【準備中】三餘土屋先生之碑(静岡県賀茂郡松崎町松崎町那賀302 西法寺)

【概要】
「三餘土屋先生之碑」は土屋三余(1815年(文化12年) – 1866年(慶応2年))を顕彰した漢文碑である。土屋三余は松崎町のWebサイトに詳しい。以下のように言う。

松崎が生んだ幕末の漢学者、偉大な教育家。文化12年(1815年)伊豆国那賀郡中村、現在の松崎町那賀の土屋家に生まれた。三余荘ユースホステルがその生家。土屋家は「那賀の大家」と称された名門で、父は伊兵衛安信、母は冬子。三余の本名は行道、のちに述作と改め、通称宗三郎。竹裡閑人、三余の号がある。……
伊豆各地はもとより、全国津々浦々からこの三余塾の門をたたきに訪れる若者が相次ぎ、門下生700人余を数えた。ここから育った逸材もまた多く、特に明治以降、伊豆の先駆者といわれる人々の大半が、三余塾出身である点は特筆に値しよう。

伊豆松崎の教育面で顕著な貢献をした。そのため、この石碑に関与した人物、勝海舟、岡千仞、日下部鳴鶴、井亀泉は各分野の第一人者であり、この漢文碑がいかに重要なものであるかがわかる。古い石碑でありながら苔も少なく、石碑として適したものが使われている。井亀泉の刻字技術もすばらしい。

三餘土屋先生之碑(静岡県賀茂郡松崎町松崎町那賀302 西法寺)
篆額名:三餘土屋先生之碑
篆額者:勝安芳(勝海舟)
撰者:岡千仞
揮毫者:日下部鳴鶴
刻者:井亀泉
所在:静岡県賀茂郡松崎町松崎町那賀302 西法寺(東海バス那賀バス停から歩く)
建立時期:明治31年(1898)

【碑陽】

三餘土屋先生墓銘             従二位勲一等  伯爵  勝安芳題額
余少時遊伊豆聞中邨有土屋先生設黌舎育徒弟為篤行君子心欽之壬申辰冬遊中邨先生逝已三十年与及門諸子談先生遺徳僉曰子雖不及先生欽先生之為篤行君子敢請銘其墓余辞之不得乃取状叙之曰先生諱行後改述作字子明稱宗三郎姓土屋氏那賀郡中邨人其先属甲州武田氏父諱伊兵衛母斎藤氏先生幼孤為舅家所養従僧正隆丘鳳受経書好学強記十五歳遊学江戸不遂志而還十七再遊入東條逸堂門専講古学傍受講韻学於大澤赤城廿五歳帰郷悦熊堂山山海之勝築廬移居地乏飲水遂復旧宅園植紫竹翛然自適号竹裡閒人購求廿一史専講史学遠近争来受業咿唔之声日夕不絶先生本不欲為人師至此曰育英才三楽之一余不敢不勉乃大興黌舎三面環溝注清流灌田圃植桑樹課僮婢農桑曰農家子弟不可以読書之故忽耕鋤乃取董遇言曰三餘塾遂自号三餘駿甲人聞風笈来学先生設科極厳塾分四室命以孔門四科家役僮奴而窮親爨炊之労鶏鳴起掃講席課瞥経史毎夜二鼓延見諸生而後就寝飲食臥起常与諸生偕之束脩以外謝絶贈遺痛戒懶惰作歌奨励使之諷誦自警花晨月夕会諸生飲酒賦詩情意懇到無少長忻然悅服屢遊江与安井塩谷芳野三氏相得尤重勤王大義松本奎堂小倉鯤堂遊伊豆皆主先生旁渉雑芸如算数柔術墨竹音曲皆無不善平生倹素衣必綿布履必草履而至購書待客不少吝惜以故家産中落配依田氏代幹家事約衣食制出入不数年豊倍前時先生設黌舎育徒弟専力文事者内助之力居多也慶應二年七月廿四日病歿寿五十有二無子請妻族準治配姻女以嗣先生絶志仕進従事於育英而其開黌舎僅八年四方来学其澤未洽然此間山海僻陬陋俗一変人篤礼譲明治維新其登為郡長邑吏校官者皆受先生之教者其澤郷人如斯不可不銘銘曰
君子道二  曰出与處  處裨風化  出益霖雨
翁不敢出  横経講古  設科待徒  逍遥芸圃
俗敦礼譲  人誦聖語  翁於風化  豈謂少補

