大学論を読む(10)三人の元国立大学長による共著第二弾を読むーそして大学論を考える
田中弘光、佐藤博明、田原博人『2040年 大学よ甦れ』 カギは自律的改革と創造的連携にある
東信堂、2019年10月、定価2640円(税込)、240頁
本書は、2019年10月の発行である。やや旧聞とはいえ、内容上、昨今の国立大学長をめぐる不祥事や、研究実践面での、国際競争力に資する大学づくりが文部科学省中心に喧伝される割に、確実に2004年の国立大学法人化以降に、陥っている低迷、停滞の根源を明らかにすることは、共著者たちの願う2040年、学生人口激減の時代への対応での真の大学改革の道筋をつけたいという思いを、随所にちりばめた、まさに国立大学の目指すべき方向性を剔出しようとした野心に満ちた作品だ。
共著者田中弘允氏は鹿児島大学、佐藤博明氏は静岡大学、田原博人氏は宇都宮大学の、法人化をまたぐ前後の時期の学長、それも地方国立大学長として、大学の地域間ネットワークに奔走した盟友といってよいだろう。かくいう評者自身も法人化設計に当たった学部長、その後理事を務めたこともあるので、本書には大いに共感するところがあった。ここでは本書の内容に触発された評者の認識を交えて論ずることとしたい。
まず本書のあらましを目次に拾うことから始めよう。田中氏の切々たる思いのこもった「はしがき」ののちに、「はじめに」で、大学のあるべき方向性を簡潔にデッサンしたうえで、第1章「大学「改革」の新次元」、第2章「ポスト法人化のパースペクティブ―二つの将来像」、第3章「大学教育を見直す」、第4章「研究力低下をどうみるか」、第5章「事務職員の力を生かした大学へ」、第6章「誰にとっての自主・自律化」、補論「いま、教育を問い直す」と並ぶ。
本書は、このウェッブですでに紹介済みである、先に同一共著者たちが著した『検証 国立大学法人化と大学の責任―その制作過程と大学自治への構想―』(東信堂、2018年)の後続にあたり、法人化後2020年に至る国立大学改革の動向を明らかにし、そのうえで2040年を展望しての提言的内容に展開されている。通読してまず抱いた感懐は、教育研究の実践者として、また大学行政にあたった責任者としての経験に裏付けられた課題の抉り出しの確実さがあり、実に分かりやすいまとめ方に満ち溢れているので、関係者が読むときに長期スパンでの見方に目を見開かされると確信する。
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第1章「大学「改革」の新次元」では、「一 財界版大学「改革」論の大合唱」「二 官邸主導の大学「改革」論」「三 新次元の大学「改革」―特徴とねらい」から構成される。評者の印象では1990年代前後から、財界の大学改革、教育への提言が相次いできたということだ。しかもそれは時にまっとうな教育提言である場合もあるが、時に過度な実業界の大学教育研究への要求である場合もみられる。本書が対象としている21世紀に入って以降、特に2010年代の提言には確かに大学教育の面で傾聴すべき内容も含まれているというのは本書とともに同感である。しかし多くが実は大学のあるべき姿、大学自治、学問思想の自由という憲法上、あるいは国際的常識、慣行にも及ぶ尊重・配慮すべき状況を無視したり、業界の要求そのものであったりする。提言にとどまっている限り一つの参考資料として「財界人の大学論」として認識することができるだろう。しかし事態はそれほど簡単ではなかった。いわばこの提言が政府の大学政策として展開されるとなると一気にそれらは力を持つ。産業界の発展に資する大学教育と研究への要望というと、聞こえが良いけれども、また一般的に否定されるべきではないだろうが、現実には産業界の課題に直接答える教育研究を展開せよとなると、まさに産学共同ももはや「共同」でもなんでもなく、産業界の課題への直接の協力と支援を要求する結果になり、若い学生を中心にこうした産業界に直接答える「研究」が大学研究のあるべき姿に染め変えられてしまうということだ。本来大学教育研究とは人類の営々と積み上げてきた知の財産、宝庫から新たな知の発見や再生を見出してゆく人類全体への貢献こそがその役割でなければならないし、若い学徒を学びに導き、民主主義社会の担い手として健全に育ち、その獲得した知を社会に還元することで、まさに社会のSDGsに答えてゆくべき使命を持つだろう。財界は口を開けば、世界最高水準の技術立国として生きるべき日本の姿、それにふさわしい研究「人材」を要求してきた。実はこの道が国際級の研究深化に意味を持つかというとそうではない。短兵急的に求められる産業界の課題に即応するだけのことである。それだけ産業界が焦っているといっても良いだろう。実際、私も大学の工学系の同僚から、産学共同で確かに外部資金が一定程度入るのは良いけれども、本来その学問分野で、学生たちに理解させるべき課題に至ることが時間的にも困難で、実は困り果てているということであった。
