大学論を読む(6)『日本近代大学史』

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大学論を読む(6)

寺﨑昌男『日本近代大学史』

東京大学出版会、2020年6月、6,600円(税抜)、512頁

 

―書評を通して大学史を再検討する―

本書は日本の大学史研究の先駆者のお一人であり、その分野のリーダーであり、大学教育学界の大先達でもある人の明治初期から最近までのほぼ150年にも及ぶ日本の大学史を通観された、寺﨑氏でなければものにできないといってよい大作である。評者は読み進むうちに感じるのは、大学史を単なる制度変遷史にとどめず、広くその時期ごとの日本の教育界の課題を文教政策と絡ませて、大学の不可欠の構成要素である学生の姿をもとらえて展開されている点で、飽きさせない魅力がある。なお評者たちは同氏のご教示を受けて『静岡大学の50年』を編纂したが、到底その域までは及ぶものではなかった。とはいえその後の60年、70年に即して編纂した『静岡大学の10年』もその一端ではあった。

「第1部戦前編」第1章「移入と模索」、第2章「設計と整備」の時代という風に歴史の画期を明確に制度展開の裏付けを示しながら記述されている。

 第1章「移入と模索」で知ることのできるのは、政権主導の高等教育、大学校、大学の誘致導入が基本的に国家社会に有益な人材育成にあることと、当初は大学教育が研究と裏付け関係を持つ形では意識されず、お雇い外国人教授たちが行った種々の研究は制度的保障の裏付けがなく、教育機関としての大学とは無縁に扱われていたということ、したがって教育も教授陣の当初は英国人、フランス人依存でそれぞれの母国語主義で展開し、その後は、伊藤博文の役割も大きく日本語を基礎としての教育に転換したこと、また欧米の知に習うとしても、当初はイギリス、フランスであったが、澎湃として展開する自由民権運動との関係で、むしろ日本の統治に適合的と判断されたドイツの知に学ぶことが重視されていったこと、それがその後の高等教育での英語とドイツ語優先の在り方を生み出していったことがよくわかる。また初期の大学校、東京に設置された帝国大学が分科大学の総括組織として存在し、その長が総長と定義され、しかもこの総長は同時に法科大学長を兼任したこと、その上、当時いくつか創生してきた私立の法学教育機関(のちの早稲田、法政、明治、専修等)の統括者としても期待され、そもそも帝国大学が「国家枢要の人材」育成機関であったことから、総長は同時に高等教育の総括者、行政責任まで負わされ、帝国大学それ自体が文部大臣の強い指揮下に存在していたことを示された。また組織形態としてこれまで多かれ少なかれ、以上の経緯からドイツ方式の移入とされてはいたが、その後の研究を踏まえて、実はフランス型の分科大学の総括方式などフランスの影響を受けつつ、教育内容的にはドイツ型、アメリカ型、イギリス型の混合形態だと評価された。ここまで読み進むだけでも、いかに日本の大学教育の制度と内容が戦後改革後70年余を経て継承されているかを知ることができる。評者などは、これまで日本の大学教育がそもそもドイツ方式の後進国型専門教育志向型で、そのためにアメリカのような文理一体型の教養教育総合型、大学院をより分科した専門教育型と截然と区分されているのに対して、ドイツ方式の専門志向型とみてきたが、より子細な分析が必要なことがわかる。むろん評者はすでに知っていることだが、アメリカの大学といっても州立大学はより専門職業人養成型で出発し、17世紀以来のプリンストン大学に始まるハーバード、コロンビア等の名門私学とは相当に異なった発展を遂げているのであるが。またヨーロッパといってもイギリスのように中世の僧院から始まった哲学的、神学的教育主導の文化と自然への幅広い人間教育型もあるのだ。

 第2章「設計と整備の時代」において強調されるのは、大学の展開に当たって伊藤博文と井上毅文部大臣の役割である。伊藤が基本的に東京大学創始に当たって狙ったのが、まさに大学令に明記された「国家須要の学」を習得することを通じて、国家を支える官僚の育成だったといってもよいだろう。しかしこれに対して、その後、文教行政に当たった井上は、この国家目標にかなった教育機関としての帝国大学の位置づけは変えることなく、国家目標に合致した応用の学を重視すると言いつつも、その根底をなすべき基礎学をも重視するという姿勢をも持っていたことである。またこの大学行政を推進するうえで、帝国大学が行政機関と位置付けられているのに対して、分科大学たる専門分野別の法科大学、医科大学、理科大学、工科大学、文科大学等々に大学教育運営の実質を持たせ、その頂点に立つ帝国大学運営に当たっては、各分科大学から選任される評議員2名をもって構成する評議会で議することとし、各分科大学には教授会を設置し、それぞれの教学上の必要事項の審議と評議会、総長から指示される諮詢事項の審議を行うこととされた。さらに各分科大学は各地に分散設置し、帝国大学はその上層部分としての大学院機能を果たすことにした。ただし教官任免権や財政権限は国家、すなわち天皇の権限に位置付けることは変更していない。というのはそれらがいずれも大日本帝国憲法の規定に位置付けられているからである。このように寺﨑氏は詳細に展開している。この章での同氏の問題意識は明らかに日本における大学自治原則の形成史の目で論理の整理を図られたことであろう。先の教学事項の審議を教授会にゆだねるとか、あるいは井上の改定の前では評議官制度があったのを改めて、天皇官僚としての意味づけを外し評議員と名称して大学の自由度を増す努力を行い、教学体制の自由な審議なしに学の進歩ははかられないと見た当時としては進歩的な大学行政に打って出たことを評価されていることで自明だろう。これらは前任の森有礼文部大臣の行政とは様変わりしていること、井上が極めて精密に西洋の高等教育行政に学んでいることを評価されている。

 第3章「高等教育の展開と大学論・自治論」の時代についてみよう。この時期、1886年東京帝国大学、97年京都帝国大学、日露戦後には東北、九州へと帝国大学が増設、18年4月東北帝国大学農科大学であった札幌農学校が独立、北海道帝国大学としてそれぞれ発足、18年12月大学制度の大改革によりそれぞれの帝国大学直下に官立高等学校が普及し、東京(第一)、仙台(第二)、京都(第三)、金沢(第四)、熊本(第五)、岡山(第六)、鹿児島(第七)、山口と創設され、これら旧制高等学校生と総数約6341名がそのまま帝国大学入学定員となった。ほぼ日露戦後から中等学校、高等学校、帝国大学へという進学のコースが整備されたという。このほかに1903年専門学校令の成立で私立学校の形成も可能になり、高等教育機関整備が多角的に展開したという。さらに女子大学の源流として1900年津田梅子の女子英学塾、吉岡弥生の東京女子医学校、1901年成瀬仁蔵らの日本女子大学校等が創設された。1891年の宣教師E.Talcottの神戸英和学校高等科を改称して神戸女学院が創設された。東北帝国大学のみは女性の入学を認めた。

