【準備中】鈴木翁紀德碑(静岡県下田市柿崎25-122 柿崎三島神社)

【概要】(再調査を予定しています。文字などは「仮」の表記です)
下田の教育に功績があった鈴木仙蔵を顕彰した碑文である。

鈴木翁紀德碑(静岡県下田市柿崎25-122 柿崎三島神社)
篆額名:鈴木翁紀德碑
篆額揮毫名:無鬼門清水徳三郎
撰者:無鬼門清水徳三郎
揮毫者:無鬼門清水徳三郎
刻者:不明
所在:静岡県下田市柿崎25-122 柿崎三島神社(伊豆急下田駅出口から徒歩約30分。135号線を東へ進み、柿崎の交差点から南東へ200m)
建立時期:大正10年(1921)

翁通稱仙藏南豆柿崎人考諱庄兵衛母稻葉氏翁以安政元季三月五日生九歲喪怙養於叔父鈴木萬藏為人敦厚謙抑頗有名望明治三十四年十月始為柿崎區會議員来就公職前後數十回今現兼濱崎村會議員同學務委員柿崎區長同區會議員及同實業補習學校商議員郷邑大小之事無一不與焉而尤注意於教育矣嘗謂凡欲期郷黨之發達即不若立樹人之計乃明治三十七年六月推為柿崎區長也先興夜學校越明年㪅設置私立柿崎農業補習學校以便於青年子女教養爾来至大正八年十月陞此黌為濱崎村立柿崎實業補習學校其間十有五年困苦經營孜孜努力之發展投私財實数圓以至觀此黌之有今日矣嗚呼如翁則先郷黨之憂而憂者可謂知其所務昨大正九季六月為賀郡教育會所表彰豈為不宜乎頃者邑之青年輩景慕翁德将欲鏤之貞珉以傳於不朽介人徵文予乃題曰紀德之碑而系之詞曰

郷邑開設  献身従功  補設庠校  資于啓蒙 子女随資 才器畜中
質實勤倹 醇厚成風 郷人敬昵 如我家翁 恵澤普閭 令名無窮

大正十季十月三十日  無鬼門清水徳三郎撰文篆額並書

1.書き下し文(訓読文)

翁(おきな)、通称は仙蔵、南豆(なんず)柿崎の人なり。考の諱(いみな)は庄兵衛、母は稲葉氏。翁、安政元季三月五日を以て生まる。九歳にして怙(2)(こ)を喪い、叔父鈴木万蔵に養わる。人となり敦厚謙抑にして、頗る名望あり。明治三十四年十月、始め柿崎区会議員と為りて来(こ)のかた公職に就くこと前後数十回なり。今現は浜崎村会議員、同学務委員、柿崎区長、同区会議員、及び同実業補習学校商議員を兼ぬ。郷邑大小の事、一として与(あずか)らざるは無しく、尤も意を教育に注げり。嘗て謂(おも)えらく、「凡(すべ)て郷党の発達を期せんと欲すれば、即ち人を樹(う)うるの計を立つるに若(し)かず」と。乃ち明治三十七年六月、推されて柿崎区長となるや、先ず夜学校を興こし、越えて明年㪅(3)(さら)に私立柿崎農業補習学校を設置し、以て青年子女の教養に便あらしむ。爾来(じらい)大正八年十月に至り、此の黌(こう)を陞(のぼ)せて浜崎村立柿崎実業補習学校と為す。其の間十有五年、困苦経営し、孜孜(しし)として努めて之に力めて発展せしめ、私財を投ずること実に数円、以て此の黌の今日有るを観るに至れり。嗚呼(ああ)、翁の如きは則ち郷党の憂いに先んじて憂うる者にして、其の務むる所を知ると謂うべし。昨、大正九季六月、賀茂郡教育会の表彰する所と為る、豈に宜(よろ)しからずと為さんや。頃者(このごろ)、邑(むら)の青年の輩、翁の徳を景慕し、将(まさ)にこれを貞珉に鏤みて、以て不朽に伝えんと欲す。人を介して文を徴(もと)む。予、乃ち題して「紀徳の碑」と曰い、之に詞を系ぎて曰わく、