次に「官邸主導の大学「改革」論」で指摘されていることは、文教政策が第二次安倍政権ではほぼすべて官邸主導で展開されていることが特徴的である。むろん文教行政どころかあらゆる専門官庁の垣根を「突破」して政策方針が官邸によって提起されたことを、各省庁はその実行部隊として下請け的に作業させられる結果になることが往々にして多いというわけだ。「餅は餅屋」という言葉があるように、専門官庁で育つ専門行政知をおろそかにしてしまうと、浅薄な知識による行政がまかり通ってしまう。現に昨今の状況を上げると大学入試改革での外部受験指導業者による英語入試問題の出題といい、受験生の能動的知を得たいとばかりに構想された小論文テストとその採点に現役学生アルバイトをという浅薄な手法といい、文科省大学行政に関するだけでも、撤回を余儀なくさせられたのはすべて官邸主導の教育再生実行会議発だった。
いずれも大学教育にかかわった経験さえあればすぐに無理だとわかる内容ばかりだ。おそらく文教官僚であればだれだってわかったはずだ。でも首相直下の体制では異を唱えることさえもはばかられ、人事異動で不利益を考えれば沈黙せざるを得ないのであろう。その点、大学政策はどうだろうか?多くは本来国大協あたりでもんで再検討を要求してもよさそうだがその動きは弱い。しかもこの官邸主導といっても、たいていは財界要求の受け皿に終始し、国際的にはもはや見直されている短兵急のネオリベラリズム的競争原理にいまだに固執しているが、教育や研究はそもそもこの種の議論に全く合わない代物なのである。「新次元の大学「改革」―特徴と狙い」はまさしく上述の事態が形成されていることを厳しく指弾する。体験的に言うと1980年代臨調行革期の大学は、「社会のニーズにこたえよ」と文部当局から強要され、それはあたかも社会全体の要請の装いで厚化粧した、実質は財界(特定の「個人」といってもよさそうだ)の要求にこたえることが大学の使命であるかの状況を体した。その時期はまだ社会の批判的意識が存在して一定の厚みもあったから、すんなりと大学側がこの要求をのみこんだわけではなかった。まさに大学改革の「新紀元」とは、財界発大学政策の展開と断言しても良い。しかも見るからに開始しては失敗の連続。
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第2章「ポスト法人化のパースペクティブ―二つの将来像」では「一 中教審「答申」」「二「答申」の問題と限界」「三 国大協の「将来像」「四 大学再生への道」の四節からなる。ここでは中教審答申の個々には指摘されるべき内容があるとはいえ、結局、教育再生実行会議の受け売りであり、財界要求へのむやみな従属でしかないのに対して、国大協の大学将来像の考え方は一定の評価すべき内容が包含されていて、大学側の取り組みを要請するという認識だ。大学は絶えず変革すべき存在であるけれども、それを専門性抜きの外部からの思い込みによる改革論が登場し、それに振り回されてよいとは限らない。ちょうど中央官庁がこの間、安倍官邸支配を受けて定見無き政策や改革に追われてきたことと瓜二つといえないこともない。この間長期にわたる、あたかも「反官僚」が時のトレンドとして、実は社会の劣化によって裏打ちされつつこの日本の方向性を喪失しつつある状況とも重ねる場合、社会的危機をますます醸成する結果になるように、知的世界と若者の市民としての形成に引き起こすことになるであろうマイナス面は救いがたい状況となるだろう。
一方で短兵急な研究成果を競わせながら、他方で自主的創造的学びを行う人間形成をせよと主張しても、実践的には破綻することは目に見えているはずだろう。評者も大いに経験したが、経産省発の人材要求で、自主的、創造的、対話能力を持つ人間育成ともっともらしく大学にまで要請する時代であるけれども、他方で、初等教育以降の非自主的な一定の価値観を性急に要求する教育内容がまかり通っていては、もっともな要求さえもお題目に堕するであろう。次に中教審経由の大学経営論の論理がいかにもトップリーダー権限の拡大、下部の意見を反映することを嫌うというありかたが要請される。その象徴が大学長選考の在り方だろう。