教授ブログ

教授ブログ -旅先から-

[2015/9]

香港2015.9

2月に訪れたときは、金融の中心地金鐘 Admiraltyで繰り広げられた学生たちの反政府行動の名残が大学の中に掲げられた垂れ幕などからも感じられたが、一年を経て、短期滞在の私が直接それを感じることはもうなかった。香港は変わらず、ただ元気であった。人の多さ(何せ700万人が1000km2、香川県よりも小さな面積に住んでいる. 人口密度は東京よりも大きい. さらに猫の額の平地と呼べないほどのスペースの後ろに3,4百メートルの山並みが続くので実際の平地面積で考えるとその差はもっと大きくなるだろう)、とりわけ若者の多さが、街を活気づけている。いや、老弱男女、皆元気がよい。元気はよいが たとえば道を歩くのに節度を伴ったルールがない。右を歩くのか左なのか。地下鉄の通路は人並みが揺れている。駅では、「降りる人が先!」という掲示とアナウンスまで流さねばならない残念なありさまである。元気さは街に散在する古びたビルや未舗装の道路を伴って<猥雑さ>となって香港らしさを醸し出している。
数字だけ見ると香港は一人あたりのGDPが日本のそれを上回っている。為替相場の問題があるので、まあ、同じくらいだと考えてよいだろう。しかし、街の猥雑さと、道行く多くの人々の、とりわけ高齢者の身なりからはどうもそのような印象を受けない。香港生まれで香港科技大の助教授Stanley Lao君にそのことを聞くと、一時間あたりの最低賃金は5米ドルくらい、貧富の差が大きいのだという。日本のそれよりは3割ほど低いその数字に納得。金融と物流が経済を支える香港故のことと想像していたが、そのようである。貧富の差がかなり大きい。
その猥雑な香港は、まちがいなく国際都市である。観光客でも、ビジネスマンでもない多くの白色人種が街に溶け込んでいることもあるが、百年を超えるイギリスの支配が残した英語文化が今となっては国際都市香港をしっかり下支えしている。今回学生交流を軸に静岡大理学部との学術交流を締結した若い大学だが世界評価の高い香港科技大(理学院)も、香港大も学内の公文書は中国語ではなく英語。そして地名や人名の英語と中国語との時にほほえましい組み合わせは、 汎世界を常に夢見る中国文化にその源があるのだろうか、な?
海岸線と稜線の間の狭い空間に林立する高層ビルを眺めていると、自ずと水と電気のことが気にかかった。先のStanley Lao君から北京ダック(そう、ごちそうは北京ダック!)をいただきながら聞いた話には思わずうなった。電気は、火力発電を軸として7,8割を自前でまかなっているが、水は9割方、高いコストを払って大陸中国から買っているのだという。年間降水量が3000mmにも達する香港だが(台風がしばしば直撃しますね)、如何せんその人口に対して集水域がほとんどないと言ってよいくらい小さい。しかし、水は中国本土でもすでに問題となってきている。さて、これは容易ではない。
大陸中国への物流の玄関として開け、栄えた香港であるが、中国経済の発展に伴って相対的な重要度を下げながらも、国際化で生き残りを図ろうとしていると、今回二つの大学を回って改めてそう感じた。しかし、イギリスから返還されてもうすぐ20年。Lao君の話では、一般の人々の間では英語離れが進んでいるのだという。わが国で進む小学校での英語教育のことを考えると、なかなかことは複雑であるぞと言う思いに駆られる。加えて、人類が翻弄されている電子伝言板の、文章とならない文字の羅列が席巻する世界の中で、 私たちが文章という言う文化を失っていくと、その先に何が来るのか? そのことを見越した学びが必ずや助けとなることは、世界の多くが「語りの文化圏」にあるという厳然とした事実の前に、私たち日本人は不利な立場にあり続けてきたことに気づくと明らかでしょう!これを忘れるとえらことになりますよ。

 

[2015/6/6]