なお1903年専門学校令の交付を前に02年から文部省は専門学校に予科を設置すれば、「大学」を名乗ってよいという行政措置を取り、官立、公立のほかに私立の「大学」が形成された。これら私立「大学」卒業生には「学士」名称ではなく大学名を加えた例えば「早稲田大学学士」を付与してよいとされた。02年早稲田、03年明治、のちの法政、中央、東洋、04年立命館、05年駒沢、関西が創設された。当時、大学論が展開されたことを紹介されている。実に興味深いのは独学で東京専門学校に学びその後、京都帝国大学法科大学教授となった高根義人の議論である。端的に言うと、高根は、ドイツ方式とフランス方式を探求して、フランス方式が研究所主体の研究中心、ドイツ方式が研究と教育一体の専門分野別とはいえ総合化を目指すことで人知の開発を図ることになっているとして、ドイツ方式が至当とみた。実はフランス方式は大学を低級のものとみて、研究所中心主義的な井上毅文部大臣時代に構想されていたもので、それへの批判を含んでいる。学生だけではなく授業者である研究者たる教授に接することで「知識ヲ獲得スルト同時ニ研究ノ趣味ヲ養ヒ其好ム科目ヲ自修シテ其専門学科ニ堪能ナルコトヲ力ムル義務ヲ追フ」という。これはフランスの次のような方法とは全く異なるというわけである。「教授学生相率イテ政府所定ノプログラムヲ追ヒ試験ノ制裁ニ動カサレテ専門学術技芸ノ授受ニ謀殺セラレントス」ということである。ドイツ方式はその点、「自治・自修・自制」の精神を発揮でき、学問の最高峰を誇り、アメリカの大学人すらこの方式に学ぼうとしているというわけである。寺﨑氏はここから大学を研究中心としてとらえることの皮相を問題視している。その後、実に21世紀初め、まさに国立大学法人移行期に大学という機関が研究中心か、教育中心かで揺れた時、文科省当たりでは何よりも教育中心機関として位置づけようとしたのは、個々の研究者の意識がどうであれ、正当性があったはずだろう。これは同時にフランスの試験重点主義への批判、法科大学の講義中心、演習・論文皆無、試験点数主義への批判を包含していたという。まさに今日の大学問題へも照射する内容が含みこまれているのではないだろうか?昨今、と言ってもかなり長期にわたって、文系ですら卒業論文を軽視、または否定する動きがみられ、それゆえに演習も軽視する結果になっていないだろうか?高根はさらにドイツ方式の大学を推奨しつつ、研究文化は不可避的に専門別分化を招くにせよその統合の必要性があると認識していた。学問の本質が「諸種ノ専門ハ互ニ相関聯するモノ」だからであるという。総合大学たるゆえんはここにある。ほかに菊池大麓の大学論も紹介されていて、彼がアメリカに学んだこともあり、UniversityがCollegeでLiberal Artsを学んだ後に入学する大学院へと進学する場であるという。端的に言い換えれば高等学校をリベラルアーツの場とし、大学を大学院へ進学する中間の機関ということだったという。沢柳政次郎京都帝国大学総長の教授論がある。それによると「大学教授ハ素ヨリ第一流ノ学者タルベク而モ常ニ孜々トシテ学術ノ研究ト学生ノ教授トニ向ッテ全力ヲ尽クシ随ッテ進境ニアッルモノタルヲ要ス 苟モ斯クナランカ其学問上ノ言議ハ時ノ為政者ノ主義ニ反スルモ亦時流ノ喜バザル所トナルモ為ニ其地位ヲ動カスガ如キコト断ジテアルベカラズ」と述べている。これは大学の自治、研究、思想の自由を主張している。また寺﨑氏は東京帝国大学戸水(寛人帝国大学法科大学教授、ローマ法、民法、1903年七博士意見書の一人、文部省この提出を機に休職処分、その後宮内省にポーツマス講和会議拒否の上奏文提出で山川健次郎総長分限免職による更迭にまで至る。その後、帝国大学教授の抗議で、東京帝国大学・京都帝国大学の教授は大学の自治と学問の自由への侵害として総辞職を宣言した。このため、1906年復職)事件とその後の教授たちの議論を興味深く紹介している。端的にいって、教授たちは時の政治権力に不都合な発言、政治的発言を行うことができること、しかもそれは真理探究の行為として、政治に対して距離を置くことによって可能とされ、これを理由に政治介入は許されるべきではなく、まさにそこに官僚とは異なる位置があるということに尽きるだろう。それゆえに文部大臣が文官分限令によって教授を解職することはあってはならないという立場であった。

さらに寺﨑氏の筆は当時の学生に対する教育の仕組みと学生の受け入れ方をたどる。これを読むとどうやら既成知識の注入、序列・点数主義が支配的で、かつ法学・経済学では大人数教室での座学がもっぱらで、文学のような少数学生を対象にし、あるいは理工系のように演習を組み込んでいる教育方式とは相違があることがこの時期からすでに形成されていた。

 第4章「改革と公・私立大学登場の時代」での議論を見ておこう。1910年代から20年代の大学改革論等の展開をたどるのがこの章の目的であった。1910年代以降20年代にかけての大学制度改革の進行した時期をさす。1913年6月から17年9月までの文部大臣諮問機関教育調査会、1917年9月から19年5月までの臨時教育会議が対応する。前者は答申を出すことなく終結し、後者は合計30回の総会、67回の主査委員会を開催し、答申12回、建議2件という精力的な展開を見せたという。基本的には前代の大学制度を維持しつつ、帝国大学分科大学の学部への転換(フランス方式の停止)、大学は数個の学部を置くことを常例として、また例外的に一つの学部の大学を認め、大学設置を文部大臣の認可権限として明確化させた。学部の下に2年または3年生の予科、あるいは高等学校高等科の卒業生を受け入れることとし、予科への進学は中学校4年修了も可能で高等学校への進学も同様とされた。なお私立、公立大学教員採用は文部大臣の認可を必要とした。いくつかの論点が提示されているが、第1に「国家原理と大学における倫理教育」について、結果的には初等中等教育のようなこのテーマを大学教育が扱うことの必要性はないということで落ち着いている。ある意味で、この時代の意識の変容を示しているのかもしれない。第2に「天皇行幸と博士学位問題」が検討され、当時まで、帝国大学卒業式に天皇が行幸する、あるいは博士学位授与を天皇の栄誉であるかのように授与が行われていたありかたを改め、それぞれ廃止され、博士学位は大学の授与制度とされ、それまで存在した大博士制度は廃止され、1962年にまで及ぶ博士学位制度として定着したことが説明されている。第3に公・私立大学制度承認が行われ、複数の帝国大学と公立大学、私立大学の定着が見られた。第4に大学は総合大学か単科大学かという点の議論があり、記述のような認識に落ち着いたのである。第5に大学の研究、学習についても検討され、ここで学生評価の在り方が従来は高等文官試験合格との絡みで、点数主義だった形式を優、良、可の評価方式に幅を持たせ、また官僚に専門的自然科学的知見の重要性から法科優先ではない複線型の認識も始まる。実際、帝国大学出身者が民間企業に進出する動きもこの時期活発化するからでもある。さらに重要なことと思われるが、大学の学生は自ら研究主体として位置づけなおすとともに単なる学習者という消極的位置づけを改める方向が登場している。