実はトップリーダー強化論は、高度成長期の一定時期には財界でもてはやされ、日本型の企業経営を超えよとされていたが、その結果が今日の企業の低迷、停滞を招いてきたといっても過言ではない。昨今の経営の認識では従業者と経営トップとの友好的協調的関係こそが企業の強靭性を生み出すということである。外見的には従来の伝統的大学長では学内合意重視型が支配的で、学長の経営才覚が見えないというのであろう。しかし重要なことは、大学がそれ自体私的企業経営体であるわけではないし、それ故に利潤追求を目標としているわけではない。学内の構成員の種々の価値観の多様性を保持することを通じて、合意形成を図り、一定の方向性を積み上げることであろう。それこそ生来の大学という機構の特殊性である。
しかし法人化を出発点として、それでもその第一期には軟着陸が優先されたのであろうが、学長選考会議が学長を選任することとにはしたが、同時に学内意向投票を参考にすることがうたわれていた。それが第二期になると、学外者半数以上の学長選考会議の決定で学長を選ぶことを認めることにされた。その後の学長の不祥事を見るまでもなく、学内合意による学長ではないために学長の専断が横行し、不祥事件も生じている。しかも学長選考会議の委員の選任は現職学長にゆだねられているのだから、当然現職学長と気脈を通じあう人物を選任するという結果さえ招く。これはもはや大学自治や大学の自律的運営とは全く無関係と言わざるを得ない。これがトップリーダー論であるとすれば、親方による独断専行的企業経営そのものというほかないだろう。しかも構成員の多様性から、消極的空気や不同意を多く残し続ける組織となりはて、自治に基づく活力ある組織体ではない。まさに今、国立大学法人によって組織された80余の国立大学は、生ける屍のごとしである。こうして本来は自治組織であるべき大学はもはや国家の官僚機構のように上部の意見を拝聴し行動する非主体的な組織に転落してきた。これでは研究の活性化はおぼつかないばかりか、有為な人材を輩出すべき高等教育機関としての社会的責務さえ果たせそうもない。生き生きとした組織の上にこそ多様な教育研究者が集い、若人の学びの意欲を引き出しうる可能性が生じるはずだろう。
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第3章「大学教育を見直す」では「一、大学教育改革で何が変わったのか」、「二、改革で質の保証がえられたか」、「三、大学教育の変質―企業は大学に何を期待するか」、「四、社会人教育を考える」「五、自主性をもった教育へ」をそれぞれ論じられている。端的にみると「一」ではおそらく大学教師が当然のことながらむやみと研究者の前に教育者であれと言われ、大学そのものが研究機関である前に教育機関であることがやたらと喧伝された。とはいえおかげで大学人も教育に力を割こうということになる。ただしまるで日替わりメニューよろしく無定見な大学論に翻弄された文教政策に支配され、法人化で国家の直属機関ではなくなるので自由度が増すと喧伝されながら、評価を通じて財政配分が行われ、ついには事細かに規定された提出文書によって本省の点検あるいは外部評価機関による点検が入ることによる手足をもぎ取られた拘束性が一段と増してしまっている。
「二」では大学が研究機関であるより前に教育機関だという認識を前提にしてさえも、Faculty Development が大いに喧伝された1990年代から、今日では、やれ6カ年間の中期計画の策定と年度ごと評価として展開せよとなり、それぞれ認証評価機構に依頼することとされた。むろん自己評価書の上での時に訪問調査を含めて厳しいような査定評価が展開され、挙句の果て政府側の示した評価指針に基づいた評価を受けてポイント化され財政傾斜配分に活用されるとなると、まさに脅しに評価が使われているとも言ってよいし、そのような強制が果たして自発的改革の芽を育てるかとなると全く逆だ。このサイクルをPDCAで回せというわけだ。こうしてアドッミンションポリシー以下の3点セットで、教育機関としての質を問うというわけだ。何が変わったといっても実質は事細かな指示書に従った文書作りに追われる膨大な時間。研究時間のいやがおうでもの低下。人件費の毎年度1%削減と通常経費そのものが縮小し、国立大学時代には人件費は通常経費と別途配分されそれの定員管理システムが機能し、かつ当然教育の質を落とさないようにそれぞれの学部学科の設置基準を順守することが必要であったが、法人化以降はその縛りを失ったために各大学は人件費と運営費の両社合計で経費節減が求められ、挙句の果てにはそれぞれの学部学科の必要な科目とそれに見合った教員配置さえおぼつかなくなってしまった。これで質的保証は可能だろうか。論じるまでもないのだ。
