教授のブログ

  • 【丘陵】

    大陸の切れ端と火山でできたこの国ではどこに住んでも山が見渡せると言っても良いが、私の家は、その南東に家康を祀る久能山がある丘陵の北東がわ、地質学的には付加帯と呼ばれる海底堆積物が作る丘の中腹に茶畑を拓いたところにある。かつての海底が隆起してくっついた付加体というところがちょっと珍しいかもしれない。周囲には雑木林も幾らか残り、春先からはウグイスの声が届く。散歩にことかかない。(脊椎の)手術前のまだ痛みの少ない頃までは、妻が夕食を準備にかかる頃、農道を丘の上に向かって歩くのが楽しみであった。ほぼ丘のてっぺんに近づくと東に富士山がはっきりと見え、静岡の街は足元に見えるベーブルースと沢村栄治が投げ合った草薙球場から西に、太平洋を背に焼津まで綺麗に広がっている。退院して1週間が過ぎた今日、ステッキを持ってその道を目指してみた。登って下って約2000歩ばかりの行程だが手術後の初めての挑戦であった。人家を抜けて上り道に入ってからは杖に助けてもらったが、坂道を目的のところまで登ることができた。健康な時には意識を向けることもなかった、歩くという行為に一生懸命意識を向けて歩く。左右の足にかける力のバランスを知らせるデータが、携帯の歩行記録に出ることなど知りもしなかった。歩くことなど当たり前のさらに手前にあった。それが、杖を持つようになって、杖を使わずに歩くことができる日を切望する自分に出会い、そして同時に、街にはこんなにたくさんの人が(ウオーキングのそれではなく)杖を頼りに歩いていることを知る。風景が少し変わった。

    自分の体に意識を向けるという行為が、古希を過ぎてようやくにして始まった。遅きに過ぎたか、いや、まだこれから、と思わねば。

    2022.6.23金曜.

    【アイルランド】

    青が混じった重い鉛色の低い空に虹がかかる。司馬遼太郎のエッセイ「街道を行く」をベースにした番組『愛蘭土紀行』の二十数年ぶりの再放送を見る。番組では懐かしい深緑色の二階建てバスが、1949年、世界対戦後の独立を機に、いっきにロンドンのそれとは明らかに異なることを示すべく赤から緑へと色塗られたことを知る。忘れていたか、知らなかったか。連日ウクライナの暗いニュースが放送される中、そのことに絡めてヨーロッパを思うとき、私の頭にアイルランドが浮かぶ。北海道ほどの島の北端の一部が、さらに英国に占められている人口500万の国(この数字も北海道のそれにとても近い)。大国と隣り合わせに大きくはない国々が点在するヨーロッパ。

    初めてダブリンへ行った時、ゴールウェイに向かう鉄路のそばの三つ星の中でもちょっと高値のホテルに投宿した。私にとっては高級ホテルであったが、部屋に入った途端、入り口の電球がつかない。フロントに電話してしばらくしたら、その頃の私と同年配と思われるような(いや若かったのだろうな私よりは)背の高い電気屋がやってきて、すぐに電灯を直してくれた。彼の修理ぶりをみていて、そうだチップをあげなければ、と私は思った。そして空港で両替したばかりの銀色の1アイリッシュポンド硬貨を手渡したところ、(多分)アイリッシュ訛りの、それでも聞き取ることができた彼の英語は、(私がその頃愛用していた布製の大きな紺色のスーツケースを見て)「今 (ダブリンに)来たところ?ギネスは飲んだ?」「まだなのか。じゃああこの1ポンド(当時の感覚で300円くらい?)で下のバーへ行って1パイント(グラスで. 約500cc)ギネスを飲んできたら?」と。なんと粋な返事に私のアイルランドは始まった。20年を経ても忘れることのないアイルランド。しかし、境界線をめぐっての小競り合いは、北アイルランドでもついこの間まで起こっていた。私がダブリンを訪ねたのもその頃である。

    T V番組は、司馬遼太郎のエッセイの一節、「アイルランド人は(その歴史を見ると「清教徒革命と私たちは教えられた英国からの大侵略などに)百敗の民である。だが主観的には不敗の民だと思っている」で始まる。家並みや街の作りの美しさで風景が心に染みるヨーロッパの国々であるが、隣接する大国に押されて大きくはない国の領土で繰り広げられる凄惨な戦いには時間を超えて際限がないのであろうかと、言葉をなくす。長らく戦争の火種であった宗教が(イスラム教を除けば)人々の暮らしから遠ざかってきても、人々の記憶に近い過去の政治が色濃く残っている限り、ウクライナは一層複雑な坩堝の中にある。数年では解決の糸口が見出せないのではないかとさえ思う。

