大学論を読む(7)『大学改革の迷走』

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大学論を読む(7)

 

 

 

 

 

 

 

佐藤郁哉『大学改革の迷走』

ちくま新書、2019年11月10日、定価1320円(税込)、478頁

序章「大学解体から大学改革の解体へ」

ここで、佐藤氏が明解に述べているのが、かつての大学解体論から実際にはその後の展開は大学そのものが改革倒れになりつつあるのではなかったかというそもそもの懐疑である。その際日本の教育界、何よりも文部・文科省とそれを背後で急き立てる経済界の諸団体に誤った方法や議論に与してきたかということだ。率直に述べているのは、それらはいずれも企業経営論の安直な教育研究世界への持ち込みか、その上誤った「経営学論」ともいうべき認識の直輸入で、大学教育をいかに混乱させてきたかということを告発するという手法である。しかもその根底には著者のアメリカでの高等教育の体験から得られた知見とその日本でアメリカ由来とされている実践内容に大きな誤解と誤用があると言う重大な問題指摘である。それはわかりやすい以下の章別編成で見事に示されているといってよいだろう。

第1章「Syllabusとシラバスのあいだ―和風シラバスの呪縛」

日本のシラバス制作が、実はアメリカとは似て非なるものだということを指摘される。端的に言えば、日本のシラバスのような脱個性、非個性的な、様式画一的で一本調子の様式に従ってそれぞれの教員が入力してオシマイなどというのは、アメリカではありえないということだ。このこと自体、導入された当時、1990年代初め、金科玉条のごとく全国で実施されたことを思い出す。私などは文系総合の学部にいたので、まず反発を受けたのは文学系の教員たちだった。私の分野である経済系では多少の不満もあったけれども比較的に「従順」に従っていたように思う。法学系でも不同意の人たちが多いように感じた。それはそれぞれの学問分野の性格にもあったかと当時も思っていた。一番共通していたのは「そもそも学年当初に予定しても受講生との対応で、認識状況を見て変更することが現実だ」というもっともな意見だった。実際、私も「慣れる」までは、ずいぶんシラバスと異なった講義を行っていて、学生たちから、シラバスに沿ってくださいと指摘されたこともある。

しかし「慣れ」とは恐ろしい。いつの間にかそれからほぼ30年、私も実に「見事に」シラバスに即して講義を果たすようになってしまった。たしかに学生たちには「わかりやすい」と定評だった。だがこれは思えば、彼らが小中高校教育で体験してきたからだろう。彼らは「先生、講義のテキストはありますか」という質問をよく受けたものだ。その時、私にはテキストに当たる著書があるので、「あれがテキストに当たるけれども、しかしあれを出版した時点の認識で、その後多くの学びの中で変わってきたので、講義の中から学んでほしい。だから必要ならば、参考書として図書館で読んでほしい」ということが多かった。これは出版社泣かせだと当の出版社からもこぼされた経験がある。ところで「わかりやすい」と定評になった大きな原因は、幾多のトライを試みながら、現実には「シラバス」に拘束されてゆく自らの立ち位置を認識せざるを得なかった。果たしてこれが大学講義なのかと。まさに著者の指摘する「呪縛」だろう。その上、自らも組織したFD委員会で、シラバスの効用を説く身になっていたのでなお不思議だ。たしかに効用もあるのは事実だ。学生たちの学びにとっては「楽」だからだ。

とはいえ研究成果を日夜生み出す大学という場でそれがふさわしいかというと私は断言できる能力はない。評者の学生時代の体験では高名な教授ほど講義が一見つまらなくも見えたが、そのようなものとして受け取って自らその高名な教授の専門書を独習して知見を獲得するのが通例であったし研究会でのディスカッションも大いに役割があったのだ。現代学生でもそのようにトライする学生がいないわけではないが、多くはお仕着せ知識を学ぶ「学校」に慣れ親しんできたので、それでは到底満足できないということのようだ。