こうして「三」の企業が大学に要求する課題は明白だ。産学協同を通じてそれほど多くもない財政支援をする代わりに共同研究を推進せよとなる。文科省からは縮減する財政の下で外部資金依存度を高めよと執拗だ。政府の公的教育研究機関に対する責務ははっきりしている。その内容のいかんではなく、財政的支援体制を整備することに尽きる。ところがこの面でもOECD 諸国で下から数えて一位、二位といったGHP比率の低さなのだ。これは法人化直前からずっと一貫して継続している状態だ。
「四」は多少ともまともな課題だろう。大学はそもそも広く社会に開かれ、社会からの知恵や知識を吸収することでさらに研究関心を呼び起こすべき存在だからである。また大学の教育研究に携わる教員たちにとって、得難い社会からの知恵と情報によって新たな研究教育への活性化と活力を与える。著者とともに、評者も少なからず社会人教育に役割を果たす経験があるので、実は教員の「教育」などおこがましく、むしろ社会から学ぶことがいかに多いかを中間してきたほどだ。
「五」では著者たちの年来の大学への希望、期待である自主性を持った教育にいそしんでほしいとのエールでもある。実態はなかなか厳しい。1990年代末や2000年代初期に文部省を中心に喧伝された法人化=大学の自主性、自律性確保の根拠は全くなく、むしろ規制緩和=規制撤廃がその組織体の責務の品質を保証しなくなってしまったというのが現在だろう。かつては国立大学が設置基準を厳守していて私学への手本だったのが、今や古くからの私学のほうがより安定的にさえ見えてしまう。
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第4章「研究力低下をどうみるか」では「一、研究力低下の要因はどこにあるのか」、「二、若手研究者の減少を考える」、「三、多忙化が引き起こす研究時間の低下」、「四、「選択と集中」の落とし穴」、「五、「競争が壊す研究の多様性」、「六、産学連携の新たな動き」、「七、研究をあきらめない―研究室から飛び出し連帯の輪を広げよう」をとらえている。
繁文縟礼という言葉があるけれども、矢の催促のように度重なる外部資金という公的資金への応募に対して、大学を挙げてアプライする習慣はほぼ2000年代に始まったといってもよいかもしれない。特に大学運営の基本となる政府支出が一定水準にとどまりつつも、毎年人件費節約を迫られ、おまけに法人化以降の改革熱心さを競わせる、それによって評価ポイントを挙げさせるという文科省側の手法に各大学は国公私を問わず無数の応募文書と終われば最終報告書、次いでこの施策を含む大学運営内容のあらましと改善点の記録といった文書制作に追われる日々が続いているのが大学職場の実態だ。こうして確実に教育研究者としての充てるべき時間が減少し、しかも業務運営上の文書作成も教員の仕事にかかってくる。これが「一」の背景であろうか。若手といえば、研究にはつきものの若い時代には先輩に大いに学びつつ自己研鑽に努めるべき時期に当たる。ところが、1990年代末に大学教員任期制を導入したことを転機に、まさにこれからの若手教員を3年や5年の任期制を導入させ、その施策に協力した大学には何らかの財政優遇を付与して、このキャンペーンへの協力のいかんでも財政措置による誘導を図った。特に巨大プロジェクト研究の場合ではこのように任期制を背負った若手がどうしても短期的業績に走ることが不可避であり、しかも教員採用のための人件費は毎年1%削減とあっては、大学としても安易に教員採用をするわけにもゆかず、それだけに逆ピラミッドの年齢構成に陥り、新たな学問的課題の追求意欲を阻害することも不可避であろうというわけで、これもまた大学の研究活性都心課題への挑戦意欲を阻害して、全体として政府の研究活性化のための法人化という目標さえ逆に低下してきた。「二」「三」がこれらに関連する。「四」、「五」は財政危機にことよせての「選択と集中」というネオリラリズム的効率主義と競争に疲れ果てて逆に競争が研究の命取りになってきたということを指摘する。しかもこれが本来多様な研究の活性化によってこそ、実は研究が進むはずなのに、狭いテーマ選択によって研究の深い展開を妨げる結果になってきたということだ。政府は上げて「選択と集中」で国費によって支えられている国立大学こそ、国家目標に従った研究を推進すべきだと旗を振る。