白夜のサンクトペテルブルグから

空港へ向かうタクシーの運転手が少し英語を使えたので、ちょっとした観光気分を味わうことにした.
フィンランド国境まで20kmという空港に向かう道路をサンクトペテルブルグへの凱旋門を少し出たあたりに、レーニンの大きな像がある。右手を8時の方向にまっすぐおろして、ここがレニングラードと呼ばれていた時代(1924年からベルリンの壁が崩れ、ゴルバチョフがロシアを変革したあの頃―1991年―までこの街はもとの優雅な名前を失っていた)には「タクシーを呼び止めるレーニン」と揶揄されたようであるが、人民を鼓舞している図であろう、巨大な立像がある。写真を撮る。旅の終わりにしばしば味会う、仕事を無事終えた安堵感と、数日の間非日常を楽しんだ風景から離れるちょっとした寂寥感の中で、もう二度と見ることはないであろう風景にシャッターを切る。ロシアはやはり少し “別”である。くだんの30代半ばか40くらいのシャイで明るいドライバー君に「ヨーロッパへ行ったことはあるの?」と聞いてぴしゃりとやられた。「ここはヨーロッパだよと」。そう、私(たち)の意識の中で、ロシアはやはり西欧の辺境であり、ときにボーダーを超えたところに位置している。何しろモスクワでもここサンクトペテルブルグ(こちらの方が多いかな)でもアジアの血が混じった顔に思いのほか良く出会う。そういえば、5日前、白夜なので意識することはなかったがすでに8時過ぎて空港からホテルに着いて、隣の半地下(こういうところに安物のーつまりロシア製のー食品やら日用品を売る、まあ言って見ればロシア版コンビニがあちこちにある)の店に入ってビールを一カン買うと、カザフスタンなのかもっと中央アジアなのか、そんな顔をした売り子の青年が親しげに私にロシア語で(多分)キターイ(ツングースの同朋かと)話しかけてきたのにはちょっと参った。着ているものを見てよ。いや、ま、よしとしよう.認められたのだ、仲間に。
ロシアは明らかに変わった。プーチンが政権を担い始めていたが、初めて私がモスクワに来た6、7年前には市内のお湯もろくにでない(お湯が水に混ざって出ると言ったらわかっていただけるだろうか)部屋が広いだけが取り柄のホテルで一泊4万円近くした。世界標準のビジネスマン向けのホテルがほとんどなかったのである。そして人がにこやかな顔をちょっとした時にしてくれるようになった。そんなものは知らないっ、というようなおばさんがカウンターにどんと居座っている店もまだ多いけれど。昨日も、ホテルで簡単に昼食をとろうと黒パン(これは美味いっ!)に乗っけるスモークサーモンを買おうとして街のどこにでもある地下ショップに立ち寄った。値段がわからないので、横にいた買い物客のちょっと身なりの良いご夫人に英語で問いかけたら、一緒に値札を探してくれたがわからないので店の男に聞きにいってくれた.男は何やら言うので、私が「わからん」といったらiPhoneをたたいて298ルーブルだと教えてくれた。ご夫人にわたしが知っている3つのロシア語の一つ「スパシーバ」というとにこやかに微笑んでくれました。こんな光景は6、7年前には想像もできなかった、のである。
モスクワは戦勝70周年を祝うポスターが街のあちこちに張ってあった。私たちにとっては、日本が降伏する直前になだれ込んできたロシア軍であるが、西の端、西欧との狭間ではサンクトペテルブルグだけでも60万人の死者を出したナチスとの過酷の戦線が国中に広がった国でもあった。そのことが人々の意識の奥底にまだ深く眠っていることを全くと言ってよいほど意識することが私にはなかったことを知る。そして今回の出張の目的、放射能による環境汚染の問題についてもまた、私はあまりにもこの国やかつてこの国に属していたチェルノブイリの位置するウクライナはまだしも、その事故の大きな被害が出たベラルーシのことやソビエトにおける核の実験場と化していたカザフスタンのことは全くと言ってよいほど意識に上らせていなかったことを思い知る出張でもあった。

 

[2014/9/11]