第2章「PDCAPdCaのあいだ―和製マネジメント・サイクルの幻想」

この章はなお一層深刻だ。そもそもPDCAという言葉が、アメリカ経営学の産物であるという根拠なき情報に従って、それを大学運営に適用したとほとんどの人々が信じ込まされてきたという冷厳な事実だ。それを文部省・文科省の定番の大学運営方式として、点検されるという仕組みが定着して20年以上になる。しかし少し考えれば、このサイクルはそれほど高度な要求で新味ある内容であるかと問い直してみれば、人々の日常生活の基本をいかにも外来の様式であるかのように喧伝されてきたというわけだ。Plan Do Check Actionというサイクルの提起は実は日本側の用語としてであって、決してアメリカ流でもないが、あたかもアメリカ流の最新の手法のように喧伝されてきたというのが著者の言いたいことである。しかも多少の憤怒も交えて、このシステムに最も不適合を起こしてきたのが実は霞が関ではないのかということだ。端的に言って自ら実践能力もない機関が、下部に要求する結果になっているというわけだ。というのは計画を出しても、出した当時はすでに過去の遺産に基づいてしか提出できず、しかしその時にはすでに新たなActionを起こしているのが現実で、結果としてPlanはすでに崩壊も同然だ。その上、チェックすべき機関が責任者も交代し、担当者たちの人事異動をしてしまっているので、サイクルそのものが機能不全に陥っているというわけである。そのうえ決してPDCAサイクルにはならず、所詮、計画はあろうとも実践(Do)は異質になってしまう。さらに検証(Check)事態によってActionは形成されえないというのだ。要するに言葉、スローガン倒れだということ。「計画を立てる」⇒「実践する」⇒「点検する」⇒「点検に基づく次の活動を起こす」などは、言われるまでもなく当然の営みをあたかも外国風の格好良さで装っているにすぎないのだというのが著者の言いたいところのようだ。まさにまともな組織や個人であれば大昔から行ってきたありかたをあたかも新味を出したということに尽きるのではないかともう言う。

第3章「学校は会社じゃないんだよ!」

紹介されているある大学人のこの言葉をタイトルに挙げた昨今の大学政策が大きく大学の本来の在り方からねじ曲がった状況にあるのではないかという感懐を見事に吐露された章だと思う。ただし多くの心ある大学人ならばこのような思いを等しく共有されてきたとも思う。しかも指摘されている通り、果たして大学運営に正しい企業経営論が適用されているかと思えば、上来の通り、多くは経営論とは大いに異質でもありそうだということ。実際、評者もこの書物の著者の指摘するような、文科省などの指示が多くのケースが教育の何であるかさえも一知半解の知識で小言を言い続ける企業経営者側の主張が一方的に持ち込まれる愚を嘆きたい思いを過去何度も経験してきた。

重要なことは本書でも繰り返されているが、教育ほどすべての人々が一家言を持ちやすい領域はないかもしれない。小、中、高、大学と教育体験を持つ人々にとって、それぞれの人に教育を受けた体験があるので、それぞれの段階でそれぞれの教師に巡り合って、時にうまが合う場合もあれば、合わない場合もある。その体験に基づいて教育論を語ることができる。そしてそれ自体は誤っているわけではないが、それらの認識を紡ぎ合わせつつ、教育専門家たちは新たな高みに立つことを試みる努力が求められる。ところが教育の専門家を抜きにして、学校教育の審議とそれに基づく方針が設計できるかどうかは、実は大きな落とし穴があると評者は考える。おそらく著者も同様に認識されているだろう。また評者の認識では、何よりも初等教育がそれぞれの人を育てるうえで決定的に重要な意味を持つと考えている。そのためには大学教師で教育専門家がすべて語れるかというと簡単ではない。かつて林竹二宮城教育大学教授(学長)が、大学教師がまず初等教育の現場で子供たちの前で授業を展開してみる努力の重要性を述べたほどである。評者自らの実践でも思うのは、決して大学のそれぞれの専門分野の教育はできても、その教育方法が適切かどうかは実は極めているわけでもないので、教育論を語り、初等教育の方法を展開できるとは思えないし、当の大学教育のあるべき姿を語ることは大変難しい。これほど困難な営みである教育を事業経営論のロジックで展開できるわけではない。なぜならば事業経営の根底が利潤追求に他ならないからである。むろん経営の重要なアプリケーションに消費者に満足させうる内容を持つか、そしてまさにその実現のために従業員の認識や希望、要求との連携が必要でもある。消費者満足の論理から被教育者、つまり教育を受ける子供たちや父母の満足を得なければならないという点では、類似的に見える。しかしそれが過度に強調されると教育は消費者主権の受け手へのサービスであると一面化されるだろう。