これではまるで戦前の国防研究推進のようなものであり、研究課題も国家の示す方向に従えというわけだから、多額のプロジェクト研究費を提供するとして防衛省の平和安全のための研究費提供という名の実は軍事化推進への協力を敷いてきた。これが2013年以降の政治のなせる業であり、日本学術会議の長年の軍事研究に協力せず平和のための研究に貢献するという目的に対してさえ、国会質疑を活用してまで、学術会議に対して攻撃を繰り返し、ついには戦前日本国家のように政権のご都合と目的に意見を呈する学者の学術会議会員任命にまで、違憲の任命拒否に打って出て、脅しをかけるという乱暴さである。「六」、「七」では産学連携といっても、政府の推進する経済成長戦略に資するかとされた大企業に対する重点的共同ではない道もありうるのではないかということである。このように狭隘な研究環境の下で、研究者としてとるべき道があるのではないか、その一つが政府的に偏った産学共同ではなく、自ら地域に飛び込んで地域に生起する諸課題の解決に挑戦する道ではないかというわけである。実は地域こそ多様で斬新な研究課題の宝庫であり、そこで目を開かされることが多いはずだから。それは評者自身も多く地域に学んで教えられてきて自己の狭い情報による学術的判断の不十分さを痛感させられたので。
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第5章「事務職員の力を生かした大学へ」では「一、法人化に当って考えたこと」、「二、国の動き」、「三、職員研修一つの試み」、「教職協働の在り方」、「五、これからの働き方を考える」ではあまり論じられないもう一つの重要な分野を語る。
大学論が論じられる場合、往々にして教員の不可分の位置にある職員の問題がすっぽり抜け落ちることが多い。それは大きく見れば、大学が享受する場所、教授のプロフェッショナルな場であるという認識が底流にあるからだろう。これについて、評者は元から異なった認識の位置にある。というのは評者が大学院生時代に全国を席巻した大学闘争があった。その時期に大きく問われた課題の一つに教授特権の打破、大学自治の担い手が教員のみではなく、職員、学生が大きく分有するという認識をめぐってであった。むろん「帝国主義大学」の労働者育成工場論もあった。それぞれに一定の事態の反映だと思う。評者自らも大学闘争で院生として加わった経験を持つので、一定のゆがみを生じて述べることは不可避であろうが、そもそも大学の始まりを問うてみると、西洋ではボローニヤ大学があげられよう。あの場合、大学は学生組合が教授団に、教区を受けたい講師を示して、教授団はそれに対応するという、今時考えられないほどの学生主体の学びの場であった。とすれば大学の淵源はそもそも学生、教師の一体性と対等性が保証されていなければならないだろう。僧院の教育に始まったイギリスの名門大学がそのような対等性をもって始まったとは側聞の限り知らない。近代の大学教育を考える場合、日本のように西洋模倣のシステムだとえてして権威主義的に上からの装置として展開されるのは不可避だったから戦前戦後の一定期間を通じて大学の教授団の教育研究の自由を守るという立場から、教授会自治論が重要だったわけである。その意味では大学闘争はまさにそれを乗り越え、ボローニヤ型への接近といえなくもないが、それ以上に学びの世界とはそもそも、双方からの対等性を持つ学び相の場に尽きるだろう。ではその際の職員の位置とは何か。評者はそもそも大学運営に必須の経営事務といってよいか教学事務は教育研究活動、学ぶ学生と一体のものであって、いわば大学業務の役割分担に過ぎず、教師たちにとってその教育研究を推進する機能として埋め込まれていた要素が顕在化したものととらえるべきではないかとみてきた。その観点とも照らし合わせてこの章をとらえてみると、「一」での法人化にあたっての認識は私もまったく賛成だ。というのは当時、私は学部長で、しかも全学の法人化に向けての組織運営の責任者でもあったので、当時の文部省の提示した法人化スキームでも、今後は教員と職員の一体性を重視する風な表現が見られた。評者もまさに得たりと考えて院生時代より考えてきた学長選考にあたり、当然学生も職員も対等の投票権を行使して学長を選定すべきだと考えた。とはいえ御多分に漏れず勤務校でももはや大学自治組織が欠如していたので、それは無理なので職員、教授団の投票権保証をうたった。その時、文部大臣が、それは困ると内々に事務局長を通じて伝えてきたが、返して文部省自らが教職の一体性をと述べていることを示して、その道をとることとした。るる述べることもないけれども、この章はまことに適切な内容に感じさせられた。職員研修の重要性とともに私は教授団を含めて学生にも自校教育の重要性も指摘したいし、それによって働く職場の社会的存在の意味を客観的にとらえ、その大学の未来図を描く力が出てくるのではないかと信じているからである。この自校教育の重要性は、大学の50周年記念誌編集責任者の時に痛切に考えたし、尊敬する寺崎昌男氏の懇切なご指導を得てのことでもあった。大学が生き生きとして研究教育に活性ある日々の変革的対応を可能にする源泉が教職員学生の一体性とそれを裏打ちする共有する価値認識としての自校の意味をしっかり把握することではないか。その意味で、この章は大変重要な指摘を行っていると認識させられた。