近くて遠い

1986年?に京都宝ケ池の国際会議場でISME(International Symposium for Microbial Ecology) 5が開催されてから四分の一世紀、韓国で国際微生物生態学シンポジウムがわが国は豪雨に見舞われた2014年(平成26年)の8月末にソウルの江南にある広大な会議場で開かれた。私と全く同い年の(といっても韓国では母親の体内に生命が始まったときからの数えでより生物学的ではあるが)キム・サンジョン ソウル大教授の韓国での微生物研究の歴史の紹介に始まったこの大会の招致を先頭に立って引っぱったのはキム・サンジン韓国海洋科学技術研究所上級研究員。キム・サンジョン氏とは1981年から82年にかけて、私がDAAD (西ドイツ政府)奨学生とし西ドイツの南端にあるコンスタンツ大学陸水学研究所に留学していた時、研究上の先行走者であったキール大学海洋研究所のHoppe博士のもとに留学していた彼と研究会などで出会った時からの付き合いである。キム・サンジン氏は確か1年ほど遅れてやはりキール大学へ留学してきた。Hoppeさんの研究室であったか、初々しいキム・サンジンにであったことを思い出す。韓国の微生物生態学は彼ら、ソウル大学のHong先生の門下生達が引っ張ってきた。
16S時代からおよそ20年が経って、オーミクスである。が、テーマはどうか? 今までの解析の手法を一段深めたり広げたりしただけではないのか?という声にはどのような対応があるのだろうか。
そして、朝日新聞の記事の信憑性が今頃に怪しかったと自らが表明するも、そのことを外から批判した文書の掲載にはまだ躊躇するようなていたらくである新聞社のことはさておき、私たちの国が彼らの国を植民地としていたことは歴史であり、私が彼らとの付き合いが始まって韓国を訪ね始めた頃は、まだ彼らの国は軍事政権のもとにあったことも事実である。しかしながら、姿形が似ていることや、文化の一部を少し共有していることなどで、私は彼らと近い存在であると勝手に思い込みすぎていたのだな、と感じたのが私のISME 15である。このことが何を意味するのかをもう少し、今日からのドイツからモスクワへの旅で考えてみようと思う。(2014.9.5, 14:15,ハバロフスク上空1万メートルで)

 

[2014/4/13]

見るべきほどのものは、見つつ

大橋了介や里見勝蔵といった同じときに同じもの(パリ)を見、そして描いた画家たちの作品と比べてみても、佐伯がいかに見たものと格闘し、それを自らの内部で燃焼させてキャンバスに刻み込んだかは容易にわかる。それが佐伯祐三である。 私の気に入っていた『モランの寺』の歪んだ形。1928年、やはり狂っている。 『街角の広告』、30年の生涯の死の一年前、1927年。暗い中に可能性が見える私の記憶にない佐伯祐三の作品の一枚。 『Cafe´, Tabac』(これについては作品につけられた表題は間違っている)、1927、これが描けたというのに。屋台の点との左上にある秋枯れの木々の描写は絶妙である。隣に、名作『レストラン(ホテル デ マルシュ)』。静岡県立美術館、2014年の春、爛漫。加藤憲二、62才。

 

[2013/8/5]

ロシアはまだ量が大事

モスクワはもうこれで5度目になるが、この数年間で猛烈にロシアは世界標準を取り入れようとしている。しかし何と言っても入国には未だにビザが必要であるし、わずか5年前には日本からアエロフロートで到着するシェレメティエボ国際空港からモスクワ市内までの公共交通がなかった。途上、である。二度目に訪れたときには鉄道の高架工事が空港付近まで延びてきていたので期待したことを思いだす。したがって日本のエージェントで空港から市内のホテル間でのタクシーをあらかじめ予約しておくことになる。その頃はまだ世界スタンダードのビジネスホテルはモスクワにはほとんどなく、一泊2万円数千円出して泊ったホテルブダペストは、部屋は広いものの階段や廊下はきしんでいたし、熱いお湯は蛇口から出たり出なかったり。出張旅費では明らかな赤字を覚悟していたもののいささかならずがっかりしたものだ。ただし、このときロシア専門の東京のエージェントは、もう一つクラスを落とすと(つまり出張旅費内で泊まることができるホテルだと)水道の水は褐色ですよ、と言われてしまった。  二度目の2010年にはモスクワ国立大学放射科学の教授になったステパンカミルコフ氏の大学院生ウラジミール君が、彼のかなり“厳しい”車で迎えにきてくれたのはよかったが、エアコンの効かない車で窓を開けて走ったモスクワ市内までの一時間半は容易ではなかった。何しろソビエト製のトラバントの吐き出す排気ガスの臭いのひどかったこと。それがどうだ、今回も、ステパン氏の車も、ホテルで呼んでもらったタクシーも、立派すぎるBMWであった。  さて2013年の8月、アベノミクスやらで円安が急速に進んで、1ルーブルは日本で交換すると3円40銭(モスクワでは3円ちょうどくらい)。2年前と比べても3割方物価が高く感じられるが、レストランも多分に漏れず。ダウンタウンではあったがそれほど高くはないだろうと思われるパスタ屋で3人がパスタとビール(一人中瓶を一本半です、断っておきますが)で軽めの夕食を終えただけで3,800ルーブル、なんと1万円超でした。で、表題の話。このレストランでも、メニューには、例えばスパゲッティボロネーズ、と書かれた後に200グラム、などと書かかれているのであります。味ではなく、量。食べることの本来の意味につきる、ということか、量がなければ話にならないということか、いずれにせよ共産圏の雄であった頃の名残であろうと思われます。で、味は? ロシア人が大好きなキノコ、が入ったピザはいけました。 (2013年8月4日、モスクワからクラスノヤルスクへ向かう機中で)

[2013/7/25]

ついに“貝池”に来た!