郷邑に開設し 身を献じて功に従う
庠校を補設し 啓蒙に資あり
子女は資に随い 才器を中に畜う
質実にして勤倹 醇厚風を成す
郷人敬昵すること 我が家の翁の如し
恵沢閭に普(あまね)く 令名窮まること無し

大正十季十月三十日  無鬼門清水徳三郎文を撰し、額に篆し、並びに書す

2.現代日本語訳

翁は、通称を仙蔵といい、伊豆国南部(現在の静岡県下田市柿崎)の出身である。父は庄兵衛、母は稲葉氏である。安政元年(1854年)3月5日に生まれた。9歳で父を亡くし、叔父の鈴木万蔵に養育された。成長してからは、人柄が温厚で誠実、謙虚で慎み深く、地域の人々から厚い信望を集めた。明治34年(1901年)10月に初めて柿崎区会議員となって以来、公職に就くことは前後あわせて数十回にも及んだ。現在は、浜崎村会議員、学務委員、柿崎区長、柿崎区会議員、さらに柿崎実業補習学校の商議員を兼任している。村や地域の大小さまざまな事柄で、その人が関わらなかったものはほとんどなく、とりわけ教育に力を注いだ。かつて彼は、「郷里の発展を願うのであれば、何よりもまず人材を育てることが最も大切である」と語っていた。そこで、明治37年(1904年)6月に推されて柿崎区長となると、まず夜学校を開設した。そして翌年には、さらに私立柿崎農業補習学校を設立し、青年男女が学問や教養を身につけられるようにした。その後、大正8年(1919年)10月には、この学校を発展させて浜崎村立柿崎実業補習学校とした。その間15年にわたり、さまざまな苦労を重ねながら学校経営に尽力し、一心に努力を続けて学校を発展させた。また、自らも私財を数円を投じ、その結果、今日の学校の姿を見ることができるようになった。ああ、この翁のような人物こそ、郷里を誰よりも愛し、その将来を案じ、地域のために何をなすべきかをよく理解していた人と言える。昨年(大正9年〈1920年〉)6月には賀茂郡教育会から表彰されたが、それはまことに当然のことであろう。近ごろ、村の青年たちはその徳を深く敬い慕い、その功績を石碑に刻んで永久に伝えようと考え、人を介して私に碑文の執筆を依頼してきた。そこで私はこの碑を「紀徳碑(徳を記す碑)」と名づけ、次のような銘文を添えた。

銘に言う、

郷里に学校を開き、身をささげてその事業に尽くした。
学校を設立・充実させ、人々を教育し啓発する基礎を築いた。
子どもたちはその教育を受け、それぞれ才能を伸ばしていった。
地域には質実剛健で勤勉・倹約、誠実な気風が育まれた。
郷里の人々が親しみ敬うこと、まるで一家の長老を慕うようであった。
その恩恵は村中に広く及び、その名声はいつまでも尽きることがない。

大正十季十月三十日  無鬼門清水徳三郎が文章を撰し、篆額を書き、並びに本文を書く

(1)碑陽は多数の地衣類が覆っており、文字を読み取ることは困難である。文字の確認には桜井祥行『伊豆碑文集(口伊豆・南豆編)』(2025年、私家版)に負うところが多かった。
(2)「怙」は父親の意。
(3)「㪅」は「更」の本字(尾崎雄二郎『角川大字源』(KADOKAAWA、1992、p.838))。

今村公勒功碑(静岡県下田市武ガ浜6-47)

【概要】
江戸時代の初期(1645)、下田の町は大波の被害を直接受け、町民は度々危険に脅かされていた。第二代下田奉行今村伝四郎正長はこの危険から町民を守るため私財を投じて波除けの建設を行った。波除けは2年ほどで正保2年(1645)に完成した。この勒功碑は武ガ浜波除けの来歴と建設した第二代下田奉行今村公の功績をたたえ、名主三名が同年に建立した顕彰碑である(1)。江戸時代の初期に作られた石碑は数少ない。もとは寝姿山にあったものが現在地に移されたらしい。

今村公勒功碑(静岡県下田市武ガ浜6-47)
篆額名:なし(上部に「妙」一字が刻されているが、篆額ではない)
篆額揮毫者:なし
撰者:下田津熊野別當滿藏院
揮毫者:不明
刻者:不明
所在:静岡県下田市武ガ浜6-47(伊豆急下田駅出口から徒歩約10分)
建立時期:正保2年(1645)
備考:市指定文化財になっている