第4章「面従腹背と過剰同調の大学現場―実質化と形骸化のミスマネジメント・サイクル―」

この章では、大学で横行している風潮に二つ。面従腹背と過剰同調を告発する。ところでその基本的要因はどこに求められるのだろうか?たしかに著者の指摘する通り、大学人の上部行政機関への迎合と面従腹背の二つから成り立っているというのは一面ではないだろうか?経験的に言えば、何としても付け加えるべきなのが、行政当局が財政力を振りかざし支配し、大学人の主体的取り組みを評価しない姿勢に徹しているという最悪の形態をとっていることを指摘すべきだろう。むろん著者は種々の事例説明を通じて当局の無定見な在り方を告発するという正しい姿勢を明記しているのだが、もしも仮に財政誘導、財政優遇措置をとることがなければ、指摘されるような過剰同調や面従腹背は無用だったであろう。この状況が続くともっとも学生たちの「主体的意識形成」に貢献すべき大学が無定見と自己正当化のための過剰同調はとる必要がなかったといえるだろう。おまけにマネジメント的発想が事々しく喧伝されながらも実はマネジメント・サイクルそのものが形骸化してしまうという状況はその通りだろう。

評者が恐れているのは、本書には指摘されているわけではないが、実はこうした面従腹背と過剰同調が続くところは、表面的には「いい子」かもしれないけれども、荒廃を生み出し、構成員の意欲を喪失とあきらめ、諦観を生み出すことによる、大学の自治的運営への主体性を喪失し、もはや専門家集団としての見識をさえも喪失させるだろうということである。端的にいえば、この二つの在り方はともに非主体的、受動的な作業を行うに過ぎない。

第5章「失敗と失政から何を学ぶべきか?」

さてこのような荒廃しつつある大学に「失敗と失政から学ぶ」能力があるといえるだろうか。むしろ学びおおせないのが現実だということを主張されようとしているかに見える。あまり一般論に拡張して述べようとするものではないけれども、日本の官僚機構が決して実行したことの誤りを認めず、是正措置をどのようにとったかの検証さえ不可能なほどの無謬論的運営に事足れりとしてきたのではないかということを著者は告発する。その最たるものが専門職大学院の設置と破綻ではないのかというのである。だれも責任を取らない、だれも責任をとれないというべきか、無責任の体系に問題があるだろうという告発は意味があると思う。この無謬論的運営は戦前以来の日本の官僚機構の特徴でさえあるという。

これについても評者としての痛切な体験がある。本学に法科大学院設置構想が持ち上がった際の経緯だ。そもそも複合学部の一学科に過ぎない30名前後の教員定員しか持ち合わせのないところで、法科大学院設置を問題にすべきではないというのが大方の教員の立場であった。しかし世間では、特に弁護士会が大学と県内有力団体と知名人に呼び掛けて設置を強く要請した。評者はそもそも日本型大学の組織形態からして法科大学院のみアメリカ流の専門大学院に変更設置するならば、専門教育を基本とする伝統的な学部のすべての構造変革が必要だと判断していた。とはいえ地域の大きな賛同を得て法科大学院設置を迫られた状況では、設置やむなしと判断した。ただし上申に際して直接に文部省には疑問を付けた。それは、先のような組織原理の改廃を伴う改定を必要とするということだった。

しかしそれには耳を傾けず、全国的に法科大学院騒動となった。私は当時、文科省に対して設置しても10年程度で命脈が尽きるであろう、結果として伝統校にのみ残存可能だろう、しかし規制改革=規制撤廃後の日本にはアメリカ流の法化社会が根付くだろうとの司法制度改革審議会の判断さえも日本の歴史的伝統から見ても無理なはずであろうとも述べたのである。こうして残念なことにこの政策は明らかに私の見通しの通り10年前後を経て破綻をきたし、多数の法科大学院は廃止の憂き目にあった。