    ついでに。日本のビール会社をとやかく言うわけではありませんが、日本製の缶入りギネスとダブリンで飲むギネスは、別物ですぞ。よく似てはいますが。

    2022.6.22

    【雲】

    病室のカーテンを少し開けておいて雲を見る。一瞬も止まることなく形を変えて、この7階の病室目がけて押し寄せてくる雲を見る。私が、痛みを得て愚かにもようやく自らの肉体が道具ではないことに気づいて手にとった瞑想のテキストでは、痛みの感覚も一瞬にして変わるということを教えている。変わり続けることが自然であってみれば、私たちが感じる時間と共には変わらないということが人工(モノ)であると定義できるかもしれない、とふと思う。

    この複雑な生命は、実は宇宙に大量に存在するありふれた軽い元素からできている(1)。周期律表の最初に現れる水素から、炭素、窒素、酸素、りん、そして16番目の硫黄が主要6元素。硫黄より重い元素が現在では100余り知られているが、生命活動にとって多くの<重い元素>には有害であるものが多い(2)。そして三つ目に、ヘリウム、ネオン、アルゴン、クリプトンというような右端に位置する元素、電子の自由な出入りがない不活性元素を、<反応形である>生命は使わない、と今まで地球環境生命科学の講義などで語ってきたが、もう一言、「生命は変わり続けるもの」と付け足せばよかった。

    定義の話になると、では岩石は自然ではないのですか?と即座に言われそうだ。確かに岩石の形成や変化の時間は生命や気象など身の回りの変化時間に比べてとてつもなく遅く、私たちの知覚には入ってこない。私たちは地球の中の一瞬の存在であるということを改めて言うことができても、自然と人工物(モノ)との線引きにはやはり注釈がいることになる。「私たちは大きなものの一部分である」と言った(はずの)カール・セーガンの書き物をまた紐解いてみたいと思う。英才は時間について何と言っているだろうか。彼がすごしたコーネル大学にもまた行ってみたい。年長の友人、雑誌の編集をご一緒したビル・ジオーシィさんは健在だろうか。

    元素を周期律表にまとめ上げたメンデレーフはロシア、サンクトペテルブルグ大学の教授であったが、10年ほど前に尋ねた大学の廊下には彼の立像がドンとそびえるように置かれていた。ただ大学の設備があまりに古臭く、貧弱であったのに驚いたことを覚えている。ロシア第2とか第3とか言われる大学でこれか、と。わずか10年ほど前のことである。終わりの見えないロシア・プーチン政権のウクライナ侵攻の暗いニュースを聞くと、私にはこのロシアの貧しさが思い出される。

    2022.6.13

    -病室から-

    [2022/6]

    6月の梅雨入りが近づいた日の午後の雨に街路樹が色を濃くした道路の先で、小型のミニバンがウインカーを点灯させてこちらに曲がる。赤十字病院7階の病室から向かいの背の低い銀行のビルの向こうに少しばかり見える道路が、そこを行き交う車や時折通る自転車が、無事に手術を終えたわたしの安らかな気持ちを確認させてくれる。今まで目に留めることもなかったような景色が、そのような思いにさせる、そんな時間ができる。三つ四つとここから見えるその道路の街灯に、もうすぐあかりが灯る。静かな、小さな景色がこんなにも愛おしいとは気づくことのなかった今までのわたしの生き様(よう)を、忙(せわ)しない日々を、脊椎から両足に現れた痛みとの戦いからの回復のこれからの時間が変えてくれるだろう。

    2022年、暗いニュースばかりがウクライナから届く日々の中で、そして2ヵ年を超えてコロナウイルス禍の収束が見えない中、2度目の腰に生じた激痛が椎間板ヘルニアなどによる脊柱管狭窄症と診断され、1年半に及ぶ薬物療法に限界を感じた。6月8日、両足に続く神経の通り道を広げるために骨の一部などを削り取る除圧手術を、静岡赤十字病院で受けた。今日はその3日後である。手術そのものがもたらした強い痛みは、どうやら二日ほどでなんとかその峠は越えたようだ。鎮痛剤に助けられてこれなので、地雷に足を取られても命を繋いだ子供の痛みは如何程であったか。想像を絶する。

    2022.6.11

     

    【チューリッヒ、リマト川のほとり】

    2017年の12月22日、今はカナダで研究に取り組んでいるオリバー君がクリスマス休暇に実家のあるチューリッヒに帰ってくるのに合わせ、地下水研究の新しい視点での観測を富士山とスイスでやろうという計画の打ち合わせに久しぶりにチューリッヒに降り立った。どんよりした冬空の下であったが、透明感をまだ保った大量の水がチューリッヒ湖から流れ出すリマト川に沿って拓けたチューリッヒの街は、これがヨーロッパと言わんばかりに変わらす堂々としていた。