竊以豆州賀茂郡川津庄下田津者東西海舶之所泊也本朝以坊津華旭塔津洞津為三津今視下田津之勝景豈翅三津而已哉登其古城即設四方觀遊之苑以熙々在杖履之下望東南則滄海浩乎天與海接旅舶大小之風帆漁翁來去之夜篝隠顕于松竹烟雲之際古人所謂呉楚東南坼乾坤日夜浮即言此乎西顧則腴田旁環坡水常足以數千頃碧瑠璃田者耶且人家鱗差于北南鶴立翬飛以翼々然矣吁誠豆州之一都會而有揚一益二之亞稱也北嚮則有崇山峻嶺茂林脩竹映帯左右攀以躋焉俯以臨焉四面斗絶而直下千丈也何人息斯遊斯則一日早午晩之異一年春夏秋之變千態万状拍掌可翫者天之所與而所以人力之不及也曾聞東奥之松嶌南紀之弱浦藝陽之嚴嶌丹陰之成相挙世皆稱佳境然足未到徒遐想而已今此古城幽邃僻遠而不繁花可以俯仰可以宴楽瀛海万里之船蓬嶋五色之雲亦是几桉之物而無價之風景也何別尋佳境乎然頃年大風浪打砕西涯之岸䂬洪潮流来涵下田之民家故往返旅舡不能泊于下田津積歳漁民枕藉以患焉於是縣司令村傳四郎藤原正長聞漁民之憂患令家臣薦田景次大田正次築石壁于西涯南二町程之海上其高二丈其長六町半力士星馳揚石巧匠露列運斤時諸民子来曰築石壁者非正長公之資用為漁民與客舩也棄家産以可経営焉正長謂庶民曰頃者諸州飢饉汝等棄耘耕築石壁必可謂不幸之石壁然則敢不可借漁民力諸民即諾各退去以勤農業遂正長令臣築石壁始于寛永癸未至正保乙酉秋八月其功大成矣於是漁民攸無風波之憂往来之旅舶如織而欸乃之聲無断也故下田之諸民各相議曰今有正長公之仁心其徳被処民且波深不驚沙鷗翔集錦鱗游泳岸芷汀蘭亦郁々青々鳴呼公意所以専利庶民而不為身謀也故書公名於版以唱之耶只其恐久而字畫漫滅不如刻著于石以耀妙徳於後世垂無窮繇是欲令予書其記予不敢肯邑民請之不已遂不能固辞漫書其庶民之所以言以為記亦賦唐律二章述其景象之曼乙云爾
有徳清名吾郡公 常将官暇慕仁風
時人豈識古城楽 農父譲田遊花中

吟哦乗興登城樓 蒼海接天舶亦幽
日落西山窮眼界 沙鴎飛盡思悠々

下田津熊野別當滿藏院謹書
正保二祀龍集乙酉穐八月吉旦
下田名主
枩本八兵衞尉頼元
服部九郎兵衞尉行房
櫻田與三右衞門信之

 

2. 訓読文(読み下し文)