さてこの「失敗」から文科省は何を学んだだろうか。結局その趣旨の報告書一つ出ていないという風に承知している。私には先が見えていたので、残念な思いとまた文科省はやっちゃったのかという思いを持っている。しかし現場の各大学から文科省に意見具申をしたとは聞かない。むろん日本弁護士会連合会が想定した毎年3000人の法曹人材の必要という認識さえも簡単に撤回されたし、司法制度審議会も沈黙だ。これでは官僚機構の無責任もさることながら、その隠れ蓑だった審議会の無責任、あまつさえ法曹人材が多数に上れば現役法曹界が困るという式で法科大学院削減要求に打って出た責任さえも取られたとは聞かない。たしかに竹中平蔵流のネオリベラリズム的経済政策論からすれば、設置自由、解体も自由、自己責任だろう。しかしことはそのように簡単には済ませられない。なぜか、教育機関の社会的使命に照らして正当性を持たないからだ。これによる結果としての税金のつぎ込みの無駄さえ起きてしまったことになる。その後、さらに文科省は大学院修士課程の改編の一環として教育学研究科の教職大学院への一部転換を図る。これにも私はかかわったが、その趣旨は従来の教育学研究科では専門職教員を育てる役割が果たせないから、現職教員を大学院教授に招聘し、現場感覚を持った院生を育て、教職員に向かわせるということであった。この問題点は私が文科省に出向いたときに担当者に率直に述べたように、その設置構想の40年ほど前、全国の教育学研究科設置の趣旨と今回のケースとはほぼ軌を一にした内容だから、その総括の上に改善サイクルを回してもらいたいと要請した。だがその回答は簡単なものであった。「先生のように過去の事実を私たちは知らないので」であった。この無定見な「改革」なるものがいかなる結果を生み出したか。その後数年ならずして専門職大学院化した教職専門を教育学研究科全体に染め変えろということになったしまった。いよいよ40年以上も前への先祖返りなのだ。そもそも日本の大学の構造には専門職大学院の組織化それ自体が難問であったにすぎないのだ。

これに1990年代初頭に始まる旧帝大を出発点として開始された大学院の部局化が一層火をつけた。大学院に格上げすることで、大学の格が上がった、あるいは教員の格が上がったかのような錯覚さえ生まれる半面、その大学院定員の増加を図ったために勢い、大学院生の質的低下がまぬかれなくなったばかりか、増員された大学院生のはけ口として大学の職場が人件費削減でせいぜい若手に用意されたのは3年~5年の期限付きポストであり、国立大学法人化と裏腹に教養課程教育の衰微も手伝って文、理ともに基礎的分野の教員ポストも激減していったために一層若手には厳しい事態が待つことになった。当然大学院定員増員で文科省からは定員を埋めろという拘束が高くなる。しかし、こうして大学院志望者の低下を招く。

評者は、そもそも教育研究機関を自由競争場裡に合わせうるかという問題があるだろう。宇沢弘文東京大名誉教授が、相当以前に人間にとって環境、農業、医療、教育は競争の対象ではありえず、社会的共通手段として意味づけるべきだと提唱していたが、全く同感だ。端的言えば、資本の利益誘導と競争主義では取り返しがつかない分野だというわけだ。現に農業の崩壊は目に余るし、コロナ禍の下での医療崩壊の危機が叫ばれているほどなのだ。教育現場が物言わぬ教員の集合となり、お上の指示待ちの現場と化して長い。その上大阪で顕著だが、経営のスペシャリストが校長であってよいといわんばかりの学校教育外から校長が任命された結果、頻繁に好調のリーダーシップの名の下に「学校経営論」がまかり通ったばかりか、現場の荒廃と好調の不祥事が頻発する始末なのだ。大学もまたしかりだろう。