    私は37年前(もうそんなに時が経ったのか・・・)、ここチューリッヒから列車で1時間半、スイス、オーストリアとドイツの間に横たわる琵琶湖ほどの大きさのボーデン湖畔のコンスタンツ大学に西ドイツ政府(DAAD)の奨学生として、博土研究の仕上げに屈強なドイツ人と毎週湖に観測に出ていた。まだベルリンの壁が崩れ去る8年前のこと。西ドイツ南部の大都市ストゥットガルトの中央駅では、豊かな西ドイツヘ東ドイツから出稼ぎにくる人たちは、その身なりですぐにそれとわかる時代であった。当時コンスタンツ大学の教員(40余りのドイツの大学は1、2?の宗教大学を除いて全て国立)から、普段の税金のほか、東ドイツの経済発展を支えるためにさらに追加の税金を納めていたと聞いた記憶がある。そのような下支えも今日のドイツを作る礎となったのであろう。アジアでは一つの民族がまだなかなか寄り添えないでいることを思う。

    チューリッヒ市の人口は40万人ほどだが都市圏には200万人が暮らすこの場所で、アルプスから豊富な雪解け水が流れ出すとはいえ、湖を生活環境にふさわしい状態に保つ彼らの配慮と努力には、建物の重厚さと相侯って息の長いものが感じられる。

    国と国とが地面で境するヨーロッパは、また言葉も縦横に入り組んでいる。とりわけここスイスではそれが顕著である。オリバー君はスイスの西に位置するフランス語圏にあるヌシャトル大学で昨年博士の学位を取得したが、その研究室を秋に訪ねた時、ブルナー教授と英語論文の仕上げ作業の議論をするオリバー君と教授の間を飛び交うのは英語にフランス語、そしてドイツ語。母親が英国人のブルナー教授はフランス語で講義するのは疲れる、と言い、ドイツ語圏で育ったオリバー君はフランス語はうまくない、といいながらも、である。

    わたしたちが思い描く国際化は、敗戦後という枠の中で国の成り立ちも国を動かす制度も全く異なるアメリカ合衆国の影醤を強く受けてきた。多様な文化や自然を持つヨーロッパを考えの中に大きく入れても良いのではないだろうか。鴎外が、漱石が苦闘した西欧であるが。

    *左に見える尖塔はフラウミュンスター(聖母教会) 中にシャガールのステンドグラスがある

    (静岡学習センター『燈』ともしび2018年4月掲載)

    【柿田川から富士山の中を覗く】

    2001年に静岡大学に赴任する前、私は北アルプスの麓で温泉にはまっていた。いや、浸かっていたのではなく(つかってもいましたが)、そこがなんと生命の初期進化の舞台であることに魅了され、高温環境の微生物と向き合っていました。どこかの宣伝文句に「地球が沸かした温泉」というのがありましたが、まさに温泉は地球の内部を覗く窓であると言えます。と同時に、高温で酸素がない(地球上の酸素は30億年ほど前に誕生したシアノバクテリアという藻類の一種が作り始めたものです)環境は、地球上に生命が誕生した頃のモデルと言えます。加えて、温泉と温泉の間は少なくとも地球の表面では繋がっていませんね。つまり温泉はそれぞれが独立していると言えそうです。空間的に隔たった場を、小さな生物がどのようにして分布を広げていったのかという、もう一つの興味深い問題を考えることも大きなテーマです。30代の初めにドイツ留学から日本に帰って、信州大学の医療技術短期大学部に職を得、未来の看護師さんや検査技師、理学や作業の療法士たちに生物学を教えながらそんな研究をしていた私を見つけてくださった方がいて、縁あって静岡にやってきました。

    赴任して間もない頃、東京での会議に向かう新幹線ひかり号の中、二つ前の席に和服姿で扇子をパタパタさせ、何やら本を広げている方がいるではないですか。京都大学を退官され(今は法人となりましたがあの頃は“国立”大学なので、退“官”でした)、世界でも珍しい湖の博物館、琵琶湖博物館の初代館長の川那部浩哉さんだとすぐにわかって、ご挨拶したところ、同じ品川で降りるなら、悪くない駅蕎麦屋があるので行こう、ということに相なりました。立ち食いそばを食べ終えての別れ間際に、「静岡に来たのだから、柿田川研究会に一度いらっしゃい」というのが、研究者人生の後半のテーマの一つになった富士山麓の湧水研究の呼び水となりました。世界にはそのようなキャリヤの研究者が何人かいましたが日本ではおそらく初めて“地球科学”教室に職を得た微生物研究者として何人もの学生たちと富士山麓へ通うことになりました。