長らく日本の陸水学の第一人者であった西條八束先生にフィールドの手ほどきを受けた私にとって、天草の南に浮かぶ上甑島と言うその名前の響きにも彩られた、見事な汽水湖である貝池に来ることはながらくの念願であった。いやもうその機会はないだろうな、と憧れにも似た思いが消えかけてすらいた。研究室の先輩で長崎大学につとめておられた松山通郎さんが測った水温と塩分と酸素濃度の手書きの鉛直分布のグラフを私たち大学院生にみせながら、どうしてだと思う?と先生が思わせぶりに質問された30年あまり前のことが思い出される。天井迄届くほどに雑誌や洋書の詰まった本棚に挟まれた研究室の“たまり場“の細長いスペースでテーブルを挟んでのいつものやりとりの一コマであったが、この日のことは今日迄強く心に残っていた。
海岸沿いの灌木に覆われた砂州に海から切り離されたようにして並ぶひとけのない三つの池の光景は、初めての目に荘厳ですらあった。そして三つの池の真ん中に位置する貝池は、まるで驚きにあふれたおもちゃ箱であった。密度の大きな海水が占める4mから池の底の10mまでの水は表層の軽い水とは混ざり合わないため酸素が消費し尽くされて無酸素の世界が広がっている。そこには海水に含まれる硫酸イオンが無酸素呼吸する細菌によって還元されてできた硫化水素がふんだんにある。その硫化水素を水の代わりに使って光合成するユニークな細菌が、わずかに光の届く4mから6mの深さに分布しているのである。そして水温はその直上の3mでなんと40℃近い値を示した。真夏の鹿児島といえども今日の最高気温は33℃ほどであり、池の表層の水温は31℃。そしてユニークな光合成細菌が優占する5mでは何と一気に23℃迄水温はジェットコースターさながらに下降している。  この魅力にあふれた貝池では、松山さんの先駆的な光合成細菌の研究の後、東京都立大学の大学院生であった中川さんが福井学さんの指導で微生物を解析し、海洋科学技術研究機構の大河内さんのグループの中島さんたちが特徴的な光合成をになう微生物の色素についての生化学的な研究をしている。さて、これから研究者たちは、ここでどんな面白い自然の仕組みを発見してくれるだろうか。

 

[2012/10/31]

「ヨーロッパへ来てアジアを考える」2012.10.30

10月30日朝7時.まだパリの空は明けきらない。

長時間の飛行のあとの時差の中で空港に降り立って、まずはホテルに無事につけばそれでよし。今まで幸いなことにタクシーでのトラブルは経験したことがな いし、屋根にTaxiと書かれているので心配は無用と思っても、いくらかの不安を感じながらハイウエイからの景色を眺めるのが常である。ただし今回のパリ シャルルドゴールからのタクシーはいつもよりずっと気持ちよく乗ることができた。タクシーの車内にはラジオから静かにクラッシックが流れ、同年輩のアジア 系のドライバーでは落ち着いて、そしてなかなかのスピードでパリへ向かってくれた。車がパリの街中に入っていよいよホテルが近づいてきた頃に中国系フラン ス人ですか?と訪ねると聞きとりやすい英語でかえってきた答えは、「カンボジアからです」。30年あまり前に内戦で荒れる故国を後に、パリに出稼ぎにきた のだという。「どちらからですか」との問いに、「日本です」と答えると、国では日本には随分お世話になりました。荒れた国土の復興に際して、橋や道路は随 分日本に作ってもらいました、という、そういえばそうであるが、ヨーロッパでこのようなことを聞くとは思ってもみなかった。