竊(ひそ)かに以(おも)んみるに、豆州賀茂郡川津庄(2)下田津なる者は、東西海舶の泊する所なり。本朝、坊津・華旭塔津・洞津を以て三津と為す(3)。今、下田津の勝景を視るに、豈(あ)に翅(た)だ三津のみならんや。其の古城に登れば、即ち四方観遊の苑(4)を設け、以て熙熙(きき)として杖履の下に在り。東南を望めば、則ち滄海浩乎として天、海と接し、旅舶大小の風帆、漁翁來去の夜篝、松竹烟雲の際に隱顯す。古人の所謂「呉楚東南に坼(さ)け、乾坤日夜浮かぶ」(5)とは、即ち此を言うか。西のかた顧みれば、則ち腴田旁(あまね)く環り、坡水常に以て数千頃の碧瑠璃田に足る者か。且つ人家、北南に鱗次し、鶴立翬飛し、翼翼然たり。吁(ああ)、誠に豆州の一都會にして、揚一益二の亞稱有るなり。北のかた嚮(むか)えば、則ち崇山峻嶺、茂林脩竹、左右に映帶す。攀じて以て焉に躋(のぼ)り、俯して以て焉に臨めば、四面斗絶して直ちに下ること千丈なり。何人か斯に息(いこ)い、斯に遊べば、則ち一日に早・午・晩の異、一年に春・夏・秋の變あて、千態萬狀、掌を拍して翫(がん)すべき者は、天の與うる所にして、人力の及ばざる所以なり。曾て聞く、東奥の松島、南紀の弱浦、藝陽の嚴島、丹陰の成相は、世を擧げて皆佳境と稱す。然れども足未だ到らず、徒らに遐想するのみ。今この古城は、幽邃僻遠にして繁花ならず。以て俯仰すべく、以て宴樂すべく、瀛海萬里の船、蓬島五色の雲も、亦た是れ几案の物にして、無價の風景なり。何ぞ別に佳境を尋ねんや。然るに頃年、大風浪、西涯の岸䂬を打ち砕き、洪潮流來たりて下田の民家を涵せり。故に往返の旅船、下田津に泊すること能わず。積歳、漁民枕藉して以て焉を患えり。是に於いて縣司今村傳四郎藤原正長、漁民の憂患を聞き、家臣薦田景次・大田正次をして、石壁を西涯の南二町程の海上に築かしむ。其の高きこと二丈、其の長きこと六町半。力士は星馳して石を揚げ、巧匠は露列して斤を運ぶ。時に諸民子來りて曰く、「石壁を築く者は、正長公の資用に非ず。漁民と客船の為めなり。家産を棄て以て焉を經營すべし」と。正長、庶民に謂いて曰く、「頃者、諸州飢饉あり。汝等耘耕を棄てて石壁を築けば、必ず不幸の石壁と謂うべし。然らば敢(かなら)ず(6)漁民の力を借るべからず」と。諸民即ち諾して、各ゝ退去し、以て農業に勤む。遂に正長、臣をして石壁を築かしむ。寛永癸未に始め、正保乙酉秋八月に至り、其の功大いに成れり。是に於いて漁民攸(よ)りて風波の憂い無く、往來の旅舶織るが如くして、欸乃の声斷ゆること無きなり。故に下田の諸民相議して曰く、「今、正長公の仁心有り、その徳、民に被り、且つ波深けれども驚かず、沙鷗翔集し、錦鱗游泳し、岸芷汀蘭も亦た郁郁青青たり。嗚呼、公の意は專ら庶民を利し、身の為に謀らざる所以なり。故に公の名を版に書して之を唱えんか」と。只だ其れ久しくして字畫漫滅するを恐れ、刻して石に著し妙德を後世に耀かし、無窮に垂るに如かず。是に繇(よ)りて予に其の記を書かしめんと欲す。予敢えて肯んぜず。邑民之を請うこと已まず。遂に固辭すること能わず。漫(みだ)りに庶民の言う所以を書し、以て記と為し、亦た唐律二章を賦し、其の景象の曼乙(7)を述ぶと爾(しか)云う。