    その中でも最大の湧水、三島溶岩流の末端から湧き出す柿田川の水は、富士山の標高1500から1700m付近に降った雨や雪がおよそ15年の歳月を経て湧き出すことが何人もの研究者の研究で明らかになっています(残念ながら百年湧水ではありません)。意外なことに、富士山の東南に位置する富士山の半分足らずの標高の愛鷹山から流れ出る湧水は、60年ものです。地下の構造が水の流れの速さを左右しているのでしょう。この柿田川の湧水、量が多いばかりではなくおそらくいくつものみずみち(水道)を経てきた水が寄せ集められていることが私達の研究からわかってきました。どのくらいの時間地下を流れた水が湧き出してきたのかは、かつては水の中に混ざる放射性炭素を調べたり(この濃度が低くなって今は有効な手段ではなくなりました)、自然界にはなく、人工的に作られたフロンガスを調べたりして推定しますが、どの辺りに降った雨や雪かは、水そのものの重さを測って調べます。そう、水を作る酸素や水素にも、軽い分子と思い分子があるのです。例えば、環境の中の酸素はほとんどが16という重さを持っていますが(水素の16倍)、17や18のものもあります。18の酸素、つまり重い酸素からなる水は、夏に太平洋でできた雲が富士山に当たると麓の方で雨粒になって落下します。雲が山麓を登るに従って降る雨は軽くなるというわけです。この仕組みを使って富士山のどの辺りに降った雨や雪かが推定できるのです。ではその雨や雪は、地下どのくらいまで染み込んでから出てきたのか、これはなかなか推定が難しい問題です。(ここまで「三島ゆうすい会30周年記念誌」に掲載済み」)

    地球上の酸素は植物が光合成でせっせと作ってくれています。生命が誕生して間もない頃に登場した藍藻が、水と二酸化炭素から有機物を作りだす光合成をし始めて地球は酸素のある惑星になったと考えられています。ところで地下には太陽の光が届きません。井戸を掘って数メートルを越え始めると水の中の酸素濃度は一気に減っていきます。そして地下には暗くて酸素のない世界が広がっています。それはすなわち生命のない世界かというと、実はそうではありません。酸素を使わずにエネルギーを作り出すバクテリアやアーキア、単細胞の原核生物が大きな生命圏を作っています。また地下に蓄えられた井戸水は冷たいという印象をお持ちではないでしょうか。夏にひんやりとした井戸水を汲んだときの印象が強く残っているからかもしれません。夏は冷たく感じる地下水ですが、たとえば柿田川の水温は一年を通じて15℃とほとんど変化しません。もう少し富士山麓の標高の高いところへいくと,この温度は13℃や12℃と低くなっていきます。こういった温度は、その土地の年間の平均気温を表していると考えられます。その土地の年間の平均気温が地表付近の地層に記録され,湧出前にその地層を通る地下水は温度が年間平均気温にそろえられる、というわけです。

    ところが地下深く潜ると温度は上昇していきます。日本列島ですと100mで3℃から4℃温度が上がります。地下500mは地上より15℃から20℃も高温の世界です。実は柿田川の湧水の中には、40℃を超える高温環境で、酸素を使わずに生きる微生物のバクテリアやアーキアをそのDNAを調べて見つけることができるのです。水を通しにくい地層の上に広がる三島溶岩流が大量の地下水を溜めて、その末端から清澄な地下水が湧き出すと考えられています。しかし、好熱性微生物のバクテリアやアーキアが地下水に流れ込む40度を超える環境は、厚さが150mから高々200mの溶岩流のではその深さに到達することはできません。微生物はもっと地下深いところで地下水に取り込まれたと考えられます。好熱性微生物の存在は、柿田川の大量の湧水は、溶岩流を流れ出るだけではなく、地下深く(500mかそれ以深)からやってきた水も含んでいることを示唆しています。地下水が含む微生物は、地下からのメッセージだと言えそうです。

    様々な化学分析をして地下水の特徴を調べますが、地表にわき出た湧水は、すでに様々なみずみちを通ってきた地下水がブレンドされた後の水を調べていることになります。それに対して,水の中に含まれる微生物粒子は、それが豊富に存在するところから運ばれてきたと考えることができるのではないでしょうか。このような研究手法で,今まで岩石だけが占める黒い(?)地下圏の姿を、流れる水とその中で生きる微生物までを含めた、少しゆたかでたおやかでさえあるようなイメージが湧いてくるように思います。いかがでしょうか。

    (理博、静岡大学名誉教授、特任教授、放送大学客員教授:2017〜2022)

  • -旅先から-

    [2015/9]