明治卅一年七月              旧仙台藩儒員  岡 千仞 譔
正五位 日下部東作書                   井 亀泉 鐫

【訓読】
余少き時伊豆に遊び、中邨に土屋先生有り、黌舎を設け徒弟を育て篤行の君子為るを聞く。心に之を欽ぶ。壬辰の冬、中邨に遊ぶに先生逝きて已に三十年、及門の諸子と先生の遺徳を談ずるに、僉な曰く、子先生に及ばずと雖も、先生の篤行君子為るを欽べば、敢て請う、其の墓に銘せよ、と。余之を辞するも得ず、乃ち状を取りて之を叙して曰く、
先生諱は行、後、述作と改む。字は子明、宗三郎と稱す。姓は土屋氏、那賀郡中邨の人なり。其の先は甲州武田氏に属す。父、諱は伊兵衛、母は斎藤氏なり。先生、幼くして孤、舅家の養う所と為る。僧正隆丘鳳に従い、経書を受く。学を好みて強記、十五歳にして江戸に遊学するも志を遂げずして還る。十七にしてび再び遊びて東條逸堂の門に入る。専ら古学を講じ、傍ら韻学を大澤赤城に受く。廿五歳にして郷に帰り、熊堂山の山海の勝を悦び、廬をき築て居を移すも、地、飲水に乏しければ遂に旧宅に復し、園に紫竹を植えて翛然として自適し、竹裡閒人と号す。廿一史を購求し、専ら史学を講ず。遠近より争い来たりて業を受け、咿唔の声、日夕絶えず。先生本と人の師と為るを欲せず。此に至り、英才を育つるは三楽の一余なり、敢て勉めずんばあらずと曰い、乃ち大いに黌舎を興すに三面溝を環らし、清流を注ぎ、田圃に灌し、桑樹を植え、僮婢に農桑を課して曰く、農家の子弟、書を読むの故を以て耕鋤を忽がせにす可からず、と。乃ち董遇の言を取りて三餘塾と曰い、遂に自ら三餘と号す。駿甲の人、風に聞きて笈を負いて来たり学ぶ。先生科を設くること極めて厳にして、塾は四室に分かち、命ずるに孔門の四科を以てす。家は僮奴を役して躬ら爨炊の労に親しみ、鶏鳴けば起きて講席を掃く。課として経史を瞥すること毎夜二鼓、諸生を延見して而る後に就寝す。飲食臥起は常に諸生と之を偕にす。束脩以外、贈遺を謝絶す。痛く懶惰を戒め、歌を作りて奨励し、之をして諷誦して自ら警めしむ。花晨月夕に諸生を会して酒を飲み詩を賦し、情意懇到す。少長無く忻然として悅服す。屢ば江戸に遊び、安井・塩谷・芳野の三氏と相い得て、尤も勤王の大義を重んず。松本奎堂・小倉鯤堂伊豆に遊び、皆な先生を主とす。旁ら雑芸の算数・柔術・墨竹・音曲の如きに渉り皆な善からざるなし。平生儉素にして衣は必ず綿布、履は必ず草履にして書を購じ客を待するに至りては少しも吝惜せず、以て故に家産中落す。配の依田氏代りて家事を幹し、衣食を約し、出入を制するに、数年ならずして豊なること前時に倍す。先生、黌舎を設け徒弟を育て力を文事に専らする者は、内助の力居ること多きなり。慶應二年七月廿四日病歿す。寿五十有二、子無く妻族の準治に請いて女を配姻して以て先生の絶志を嗣ぎ、仕進して育英に従事せしむ。其の黌舎を開くこと僅かに八年にして四方より来たりて学び其の澤未だ洽然たらざるに、此の間、山海僻陬の陋俗一変し、人礼譲に篤し。明治維新より其の登りて郡長・邑吏・校官と為る者、皆先生の教えを受くる者なり。其の郷人を澤すること斯の如く、銘せざる可からず。銘に曰く
君子道二あり  曰く出ずると處ると  處れば風化を裨け  出ずれば霖雨を益す
翁敢えて出でず  経を横にして古を講じ  科を設けて徒を待し  芸圃を逍遥す
俗は礼譲に敦く  人は聖語を誦す  翁風化に於いて  豈に少補と謂わん

【現代日本語訳】

私が若いころ伊豆を訪れたとき、中村に土屋先生という人がいて、学校を設けて弟子を育て、徳の厚い立派な人物であると聞いた。私は心の中でその人を敬い慕っていた。

壬辰の年の冬に再び中村を訪れると、先生が亡くなってすでに三十年が経っていた。門人たちと先生の遺徳について語り合うと、皆がこう言った。
「あなたは先生とは直接の面識はないが、先生が徳の高い立派な人物であったことを敬っております。どうかその墓に銘文を書いてください」と。

私は辞退することができず、そこで資料を集めて次のように記した。

先生の名は行、のちに述作と改めた。字(あざな)は子明、宗三郎とも称した。姓は土屋氏で、那賀郡中村の人である。祖先は甲斐国の武田氏に仕えていた。父は伊兵衛、母は斎藤氏である。

