大学論を読む(5)『新制大学の誕生 大衆高等教育への道』下

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大学論を読む(5)

天野郁夫『新制大学の誕生㊦ 大衆高等教育への道』

名古屋大学出版会、2016年8月、3,600円(税抜)、414頁

 

大学の組織と大学自治をめぐる占領当局と日本側の角逐

「第5章 新制大学像の模索」以下で興味深いのは、旧制師範学校をどう扱うかをめぐって、一つは国内的にはそもそも旧制高等学校と同等というよりも年限が1年不足していることもあって、別途の道を探る動きが、師範学校自体にあった。むろん教育大学のような姿で。また師範学校は昭和18年までは道府県立だったので、その位置に戻すべしという認識もあった。もっとも師範学校側はそもそも旧制高等学校や旧制高等工業学校等との連合を期待していなかったのが事実のようだ。他方で、連合国軍の認識が、アメリカ流高等教育システムに範をとると、そもそも「国立大学」ではなく、地方分権の立場から、全国的に都道府県立大学として設置すべきだという認識が支配的だったという。日本側はそれらの経緯を踏まえて、師範学校を地方設置の大学にという認識を示したが、師範学校側から、国立でという主張があり、結果として、国立に一本化される。

ついで議論されているのは大学の地域配置問題。これはすでに1940年の時期にさえ議論されていたという系譜を持っている。端的に言えば東京、大阪、京都に偏った大学配置を改めて全国的分散を図るということであった。それに沿うのが旧制高等教育機関の大学昇格の実践だった。それとともに当時ではその大学の性格としてどのような状況を望ましいと見たかというと、地域ごとに「複合大学」、端的に言えば複数の専門分野を併せ持った大学の設置であった。都道府県ごとに文教中心地を作り出し、文理学部、農学部を持つこと、それに付属させて農学研究所を、あるいは地域の特性に合わせた専門学部を設置することが必要と認識されていた。なお高等教育機関の大都市偏在の事情は私学の設置の結果であるので、それだけに国立大学の地方設置は重要という認識でもあった。

次の論点が、大学自治をどうするのかということであった。連合国軍側はアメリカ流のcouncilを大学と切り離して組織するのが望ましいとしたが、日本側は評議会―教授会の従来の帝国大学に設置されていた組織形態を継承し、council商議会設置の方針であった。人事権、教学体制のすべてを大学の専管事項とし、これを教授会に担わせ、各部位代表者2名を束ねて評議会とするというわけだった。また全国的には大学審議会や教育委員会を設置してその指揮下に大学の自治を担うということだったが、実際は、全国教育委員会の設置は行わなかったし、評議会を超える占領軍の期待した理事会board of trusteesの設置はなかった。特に理事会設置中止には学生自治団体の反対運動も無視できないだろう。しかしGHQ側はこれに難色を示した。というのは大学の自治を教授会自治論で大学の意のままにしてほしくないこと、国立大学である以上、国民の租税で賄っているので、何らかの国民の介入を図るべきだということだった。占領軍側(CIE)では日本の審議経過に不満を持ち、ついに1948年7月15日付の「大学法試案要綱」が示され、中央審議会で全国の大学への勧告その他設置改廃等のあらゆる行政上の方針決定と遂行に努め、「管理委員会」governing boardにより、大学の管理運営の執行機関とする方針を提起した。後者の委員会は国家代表3名、都道府県代表3名、同総会代表名、教授代表3名、学長という構成で任期6年、再任を妨げずという内容だった。端的に言えば教授会自治をはるかに超える組織で学内代表が過半数を1名を超える構成ですべて決定するシステムだった。

CIE(占領軍教育部)からの大学改革案が以上のような状況に対して、日本側は南原繁らが、アメリカの外部組織が大学運営にかかわる方法ではなく、基調として日本的伝統に即した学長-評議会(各部局複数代表者によって構成)-部局教授会を意思決定と方針の発する基本形として提起し、連合国側は基本的にそれを了解したといってよい。とはいえアメリカの提案にも配慮した日本側の方向性として、全国的に大学教育委員会を設置し、そこの基本方針に依拠しつつ個別大学が方向づけを行うこと、学長は学内投票によって選出すること、アメリカ側と同様に政治の教育への介入を防ぐ自治論的発想を堅持したことだった。そのうえで検討された大学法案が1951年に国会に上程されるにいたるが、これには学生たちの大きな反撃を受けたこともあって、結局、通過せず廃案となって、その後の国立大学の在り方が決まってゆく。なお教育論として、できるだけ多様な専門分野を要するのが望ましいという認識を南原らが持っていたこともあって、単科大学方式を全国的に広める方針は持たなかった。こうした経緯を天野氏は子細に点検している。