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第6章「誰にとっての自主・自律か」では「一、文科省の誤算」、「二、大学はどこまで自主性を持ちえるか」、「三、教授会の活性化」、「四、国大協の新たな役割―大学と連携した国大協へ」、「五、国立大学法人法を見直す」、「六、運営費交付金の問題は削減だけではない」ではこれまでのいくつの問題点整理の上に、総括的な論点提示と打開の道を探っている。
「誰にとっての自主・自律か」は同時に、未来世代への橋渡しの責任を持つ大学教育研究の本質からも重要な視点であろう。ところが周知のように文科省は、官邸の専門的見地を持たない教育再生会議」や「教育再生実行会議」の諸報告の指し示す方向性を基礎の方針作成をしたとしか思えない内容で大学に種々の指示を下している。自主・自律性の確保こそ法人化の狙いだと豪語していたかつての文部省はどこに行ったのかと疑わざるを得ない。この執筆者の認識はおおむねそこにあったと感じさせられた。評者は法人化に際していくつか論じたときに、法人化で自由度が高まるというが、実は官僚的統制力の強化と裏腹ではないかと論じたことがある。まさにこの章でも指摘されているように、まるで法人化以降の国立大学は、中央司令部の言いなりにされてきたというほかない。そのように見通したのは1980年代末からの大掛かりな規制改革・規制緩和の方向付けが実は官僚の自由度を高め、その支配下に種々の独立法人を統括しているとしか見えない事実を多く知っていたからである。確かに文部省は独立の法人化を実現して、それが善意であればより大学の自由度を高め教育と研究のレベルアップを図りたいと認識していたかもしれないし、そのように説明しなければ反対多数の国立大学を説得できなかったであろうことは容易に理解可能である。しかし現実はそうはゆかなかった。高等教育の質を保証するうえで、財政措置の保証こそ重要であったが、大蔵省・財務省側の新自由主義的統治の仕組みでは、いかんともしがたく財政的に細り続けるほかない。理由づけにこれだけの大幅赤字を積み立てて死んじゃった一般財政を適切な黒字転換に持ってゆくには教育を例外にできないという国民受けする大義名分があった。こうして大学統治の強大化に反比例して教育研究の衰退、弱体化がその後の傾向法則になったというほかないだろう。特にこの著作の射程範囲でいえば、国立大学の学長選考が、学内意見を反映する必要もなく、学外者半数以上の学長選考会議で決めればよいとなっていることであろう。そもそも自治・自律を大学に要求するならば、そのトップは当然自治原則に従って選任されるという前提が機能しない限り、運営の疑心暗鬼が生まれてもやむを得ないだろう。ちなみに私の知るアメリカのバークレー校では、2006年段階で総長選挙に教職員代表である各部局長(多くは部局内の民主的原則で選出)が学生代表(自治会連合としての一本化をした)を含めて投票する方式を利用していた。よもや外部勢力の学長(総長)選考権を与えるなどは考えられていない。その一つの根拠に、大学が特殊な研究成果発表と学生支援の組織であるから、その日常に通じない人を学長候補にするというのは想定されていなかったのだろう。現実に生じているこの間の国立大学長の実態は、学内の意向を無視して、方針を示し、実行に移すこと、あるいは学長自らの研究に疑義が生じているのに一切無視し続けるアンフェア他、以前の国立大学長には見られなかった不祥事の続出や、2021年に起きた東大総長選考にあたって学内意向を無視した選考を選考会議議長が決定に至ったことだろう。小宮山宏氏というこの議長こそは以前の東大総長であった人だけに、実に奇妙というほかない。京大総長選考も同類だった。こうして全国の国立大学長の選考はほぼ学内意向を無視した結果になっている。これが文科省の大学の自主自律の本質である。著者たちはこの章で国大協がせめて国立大学側に寄り添って、きちんと対応すべきことを期待し、他方で国立大学側が共同した連携強化の道を探ることを期待している。ということはいずれもその道には程遠いことを意味することに他ならない。国大協は私がかかわっていた時期でさえも、物事を深く考え意見具申すべきことは具申するというよりは文科省の忠実な意向拝聴機関となって、それを下部に伝達しているとしか見えなかったので、なお一層大きな課題であろう。