 第5章「高等教育拡張の時代」を見ておこう。1919年度から24年度まで「高等諸学校創設及拡張計画」が原内閣の下で実行される。6か年継続事業で合計4455万余円、天皇内帑金1000円。官立高等学校10校、高等工業学校6校、高等農林学校4校、高等工業学校7校、外国語学校・薬学専門学校各1校、帝国大学4学部増設、医科大学5校、商科大学1校の昇格、実業専門学校2校、帝国大学6学部の拡張等々であった。これらは第一次世界大戦の中で認識された科学技術面での教育体制整備、商工業発展を支える専門学校等の必要性、そして帝国大学増強に見合った高等学校整備とつながる。臨時教育会議がこれらの政策方針を決定した。こうして帝国大学令は大学令および大学規程(1919年3月)に変更され、しかし帝国大学名称は変更せず、総合性大学として位置づけられた帝国大学は分科大学を停止し、総合大学としての帝国大学学部とされ、講座制も一講座一教授から一講座を非実験、実験、臨床講座とし、それぞれ教授1、助教授1を定員として位置づけ、助手定員はそれぞれ1,2,3人とされた。寺﨑氏はこれを一面で研究の集団化の必要性からとらえる一方、その他の大学に講座制を認めなかったことによって、大学間格差を固定化すること、三つ目に研究体制の閉鎖性と人格支配・従属性を生み出す弊害をもたらしたこと、それが戦後大学制度にまで引き継がれたと評価している。評者から加えるならば、国立大学の戦後史では東京大学が各部局ごとの概算要求権限を文部省に直接に行使していた点でも他大学とは全く異なった位置に立っていたことが指摘されよう。これはあたかもかつての分科大学の名残ともいえよう。

このように国内の高等教育制度の展開に限らず、寺﨑氏は朝鮮、台湾、「満州」の各地域での日本の高等教育機関設置の政策について、この分野でのこれまでの成果を踏まえて議論している。明白なのはヨーロッパの植民地高等教育機関のように本国と差異をつけて、植民地支配の本国高等教育機関出身者の下で働く限定的な「高等教育」機関であったのに対して、日本は本国との差異をほとんど付することなく設置しているけれども、本国の高等教育機関の不足を補充する役割を果たしていたこと、植民地の人々がアクセスする中等教育機関の設置がそれほど支えにはなっていないことを明確にした。

 第6章「戦争と崩壊の時代」の状況はどうであったのか。昭和期にはいって1938年[本書では1928年と誤記] 2月の人民戦線関連者の逮捕を経て同年5月、帝国大学総長等の人事が学内選挙によるのは官吏は天皇を輔弼する位置にあるから望ましくないとした荒木貞夫(陸軍大将)文相によって圧力がかけられ、「選挙」「投票」から「推薦制」へと転換を余儀なくされ、これを文相の決定権限の範囲にするとされた。大学人としては田中幸太朗法学部長のように「行政官ニアツテハ服従、司法官ニアツテハ公平、学者、芸術家ニアツテハ不羈独立」こそが職業上の「徳」と主張している。いずれにせよ寺﨑氏はこの動きを「一見姑息に見える妥協策は、大学の国家原理と大学教員の間の葛藤の渦中における大学側のギリギリの抵抗であった」と評価されている。その後、文部省は大学教育に「国体の本義」や「肇国の精神」を要求し、さらに従来に諸改革では行ってはいなかった倫理・終身の教育を盛り込ませてゆく。「大学教授ハ国体ノ本義ニ則リ教学一体ノ精神ニ徹シ学生ヲ薫化教導シ指導的人材ヲ育成シ得ベキ旨ノ訓令」を1940年12月24日に発した。また寺﨑氏は日本の戦時下大学が、一方で戦争科学振興を目指す革新は官僚たちによる理工系教育の在り方が問われ、途方で蓑田胸喜に代表される神ながらの道を標榜する右翼思想家たちによる文科系教育と教師の支配をもたらしたことを指摘している。実質的には後者は天皇統治の絶対化を図るという意味で、立憲主義への否定を事実上の改憲的立場で促進していったとする説を踏襲している。評者はこの二分法をかつて、和魂洋才を強調した『国体の本義』の主張に即していると認識した。要するに日本文化とは大和心と西洋の科学技術の合一であるところにその優秀さを認めるというあの立場であろう。

「第二部 戦後編」を見ておこう。この書では戦後改革からほぼ70年間の通史として展開されていて、大学問題の意味が解き明かされる。冒頭の「概説」は5頁弱で戦後75年以上に及ぶ高等教育史を実に簡潔に概括されていること自体に驚かされる。戦後の高等教育制度が戦争直後のアメリカ教育使節団(The United States Education Mission to Japan)等による提言と、日本側の提言とのせめぎあいを含めて展開した教育改革期の意図と、1960年代からの高等教育の大衆化の時代を経て、1980年代から90年代にかけての臨時教育審議会と大学入試センター試験制度の時期、すなわち新自由主義的高等教育政策の時代その決算でもある大学設置基準の大綱化、さらに21世紀に入ってから顕著となる大学の国際化の時代へと転じ、さらには国立大学法人化と展開する、という風に画期を求める著者の高等教育史認識が逐次展開されている。