    香港2015.9

    2月に訪れたときは、金融の中心地金鐘 Admiraltyで繰り広げられた学生たちの反政府行動の名残が大学の中に掲げられた垂れ幕などからも感じられたが、一年を経て、短期滞在の私が直接それを感じることはもうなかった。香港は変わらず、ただ元気であった。人の多さ(何せ700万人が1000km2、香川県よりも小さな面積に住んでいる. 人口密度は東京よりも大きい. さらに猫の額の平地と呼べないほどのスペースの後ろに3,4百メートルの山並みが続くので実際の平地面積で考えるとその差はもっと大きくなるだろう)、とりわけ若者の多さが、街を活気づけている。いや、老弱男女、皆元気がよい。元気はよいが たとえば道を歩くのに節度を伴ったルールがない。右を歩くのか左なのか。地下鉄の通路は人並みが揺れている。駅では、「降りる人が先!」という掲示とアナウンスまで流さねばならない残念なありさまである。元気さは街に散在する古びたビルや未舗装の道路を伴って<猥雑さ>となって香港らしさを醸し出している。
    数字だけ見ると香港は一人あたりのGDPが日本のそれを上回っている。為替相場の問題があるので、まあ、同じくらいだと考えてよいだろう。しかし、街の猥雑さと、道行く多くの人々の、とりわけ高齢者の身なりからはどうもそのような印象を受けない。香港生まれで香港科技大の助教授Stanley Lao君にそのことを聞くと、一時間あたりの最低賃金は5米ドルくらい、貧富の差が大きいのだという。日本のそれよりは3割ほど低いその数字に納得。金融と物流が経済を支える香港故のことと想像していたが、そのようである。貧富の差がかなり大きい。
    その猥雑な香港は、まちがいなく国際都市である。観光客でも、ビジネスマンでもない多くの白色人種が街に溶け込んでいることもあるが、百年を超えるイギリスの支配が残した英語文化が今となっては国際都市香港をしっかり下支えしている。今回学生交流を軸に静岡大理学部との学術交流を締結した若い大学だが世界評価の高い香港科技大(理学院)も、香港大も学内の公文書は中国語ではなく英語。そして地名や人名の英語と中国語との時にほほえましい組み合わせは、 汎世界を常に夢見る中国文化にその源があるのだろうか、な?
    海岸線と稜線の間の狭い空間に林立する高層ビルを眺めていると、自ずと水と電気のことが気にかかった。先のStanley Lao君から北京ダック(そう、ごちそうは北京ダック!)をいただきながら聞いた話には思わずうなった。電気は、火力発電を軸として7,8割を自前でまかなっているが、水は9割方、高いコストを払って大陸中国から買っているのだという。年間降水量が3000mmにも達する香港だが(台風がしばしば直撃しますね)、如何せんその人口に対して集水域がほとんどないと言ってよいくらい小さい。しかし、水は中国本土でもすでに問題となってきている。さて、これは容易ではない。
    大陸中国への物流の玄関として開け、栄えた香港であるが、中国経済の発展に伴って相対的な重要度を下げながらも、国際化で生き残りを図ろうとしていると、今回二つの大学を回って改めてそう感じた。しかし、イギリスから返還されてもうすぐ20年。Lao君の話では、一般の人々の間では英語離れが進んでいるのだという。わが国で進む小学校での英語教育のことを考えると、なかなかことは複雑であるぞと言う思いに駆られる。加えて、人類が翻弄されている電子伝言板の、文章とならない文字の羅列が席巻する世界の中で、 私たちが文章という言う文化を失っていくと、その先に何が来るのか? そのことを見越した学びが必ずや助けとなることは、世界の多くが「語りの文化圏」にあるという厳然とした事実の前に、私たち日本人は不利な立場にあり続けてきたことに気づくと明らかでしょう!これを忘れるとえらことになりますよ。

     

    [2015/6/6]