また大学の組織編成をどのようにするかの議論が行われ、旧来の帝国大学に存在したヨーロッパ型の講座制と専門学校、旧制高等学校に存在した学科目単位の在り方について検討のうえ、旧来の帝国大学系では講座制を存続させること、新設の大学には学科目制を置くこととし、講座制の大学には大学院を設置するとした。占領軍側はこれに対して講座制のシステムを持たなかったアメリカの慣習から見て批判的であった。また大学設置基準についての日本側議論でも専門への志向性が強い在り方にアメリカ側は難色を示した。というのはアメリカ型大学では、人文系への視野を持ってこそ理系教育による学生の学びが有意義であるという教養教育主義に大学教育の主眼を置いていたからである。その後1991年の大学設置基準の大綱化、緩和まで存続した教養教育科目を人文3科目12単位、社会3科目12単位、自然3科目12単位の合計36単位の基本線がこの時期に定められてゆく(1947年7月8日大学基準協会創立総会決定、12月15日同協会改定)。そこで日本側の設置基準検討にあっては、この教養主義的なアメリカ流の認識を考慮して、教養教育を大きな柱とする大学教育制度を構築することになる。

軍事研究の廃止と旧帝国大学の地位、女子教育の方向性

戦後国立大学発足にあたって、軍事目的研究分野の改廃を前提に、政府=文部省の側から、帝国大学(帝国大学令に基づく)としての位置づけを廃止した過程で、これら旧帝国大学の特権的地位を明確化させるために理工系中心であったところに文系諸学部の創設を大学側からではなく、政府側から働きかけて設置させてゆく。それも新制大学設置を前に実行させることで、検討されていた大学設置基準をしり目に容易に設置したという。旧帝国大学では東京と京都の実が文字通り総合帝国大学であったので、戦後は確かに国立大学として新設の大学と同格に並ばせるかに見えて、実際は国立総合大学として別格の扱いを受けることになった。興味深いのは、戦後の医学教育にかかわって、文部省は早くから、復員による軍医の帰還で医師が急増し、それに戦時期に濫造された医学専門学校出身者の増加が加わって、医学教育の整理の必要性を感じ、医療制度改革の一環としての整理を考えてゆく。ちょうど占領軍側でもアメリカの過去の経験で医師濫造の弊害への問題意識が重なる。また女子教育では、戦前の差別的扱いの中で多少とも女子大学構想が取り組まれていたとはいえ、現実化するのは戦後。しかも家政学が日本では学部として扱う準備はなかったところ占領軍の教育改革の指揮の中でアメリカではすでに確立した専門教育であったことが功を奏して日本でも専門学部化の道が開かれたという。しかし多数の女子専門学校は大学昇格の道には資格面で不足があり、ここから短期大学方式の道が開かれてゆく。ただし日本側でも占領軍側でも短期大学の制度化には消極的だったようだ。

大学基準協会と日本側の教育刷新委員会との軋轢

また占領軍側のCIEの別動隊とされた大学基準協会と日本側の教育刷新委員会との軋轢が絶えず生じたことも、戦後大学教育改革の一こまを示し、占領軍側に力が無視できず主導権さえも発揮していたといえよう。占領軍側は一刻も早期の新制大学創設を目指していたのに対して、文部省側は当面の財政危機と旧制学校の転換に一定の猶予を与える必要を感じていたことによる漸進主義的改革の道を取ろうとしていたといえるだろう。占領軍側が急いでいたことのあかしとして文部省側で基準設定もままならぬ昭和23年には私学側の占領軍側への働きかけで私学の新制大学設置が早く実現した。文部省側はそれを後追いしつつ基準を用意していったともいえよう。実際には私学11校、公立の神戸商科大学、うち私学の日本女子、東京女子、津田塾、聖心女子、神戸女学院の5女子大、上智、同志社、関西学院、関西、立命館、国学院という結果になったが、文部省側が折れた最大の問題は財政面で国家の負担が必要でないとか、女子大のように昭和の初めから大学昇格を目指していた実も無視できない。