 第7章「改革構想と設計の時代」は戦後改革期の高等教育変革を描く。ここでも単に制度史の展開にとどめず、大学人の思いや洞察と占領軍の専門家の高等教育=大学教育への洞察のすり合わせの中で、制度改革が行われてゆくこと、しかもこれには戦前の深い反省という重要な基盤があってのことであり、さらには当時の学生たちの時事運動とも関連していることを記述されている。こうした多角的視点での叙述が寺﨑氏の他を寄せ付けない魅力ある歴史認識ではないかと大いに評者としても共感する。歴史的とらえ方というのは主導勢力の論理展開に陥りがちであるが、実はそれを構成するさまざまの諸力が反発と強調、時に融合しつつ状況を生み出すはずだからである。それ故ここでの寺﨑氏の記述はまさにこの時期に生きた当事者たちの声と息遣いを見事に反映している。官立大学、私学、宗教系私学、旧制高等学校、旧制官立専門学校、旧制私立専門学校、女子教育などの多角的な立場と主張をそれぞれの論者にとどめず、公刊されてきた学校史を広く紹介されているのも、この認識あってのことであろう。そして何よりも大学の自治の基盤としての憲法に定められた学問・思想の自由を回復するうえで、戦前の反省の姿勢が見られたと認識されている。特筆すべきなことの一つとして女子教育で、戦前、明治以来、長く高等教育への進学機会が求められてきたことを受けて、女子大学の設置、一般大学の男女共学が認められるに至ったことである。国家神道廃絶後の日本の教育には南原繁のようにキリスト教的教育の必要と天皇の人間化を図ること、そして教師教育を幅広い視野を持った内容に変革すべきという考え方も見られた。あるいは私学の側から積極的に官学優位の在り方を変革せよという意見も出された。米国教育使節団報告書の内容的にも優れた教育観は、日本の検討チームでもまともに受け止められる素地があったということである。評者もここまで読んでいて思うに、米国調査団が高い教育専門家の見識を提示できたからこそ、日本側の最高レベルの教育検討チームが需要可能だったという思いを禁じ得ない。決して押し付けでもなく、積極的に受容できたのは例えば南原繁『国家と宗教』のように戦時下に深く掘り下げた仕事をつづけた人物がいたことに大いに影響を受けたというほかないだろうし、調査団側の教養教育の問題提起にも、応答可能な素地があったとみるべきだろうと確信を深める。報告書では次のように高邁な理想を打ち出していた。

「大学はすべての現代教育制度の王座である。自由の社会では大学は平等の関心を以て三大任務を果たすものである。

第一に、智的自由の伝統をこの上もなく高価な宝として防護し、思想の自由を激励し、探求の方法を完成し、知識の向上をうながし、科学および学問を育成し、審理への愛着を育み、そして社会への絶えざる光明の源として役立つものである。

第二に、あらゆる時代やあらゆる民族中の思想と最善の希望とを知らしめることによって、家庭や社会生活の向上において、産業や政治の一層有効にして人情味ある運営において、更に国際的理解及び親善の助長等の仕事において、指導的地位を占めうるやう、才能ある青年男女を準備するものである。

第三に、大学は変転しつつあり、また現れつつある社会の必要に対して常に敏感であるがゆえに、優秀なる青年男女を新旧療養の職業に対して技術的に有能ならしむるやう訓練する。」(294頁)この報告書で「高等の学問へ進む権利のあることが、国民大衆にもまた高等教育を支配する行政機関にも、はっきりと認識されなくてはならぬ」と述べ、国民の等しく学ぶ権利を国民は認識し、教育行政機関がこれを保証することの重大性を提起していることと受け止めている。教員の研究の自由を保障し学問の自由裁量権を持つことを強調し、教授たちを国家官僚としての身分秩序から解放せよと主張している。旧憲法統治のもとでは帝国大学教授は同時に国家官僚として天皇の栄転授与規定の枠内にあったからである。この流れの中で大学の設置認可は政府の責任で行うべきだとする一方で、そのため教育専門家の審査を通じて行うべきことが支持された。その水準維持もまた専門家の認識に依拠すべきだとした。

 第8章「改革構想結実の時代」によれば、興味深いことにアメリカの調査団が示した大学の設置認可(Chartering)とアクレディテーション(Accreditation)の意味が日本側には十分に理解されることが困難だったために、「新制大学の概念」「設立基準の適用」「新大学の設立認可」といったテーマでアメリカ側が説明方々講演することが行われたほどである。設置認可は文部省の仕事としても「アクレディテーションは専門家認識と評価にかかわっていた。大学基準協会の設置もその趣旨から行われた。戦前日本では帝国大学設置以来そのようなシステムを持たなかった。大学の「基準」として示されたその第一の「趣旨」第三項目「大学を判断し測定するには、各大学が掲げている目的或いは果たそうとする使命に即して、その大学が高等学術の機関として表示している全形体を基礎としてこれを行わなければならない」と規定しているように、基本は「画一化」「統制」とは異質な大学の主体的役割との関連の自主的あり方に基本を置くとみている。アクレディテーションは自己評価(university self-study)とパッケージで説明された。当時の文部省側も大学の発展のためには制度等で縛るのではなく自治を尊重し自主性の中でこそ発展するととらえていた。その上、大学の自治はグループとしての大学の自治という見方が基準協会で示されたのは戦前の個別大学への権力的抑圧に対抗するありかたへの反省によるとされた。このように大学の設置基準とは権力的抑制、統制の意味とはおよそ異なっているというアメリカの大学的な意味に至る。その当初の機関が大学設置委員会であった。大学は数個の学部を設置することを常例とするとか、「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用能力を展開させることを目的とする。」(第52条)、「大学には、重要な事項を審議するため、教授会を設置しなければならない。教授会の組織には、助教授その他の職員を加えることができる」(学校教育法第59条)と規定されるなど、明かに戦前との決別を鮮明にしたという。

大学院についてもまた大学に設置するものとされ、それには数個の研究科を置くことが常例とされた。その趣旨は戦前の場合、学部に付属的に研究科を置くことが義務付けられていたとはいえ大学院設置は義務付けられていなかったことからの逆転であったのである。学位については戦前では博士学位のみとされた。アメリカ側は、大学院は独自の教育課程を持つ独立の機関として独自の財政力を持つべき存在とされたが、日本はそこまでに至っていない。博士学位に対して修士学位をアメリカの勧めで設置することも決まった。

この章では、まず「大学設置基準協会」の発足から解かれている。それは戦前の帝国大学ではそもそも「大学基準」という認識はなく、もっぱら国家の必要性に応じて帝国大学が設置されていたという経過があり、大学基準accreditationという概念それ自体はなじみのないアメリカ的概念であり必要性認識もなかったのであろう。極論すればこうした基準、教育内容等の基準がないということは大学を名乗ってもさまざまの水準の大学の存在を許すことになりかねないことは事実であったろう。だから基準協会設置への準備会合にはCI&E1(Civil Information & Education Section,民間情報教育局)から担当官が参加し、しかもその内容の説明のための講演会を開き理解に努めたほどであった。こうして1947年初頭までに大学の基本制度を定めた基準対抗と教育面を決めた大綱の二つが作成される。「大学は最高の教育機関としてまた学術文化の研究機関として重要な使命を持っているのに鑑み、大学の諸組織施設はその機能が十分発揮出来るよう一定の基準を設け、これに基づいて設置され充実されることが大切である。」とその趣旨を打ち出した。大学基準協会創立総会に際してのあいさつで文部省学校教育局長日高第四郎の発言は今となってみれば貴重であろう。すなわち「基準をほんとうに適用して立派な一流の大学になるためには、従来のような意味においての文部省の監督や指導といったような制度ではなしに、大学自身がいわゆる大学の自由を確保し、大学のゲマインシャフトの運動もできるだけ自主的に運営していっていただくのが、今後の日本の大学の発展のために一番いい処置ではないかとかんがえておりました」と。戦後の大学の編成において、寺﨑氏は、学校教育法の中で大学に教授会を設置すること、その構成に教授とその他の職層を加えることができるとしたことが、戦前の教授会の存在を実質認めなかった時代に対して画期的だと評価している。ということは2010年代に入って教授会の規定を著しく権限縮小した法制度がいわば戦前の先祖返りの観を呈しているとも評価可能であろう。このように大学設置基準を基準協会マターとしていた状況が一変するのは、1955年文部省が設置基準を制定して以降だという。また59年に基準協会が法人化して以降、協会の主導性が解消したという。