有德清名 吾郡の公
常に官暇を將(も)ってし 仁風を慕う
時人豈に古城の樂しきを識らんや
農父田を讓りて(8)花中に遊ぶ

吟哦し興に乘じて 城樓に登れば
蒼海天に接して 舶も亦た幽なり
日は西山に落ちて 眼界を窮(きわ)め
沙鷗(9)飛び盡くして 思い悠悠

下田津熊野別當滿藏院 謹みて書す
正保二祀龍集乙酉穐八月吉旦

下田名主
松本八兵衞尉賴元
服部九郎兵衞尉行房
櫻田與三右衞門信之

3. 現代日本語訳

私が思うところでは、伊豆国賀茂郡河津庄の下田港は、東西を往来する船が寄港する港である。わが国では、坊津(鹿児島の坊津)・花旭塔津(福岡の博多津)・洞津(三重の安濃津)を「日本三津」と称してきた。しかし今、この下田港の景色を見ると、どうしてその三つの港に劣るだろうか。古城に登れば、そこに四方を見渡す遊覧の園が設置され、すべての絶景が足元に広がっている。東南を望めば、大海原は果てしなく青々と広がり、海と空が一つにつながっている。旅船の大小の風を受ける帆、漁師の夜に焚くかがり火は、松や竹に立ちこめる霞や雲の間に現れては隠れる。かつて中国唐の詩人杜甫 が「呉と楚の地が東南に分かれ、太陽と月が昼と夜とに水上に浮かぶ」と雄大に詠んだのは、まさにこのような景色を言ったのであろう。西を眺めれば、肥沃な田畑が一面に広がり、斜面を流れる水は数千町歩にも及ぶ青い瑠璃のように美しい水田に満たされている。さらに人家は南北に整然と建ち並び、鶴が立ち、鳥が翼を広げるように、美しく整っている。ああ、まことにここは伊豆第一の都会であり、「揚州が第一で益州(四川)がそれに次ぐ」という都市の美しさを競うことばを思わせるほどの名勝である。北を望めば、高い山々が連なり、深い森とすらりとした竹林が左右に広がる。山に登って下を見下ろせば、四方は切り立った断崖となり、千丈もの深さへと落ち込んでいる。もし誰かがここに憩い、ここを遊覧するならば、一日のうちでも朝・昼・夕で景色は変わり、一年のうちでも春・夏・秋で姿を変える。その千変万化する美しさは、手を打って感嘆しながら眺めるほかない。これは天が与えたものであり、人の力では到底作り出せない景観である。私はこれまで、陸奥の松島、紀伊の和歌浦、安芸の厳島、丹後の成相寺が天下の名勝であると聞いてきた。しかし実際に訪れたことはなく、ただ遠く思いを巡らせるばかりである。それに対して、この古城は奥深く静かな土地にあり、俗世の喧騒とは無縁である。ここでは景色を眺めることも、宴を開くこともできる。大海原を行く万里の船も、蓬莱山にたなびく五色の雲も、まるで机の上に置かれた物を見るように眼前に収まり、その風景には値段など付けようがない。どうして他に名勝を探し求める必要があろうか。
ところが近年、大風と高波が西側の海岸を打ち付け、高潮が押し寄せて下田の町を浸水させた。そのため往来する船は下田港に停泊できなくなり、長年にわたって漁民は船中で雑魚寝するありさまでこのことを深く憂えていた。そこで下田奉行の今村伝四郎藤原正長は、漁民の苦しみを耳にし、家臣の薦田景次・大田正次に命じて、西岸から約二町沖の海上に石の防波堤を築かせた。高さは約二丈、長さは六町半にも及んだ。力自慢たちは競うように石を運び、優れた職人たちは整然と並んで槌やのみを振るった。そのとき、多くの住民が進み出て言った。「この防波堤は正長公個人の費用で作るものではありません。漁民や旅の船のためです。私たちは自分の財産を惜しまず、この工事に力を尽くしましょう。」しかし正長は人々に言った。「近年は諸国が飢饉に苦しんでいる。もしお前たちが農作業をやめて防波堤工事に従事すれば、この防波堤は人々を不幸にした石壁と言われてしまう。だから決して漁民の労力を借りてはならない。」住民たちはすぐにその言葉に従い、それぞれ家へ帰って農業に励んだ。こうして正長は家臣たちだけに工事を進めさせた。工事は寛永癸未の年(寛永20年(1643))に始まり、正保乙酉(正保2年(1645))八月、ついに大事業は完成した。
これによって漁民は風波を恐れることなくなり、港には行き交う船が織物の糸のように絶えず集まり、舟歌の声も途切れることがなくなった。そこで下田の人々は相談して言った。
「正長公には深い仁愛の心がある。その徳は民に広く及んでいる。今では波が高くても人々は恐れることがなくなり、かもめは群れ飛び 、魚は自由に泳ぎ、岸辺の草花も青々と茂っている。ああ、公の心はひたすら民を利益することにあり、自分自身の利益を求めるものではない。だからその名を板木に書いて出版し人々に伝えよう。」しかし木の板では、長い年月のうちに文字が消えてしまう。それならば石に刻み石碑を作り、その立派な徳を後世まで永く伝える方がよい。そこで私に、この記念碑の文章を書いてほしいと頼んだ。私は最初、固く辞退した。しかし町の人々が何度も願うので、とうとう断りきれなくなった。そこで、ここに人々の語ったことを書き記して碑文とし、あわせて漢詩二首を作り、この景色のほかでは見ることのできない美しさを詠んだのである。