講座制の総合大学と学科目制の新設地方大学、教養教育の方向性

このように経過を見る限り、戦後日本の高等教育機関としての大学は、片や研究中心の講座制を柱とする総合大学と他方に学科目制、教育を主軸とする新設の大学への分岐が当初からみられ、それら分岐の構造に共通した教育制度としての教養主義的教育制度を接木したといえるだろう。とはいえ評者の認識では次の難問がある気がする。というのは教養教育と専門教育の垣根の問題だ。ひとつにそれは特に旧制帝国大学の代表格であった東京大学や京都大学で、教養教育担当の部局が基本的に旧制高等学校教員によって担われたこと、逆に旧制帝国大学教員はそのまま新制大学専門学部教員となったということ。戦後発足の新制大学は旧制高等学校を核とした文理学部教員が教養科目を担当しつつ、当該文理学部専門教育を担当し、工学、農学、医学などの新設専門学部は、その旧制専門学校の時期の語学ほかの教養的科目担当教員を教養教育の一部に充てた。その後新制の戦後発足大学で学部の増設に伴い、特に文理学部の場合は、共通に当たる分野の教員を専門学部から切り離して新設の教養部に移行させた。要するに戦後日本の大学は教養教育とは何かを明確に自己認識した制度とそれに見合う教員を育てたわけではなく、旧制高等学校の制度的方法の焼き直しを教養教育としたに等しい。しかも大学教育4年というが、実質的には就職活動等で学生たちが忙殺されるために4年ではなく3年程度に短縮させられ、そのうち2年間が教養教育となるために専門教育の質は1年間にとどまるといえよう。これも就学率が10%前後の戦後当初であればいざ知らず4割にも達する大学大衆化の時代には不適合となってきた。このような制度的欠陥こそが高等教育としての大学教育の質を担保せず、さらに企業側はその学生の教育内容での評価を尊重して就職させることを長く怠ってきたという紛れもない事実が残ってきた。これは明らかにメリットクラシーのアメリカ社会とは異質というほかないだろう。こうして戦後当初の大学教育の高い理念は大学自らと外圧の双方によって突き崩されたてきたといえる。また戦後国立大学設置にあたって、重要課題は四つ。一つは深い専門性に対して幅広い教養をいかに育てるかというすでに述べた点。今一つがそもそも出発点では旧制帝大を核に全国に9つ程度の大学を設置し、そのもとに新設の大学をその下部組織として展開しようとさせる構想、第三に、旧制高等学校を「文理学部」化する考え方を日本側が提起したに際して占領軍側は、「文」「理」の仕分けになるシステムには消極的で、むしろ文理の境界なき教養大学的システムの推奨を主張したこと、第四に、師範学校の昇格による学芸大学化について、占領軍側は消極的で、学芸大学、あるいは学芸学部それ自体、英文表記を行えばliberal artsにあたる、それにふさわしい展開を要求したこと。とはいえ日本側はアメリカの肝いりで組織した大学基準協会で設置基準を適してきたことにかんがみて結果的にはそれら消極論に抗して、一県一国立大学の集約化もそれぞれ設置にこぎつけた。

旧制帝国大学、旧制専門大学、新制大学間の格差問題の継承、固定化

こうした動向をみると、今となっては確かに旧帝国大学の資源的優位を基盤に今日も1900年代からの大学院大学化として引き継がれ、大学間連携についてみれば、名古屋大学と岐阜大学が先行する形で一法人2大学や、北海道の事例にみるように複数の単科大学の一法人化も戦後の旧帝大を核とするその下部に配置しようとした新設大学ということの現代的手直しにさえ見えよう。そして興味深いのは、旧帝大を地域(県境を越えたブロックという意味での)「総合大学」、新制の設立される地方国立大学を一県一国立大学として、医学部の増設等を含む「複合大学」として意味づけていったということである。残る東京商科大学、東京工業大学は単独の道、お茶の水と奈良女高等師範学校は占領軍との了解の下でお茶の水、奈良女子大として、それぞれ存続してゆく。旧制帝国大学の教員養成の学部等設置を強く要求したのはイールズ博士といい、これに対応して東京大学をはじめ文学部の教育学科として設置を示すなどしたが、最終的には小規模な教育学部(1専攻、九州大)の設置からさまざまであったが、いわゆる師範学校的分野を拒絶した形態がとられ、今日に至る。

