【概要】
日本を代表する温泉地熱海の功績者茂木惣兵衛を顕彰する漢文碑である。温暖であり、東京からも遠くないので、多くの湯治客が熱海を訪れた。この梅園を作り、湯治客が散策しやすくしたのが茂木惣兵衛である。この梅園はのち、熱海市に譲渡され、観光客の遊覧に供している。この石碑は、篆額者の伊藤博文、撰文者の長與専齋、揮毫者の市河三兼、石工の宮亀年のすべてが第一人者であり、日本の漢文碑でも特に注目すべきものである。

茂木梅園碑(静岡県熱海市梅園町1169-1 )
篆額名:茂木氏梅園記
篆額者:内閣総理大臣兼宮内大臣従二位勲一等伯爵 伊藤博文
撰者:内務省衛生局長兼元老院議官従四位勲三等 長與専齋
揮毫者:市河三兼
刻者:宮亀年
所在:静岡県熱海市梅園町9-15(来宮(きのみや)駅下車徒歩)
建立時期:明治20年(1887)

【碑陽】
内閣総理大臣兼宮内大臣従二位勲一等伯爵伊藤博文篆額
温泉之所以能去疾病者非獨其鹽氣鐵精是頼大在兼得徜徉遊行之適矣若夫日夕坐臥於一堂之中唯澡浴之取則形體倦而心神疲安在其為養生哉熱海之地以温泉著峻山重合東南呑海居人高下鏟巉而家焉而以距東亰不遠且氣候温暖冬春之交都人士來浴者相踵余初遊此地徜徉循山而西坡陁逶邐前敞後隆有水清冽貫崖來齧亂石鳴如風雨忽分忽合沈沈穿茅竹而遠去水西有邸松檜蔚茂上而庥焉四顧而樂之心洽然而舒不能輒去也明治十八年四月奉命落噏氣館告衆曰此地温泉之効已多今斯館之成恰養痾之法備矣而獨欠徜徉遊行怡和心神之處焉可憾耳因語前所見諭以修拓之事神奈川縣縣會議員中山安次郎進賛之謀諸橫濱人茂木総兵衛総兵衛欣然嘉之使中山氏及里人日吉小松露木諸氏商量之伐芥疏汙随地之宜植梅三千株松檜楓柳錯之於是水之清者益潨石之奇者益露山水華木四時臨覧之美備焉亭於隆橋於汙坐臥行止嬉娯宴遊之具周焉燕舒往來觴詠相忘融然心和泰然神怡温泉養生之効始完矣以其植梅最多稱曰茂木氏梅園茂木氏富人爾耳目之欲宜莫不極難得之求宜莫不致反以為薄能捐勤倹之餘以成斯擧不以私其家以與衆公其人不大偉乎且其華木泉石之勝不獨適韻人騒客之諷詠大足以慰廊廟之士夙夜之勞以壮其志氣新其思慮則其徳所及可謂遠且大矣記以諗來遊者
明治廿年四月 内務省衛生局長兼元老院議官従四位勲三等長與専齋撰
市河三兼書
宮亀年刻

【碑陰】
茂木氏之為此園也橫濱平沼専藏朝田又七各出金圓助之與善之事固可以傳東京小川九兵衛董正工事經營一因天趣園成而瞻矚愈佳其勞亦不可没此誌一言於碑陰以傳其姓名云
専齋又識
【訓読】
【碑陽】
内閣総理大臣兼宮内大臣従二位勲一等伯爵伊藤博文篆額
温泉の能く疾病を去る所以は獨り其の鹽氣鐵精のみに是れ頼(よ)るに非ず、大いに兼ねて徜徉遊行の適を得るに在り。若し夫れ日夕一堂の中に坐臥し、唯だ澡浴を之れ取るのみなれば、則ち形體倦みて心神疲れ、安にか其れ養生を為すに在らんや。熱海の地は温泉を以て著れ、峻山重合し、東南は海を呑む。居人高下、巉を鏟りて焉に家す。而して東亰を距つること遠からず、且つ、氣候温暖なるを以て、冬春の交、都人士來たりて浴せんとする者、相踵ぐ。余初め此の地に遊びしとき徜徉して山を循りて西す。坡陁逶邐として前敞くして後隆し、水の清冽なる有り、崖を貫きて來り、亂石を齧りて鳴ること風雨の如く、忽ち分かれ忽ち合し沈沈として茅竹を穿ちて遠く去る。水西に邸有り、松檜蔚茂して上りて焉に庥す。四顧して之を樂しみ、心洽然として舒び、輒ち去る能わざるなり。
明治十八年四月命を奉じて噏氣館を落す。衆に告げて曰く、此の地、温泉の効、已に多し。今、斯の館の成るや、恰かも養痾の法備れり。而して獨り徜徉遊行、怡和心神の處欠くは憾む可きのみ。因りて前に見し所を語り、諭すに修拓の事を以てす。神奈川縣縣會議員中山安次郎進みて之に賛し、諸を橫濱人茂木総兵衛に謀るに、総兵衛欣然として之を嘉し、中山氏及び里人の日吉・小松・露木の諸氏をして之を商量し、芥を伐り汙を疏し、地の宜きに随いて梅三千株を植えしめ、松檜楓柳は之に錯う。是に於いて水の清き者は益す潨り、石の奇なる者は益す露れ、山水華木、四時臨覧の美備り、隆きに亭し汙に橋し、坐臥行止に恰し、嬉娯宴遊の具周れり。燕舒ろに往來し觴詠相い忘れ、融然として心和し、泰然として神怡し、温泉養生の効始めて完し。