徳高く名も清らかな わが郡の長官は
公務の暇に防波堤建設に携わり 仁ある態度を持っておられる。
当時の人は この古城の街なかの楽しさなどを知るはずもない。
なぜなら農夫は田を譲り合い 花咲く景色の中に遊ぶのだから。

詩を口ずさみ興に乗って 城楼に登れば、
青い海は空と続き 船影もまた幽玄である。
日は西山に沈み 視界の果てまで見渡せば、
かもめは飛びまわり 思いだけが果てしなく広がる。

下田港熊野別当満蔵院 謹んで記す。
正保二年(1645)乙酉八月吉日
下田名主
松本八兵衛尉頼元
服部九郎兵衛尉行房
桜田与三右衛門信之

(1)この石碑は風化・損傷が甚だしく、石に刻された文字が判然としない。文字を書き移す際には、石碑自体だけでなく諸資料を参観した。本稿の記載は下記の資料に依るが、とりわけ、『下田年中行事』に依拠した部分が大きい。江戸後期に書かれた『下田年中行事』は筆者が調査した2025年の180年ほど前に調査して文字を記録している。今日よりもはるかに保存状態がよかった時期の記録であり、正確であると考えた。
・平井平次郎(天保十四年(1843年))『下田年中行事』(1974年、森義男編、長倉書店)
・東海地方地震津波史料(I・下巻)―静岡県・山梨県・長野県南部編―(科学技術庁国立防災科学技術センター、昭和54年3月)
https://dil-opac.bosai.go.jp/publication/nied_tech_note/pdf/KJ-01_036.pdf(2026年7月6日閲覧)
・『下田市史』(資料編2 近世)(2002年、下田市史編纂委員会、凸版印刷)
・桜井祥行『伊豆碑文集(口伊豆・南豆編)』(2025年、私家版)
なお、原文は正字と略字などが混在するが、訓読文は可能な限り正字に、現代日本語文は当用漢字に統一した。
碑陰に、大正三年に埋没していた碑を掘り起こして再建したことが記される。
(2)この「川津」は「河津」をいう。
(3) 中国明代の天啓元年(1621年)に茅元儀が編纂・刊行した兵法書『武備志』巻231「占度載 度四二 四夷九 日本考二」津要に「国有三津、皆商舶所聚、通海之江也。西海道有坊津[薩摩州所屬]花旭塔津[筑前州所屬]洞津[伊勢州所屬]。三津惟坊津為総路、客船往返必由、花旭塔津為中津、地方広闊、人煙湊集、中国海商無不聚此。(中略)洞津為末津、地方又遠、與山城相近、貨物或備或缺、惟中津無不有」とある。
(4)諸資料は「四方觀遊之苑」の「苑」を「美」に作るが文意が通りにくい。「臺(台)」かとも考えたが、『下田年中行事』(p.600)には「苑」字に近似した文字に作る。今、「苑」に従う。
(5)盛唐の詩人杜甫の「岳陽樓に登る」詩にある。全文は以下の通り。「昔聞く 洞庭の水、今上る 岳陽楼。呉楚 東南に坼(さ)け、乾坤(けんこん) 日夜浮かぶ。親朋(しんぽう) 一字無く、老病 孤舟(こしゅう)有り。戎馬(じゅうば) 関山の北、軒(けん)に憑(よ)りて涕泗(ていし)流る」。
(6)この「敢」は反語の用法で解釈すると意味が通らない。ここでは『詩詞曲語辞辞典』(中華書局、2014年)に従い「必ず、きっと」の意味で解釈し、訓読文での誤読の可能性を考え、「敢(かなら)ず」と読んだ。
(7)「曼乙」は未詳。「曼」に「無」の意味があり、また「乙」に「二」の意味があることから、「曼乙」は「無二」の意味とみなし、「このうえない美しさ」とひとまず解釈した。後考に期したい。
(8)「讓田」は田畑の境界をめぐって責め合う意、もう一つは、田畑の境界を譲り合う意である。本詩では後者の意味として解釈した。
(9)『列子』黄帝篇にある典故で、澄んだ心を持った人には鴎は近づくが、邪心を持った人からは遠ざかるとされる。中国古典文学の中では、「沙鴎」はその人物が清らかで邪念がないことを象徴することばとして使われる。