 第9章「四年制大学・短期大学・大学院出発の時代」の議論を紹介しておこう。この時期に、金沢を中心に北陸総合大学、中国地方、北海道の総合大学構想などが散見され、特に金沢のケースは石川、富山、福井県知事の要望の形をとっていて、地域からの設置要求という点で特筆すべきだと述べられている。しかし政府側では県境を越える設置方針は成立せず、一県一国立大学(学校名称は基本的に府県名。例外的に信州、宇都宮)、しかも総合制へと展開したという。この総合制の背景には、アメリカ流の大学を教養教育中核の広い知見を学生に提供するという意識と、南原繁ら日本側の狭い専門職業人教育が戦争体制に逢着したという深い反省に発していたことも無視できないだろうとまとめることも可能であろう。女子大では高等師範学校が東京、奈良にあり、1945年に開校されたばかりの広島の3校だったが、女子高等教育のシンボルとして単立を期待したCI&E側の姿勢と相まって、東京(お茶の水女子大)、奈良(奈良女子大)で決着している。これは男女平等を高等教育面でも打ち出すというアメリカ側の認識とも一致したようだ。また短期大学も設置されたが、「実際的な専門職業に重きを置く大学教育を施し、良き社会人を育成することを目的とする」(1948年8月「短期大学設置基準」)とした。出発点では男子が多数であった。アメリカのコミュニティ・カレッジと相当するとの評価もあったという。

大学院の発足は1950年3月の私立大学が皮きりで、国公立大学では1953年4月からであった。しかし問題が大いにあった。というのは大学院を大学の上に、積み上げ方式で設置するとはいえ独自の財政力は付与されなかった。しかし実態は大学院を設置する大学と非設置の大学との格差構造が形成されることになった。アメリカ流の考え方では大学であれば大学院を設置することが通例であったことから見れば、異なっている。1990年代のことだが、中国を訪問する機会があったけれども、同国の場合の大学も大学院を設置していることが通例のようであるが、欧米形式を基本にしたからだろう。

戦後の大学教育で単位制が実施される。これは戦前にもごく一部で実施されていたとはいえ、それぞれの大学ごとで互換性、共通性もない尺度であった。戦後はこれが基本的に変革され、週1回の講義とそれに見合う2時間の教室外の学習とセットで15回をもって2単位とした。しかも学士号の必要条件として120単位とされた。この制度は基本的に21世紀にいたっても変わらない。というより評者にはむしろ、設置基準の大綱化の中で、逆に厳格にされたと認識される。それまで大学の学部専門性に応じて卒業要件として120単位を超す取得を義務付けていた大学にあってもむしろ、120単位に制限されてきた。むろん「120単位以上」と規定するが。なぜかというと善意でいえば学士という学位に格上げされてから、全国共通にしておけば、転学等の自由度も高まるし、外見的には学士の品質保証にもなるということであろうか。占領軍の計算根拠は当時の日本人の週45時間労働に合わせて1時間の勉学に要する予習及び復習の時間数をそれに合わせ、それらの総時間数累計が1学期15回の授業と設定されたというのである。こうした学習時間の定量化は大学院進学者や卒業後の就職学生を迎え入れる企業側の定量認識の確定に必要だったとされる。しかも多様な学習の定量化換算も必要だったというわけだ。

ほかに注目しておくべきなのは保健体育科目の必修化であった。これは戦前にすでに操練、兵式体操などとして存在しており、戦時下は軍事教練がこれに当たった。戦後の場合は占領軍側にむしろ細菌学、生理学、公衆衛生等の基本が教育なされるべきだという認識があったからである。占領軍は実地に学生寄宿舎等を調べ、肺結核罹患者数の多さや近視者の多さに驚いたという事実も大きかったということだ。日本側としてもかつての訓練的要素よりもスポーツとリクレーション的要素を持つものとし、さらに大学らしく講義を加えて提起している。これら講義と実技4単位は120単位の外に設定した。というわけで合計の124単位が成立する。1992年の大綱化で大学に必修科目の設定をしないことにされて、相当数の大学では保健体育が自由化された。一般教育科目general educationが新設されるのが戦後の大きな特色だった。これも第一次米国教育使節団の提言を受けている。そこでは「自由な思考をなすための一層多くの背景と、職業的訓練に基づくべき一層優れた基礎」を与えると認識されている。さらに国際理解促進のために外国語教育の必要もうたっていた。この先例とされたのはアメリカの最高水準の教育体系を誇ったハーバード大学の経験の反映でもあった。

この一般教育が、その後、時に評判が悪く、高校の延長のようだという認識が広がり、入学と同時に早くその入学専門学部の教育科目を配置してほしいとの学生の要求が見られたのは周知のことである。なぜそのように認識されたかというと理系では高校時代の教育科目とほぼ同名の科目群が並んでいたこと、社会系では確かに当初提示された法学、政治学、社会学、統計学という科目群が必ずしも高校時代にあった科目ではないなどのこともあるが、「専門学部に入学したのに」という意識は絶えず噴出していたとみることができるだろう。またスタッフも教養教育の質をどのように高校教育と連携させつつ更なる高みをどのように具現化するかの意識も十分ではなかったというきらいもあったはずである。評者はこのような課題解決の道筋を大学人は結局用意できないまま、1992年の大学設置基準の大綱化と教養教育科目設定の制度的廃止へと転換を遂げると認識してきた。当初、1940年の一般教養科目という表現であったが事情は不明ながらも1950年には一般教育科目と名称が変わっていると寺﨑氏は指摘する。この教育論はそもそもアメリカで1900年代に開発されたという。大学基準協会一般教育研究委員会がその推進役となった。大学教育の理念としてこの委員会は「善良な市民(Good Citizen)」「よき人間」(Good man)「全人」(Whole man) 「人間としての全体」(Human Wholeness)「コモン・マン」(Common man)などの人間像を期待していたという。総じて「自由な民主社会の推進力となるべき善良なる市民」の養成となる。さて現在の門下用の大学教育認識はどうかといえば、率直に言って企業人材育成に尽きる。評者などはだからこの本来の位置に立ち返るべきだと思うし、人格の完成を目指す場として機能させるべきだと考えてきた。一般教育が「制度的基盤をようやくのことで確保したように見えたのは、1963年以後、いくつかの国立大学に「教養部」がおかれ始めてからだったのではあるまいか」と寺﨑氏は多少回想的に論じている。