研究面で見てもノーベル賞受賞者が異口同音に表明しているのは、「これまで自己が安定的長期的研究に没頭できたことが、成果を生み出した」ということであり、後輩たちへの「不安定な職場環境」での心配を隠さない。実際、理系の基礎と応用分野の研究の大宗は国立大学の機関であるが、国立大学法人化以降際立つのは、教員の非正規的期限付きポストに若手がつくケースがほとんどであり、研究テーマを長期持続的に展開することが極めて困難な状況が続き、そのために基礎ばかりか応用分野をも貫いて根本的な新規の取り組みができないことによる研究水準の低下を招いてきたことだろう。現に国際的大学ランキングでも中国等の躍進の中で日本の大学の地位は低下、低迷を続け、文科省の主張する大学のグローバルな展開には程遠くなってきた。何よりも日本の若い学生たちが海外に進出することにちゅうちょするに至っていることだ。現に海外進学者数は減少しているばかりか、逆に流入する外国人留学生数も減少に転じてしまったのである。

これをさらに加勢しているのは、文科省の大学財政政策であろう。それは法人移行期には旧国立大学当時の財政措置に対応する定常経費の設定が行われたものの、毎年1%の人件費削減を旗印にした支出削減、そして「全体としては削減していない」と言いつつ、実体的には各種「評価」に基づく変動と提言を行い、「評価」の高い大学には全大学の定常経費支出から削減した部分を積み増すという手法をとり、個別大学の「独自財源」の基本は学生納付金とされ、なお足らざる資金は外部資金に依拠せよというわけであった。しかしこの寄付は思うようには進まず、たしかに寄付金が大きく増加に転じた場合もあるが、その不安定財源は決して通常経費の不足分を賄いきれる状況はどの大学にもないといってよいだろう。「獅子の分け前」という言葉があるが、現実に大学間で起きているのは小さな皿の上に乗せられたわずかばかりの肉を我勝ちに奪い合う程度のことなのだ。アメリカの名門大学であっても、外部寄付が運営に大きく貢献しているという事例はほぼ皆無であり、その前に自己蓄積資金が膨大であることのほうが大きいのだ。

第6章「英雄・悪漢・馬鹿」では「大学バッシングと大学改革バッシングの深層」、「バッシングの効用と限界」、「道徳劇としての大学改革のプロットとストーリー」、「ドラマ仕立ての改革案の問題点」がそれぞれ指摘されている。端的にいって、著者は責任関係があいまいなシステムが財界、大学、文科省・官僚当局、官邸、メディア、総無責任関係となっているという。それぞれがそれぞれに責任を押し付け、おまけにメディアはお手軽に官僚文書のコピペに終始して大学批判者の側に立ってしまうという。改革と称して、結局改革提起のぐるぐる巻き、それに「検証」が全く機能していないというわけだ。何よりも大学改革のグランドデザインをどこも持ち合わせのないままに「改革せよ」の言葉が飛び交っているという始末だ。そして「それ不祥事だ」と言って騒ぎ立て、「だから改革せよ」の攻撃一点張りでさえある。たたきやすいところを集中的にたたいて事足れりとなる。レジャーランド化した大学のガラパゴス状態の教員の質も悪化しているというのがもう一つの指摘である。だから称賛されるケースが登場すれば一過性的にモデルとされても、それでことは終わってしまう。

評者も、たしかに経験的に見ても日替わりメニューのごとく、改革課題が要請され、それへの応答の仕方によって「評価」を受け、一定の補助金が提供されるというリンクが1990年代以降にも数えあげられないほど多数に上る。評者のように政策的展開の歴史を追求してきたものにとっては、一体全体、その目標は何だろうかと思うことしばしばであった。ただただ文部当局が財務当局に財政資金を拡張する手段として新規をてらう「施策」として提起したと思うほかないものが並ぶ。それも5年などの日限を切っての補助金のために必要とする労働力も短期雇用で若手を採用する結果を招き、その期限が切れれば、おしまいとすることで、文部当局もそれ以上の追及もせず、時に財力のある大学ならばその幾多の有益な試み的施策のいくつかを内部化できるだろうが、財政余裕を持たない大学では停止せざるを得ず、「評価」もその施策実施期間でとどまってしまう。果たしてこのような繰り返しが真に当該大学のポテンシャルを生かしてさらに成長する効果を持っているかは誰も検証されていないように思う。ヘーゲル流に言えばまさに悪無限的「改革」の連鎖に他ならないだろう。そして行き着いた先は死屍累々の「改革倒れ」の大学ではないだろうか。それが制度、組織に及ぶ場合、大学の根幹組織の在り方だけではなく学生や地域にさまざまのマイナスを及ぼすことさえも見られてきたが、文部当局はその検証をしたということは聞かない。