先生は幼くして父を失い、母方の家に育てられた。僧の隆丘鳳について経書を学び、学問を好み記憶力に優れていた。十五歳で江戸に遊学したが志を果たせず帰郷した。十七歳で再び江戸に出て、東条逸堂の門に入った。主に古学を学び、また音韻学を大沢赤城に学んだ。

二十五歳で郷里に帰り、熊堂山の山水の美しさを愛して庵を建てて移り住んだが、水に乏しかったため、結局もとの家に戻った。庭に紫竹を植え、静かに悠々と暮らし、「竹裡閑人」と号した。

二十一史を買い集め、もっぱら歴史学を講じた。遠近から競って人々が集まり学び、読書の声が朝夕絶えることはなかった。

先生はもともと人の師となることを望んでいなかったが、このころ「優れた人材を育てることは人生の三つの楽しみの一つであり、努めないわけにはいかない」と言い、大いに学校を興した。校舎の周囲に三方から溝を巡らし、清水を引き入れて田畑に灌漑し、桑を植え、使用人に農業と養蚕をさせてこう言った。
「農家の子弟は、勉学のために農作業をおろそかにしてはならない」と。

そこで董遇の言葉を取って塾を「三餘塾」と名付け、自らも「三餘」と号した。駿河や甲斐の人々がその評判を聞いて、書物を背負って学びに来た。

教育は非常に厳格で、塾を四つの部屋に分け、孔子門下の四科になぞらえて指導した。家では使用人に任せきりにせず、自ら炊事にも携わった。鶏が鳴くと起きて講義の場を掃除し、毎夜二更まで経書や史書を読み、弟子たちと面会してから寝た。飲食や起居も常に弟子たちと共にした。

授業料以外の贈り物は一切受け取らなかった。怠けることを強く戒め、歌を作って弟子に覚えさせ、自らを戒めさせた。春や月夜には弟子を集めて酒を飲み詩を作り、情愛に満ちていたので、年長者も若者も皆喜んで従った。

しばしば江戸に出て、安井・塩谷・芳野の三人と親しく交わり、とりわけ勤王の大義を重んじた。松本奎堂や小倉鯤堂が伊豆に来た際には、いずれも先生を頼りにした。

また、算数・柔術・墨竹(墨絵)・音楽など多方面にも通じ、どれも優れていた。日常生活は質素で、衣服は木綿、履物は草履であったが、書物を買うことや客をもてなすことには少しも惜しまなかった。そのため家産は一時衰えた。

妻の依田氏が家事を取り仕切り、生活を切り詰めて出入りを管理した結果、数年で家は以前の倍ほどに豊かになった。先生が教育に専念できたのは、内助の力が大きかったのである。

慶応二年七月二十四日、病没した。享年五十二。子がなかったため、妻の一族の準治に頼んで娘を嫁がせ、家を継がせて教育事業を続けさせた。

先生が学校を開いてからわずか八年で、四方から人々が学びに来た。教えはまだ十分に行き渡ったとはいえないが、その間に山や海に囲まれた辺鄙な土地の風俗は一変し、人々は礼儀と譲り合いを重んじるようになった。明治維新後に郡長・村役人・学校の役人となった者は、皆先生の教えを受けた者たちである。

このように郷里に与えた恩恵は大きく、銘を刻まないわけにはいかない。

銘にいう。

立派な人の道には二つある。
世に出て働くことと、世を避けて留まることである。
留まれば教化によって人々を導き、
世に出れば恵みの雨のように人々を潤す。

先生はあえて世に出ず、
経書を広く講じ、古を説き、
学科を設けて弟子を育て、
学問の園を悠々と歩いた。

その結果、世の人々は礼節を重んじ、
人々は聖人の言葉を口にするようになった。
先生の教化は、どうしてわずかな助けにすぎないと言えようか。

【井亀泉の刻字】

【注】

 

(X)篆額者の勝安芳は勝海舟。
碑文を作成した者は岡千仞。幕末から明治を代表する漢学者である。
揮毫者は日下部鳴鶴。著名な書家。「日本近代書道の父」と評される。
刻者は井亀泉(せい・きせん)。江戸時代から明治期に活躍した著名な石工で、廣群鶴(こうぐんかく)・窪世祥(くぼせいしょう)とともに、江戸三大石匠と評される。
(X)『伊豆碑文集成 西海岸編』(壬生芳樹編、1982年、非売品、pp.15-17)、『伊豆碑文集(西海岸編)』(桜井祥行編、2017年、非売品、pp.14-16)、松崎町のwebサイトに本碑の紹介あり。