こうして大学設置は東京、京都のような旧制帝国大学の施設、教員の準備が整っているところは別格として、名古屋大学をはじめ施設不備、教員不備などによる改善を要求されつつ発足することになったのが国立学校設置法の制定を待って1949年5月31日のことであった。同時に天野氏が目配りよく指摘しているのが、旧制帝国大学には講座制、大学院を、新制国立大学には学科目制の差別化を図ったことだった。これが長くその後の格差問題を引き起こした出発点であった。これに対して、専門学校で、昇格を期待せず、あるいは陣容が整わないが、いずれ消滅させられることが分かっている学校が短期大学化の道を走ることになった。静岡大学の場合も教員審査基準に合致しない個々教員の判断が行われていた資料があるので、明らかだった。 

新設静岡大学から見える大学間格差問題

新制国立大学制度で登場した38校の「複合大学」として、各道府県に存在する旧制高等学校、専門学校、師範学校、青年師範学校を一挙に学部昇格、一県一国立大学方針によって静岡大学も登場した。天野氏の整理によれば、(1)旧制高等学校を統合する場合、師範学校は教育学部に、旧制高校は教養学部・文理学部等に転換、(2)旧制高等学校のない県では師範学校を学芸学部とし、その中に教養部・教育部を設置という方針であった。静岡大学は(1)のケースに当たる。また医学を戦前に抱えて官立大学化したもの、戦時期に医学を基本に設置された大学がこれらの中で一段上の位置づけを与えられた。この8校はいずれ旧制帝国大学のような総合大学化を目指す位置に置かれた。文部省はこうした格差的編成を前提にしつつも、各県に設置する国立大学の方向を総合大学、もしくは複合大学化で構想していたという(昭和23年5月上旬「国立新大学切替措置要項案」)。静岡大学の場合は『静岡大学十年史』に即してまとめられているが、端的にいって大学と同様に静高による文理系単科大学、浜松工専による浜松工科大学、師範系の静岡教育大学案が鼎立したものの、単独昇格が厳しい情勢となって浜松側から静岡に働きかけて統合プランに変更され、静岡教育大学案も、その後統合することになった。文部省は師範系と高校で学芸学部を設置するよう働きかけていたものの、突如2学部に分割提案として変更した。いかに当時の新制大学設置が、他県のケースのような紛糾や抗争がらみではなく、文部省側の意向を受けて編成されたかの典型例でもあったように思われる。むろん県側がそれぞれの校長を招請して状況を調査してはいたが。天野氏はこうした外圧的な動向を規定した一要因として占領当局の意思が働いたのではないかと想像している。天野氏は戦後新制大学が基本的に各地の専門学校を母体にする中で旧制高等学校への配慮を行った統合策を講じたと見た。というのは一つに占領軍当局の教養教育重視の立場から、旧制高等学校の存在が重要な資源とみる意識があったからだろうととらえているようだ。なお教師養成分野の大学昇格は難渋を極めたようだ。簡単に言えば、旧制師範学校教授・助教授たちの大学教員としての資格をめぐって審査基準に不適合が頻繁に起きたからである。例えば全国の教授資格で合格者は8%程度であったことにもそれは示される。当然といえば当然で、そもそも師範学校教授の職務が研究・教育であったわけではなく研究業績による拘束もあったわけではない。

この他に公立大学の成立事情、私学の成立事情にまだ広くとらえているが、その中でも興味がひかれるのは、私学設置で、戦後改革に際して私学法人としての独立性を生かし、私学側から文部省とは自律的にGHQに働きかけ、その自由を認める点で、占領当局の意思と一致して、展開を見せたということであろう。その場合、経費面で私学は専門部を抱えているところではこれを第二部として学生数を確保し、授業料収入を賄う努力をしていたことであろう。さらに私立の各種専門学校の大学昇格をめぐる問題なども論じられている。