 第10章「新制大学の拡大と紛争の時代」はどのように位置づけられ論じられているだろうか?旧制公立高等教育機関の統廃合では、国立の場合と異なって、旧制専門学校そのままの昇格のケースが多いので、国立の統合による複雑性は見られないケースが多かったと総括されている。私立大学の場合もこれに類似している。私学では当初のキリスト教系女子大学等の増設に対して国家神道にかかわる神宮皇学館大学の廃校が鮮明に指導された。寺﨑氏は「1950年代から60年代半ばの大学」を戦後制度の安定期ととらえ、同時に中間点に日米安保条約改定にかかわる政治運動で学生たちの役割が大きく、しかもその後の展開では財界側からの理工系充実要求、産学共同要求が起きた時期と評価する。正確には1952,54,56年の日経連の新制度要求、技術教育要求などの意見書、要望者が始まりとみている。職業教育の必要と戦後教育改革が矛盾したままに展開されたという不満を表明していること、高等教育の画一化への不満などがみられる。理工系重視と同系の大学院修士課程設置を通じる技術者養成強化、教員の海外留学強化、産学連携強化などが打ち出された。1960年5月2日付の松田竹千代文部大臣から中央教育審議会に発せられた諮問「大学教育の改善について」は大学運営にかかわる学長選挙、学部長、教授会評議会、協議会などの在り方を改革する意思の表明であった。その上設置者である国、自治体、学校法人の役割鵜強化などが打ち出されていた。この背景には日米安保闘争をめぐる大学と政府との対立構造にあったという。これをうけて中教審は62年9月大学管理法案を提起する。しかし反発も大きく国会への上程は断念に追い込まれた。とはいえその後、1974年に法制化された筑波大学設置によって、大学組織の根幹がもはや学部にとらわれないこととし、外部者意見の聴取期間として参与会を設置したことによって、1960年代初期に課題とされていた大学改革が具体化されたと論じられる。その総括がいわば2004年国立大学法人法の制定であったという風に寺﨑氏は見ている。

評者から見ればこれは明らかに60年代中教審で打ち出され始めた大学は社会組織として設置者の要請にこたえる責務があるとの線に沿っていて大学自治論の欠落の甚だしい状況であろう。それも1996年すでに示されていたユネスコ21世紀世界高等教育宣言の大学は自治を期待される存在であるとする趣旨にも明らかに違背するだろう。この間を縫って、旧制帝大の研究中心の講座制、その他大学の教育中心の学科目制、教職課程の課程制へと財政配分の差別化、格差固定化を強化していった。それだけではなく文科系非実験と理系実験科目と区分する予算配分をも固定化した。評者としてはあえて、もっとも国立大学協会でも一時期、大学間格差是正への関心を強め1976年にはその提言も発している。折悪くこの提言はその後十分に生かされたとは言い難いが、それでも国立大学の学部バランスで多少とも文系の増員を図るなどの取り組みが見られたのも事実であるので、ここに示しておこう。

また寺﨑氏は上述の格差構造の固定化、旧帝大の研究中心、その他大学の教育中心、私学の劣悪な教育研究環境の指摘をする点はそのとおりであり、科学技術社会の要望に応えての理工系重視の指摘も正確である。同時に文系の就職先の大きな変貌で、以前ならば大学出身者の仕事でなかった職種にも幅を広げ、しかも国公立と私学の出身者間の差別性も顕著となったことの指摘もまた正当であろう。そのうえ企業側は大学入試でどこの大学に入学できたかが採用の基準とされ、教育成果への無関心が相次いできたのも事実として指摘している。評者はまさにここに学生たちの学習意欲を阻害する要因があるように感じる。事例としては適切ではないかもしれないけれども、アメリカの学生たちは入学が容易でも卒業が厳しいということが知られている。その意味は大学での学習成果が就職採用に生きるというメリットクラシーが息づいているからだといってもよいだろう。もはや日本では望み薄としてもせめて大学人は学習成果をきちんと付与して学士という学位を授与する教育プログラムを用意すべきではないかと考えている。

1960年代後半から1970年代初めの大学紛争の状況を端的に記載されているのも制度史に閉じ込めない本書の特色だと思われる。「紛争の背景と特徴」の明快な、そして簡潔な説明も大方同意されるだろう。評者も当時大学院生時代であった経験に照らして、ほぼ同意できるし、しかも国際的連関のうちに当時の学生運動を意義付ける手法や、日本的特色や党派的分裂構造の説明も理解できる。「その後の経過と終焉」の説明も示唆的ではあるが、同時にその運動の評価の難しさを語っている。次に寺﨑氏が注目されている1971年6月の中教審答申「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」は21世紀の今日においても注意しておくべき答申だと感じたのは、評者にはすでに1980年代臨教審答申、1990年代の大学審その諸答申や報告を見ていた際でのことであった。「『大学種別』の答申」、「『新構想大学』の発足と筑波大学の創設」の項がこれにあたる。実際、その後の大学政策を通貫しているのは、この種別化答申ではなかったろうか。それに管理強化体制の内容も含まれていたのである。1974年発足の筑波大学のように学部自治を否定する教員所属と学生所属の分離、副学長体制の制度化などいわゆる新構想大学(国立大学では新設医科大学、豊橋、長岡技術科学大学等)で見られた展開はその報告を下敷きにしていたといってよいし、やや下って1990年代初頭に始まる旧帝大、一橋、東京工大の専門大学を中心に展開し始めた大学院大学化による種別化への道や、2005年以降の国立大学法人化以降の大学に配当する財政区分を通じての評価を基本とした格差化の展開もその流れでとらえることができるだろう。アメリカの要求にこたえて形成された法科大学院設置と競争を通じた多数の廃止等も大学の在り方に種別化を強いてきただろうし、2013年以降顕著となっている大学のミッションの明確化の要求、大学の三類型化、さらに法人間の格差化をさらに強化する東大等の法人の格上げ(指定法人)、昨今取りざたされている一法人複数大学の組織化を通じた整理集約の方向性もまた客観的には格差序列の再編といってよいだろう。むろん1971年答申を待つまでもなく、旧二帝大、残る六帝大、医学を擁する総合大学と医学を持たないその他の大学、単科大学などを区別した序列がそれまでも存在したことは明らかだけれども、しかしそれを制度として展開したというより財政配分上の公式の算定方法による区別化といってもよかっただろう。それが今日では明確な大学種別の制度化に踏み切って展開されているところに大いなる顕著な特色があるといってよい。ある意味でこの71答申は1960年代の国際的にも国内的にも進行した大学・高等教育の大衆化の中で、もはや大学が研究と教育の一体というその特質のみで語りおおせないほどの状況変化にいかにこたえるかの課題をも背景にしていたことは明らかであろう。そのためにこそ高度の研究を支える大学院大学化をという論理も出てくるだろうし、文教行政が、いよいよ厳しい財政事情の中で大蔵当局から財政措置を要求する手法として一般大学と異なる道をとっているということを明示したいという策でもあったと聞く。この流れはあたかも大学の核を示すということだろうか、今や相当数の大学の教員所属を大学院に置き換えているが、多くは財政措置を伴っているわけではない。法人化してまさに組織いじりの自由化がこれを許容し、それに従って私学運営でも多用されてきている。評者はこの状況を見てもいかに日本の改革なるものが実態抜きの形式的所作に展開するかを厳しく見ておきたい衝動に駆られる。明治初期、福沢諭吉が批判精神をもって、維新国家を大丸が角大に変わったようなもので、本質的変革がないと嘆いたことを記憶にとどめておいてもよいだろう。この動きで一貫しているのは、大学組織とは何か、どう機能させる責務があるのかという認識の欠落かもしくは意図的な骨抜き化が進行していることだろう。評者からあえて加えれば大学院大学化で基本組織であった学部、学部教授会を本体とする決定権限の空洞化を進め、挙句の果て2010年代の相次ぐ学校教育法改革で、部局教授会は必置組織ではなくなり、部局長選任は学長権限とされるようになったばかりか、学長選考にあたっても学内教職員の意向を徴することなく学長が先行した学外者半数以上で組織された学長選考会議の選任事項となり、これによる候補者を文部科学大臣に上申し、大臣はそれを選任するか否かの権限に道を開いてしまった。もはや戦後改革で、重視された大学自治の制度的保証は見事に解体されてしまったのである。