今、厳しく問われねばならないのは、法人化を前に、大学評価論がかまびすしかった時期、基調としてピアレヴューの重要視が指摘されていた時期に立ち返るべきではないのだろうか?いかにも「第三者評価」と称して財界人などを含むことが評価の客観性を保てるなどと解されているとすれば、とんでもない専門性軽視に陥るだろう。昨今の入試改革や種々の新規科目導入であれ、いずれもこの「第三者」意見の尊重のあまり、大変な大きなミスの連続だ。同様に、大学運営のトップの選考を、選考会議に限定し、この選考会議が、その構成で半数以上を外部者にということから、先に示したように学内意向に反した学長を選定するということがまかり通ってきた。それでも以前は学長にだれがふさわしいかを、学内者によって候補者を挙げ、それを参考にした法人化前半の時期があったけれども2014年以降の法改正で、学内意向を聴取する必要がないことになった。その結果どのようになっているか?少なくない学長の独断専行と、学長自らの研究者としての資格が問われるような状況さえ生まれてきた。その先鞭をつけたのが法人化を前にした東北大学総長の選任であった。この大学では総長候補者選挙はすでに廃止され、選考会議の事項とされていた。結果として二代にわたる総長の研究者としての質が問われる不祥事を生じていた。この事実を知っていれば、まるで個人経営のトップの永続のように、また決定が迅速化するといわんばかりのトップの立ち居振る舞いが正当化され、文科省もそれこそが大学の責任者として正しい在り方だといわんばかりであった。なるほど決定と実行の迅速化が進むが、判断水の続発だ。多様な価値観を維持すべき大学の使命に照らして、トップが独断専行を許すような選考の在り方にメスを入れるべきだし、誤った判断の是正のためには学長に対してリコール県などが認められていなければならないのは当然であろう。そこで最近では文科省が示す学長に対するチェック機関として選考会議それ自体に監督機能を果たさせることを付与してきた。しかしこれにも矛盾があろう。そもそもこの委員の選任が現職学長によって行われるし、その人事の成否、不当性はどこでもチェックを受けない。とすればこれをお手盛り人事というほかないのだ。果たしてこのような多様な価値保持の機能を果たすべき大学の在り方は形がい化するのは当然だ。では文科省、財界は決定と実行の迅速性を追求してきたのだろうか?それは大学の研究機関としての機能を政府の成長戦略に貢献すべきこととして位置づけ、かつ外部資金導入を容易にして産学、軍学共同研究体制の構築には、研究や思想の自由は不要と認識されてきたからというほかはないだろう。現に昨今の大学関係の政府による指示文書や提言の類で大学の独自性を保証することに関する内容はほぼ掻き消えてしまっている。
本章では大学運営の先輩である三人の元学長が精魂を込めて取り組まれた大学間ネットワークを国大協の実質的支えとして、強靭にすべきだと指摘する。評者も行動を共にした一人として全く同感だ。いったい、国大協が政府の方針に対して、認識をことにする場合、率直に建議すべきことはもちろんであるし、最近でも建議に努めている努力は知っている。ただそれを無視する傾向が政府の教育再生実行会議なる専門性をしっかりと持たない政治的組織によって消極化されていることも疑いえない。20004年に始まる国立大学法人化の実施以降、特に2010年代に入って以降、急速に、矢継ぎ早に大学改革が提示されてきた。これらはいずれも安倍晋三内閣の肝いりだった。しかしその顛末が決して芳しいものではないことも自明である。しかも国立大学法人の差別化・格差化として旧帝大を中心に特定法人化して、国大協の分断が進んできた。しかもこの特定法人であっても決して容易ではないことはもとよりその他大学との格差が進行し、一層危機的状況に陥っているのが現実である。そのような時、本章で指摘される教授会の活性あの課題は大きいといえる。と言っても教授会権限が著しく破壊され、大学運営全般への参画さえ阻害されている下で、現場の教職員にとっては、その心貼棒としての機能さえも塞がれてきているのが現実でもある。ここは大学人の踏ん張りどころといっても、もはや大学自治の担い手としての経験も少なくなっている現実も認めねばならない。ではどうするか?評者は三元学長の発言に追加して、ぜひとも大学人としての誇りを持つうえで、教職員一体で、学生たちと共に学ぶ自校を位置付けて、職場に誇りを取り戻し、大学人としての責務に基づく教育、研究、運営の三位一体化を図るべきだろうと考える。