其の梅を植うること最も多きを以て、稱して茂木氏梅園と曰う。茂木氏は富人なり。耳目の欲は宜しく極めざる莫かるべくし、得難きの求は宜しく致さざる莫かるべくし、反て以て薄しと為す。能く捐して勤めて倹するの餘、以て斯の擧を成し、以て其の家に私せずして以て衆公に與う、其の人大偉ならざるや。且つ其の華木泉石の勝、獨り韻人騒客の諷詠に適うのみならず、大いに以て廊廟の士の夙夜の勞を慰め、以て其の志氣を壮にし、其の思慮を新たにするに足れば、則ち其の徳の及ぶ所、遠く且つ大なりと謂う可し。記して以て來遊する者に諗ぐ。
明治廿年四月 内務省衛生局長兼元老院議官従四位勲三等長與専齋撰
市河三兼書
宮亀年刻

【碑陰】
茂木氏の此の園を為るや、橫濱平沼専藏朝田又七、各の金圓を出だして之を助く。善に與るの事固より以て傳う可し。東京小川九兵衛、工事經營を董正するは、一に天趣園成りて瞻矚愈佳なるに因る。其の勞も亦た没す可からず。此こに一言を碑陰に誌し、以て其の姓名を傳うとしか云う。
専齋又識す
【碑陽の現代日本語訳】
温泉が病気を治す理由は、ただその塩分や鉄分などの成分だけに頼るものではありません。広くゆったりと歩き回り、遊び楽しむ心の安らぎを得ることにこそ大きな理由があります。もし、朝から晩まで一つの建物の中に閉じこもってただ湯に浸かるだけならば、体は倦み、精神は疲れ果ててしまいます。それでは、どうして健康増進ができましょうか。
熱海の地は温泉で知られ、険しい山々が重なり合い、東南には海が広がっています。住人は高低差のある険しい斜面を切り拓いて家を建てています。東京から遠くない上に気候も温暖であるため、冬から春にかけて、都の人がやってきて入浴しようとする姿が絶えません。
私が初めてこの地を訪れた際、のんびりと山を巡って西へ向かいました。そこは坂道がうねうねと続き、前方は開け、後方は高くなっていました。清らかな水の流れがあり、崖を貫いて流れ込み、岩を噛んで鳴る音は嵐のよう。かと思えば忽ち分かれ、忽ち合わさり、深い静寂の中で竹藪を抜けて遠くへ去っていきます。その水の西側に邸宅があり、松や檜がうっそうと茂り、登ればその木陰で休むことができます。四方を見渡してこれを楽しみ、心はゆったりと伸びやかになり、すぐには立ち去ることができないほどでした。
明治十八年四月、命を受けて「噏気館(きゅうきかん)」の落成式に臨みました。私は人々にこう告げました。
「この地は温泉の効能はすでに十分である。今、この館が完成したことで療養の仕組みは整った。しかし、ただ一つ、歩き回って遊び、心を和ませる場所が欠けているのは心残りである」と。
そこで以前に見たあの場所のことを語り、整備することを勧めました。神奈川県会議員の中山安次郎氏が進み出てこれに賛同し、横浜の商人・茂木総兵衛氏に相談したところ、総兵衛氏は喜んでこれを嘉し、中山氏や地元の有力者たちと相談して、ゴミを取り除き、泥をさらい、土地の条件に合わせて梅三千株を植え、松や檜、楓、柳をそこに混ぜて植えさせました。
これによって、水の清らかな流れはいっそう際立ち、奇岩はよりその姿を現し、山水や草木の四季折々の美しさが備わりました。高い場所には東屋を建て、低い場所には橋を架け、座るにも歩くにも心地よく、遊び楽しむための道具もすべて整いました。人々はゆったりと行き来して酒を酌み交わし詩を詠み、我を忘れるほど。心は和らぎ、精神は悦び、ここで初めて「温泉による養生」の効果が完全なものとなったのです。