    白夜のサンクトペテルブルグから

    空港へ向かうタクシーの運転手が少し英語を使えたので、ちょっとした観光気分を味わうことにした.
    フィンランド国境まで20kmという空港に向かう道路をサンクトペテルブルグへの凱旋門を少し出たあたりに、レーニンの大きな像がある。右手を8時の方向にまっすぐおろして、ここがレニングラードと呼ばれていた時代(1924年からベルリンの壁が崩れ、ゴルバチョフがロシアを変革したあの頃―1991年―までこの街はもとの優雅な名前を失っていた)には「タクシーを呼び止めるレーニン」と揶揄されたようであるが、人民を鼓舞している図であろう、巨大な立像がある。写真を撮る。旅の終わりにしばしば味会う、仕事を無事終えた安堵感と、数日の間非日常を楽しんだ風景から離れるちょっとした寂寥感の中で、もう二度と見ることはないであろう風景にシャッターを切る。ロシアはやはり少し “別”である。くだんの30代半ばか40くらいのシャイで明るいドライバー君に「ヨーロッパへ行ったことはあるの?」と聞いてぴしゃりとやられた。「ここはヨーロッパだよと」。そう、私(たち)の意識の中で、ロシアはやはり西欧の辺境であり、ときにボーダーを超えたところに位置している。何しろモスクワでもここサンクトペテルブルグ(こちらの方が多いかな)でもアジアの血が混じった顔に思いのほか良く出会う。そういえば、5日前、白夜なので意識することはなかったがすでに8時過ぎて空港からホテルに着いて、隣の半地下(こういうところに安物のーつまりロシア製のー食品やら日用品を売る、まあ言って見ればロシア版コンビニがあちこちにある)の店に入ってビールを一カン買うと、カザフスタンなのかもっと中央アジアなのか、そんな顔をした売り子の青年が親しげに私にロシア語で(多分)キターイ(ツングースの同朋かと)話しかけてきたのにはちょっと参った。着ているものを見てよ。いや、ま、よしとしよう.認められたのだ、仲間に。
    ロシアは明らかに変わった。プーチンが政権を担い始めていたが、初めて私がモスクワに来た6、7年前には市内のお湯もろくにでない(お湯が水に混ざって出ると言ったらわかっていただけるだろうか)部屋が広いだけが取り柄のホテルで一泊4万円近くした。世界標準のビジネスマン向けのホテルがほとんどなかったのである。そして人がにこやかな顔をちょっとした時にしてくれるようになった。そんなものは知らないっ、というようなおばさんがカウンターにどんと居座っている店もまだ多いけれど。昨日も、ホテルで簡単に昼食をとろうと黒パン(これは美味いっ!)に乗っけるスモークサーモンを買おうとして街のどこにでもある地下ショップに立ち寄った。値段がわからないので、横にいた買い物客のちょっと身なりの良いご夫人に英語で問いかけたら、一緒に値札を探してくれたがわからないので店の男に聞きにいってくれた.男は何やら言うので、私が「わからん」といったらiPhoneをたたいて298ルーブルだと教えてくれた。ご夫人にわたしが知っている3つのロシア語の一つ「スパシーバ」というとにこやかに微笑んでくれました。こんな光景は6、7年前には想像もできなかった、のである。
    モスクワは戦勝70周年を祝うポスターが街のあちこちに張ってあった。私たちにとっては、日本が降伏する直前になだれ込んできたロシア軍であるが、西の端、西欧との狭間ではサンクトペテルブルグだけでも60万人の死者を出したナチスとの過酷の戦線が国中に広がった国でもあった。そのことが人々の意識の奥底にまだ深く眠っていることを全くと言ってよいほど意識することが私にはなかったことを知る。そして今回の出張の目的、放射能による環境汚染の問題についてもまた、私はあまりにもこの国やかつてこの国に属していたチェルノブイリの位置するウクライナはまだしも、その事故の大きな被害が出たベラルーシのことやソビエトにおける核の実験場と化していたカザフスタンのことは全くと言ってよいほど意識に上らせていなかったことを思い知る出張でもあった。

    [2014/4/13]

    見るべきほどのものは、見つつ

    大橋了介や里見勝蔵といった同じときに同じもの(パリ)を見、そして描いた画家たちの作品と比べてみても、佐伯がいかに見たものと格闘し、それを自らの内部で燃焼させてキャンバスに刻み込んだかは容易にわかる。それが佐伯祐三である。 私の気に入っていた『モランの寺』の歪んだ形。1928年、やはり狂っている。 『街角の広告』、30年の生涯の死の一年前、1927年。暗い中に可能性が見える私の記憶にない佐伯祐三の作品の一枚。 『Cafe´, Tabac』(これについては作品につけられた表題は間違っている)、1927、これが描けたというのに。屋台の点との左上にある秋枯れの木々の描写は絶妙である。隣に、名作『レストラン(ホテル デ マルシュ)』。静岡県立美術館、2014年の春、爛漫。加藤憲二、62才。

    [2013/8/5]

    ロシアはまだ量が大事

    モスクワはもうこれで5度目になるが、この数年間で猛烈にロシアは世界標準を取り入れようとしている。しかし何と言っても入国には未だにビザが必要であるし、わずか5年前には日本からアエロフロートで到着するシェレメティエボ国際空港からモスクワ市内までの公共交通がなかった。途上、である。二度目に訪れたときには鉄道の高架工事が空港付近まで延びてきていたので期待したことを思いだす。したがって日本のエージェントで空港から市内のホテル間でのタクシーをあらかじめ予約しておくことになる。その頃はまだ世界スタンダードのビジネスホテルはモスクワにはほとんどなく、一泊2万円数千円出して泊ったホテルブダペストは、部屋は広いものの階段や廊下はきしんでいたし、熱いお湯は蛇口から出たり出なかったり。出張旅費では明らかな赤字を覚悟していたもののいささかならずがっかりしたものだ。ただし、このときロシア専門の東京のエージェントは、もう一つクラスを落とすと(つまり出張旅費内で泊まることができるホテルだと)水道の水は褐色ですよ、と言われてしまった。  二度目の2010年にはモスクワ国立大学放射科学の教授になったステパンカミルコフ氏の大学院生ウラジミール君が、彼のかなり“厳しい”車で迎えにきてくれたのはよかったが、エアコンの効かない車で窓を開けて走ったモスクワ市内までの一時間半は容易ではなかった。何しろソビエト製のトラバントの吐き出す排気ガスの臭いのひどかったこと。それがどうだ、今回も、ステパン氏の車も、ホテルで呼んでもらったタクシーも、立派すぎるBMWであった。  さて2013年の8月、アベノミクスやらで円安が急速に進んで、1ルーブルは日本で交換すると3円40銭(モスクワでは3円ちょうどくらい)。2年前と比べても3割方物価が高く感じられるが、レストランも多分に漏れず。ダウンタウンではあったがそれほど高くはないだろうと思われるパスタ屋で3人がパスタとビール(一人中瓶を一本半です、断っておきますが)で軽めの夕食を終えただけで3,800ルーブル、なんと1万円超でした。で、表題の話。このレストランでも、メニューには、例えばスパゲッティボロネーズ、と書かれた後に200グラム、などと書かかれているのであります。味ではなく、量。食べることの本来の意味につきる、ということか、量がなければ話にならないということか、いずれにせよ共産圏の雄であった頃の名残であろうと思われます。で、味は? ロシア人が大好きなキノコ、が入ったピザはいけました。 (2013年8月4日、モスクワからクラスノヤルスクへ向かう機中で)