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補論「Ⅰ 教育はこれでよいのか―知識を知恵に」、「Ⅱ 教育の明日を考える」はいずれも教育実践に裏付けられた大方が同意、賛意を示すことができる内容と見た。確かに近代日本の教育は大方知識修得の場であったかもしれないが、むしろ重要なことはそれを知恵にまで高めて活用する力だろう。それは同時に日本の学問の在り方にまでの射程を持つべき内容を包含する。これらの補論を読んで、評者として、三元学長の教育への見識を改めて教えられる。補論Ⅰは三元学長の共作であるが、お互いに法人化前後以来長く協力されてきただけに、まさに琴瑟相和すがピタリの論の展開である。学ぶことの面白さ、知への尽きない興味関心を持った社会こそが、良好な人間関係とそれを21世紀の現在にいかに生かし切るかは重要な課題であり、初等教育に目を向ければ、この論考が指摘するように教師育成の在り方にも論及されているのは大いに賛同したい。というのは長年にわたり、文部省・文科省が進めてきた教師教育のシステムはどうも教師になるべき学生に学ぶことの面白さや興味の尽きない研究への問題関心を持つことの重要性を体験させてこなかったのではないかという点は、私の小さな経験でも感じるところである。
林竹二氏ではないが、評者には細切れの単位数を多く学ばせる技術的教師教育の科目では、学生たちの心を打つものがあまりにも少なく、「学ぶことは教えること」「教えることは学ぶこと」と一体性があり、それには教師になる学生たちにこそ、教師や学生間の交流を通じて相互に学びあい、その学びを深め、自由な学生間交流と社会生活の出発点ともなるであろう課外活動の中からも学びを形成する機会を大いに与えることによってこそ、教師となって以降に子供の知への関心を深めさせ、子供に社会性を加えるうえで有益なのではないかと感じてきたのである。ここには旧制師範学校的あり方は不要なはずなのだ。しかし、いま進められているこの補論Ⅱは三著者自らの執筆ではないが、まさにそれゆえにこのような配慮を持って、本書で展開されている見識の確かさを教えられた。教育をえてしてこれまでの研究成果に基づく知識情報にとどめず、その知識情報を実践することによって、現実に生かす努力が行える人格として成長することが期待される。まさにそうであろう。以上のようにとらえることは、大学教師や職員がともに地域社会らも大いに学び新たな知見の発掘にいそしむことこそが、若い学生たちに生きた橋座ともなるであろうことを予想させる。
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さてこの小文をまとめるにあたって、以下のことを指摘して、終わろう。 この作品でも触れられる機会がなかったようであるが、評者としてはぜひ検討に供したいのは、1996年ユネスコ「21世紀高等教育宣言」である。この宣言は日本を含め2000人に上るデリゲーションで組織されて、高等教育のあるべき姿が包括的に論じられている。いくつか指摘しているのは、まず国際的競争環境の中で、途上国の優秀人材が先進国に教員され、途上国での知の維持と引き上げが極めて不十分になる状況への告発であった。次いで大学等高等教育研究機関で重視すべきなのは、学問思想の自由と大学自治、権力による不当な政治的介入の否定、それゆえにこそ教職員の身分保障の重要性の指摘である。これらを通じて、民族間、部族間の宗教対立を含む紛争等世界の戦争状態の克服と平和維持に対する大学と研究・教育の役割の重要性である。この提言では戦争のための科学研究、端的に言えば軍事研究を推奨する立場は一切見られない。このような提言を日本の当時の文部省(文科省)は参加しておきながら、いまだに批准をしないままに、その後一層この提言と異なって、競争をあおりグローバルな大学を目指すといいながら、実態はますます世界的地位を低下させているのが現実である。研究教育には競争がつきものという人口に膾炙した言い訳もあろうが、実は教育・研究ほど共同性に満ちた分野はあまり見受けられない。それには何よりも学問の自由と自治が絶対的に必要である。本書を読みながら、この提言を今こそ大学政策の基本に据えるべきではないと感じている。