梅を最も多く植えたことから、ここを「茂木氏梅園」と呼びます。
茂木氏は富豪です。贅沢の限りを尽くそうと思えばできぬことはなく、手に入りにくい宝を求めることも思いのままのはずですが、あえてそれを質素として退けました。私財を投じて勤勉に節約した余暇をもって、この事業を成し遂げたのです。そして、それを自分の家の私物とせず、広く公衆に提供した。その人物の偉大さは言うまでもありません。
しかも、この美しい景色は、ただ風流人たちが詩を詠むのに適しているだけでなく、国政に携わる多忙な人々の日夜の労を慰め、その気力を壮んにし、思考を再生させるのにも十分です。そうであれば、その徳の及ぶところは極めて遠く、大きいと言えるでしょう。
ここに記して、訪れる人々にその由来を知らせるものとします。
【碑の裏面】
茂木氏がこの園を造るにあたっては、横浜の平沼専蔵氏と朝田又七氏が、それぞれ資金を出し合ってこれを助けてくれました。こうした善行に協力した事実は、もとより後世に伝えるべきものです。
また、東京の小川九兵衛氏は、工事の運営を監督してくれました。それは、ひとえに自然の趣を活かした園が完成し、眺めがいっそう素晴らしいものとなることを願ってのことでした。その功労もまた、埋もれさせてはなりません。
ここに、碑の裏面に一言記すことで、そのお名前を後世に伝えたいと思います。
専斎(長与専斎)、再び記す。
【注】
(注1)篆額の伊藤博文は長州藩の下級武士の子で、吉田松陰の私塾である松下村塾に学んだ。のちの初代内閣総理大臣である。
撰文の長與専齋は肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医・長与中庵の子である。大坂で緒方洪庵の適塾に入門し、塾頭となる(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医となった。文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。ヨーロッパに渡り医療制度や医学の実情調査を行い、明治7年(1874年)、文部省医務局長に就任し、のち、東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務した。
揮毫者の市河三兼は幕末・明治の書家。市河米庵の長子。幕府に仕え、江川太郎左衛門、高島秋帆に洋式砲術を学び、鉄砲方となった。父の業を承け、篆書や隷書に長じた。
石工の宮亀年は 江戸時代末期から大正時代にかけて活躍した石工の名前で、「みや・きねん」と読まれる。管見の範囲では、靜岡県にはほかに、牧之原市の相良油田開発に携わった「村松吉平碑」や袋井市久能の可睡齋の本殿前にある「可睡齋秋葉總本殿之碑」などがある。
(注2)冒頭の「温泉之所以能去疾病者非獨其鹽氣鐵精是頼大在兼得徜徉遊行之適矣」は、「温泉の湯治の効能は湯に含まれる成分のおかげであることもさることながら、より大きな点は、湯治の合間に散策するにふさわしい環境がここにあることである」という意味である。「非獨其鹽氣鐵精是頼」は難解だが、否定の倒置強調で「非獨其[名詞]是[動詞]」の構文と判断した。
(注3)坡陁逶邐として前敞くして後隆し:山勢はうねりながら広がり。
(注4)噏氣館:通常は「噏滊館」と表記される。もと宮内庁の温泉療養施設であった。上宿町の大湯間欠泉の傍らにあったが昭和九年(1934)に消失した。
(注5)養痾:治療。
(注6)隆きに亭し汙に橋し:高いところに建物を作り、小川が流れるところには橋をかけて。
(注7)『伊豆碑文集 東海岸編』(桜井 祥行編、2008年、非売品、pp.20-21 )に本碑の紹介あり。