次に大きな改革は大学共通テストが1978年幾たびかの改革を加えて進行して、受験者の多くは当初国公立大学限定から私学にも広げて樹幹拡張が図られることとも相まって、この試験を受けることを通じて偏差値輪切りと批判を呼ぶ状態が支配的となった。この相当以前の前提は1947年から54年まで実施された大学能力開発研究所による検定試験制度だろう。建前は一つに受験負担の軽減を図ることであり、それゆえこの共通テストのウェートを大きくすることで個別大学の学力試験のウェートを低下させてきた。二つには難問奇問を防ぐという大義である。確かにこの制度によって標準的内容になったのは当然である。そのことが結果として個別大学の個別分野が特色を持って受験生を迎え入れる可能性は狭まり、それだけに一元的価値の習得が問われてしまう傾向を強めたのも事実だろう。三つには一期校、二期校という格差意識の排除だった。しかし現に進行しているのはほとんど以前と変わらない事態であろう。四つには、実は国立大学といっても総合複数学部組織に限らず単科か1,2学部設置の大学にとって入試出題負担が一部に毎年のようにのしかかるという不均衡が生じることへの是正であった。しかしこれらの技術的問題は無視できないとしても、重要な論点が見逃されているのではないだろうか?それは、入学生の知的状況をしっかり把握するうえで、大学教職員は毎年実施する個別学力試験を通してこそ有益な情報を獲得できるはずであり、共通テストを支配的にすることで、個別学力試験の内容が簡素化してしまう傾向はまぬかれないし、受験生も共通テスト評価こそに重きを置いてしまうのは不可避だということだ。大学教員は入学時のレベルを前提に4年間でいかにその教育目標を達成するかという能動的存在であるべきだし、それを通じて自己の研究の在り方への少なくない示唆や知見を得られるという積極的意義を喪失してきたことは疑いを得ないだろう。これは評者自身が双方の制度の体験あって感じているところだ。

 第11章「規制緩和とグローバリゼーションの時代」に移ろう。評者は、すでにこの章にあたる内容に触れて来たので、その部分は割愛して、寺﨑氏の説明をみておこう。寺﨑氏は「1980年代は、戦後大学改革の岐路にあたる時代であった」との歴史認識の下でこの章を論じている。「臨時教育審議会の設置と高等教育改革論議」ではその時期までの教育方針の検討は基本的に文部大臣の中央教育審議会のマターであったのに対して、首相直下の審議機関として臨時教育審議会が設置され(1984年9月設置、87年8月最終答申)、「個性重視の原則」「生涯学習体系への移行」、「国際化・情報化への対応」などの基本線の打ち出しについて寺﨑氏は「教育問題をとらえる視野の広さと将来に向けてのプロポーザルの先進性とが注目に値した」と評価される。この取り組みの過程で、「個性化」、「多様化」、「高度化」が強調され、他方で大学の「自治と自由の確立」を説いているが、「高度化」では学術研究レベルの高度化と大学院重視拡充、教員人事の国際化などが打ち出されていたことを指摘する。この審議を踏まえて大学審議会が1987年10月に設置され、大学設置基準の大綱化・簡素化を提言し、その後の大学・学部の開設・改組がさらに自由化してゆく。同審議会は「大学カウンシルの開設」を打ち出した臨教審の具体化ということであった。残された懸案事項で最大の課題が大学設置形態の見直しであり、これが2004年の国立大学法人化として具体化される。2001年の中教審大学部会として実現した。先の大学院の拡大、教育のイノベーション、教員の選択的任期制を打ち出すのが中央教育審議会であった。臨教審で問題として取り上げられていた大学の自己点検・評価活動の取り組みが大学で具体化されてゆく。認証評価機構の設置もこの方向性に立って具体化された。それらの動向を寺﨑氏は教育への新自由主義政策の展開と評価している。

次に「大学設置基準の大綱化」で1991年2月の大学審議会答申「大学教育の改善について」で提起している。第一に「科目区分」の廃止、その前提に大学・学部の多様化に対応することがあった。これによって設置者側の裁量権が広げられ、自己責任が強調された。第二に「一般教育」という概念も消滅した。大学教育にかかわる学会も「一般教育学会」から「大学教育学会」と名称変更された大きな変更であった。第三は「教育課程」という用語が初めて大学教育の関係法令に登場したこととまとめている。しかしこの規定は他の教育課程と比べて規定幅が狭く、本来「学科課程」とすべきだとした。第四に単位制度が弾力化した。科目の指定が大学にゆだねられた自由条項になったからである。卒業必要要件として残ったのは124単位という尺度のみでその配分は大学にゆだねられた。

「学位制度の改革」では学部卒業の学士を学位として規定し、授与される学位名称にはカッコ書きで専門分野を入れ込むこととなった。専門分野の多様化への対応といってよい。その含む意図は、文部省以外の省庁で管理する各種大学校の修了者の学位名称との統合にあったという。これは他省庁からの強い要請への対応であり、そのため学位授与機構を設置した。2005年には短期大学卒業者にも「短期大学学士」が授与されることになった。