日本の特に1990年代の量的拡張に関する諸答申がすでにアメリカの1960年代の同様の政策による破綻の事実を学ばず、同じ愚を繰り返したと指弾される。

第7章「エビデンス、エビデンス、エビデンス、・・・・―「大人の事情」を越えて―」の「Ⅰドラマ仕立ての教育政策とエビデンスの欠如」で指摘されるのは、先にも指摘されたように教育論は人々が一番語りやすいテーマだが、とはいえしっかりした根拠に基づく議論が行われるかといえばそうとは限らず、むしろ一知半解の個人的認識の表明でしかないということが多い。それも「日本の大学はだめらしい」といった表面的印象批評。それとほぼ変わらない国の審議機関での言説、これこそ問題を混乱させる、というわけだ。それでいてEBPM(Evidence-Based Policy Making)が叫ばれる。ところで先に挙げた日本の大学ダメ論はエズラ・ボーゲル『ジャパンアズナンバーワン』にもエドウィン・ライシャワー『ザ・ジャパニーズ』にも登場するが、両者とも、何ら立証根拠を示す内容ではなく、印象批評に過ぎないという。

しかし私たち日本人はこうした外国人の言説に安易に従うような悪しき風習があるように評者には見える。著者は「不たしかな二次情報にもとづく紋切り型の一般化」と表現しているが、評者には大いに同感である。特に問題なのはこの数十年の首相直下の成長戦略組織や教育再生会議、教育改革実行会議などの審議機関が教育専門家を恐ろしく欠如したあやふやな教育政策提起に陥ってきたと実感するところである。ここには人間教育の怖さを知らない無定見さえも登場する。1980年代の臨時教育審議会でさえも教育の営みが「変わるべきものと変わらざるものへの配慮」を注意していたことは事実である。そうなのだ。教育の根幹である人間の知的獲得の方法等では太古の時代から不変のものも少なくないからである。と同時に社会の変遷に連れて変わるべきものも多いはずだ。その精査や軽重点検をまるで考慮された形跡のない「改革」論議と「改革方策」が並ぶ。それには正論に見える前提が働いている。

「専門官僚」が横断的な広い見識を持たず省庁を掌っていることが弊害を及ぼすと称する言説で中央省庁改革だけではなく、それぞれ専門分野別審議機関に大量の財界人を参画させることで、あたかも狭い専門性ではない幅広の実践的方針が出されるのだという信仰にも近い認識に左右されて結果として国民主権の発露としての審議内容を見せず、むしろ財界直結の産地直送型といってもよい生煮えの方針が乱舞してきた。まさに同様のことが中央教育審議会等でも生じたばかりか、特定政権のイデオロギーに満ちた政策論が横行してきたことではないだろうか?教育再生会議での非専門家たちの「最近の大卒には教養がない」式の議論を受けて「専門家」の側も何らきちんとした対応ができていず、事例に挙げられている静岡文化芸術大学長川勝平太委員の発言などは、大学教育や学生に関して「昔下宿のおばちゃんにもそう言われました」で終わってしまう始末だと厳しい。本来専門家であるはずの人物さえ、このように、非専門家の意見を拝聴するとややもすればそれにおもねる傾向があるのはよく知られてきた。さらに著者が指摘したのは「専門家」といっても教育の専門家とは限らない事例がみられるということだ。これについても評者は大いに賛成だ。「何らかの専門家としての自覚と矜持があるのであれば、自分の専門外の問題については、「素人」としての意見を差し挟むことは慎むのが本来なすべき賢明な判断と言えるでしょう。」とも。著者は数か所で、審議会方式の問題の一つとして、事務方が答申案を作文し、審議会が形式的お墨付きを与えることに終始してきたことにも問題があると断言している。評者も数少ない審議機関にかかわった経験から、これには頷かざるを得ず、座長役を務めた時には大いに問題整理に勤めた経験もあるが、たいていはそのようにはならないらしい。しかもこの事務方の文書といってもポンチ絵の焼き直しのような「完結」な箇条書き。これも政策史を研究してきた評者には大いに痛感させられる。おそらく1980年代以降の答申書の多くが個人名の名器もなく単に箇条書きで済ましている場合が多く、以前のような哲学性にも満ちたと思える文書にお目にかかるのは極めて困難だ。その場合、往々にして政権の意図通りに財界意見をちりばめた無定見な内容に出していることが多く、そのために深謀遠慮がないので、簡単に次の段階へと文書内容が変質してしまう。これで困惑するのは下部、現場ではないだろうか。