そのあとふと、8月に訪れたハノイの女性博物館でみたビデオを思い出した。デザイナーとして頭角を現したベトナム女性が、かつての侵 略国の首都パリで認められて世界に飛躍した話であった。ベトナムの町の日常にとけ込んだパンのある風景や、この話のように文化に関わるところで、フランス は実にしっかりとかつしたたかに世界の真ん中で役割を担いきっている、と感じることが最近多い。翻っていつまでも隣国から前の戦争時のことが政争の具に持 ち出される我が国のあり方に心が曇る。欧米の文化や科学技術を実に丁寧に<翻訳して>アジアに根付かせたこの数十年の日本の活動のアジアの中での意味は、 経済の名の下どうやら吹き飛んでしまったようだ。<意識改革>というものの必要性と、そのことの持つ意味の大きさを感じるばかり。

違うパリをみてみたいと思い、今回はカルチェラタンやモンパルナスではなく、バスティーユにパリの宿を取った。遅い夜明けの後の朝食 をとって、ホテル近くの、パリでも最も庶民的と言われ、歴史もあるマルシェへ散歩に。骨董のたぐいはがらくた品といえるほどのものだし、野菜や肉も、それ を売る人の素朴さとも重なって気取ったところのない庶民の市場である.そして、それこそが金がそれほどなくても、生活することの程よい楽しさを教えてくれ ているように思える。フランス語が醸し出す心地よい響きと、彼らのお話好きが時間の緩やかな流れを作っている(同じ話好きでもドイツとはやはり違うなあ、 と思う)。パリで感じる心地良さのもう一つに、黒人たちがロンドンとは違った形で社会のメンバーであるようなところも、あらためて大きな要素だと思う。

11時間半の羽田からロンドンへの飛行の後半でみた北極圏の氷の上の満月は、それにしても見事であった。

[2012/8/10]

教授ブログ 第3弾 from Prof. Kato…

「ベトナムから 2」                     2012年8月9日 ハイフォンからハノイへ
4日目、見事に晴れた。

昨日は雨の中を中国との国境に向けて北へ走りだして、世界遺産に登録されているハロン湾で観測を行った。ゴミの散らかる船着き場から木造の観光船をチャーターして離岸。

湾内に停泊する大型船の間を行き来する木造船を眺めていると、ボートピープルの事を思い出す。子供たちが小さい頃、私たち家族は松本に 住んでいたが、長女の通うカトリック系の幼稚園にボートに乗って南ベトナムから逃れてきた家族のお子さんがいた。グエンさんと言ったと思う。どうしている かな、ふと思い出した。

日本は大阪までがアジア

韓国がアジアのちょっと先を走る兄貴分ではないか?日本ではなく。

なぜ街中にゴミが多いかーモスクワの街と幾分重なるイメージがあるのは思い過ごしか?

[2012/8/9]

教授ブログ 第2弾 from Prof. Kato…

「 ベトナムから              2012年8月7日 ハイフォン
昨晩10時にハノイ入り。税関での搬送荷物(実験機材)の受け取りと海洋研究所のある港町ハイフォンに移動して一日が終わりそう。時差2時間。 Haiphong、我々ベトナム世代には、もっとも激しく爆撃を受けた地名の一つとして記憶に残っている名前で、漢字では海防と書きます。ちなみにハノイ Hanoiは漢字では河内。数年前に台北の空港でこの文字をみつけたときは思わずにんまり。この6年間で3度目の北ベトバムは激しい雨で出迎えてくれた。 熱帯地方の雨と言えば、スコールをイメージするだけだったので、台風の影響に(そう、台風発生地帯に近いのです)よる雨は予想外。おかげで一昨日までは 38度だったというハノイも夜のとばりもおりて30度を下回っていた。
ハノイとハイフォンの間は100kmと少しですが、何しろ道路はバイクの洪水。反対車線にクラクションを鳴らしながら平気で入っては先行車を抜いていく ような、日本ではお目にかかれそうもない運転で飛ばしても洪水の中を進むのには時間がかかる。ベトナム戦争が終わり(アメリカ合衆国に勝利した唯一の国と して…)南北ベトナムが統一されたのはちょうど沖縄が日本に返還された頃。40年近い歳月が流れようとしている。今も共産党一党支配が続く中、経済開放 (刷新)政策(ドイモイ)で世界の仲間入りしてきたベトナムは、この6年の間にもあたかも韓国をめざしているかのような上昇気流の中にあるが、私は発展の 方向にベトナムらしさがないように感じ始めている。」

[2012/8/2]

教授ブログ 第1弾 from Prof. Kato…

「北島は伝説を作った。第一レーンを泳ぐ若い立石にオリンピックという最高の舞台で後進に華をもたせた。最後のワンストローク腕を緩めた。日本の水泳界のために、自身の栄光のために。私は中継を見てそう思った。皆さんは? 」