    [2013/7/25]

    ついに“貝池”に来た!

    長らく日本の陸水学の第一人者であった西條八束先生にフィールドの手ほどきを受けた私にとって、天草の南に浮かぶ上甑島と言うその名前の響きにも彩られた、見事な汽水湖である貝池に来ることはながらくの念願であった。いやもうその機会はないだろうな、と憧れにも似た思いが消えかけてすらいた。研究室の先輩で長崎大学につとめておられた松山通郎さんが測った水温と塩分と酸素濃度の手書きの鉛直分布のグラフを私たち大学院生にみせながら、どうしてだと思う?と先生が思わせぶりに質問された30年あまり前のことが思い出される。天井迄届くほどに雑誌や洋書の詰まった本棚に挟まれた研究室の“たまり場“の細長いスペースでテーブルを挟んでのいつものやりとりの一コマであったが、この日のことは今日迄強く心に残っていた。
    海岸沿いの灌木に覆われた砂州に海から切り離されたようにして並ぶひとけのない三つの池の光景は、初めての目に荘厳ですらあった。そして三つの池の真ん中に位置する貝池は、まるで驚きにあふれたおもちゃ箱であった。密度の大きな海水が占める4mから池の底の10mまでの水は表層の軽い水とは混ざり合わないため酸素が消費し尽くされて無酸素の世界が広がっている。そこには海水に含まれる硫酸イオンが無酸素呼吸する細菌によって還元されてできた硫化水素がふんだんにある。その硫化水素を水の代わりに使って光合成するユニークな細菌が、わずかに光の届く4mから6mの深さに分布しているのである。そして水温はその直上の3mでなんと40℃近い値を示した。真夏の鹿児島といえども今日の最高気温は33℃ほどであり、池の表層の水温は31℃。そしてユニークな光合成細菌が優占する5mでは何と一気に23℃迄水温はジェットコースターさながらに下降している。  この魅力にあふれた貝池では、松山さんの先駆的な光合成細菌の研究の後、東京都立大学の大学院生であった中川さんが福井学さんの指導で微生物を解析し、海洋科学技術研究機構の大河内さんのグループの中島さんたちが特徴的な光合成をになう微生物の色素についての生化学的な研究をしている。さて、これから研究者たちは、ここでどんな面白い自然の仕組みを発見してくれるだろうか。

     

    [2012/10/31]

    「ヨーロッパへ来てアジアを考える」2012.10.30

    10月30日朝7時.まだパリの空は明けきらない。長時間の飛行のあとの時差の中で空港に降り立って、まずはホテルに無事につけばそれでよし。今まで幸いなことにタクシーでのトラブルは経験したことがな いし、屋根にTaxiと書かれているので心配は無用と思っても、いくらかの不安を感じながらハイウエイからの景色を眺めるのが常である。ただし今回のパリ シャルルドゴールからのタクシーはいつもよりずっと気持ちよく乗ることができた。タクシーの車内にはラジオから静かにクラッシックが流れ、同年輩のアジア 系のドライバーでは落ち着いて、そしてなかなかのスピードでパリへ向かってくれた。車がパリの街中に入っていよいよホテルが近づいてきた頃に中国系フラン ス人ですか?と訪ねると聞きとりやすい英語でかえってきた答えは、「カンボジアからです」。30年あまり前に内戦で荒れる故国を後に、パリに出稼ぎにきた のだという。「どちらからですか」との問いに、「日本です」と答えると、国では日本には随分お世話になりました。荒れた国土の復興に際して、橋や道路は随 分日本に作ってもらいました、という、そういえばそうであるが、ヨーロッパでこのようなことを聞くとは思ってもみなかった。