そこで著者は「もっとも、教育政策に関わる議論を専門家だけでなくさまざまなステークホルダー(利害関係シュア)が参加する開かれたものにするということと、それが放談会ないし「床屋政談」のようなものになってしまうこととは全く別の問題です。」と評しているのは当然であろう。事実確認抜きの改革プランが横行するのも教育分野では目立つともいう。実証根拠がないというのだ。それに過去の失敗から学ぶ姿勢の重要性が指摘される。評者の目ではほぼ確実に文教行政ではこの過去の失敗から学ぶ姿勢は極めて乏しいとみている。だからモデルに学ぶことが強調されてもそのモデルの成功と失敗の教訓から学ばないから、真の改革に程遠いというわけだ。

【評者としての最後のコメント】

評者としてはこの新書版としては破格の476頁にも及ぶ膨大な作品を以上、通覧してみて、著者の指摘が大学政策の逐一の内容上の問題をいかに多く抱え込んできたかを改めて全体的に教えられてきたというか、評者自身の実践的体験にも刻印されてきた大学政策のみじめなほどの多数に上る「改革方針」が、実は過去の実践とその検証の上に構築されるべしという政策論の基本を幾度も指摘されているように思うが、まさにこのありかたは、現実の教育でも絶えず教育実践者が体験してきたことのはずだろう。

だからこそある意味で教育関係者は政府の連発、濫造される教育改革の掛け声に対してしらけさえ生じたうえ、「改革疲れ」を喫してきたのではないだろうか?ネオリベラリズムの経済論は、見果てぬ夢のごとく、千篇一律のごとく、規制改革の必要を叫び、それによる経済の浮揚を訴えてみるが、この三十年以上の日本での実践は、「改革」の「悪無限」(ヘーゲルの言葉)状態ではないだろうか?しかも実態的には改善サイクルに入ってはいない。となるとそれは改革の「不十分さにある」と言いつのってさらに一層の「改革を」と叫び続ける。これ自体無定見で、無策な方針に陥っている何物でもないのだが、大学政策までもこのような論理で「改革漬け」にしたうえ、見通しを何ら持たないまま、大学教育そのものの質的悪化を招いてきた現実に目を光らせた時、おのずからなすべきは大学教育の改革は現場に任せ、それぞれの独自性を発揮して展開させればよいという当然の結果になるだろう。

そのためにはOECD諸国最低水準の高等教育経費の早急の増加サイクルを確保すべきだということだ。小泉純一郎氏が首相だった時、長岡藩の「米一俵」がもてはやされたことがあったけれども、あれはまさに幕末の藩の経済危機にあって、それを救う道は人材の養成だという強い信念のもとに教育投資に振り向けた藩主の英明をたたえたものであった。現代では忘れ去られているようだが、北欧諸国が他の先進諸国同様に経済危機に陥った1980年代初頭に、政府が教育投資を抜本的に拡大したことが昨今の先進的技術産業をはじめとする経済安定の道を切り開いた事実は忘れてはならないだろう。これに引き換え日本は1980年代の臨調行革以来一貫して教育投資を低減させ、ついに2020年代にはOECD 諸国中最下位といってよいGNP対比教育投資水準に立ち至っている。

改めて本書を読んだうえで、評者としてはあれこれの教育改革ごっこを捨てて、政府は旧教育基本法の精神に立ち戻り、「餅は餅屋」にゆだねる精神で、大学教育研究体制の改革は現場にゆだね、トップ介入、トップ独裁などのための法整備にいそしむことを改めることだろうと考える。

(2021年5月10日)