「自己点検・評価と認証・評価機関の設置」もこの時期の大きな変革の一つであった。自己点検、評価とは自己反省・自己革新を通じた大学のイノベーションにあたるという認識が広く受け入れられたという。

「大綱化の影響」として論じられているのは、大学・学部の多様化が関係者の中での要望でもあったということ、他方で一般教育の比重を圧倒的に低下させることへの危惧も同時に生じた。実際にもそのように認識される状況が生じていった。国立大学での減少は著しかった。保健体育の必修からの廃止以後、種々の改革取り組みによって相当数の大学での保健体育科目は再編を含め提示されてきたという。

「1990年代における産業界の大学教育意見」の項では以下の諸点が指摘される。基調として財界の要求提言の基本線が新自由主義的発想に基づいていたことである。とくに1994年の経済同友会「大衆化社会の新しい大学像を求めてー学ぶ意欲と能力にこたえる改革を」では「新時代に求められる多様な人材像」として①「人間性豊かな構想力のある人材」②「独創性、創造性のある人材」③「問題発見、解決能力を有する人材」④「グローバリゼーションに対応できる人材」⑤「リーダーシップを有する人材」とされた。寺﨑氏は大学への批判ではなく期待を掲げたのは戦後の歴史で珍しいと評価している。しかも語学力では二つ以上の言語を駆使することを期待し、文系、理系を問わず多角的な分野の学知を求めるという意味では幅広い教養教育の重要性をいまさらながらに提起したといってもよいと積極的認識を示している。以前では財界は教養教育こそが専門的知識を欠いた学生、人材を社会に放り出していると低評価だったことと真逆だというわけだ。その後も、このような要求を含む財界の意見が登場してきた。

「危機感と新しい要求」の項では、以上の財界の姿勢変更の何らかの背景には1995年オウム真理教事件があったとみている。高度成長期からバブルの時期までは専門知識の要求を基本にしてきたが、この事件で狭い専門知識の持つ危険性を認識したこととは無縁ではないというのである。評者もこの認識がほぼ妥当すると感じる一方で文部省が当時、事実上全国国立大学の教養部廃止に走っていたことへのまさに冷や水のようなこの事件で、改めて教養教育の必要性の認識に立ち戻り、実際にも文部省は教養部廃止を旗ふったわけではないという言い訳が横行したことを思い返す。それらの動向を受けた中教審の1998年10月の「21世紀の大学像と今後の改革方向についてー競争的環境の中で個性輝く大学」答申が打ち出され、教養教育の重視が打ち出された。2002年2月「新しい時代における教養教育の在り方について」答申もこの線上に提起されたという。この認識は評者も共有している。

「国立大学法人化とその影響」「FD・SDの義務化と大学組織の将来」「グローバル化とそれへの対応」を一括してみておこう。というよりほぼ指摘されている内容が大学人であれば共有財産となっているといってもよいだろう。しかし現実の大学人は評価漬けの中で多忙化を極め、運営費の年々の圧縮の中で外部資金の獲得競争と研究世界の競争に追い込まれ、しかも大学闘争の時期を知らない人々も多く、自治の意味が薄れてきた現実の中で、十分に自己を表現する必要性も重要性も認識し得なくなっているのではないのだろうかと評者は日々感じている。運営はすべてトップお任せという状況が国立大学でも蔓延し、片方の学生自治機能はほぼ壊滅的状況の中で、果たして日本の大学は世界に伍する位置に立ててきたのだろうかという疑念が胸中に沸き立つのが現実である。実際、国立大学法人化によって、理工系研究の圧倒的部分を占めてきた国立大学を中心に世界的に評価されえるランキングを落とし続けてきたのがこのほぼ20年のように感じさせられる。

 最後に、昨今の大学情勢を評者なりに付加して、本書の意義をとらえ返しておきたい。冒頭にも記したように、本書は単なる大学制度の歴史記述にとどまるものではない。むしろ国際的にも確認されてきたように教授団をはじめとする大学の自治の拡大の歴史としてとらえた場合に、どのように記述することが可能かを示す代表的な作品だということである。では何ゆえに大学の自治が必要であるのかを問えば、いうまでもなく、教授団を中心とした教育研究の前進にとって、学問思想の自由こそが発展の原動力であり、この欠如の下では大学の社会的機能が窒息するということであろう。その観点に立てば、寺﨑氏が詳述されているように、明治以来の大学制度は、国家発展の目的に適合するエリート人材の養成機関であった時代から、戦後の高等教育の改革によって実現した大学自治を根幹とする、高等教育の市民的拡大を通じて、市民の諸権利と平和を擁護すべき存在へと 転生したことであろう。

評者は、静岡大学の歴史記述で再三にわたって指摘してきたところであるが、国際的な高等教育の在り方を追求した最新の成果である1996年ユネスコ「21世紀高等教育宣言」が羅針盤であろうと認識する。寺﨑氏の本書ではその「宣言」の指摘は見られないとはいえ、高等教育が一部支配的エリートの養成ではなく、広く人々の学ぶ権利を保証する高等教育という目的転換こそに注意を払っていることは明らかである。

この宣言で重視されているのは、第一に高等教育によって紛争の世界の平和的解決と地域間、民族間、部族間対立を防ぎ、人々の格差、貧困を除去することに資するということが目指され、第二にそのための科学発展に機能させる高等教育機関の学問思想の自由を展開させ、そのメンバーの自治を守ること、その教員・研究者の地位を保全することなどがうたわれている。これらによって、第三に、知の先進国への流出を抑えることの重要性を強調している。果たしてそのような観点から見た場合に、2004年に新機軸として始まった国立大学の法人化が、他の諸機関の独立行政法人とは違うと称して、個別大学の大学法人として展開してきたものの、当初から財政手法では独立行政法人の運営にあたっての会計原則は全く国家機関の通常の独立行政法人と寸分たがわぬものであった点である。

6年ごとの評価の前に毎年度報告と自己評価が行われるというシステムは、「評価漬け」がぴったりだという認識が濃厚だし、それによって有為な人材が定年を待たずに私学に異動する状況がつよまっている。しかもその評価も定性的な評価から客観的と称して数値目標(定量)評価に重点移行させられてきた。

大学自治のシンボルというべき学長選考にあたって、構成員による選考権をはく奪し、学外者半数以上を含む学長選考会議に一方的にゆだねられ、発足に当たっては学内意向投票を参考にしていた姿勢を否定し、さらに各学部等の教授会を必置条件とせず、仮に存在させても学長の意見聴取の対象に限られ全学運営に参画することが否定され、しかもそこで議論する内容はもっぱら部局内の学務情報に限定されるに至った。これで果たして大学の自治といえるだろうか。寺﨑氏の本書を真剣に学び取ってもらいたい。

(2021年3月17日)