大学教育をめぐる問題の整理―本書を読みながら

評者は天野氏の浩瀚な戦前、戦後の日本の大学制度変遷史を読むことを通じて、改めて以下のような議論に立ち至る。

日本の高等教育制度はそれ自体、近現代の日本人を形作ってきた。端的に言えば、そもそも後発国として殖産興業・軍事強国を目指し、戦後は高度成長を追い求めてきたこの国にとって、一刻もゆるがせにできなかったのが、技術教育の重要性であり、その故に初期以来の大学は職業別教育にふさわしい専門教育主義を強く志向していたのだろう。ただし旧制帝国大学の歴史は、その前提に旧制高等学校の文理を問わず多様な基礎知識習得の上に存在した高度な専門性教育に特化していた。もっとも旧制高等学校の教育の基本は英語、ドイツ語、フランス語等の西洋言語習得を通じた先進的学術の基盤としての哲学志向であったといえるだろう。いずれにせよ文理の総合知に至る役割を持っていたといえよう。その上に高度の専門職業、と言っても官僚、医療、学術へと向かう大学教育へと展開した。巧まずして総合知の上に立つ専門性であったろう。

しかしこれに対して戦後の大学教育は、学部教育を戦前流の高度専門性を志向する専門教育に、占領軍の教育改革の方向性に掉さして、専門性のとらわれずまず何よりも幅広い教養人の要請に重きを置く「教養教育」と「専門教育」をほぼそれぞれ2年間で達成することとされた。この道は、3つの側面から厳しい問題に直面した。一つは戦前では3年間の専門教育が旧制高等学校の3年間の教養基礎教育に対して、専門教育そのものが短縮されている。しかも戦前にあっては大学卒業後の進路であまり迷うことなく予定されていたので、就職のための時間がそれほど必要でなかった。その意味では戦後大学の専門教育は最初から2年も準備されていず、1年半がせいぜいのところであったろう。二つには戦後の高等学校3年間はかなり早期に文系、理系の進路決定がなされ、戦前型の教養教育はここでは担保されず、大学に入学後となる。しかしそもそも大学入学時の学部選択が専門性の枠で決まっているので、教養教育への強い志向性は学生に保証されていない。こうして戦後大学では、教養も専門もともに不十分な質を持つことにならざるを得ない。三つには高度成長にまい進してきた戦後企業にとって、高度の専門性を学生に求めず、一般的な頑張り意欲などで求めさえすれば、専門性は職場で提供する、あるいは高度の専門性よりも職場の状況に適合する「専門職業」性で十分と認識されたのであろう。技術的専門性は光学的応用的技術を磨く大学院修士課程どまりで十分であり、それ以上のコストを要する博士学位は不要というわけであった。

このような経緯を踏まえて、早期専門教育化を目指したのが1991年の大学設置基準の大綱化を出発点とする戦後大学教育の根幹であった教養教育と専門教育の二本柱が取り払われ、総合大学の総合知が問われる一方で、社会人の教養が改めて問われているのだろう。果たしてこうした分節構造の知の浮遊状況の中で、優れた先進的知識や情報を形成できるのかどうかは実のこと不透明ではないだろうか?とくに21世紀の急速に発展する科学や技術にどこまで対応可能な市民を形成できているのだろうか?もはや大学は大衆的市民教育の場となって長い。それだけに民主社会の形成者としての市民を育てることの重要性があるだろう。さらにもう一つの課題、21世紀の高度に必要な専門的教養を育てる場としての制度としての大学の行く末はどうであるのかも重大なのだ。この面では戦後大学は教養教育をどのように形成してきたか、あるいは教養教育の本来趣旨とは何かに精通した専門家を育てることに成功してこなかったことも大きな問題であろう。戦後改革期の息吹を改めて思い返して、教養教育と専門教育の関係性と構造を攻究することの重要性が21世紀に今だからこそ求められているのかもしれない。

(2021年1月20日)