    そのあとふと、8月に訪れたハノイの女性博物館でみたビデオを思い出した。デザイナーとして頭角を現したベトナム女性が、かつての侵 略国の首都パリで認められて世界に飛躍した話であった。ベトナムの町の日常にとけ込んだパンのある風景や、この話のように文化に関わるところで、フランス は実にしっかりとかつしたたかに世界の真ん中で役割を担いきっている、と感じることが最近多い。翻っていつまでも隣国から前の戦争時のことが政争の具に持 ち出される我が国のあり方に心が曇る。欧米の文化や科学技術を実に丁寧に<翻訳して>アジアに根付かせたこの数十年の日本の活動のアジアの中での意味は、 経済の名の下どうやら吹き飛んでしまったようだ。<意識改革>というものの必要性と、そのことの持つ意味の大きさを感じるばかり。

    違うパリをみてみたいと思い、今回はカルチェラタンやモンパルナスではなく、バスティーユにパリの宿を取った。遅い夜明けの後の朝食 をとって、ホテル近くの、パリでも最も庶民的と言われ、歴史もあるマルシェへ散歩に。骨董のたぐいはがらくた品といえるほどのものだし、野菜や肉も、それ を売る人の素朴さとも重なって気取ったところのない庶民の市場である.そして、それこそが金がそれほどなくても、生活することの程よい楽しさを教えてくれ ているように思える。フランス語が醸し出す心地よい響きと、彼らのお話好きが時間の緩やかな流れを作っている(同じ話好きでもドイツとはやはり違うなあ、 と思う)。パリで感じる心地良さのもう一つに、黒人たちがロンドンとは違った形で社会のメンバーであるようなところも、あらためて大きな要素だと思う。

    11時間半の羽田からロンドンへの飛行の後半でみた北極圏の氷の上の満月は、それにしても見事であった。

    [2012/8/10]

    教授ブログ 第3弾 from Prof. Kato…

    「ベトナムから 2」

    2012年8月9日 ハイフォンからハノイへ4日目、見事に晴れた。昨日は雨の中を中国との国境に向けて北へ走りだして、世界遺産に登録されているハロン湾で観測を行った。ゴミの散らかる船着き場から木造の観光船をチャーターして離岸。

    湾内に停泊する大型船の間を行き来する木造船を眺めていると、ボートピープルの事を思い出す。子供たちが小さい頃、私たち家族は松本に 住んでいたが、長女の通うカトリック系の幼稚園にボートに乗って南ベトナムから逃れてきた家族のお子さんがいた。グエンさんと言ったと思う。どうしている かな、ふと思い出した。

    日本は大阪までがアジア

    韓国がアジアのちょっと先を走る兄貴分ではないか?日本ではなく。

    なぜ街中にゴミが多いかーモスクワの街と幾分重なるイメージがあるのは思い過ごしか?

    [2012/8/9]

    教授ブログ 第2弾 from Prof. Kato…

    「ベトナムから 1」 

    2012年8月7日 ハイフォン昨晩10時にハノイ入り。税関での搬送荷物(実験機材)の受け取りと海洋研究所のある港町ハイフォンに移動して一日が終わりそう。時差2時間。 Haiphong、我々ベトナム世代には、もっとも激しく爆撃を受けた地名の一つとして記憶に残っている名前で、漢字では海防と書きます。ちなみにハノイ Hanoiは漢字では河内。数年前に台北の空港でこの文字をみつけたときは思わずにんまり。この6年間で3度目の北ベトバムは激しい雨で出迎えてくれた。 熱帯地方の雨と言えば、スコールをイメージするだけだったので、台風の影響に(そう、台風発生地帯に近いのです)よる雨は予想外。おかげで一昨日までは 38度だったというハノイも夜のとばりもおりて30度を下回っていた。
    ハノイとハイフォンの間は100kmと少しですが、何しろ道路はバイクの洪水。反対車線にクラクションを鳴らしながら平気で入っては先行車を抜いていく ような、日本ではお目にかかれそうもない運転で飛ばしても洪水の中を進むのには時間がかかる。ベトナム戦争が終わり(アメリカ合衆国に勝利した唯一の国と して…)南北ベトナムが統一されたのはちょうど沖縄が日本に返還された頃。40年近い歳月が流れようとしている。今も共産党一党支配が続く中、経済開放 (刷新)政策(ドイモイ)で世界の仲間入りしてきたベトナムは、この6年の間にもあたかも韓国をめざしているかのような上昇気流の中にあるが、私は発展の 方向にベトナムらしさがないように感じ始めている。」

    [2012/8/2]

    教授ブログ 第1弾 from Prof. Kato…

    「北島は伝説を作った。第一レーンを泳ぐ若い立石にオリンピックという最高の舞台で後進に華をもたせた。最後のワンストローク腕を緩めた。日本の水泳界のために、自身の栄光のために。私は中継を見てそう思った。皆さんは? 」