域社会や財界等利害関係者との関係を解き明かすことが必要だという視点である。これは大学の在り方として狭い産学共同にとらわれない幅広い地域連携確立の道である。
「静岡大学の五十年 通史」
1999(平成11)年6月発刊
[2020/09/09]創立25周年記念誌を掲載しました。
あらまし 本書の特色は、なんといっても米騒動以来といわれる1960年 日米安全保障条約改定をめぐる学生・教員・地域の深い関連による広範かつ深い反対運動の組織化とそれをめぐる問題、次いで1963年の受益者負担論の横行と、国家公務員の総定員法を背景に文化省通達に基づく学生寮炊夫の公務員身分を外すという方針をめぐって、学生と大学との抗争(1982年まで持ち越し)、そして1970年 日米安全保障条約固定期限終了をめぐる継続(自動延長か終了か)の全国民的運動への学生のかかわりが詳しく述べられていることに示されるように、社会と大学の関連性が問われた時代であった。同時に大学人が大いに市民の学習運動を支える役割を果たしたという点で、地域と大学の関連が強まったことは、今日大学と地域の関係が問われていることの歴史的前提であったともいえよう。また、国立大学の戦後第二の改革の時代でもあった。つまり文理学部、教育学部、工学部、農学部、工学部附属電子工学研究施設の四学部体制が新制の大学として発足した時期の基本組織であったが(その後理学部附属放射化学研究施設、併設法経短期大学部、併設工業短期大学部設置)、1964年を境に文理学部が人文学部と理学部の2学部に転換し、同時期に電子工学研究所、大学院修士課程工学研究科を設置している。
「静岡大学二十五年史」
1976(昭和51)年3月発刊
[2020/09/07]創立10周年記念誌を掲載しました。
あらまし 本書は静岡大学が発足して十年後、1959年に編纂された。本書の特色は、何よりも戦後発足して間もない一地方国立大学の歴史を記録にとどめるという英断と優れた先覚者たちのなみなみならない思いが詰まっているということであり、その謦咳に触れる思いがする。静岡大学は他の新制地方国立大学の事例のご多分に漏れず、先行する旧制高等学校、旧制高等工業専門学校、旧制師範学校の集結によるものであった。特に静岡という東西に距離のある地での師範学校それ自体が静岡、浜松、三島の三地区に存在していたこと、このほか青年師範学校を統合することも重大問題であった。そもそも旧制高等学校、旧制高等工業専門学校とは就学期間の異なる師範学校(一年少ない)は独自の静岡教育大学を目指し、他方、高等学校は静岡文理科大学を目指し、工業専門学校は浜松工業大学を目指すと、当初は統合に向かう方向ではなかった。ところが、連合国軍最高司令部の教育方針と南原繁東京帝国大学総長を中心とした独自の文科省内部に設置された教育刷新会議の議論、何よりも文科省内での戦後の厳しい財政事情から、三大学の設置よりも一大学への再編統合が選択されていった。これ自体は全国的に見ても珍しいケースだとされるが、何よりも師範学校の規模の沖里工業専門学校と旧制高等学校の色合いの相違が大きな問題であったろう。こうした経緯がよく記載されている戦後大学史として貴重な仕事であろう。その後の展開としては、国家財政の厳しさもあって、農地改革を踏まえるならば、農業大県でもあった静岡県に農学高等教育の必要性を感じていたことから、静岡県はとりあえず農林専門学校を設置し、直ちにこれを県立農林大学として昇格し、さらにこれを前提に静岡大学農学部へ統合することを目標にし、かつ実際にもそのような展開だった。同じ時期、県内の法政関係の高等教育の必要性と経済諸条件の実情から、静岡県立法経短期大学を設置し、それも大岩の文理学部に建物を寄贈する形で始まり、これも直ちに併設法経短期大学部として統合してゆく。併設工業短期大学部はその後、高度成長の展開に沿って1955年段階で静岡大学工学部との連携で組織化される。実はこの工業短大は地域に人材を供給する点で、戦前の工業高等専門学校の伝統をある意味で継承したといえるし、実際、地元の経営者の子息が入学し、地元企業に戻りやすい環境であったといえよう。
「静岡大学十年史」
1962(昭和37)年3月発刊