【準備中】稻葉半七碑(静岡県賀茂郡松崎町江奈弁天島)

【概要】
漁民稻葉半七(1823-1903)の生涯を記した漢文碑である。1823年は外国船の出没が頻繁になり、また、江戸時代の町人文化が成熟し、明治維新に向けて新たな機運が広がっていく頃であった。
市井の人々を記す漢文碑は数多いが、漁民を顕彰した漢文碑は希少である。卓越した腕を持った漁民稻葉半七は周囲の人に慕われ、また地域の漁業を豊かにした。その事情が漢文で明確に描かれている。
なお、文字に白い塗料を塗り込む漢文碑もめずらしい。
松崎町に漢文碑は複数あるが、この「稻葉半七碑」は町の中心部から歩いていける。

稻葉半七碑(静岡県賀茂郡松崎町江奈弁天島)
篆額名:稻葉半七碑
篆額者:牧朴眞
撰者:依田百川
揮毫者:神山義容
刻者:齊藤逸雲
所在:静岡県賀茂郡松崎町江奈弁天島(東海バス松崎営業所から徒歩)
建立時期:明治39年(1906)

【碑陽】
老漁稻葉半七碑
水産局長 正四位勲二等 牧朴眞篆額

靜岡縣賀茂郡江奈濱有一老漁軀幹雄壯眼光烱然仰察雲物俯觀潮流能卜天候之陰晴識漁獲之多寡百不失一其人為誰稻葉半七是也叟本姓石川出嗣稻葉氏家世業漁叟為人任俠好義善遇衆漁威愛兼至為其所推重叟善御舟出没洪濤巨浪間舟殆覆操縱自在神色不變嘗探得錢洲嶼於伊豆神津嶋西南八里識鰹魚群集示衆捕獲遂為漁塲又視力極健隔數里見魚跳波間麾衆赴之乃有所獲其機敏如此以文政六年三月生明治卅六年八月歿享年八十有一江奈濱漁業組合賞其功勞賻以若干金本縣有志諸士欲聚資建碑以記其事来求余文乃銘曰
吾邦環海 漁業最利 叟乎老錬 烱眼健臂 率先起衆 厥勞維最

明治卅九年二月

東京 依田百川 撰
伊豆 神山義容 書
齊藤逸雲 鐫

【碑陽の訓読】
靜岡縣賀茂郡江奈濱に一老漁有り。軀幹雄壯にして眼光烱然たり、仰ぎて雲物を察し、俯して潮流を觀、能く天候の陰晴を卜し、漁獲の多寡を識るは、百に一も失わず。其の人誰と為す。稻葉半七是なり。叟本と姓は石川、出でて稻葉氏を嗣ぐ。家世よ漁を業とす。叟人と為り任俠にして義を好む。善く衆漁を遇すること、威愛兼ねて至り、其の推重する所と為る。叟善く舟を御し、洪濤巨浪の間に出没し、舟殆ど覆らんとするも操縱自在にして神色不變なり。嘗て錢洲嶼を伊豆神津嶋西南八里に探し得たり。鰹魚の群集せるを識り、衆に示して捕獲せしめ、遂に漁塲と為る。又た視力極めて健にして數里を隔つるも魚の波間に跳ぬるを見る。衆を麾いて之に赴くに、乃ち獲る所有り。其の機敏此の如し。文政六年三月を以て生まれ、明治卅六年八月歿す。享年八十有一。江奈濱漁業組合其の功勞を賞し、賻るに若干金以てす。本縣有志の諸士資を聚めて碑を建てんと欲し、以て其の事を記し、来りて余に文を求む。乃ち銘に曰く、
吾が邦海に環せられ 漁業最も利あり 叟や老錬 烱眼にして健臂 率先して衆を起て 厥の勞維れ最たり

【現代日本語訳】

静岡県賀茂郡江奈浜に、一人の老漁師がいた。
体つきはたくましく、目の光は鋭い。上を見ては雲や気象の様子を察し、下を見ては潮の流れを観察し、天気の晴れ曇りを予測し、漁獲の多少を見抜くことにおいて、百回に一度も誤ることがなかった。

その人物は誰か。稲葉半七、まさにその人である。
もともとの姓は石川であったが、のちに稲葉家を継いだ。家は代々漁業を営んでいた。

人柄は義侠心に富み、義を重んじた。多くの漁師たちに対してもよく配慮し、威厳と慈愛を兼ね備えていたため、人々から厚く信頼されていた。

彼は船の操縦に長けており、大波や荒波の中を自在に行き来し、船が今にも転覆しそうなときでも、巧みに操って少しも動揺する様子を見せなかった。

かつて、伊豆の神津島の南西およそ八里の海上で銭洲という島を発見した。そこにカツオの群れが集まっていることを見抜き、人々に示して漁を行わせ、ついにはそこが漁場となった。

また視力も非常に優れており、数里も離れた場所から魚が波間に跳ねるのを見分けることができた。人々を指揮してそこへ向かうと、必ず漁獲があった。その機敏さはこのようであった。

文政六年三月に生まれ、明治三十六年八月に亡くなった。享年八十一。江奈浜の漁業組合はその功績をたたえ、弔慰金を贈った。

さらに、この県の有志たちが資金を出し合って碑を建て、その事績を記録しようとし、私に文章を依頼してきた。そこで銘文として次のように述べる。

我が国は海に囲まれており、漁業は最も重要な利益をもたらす。
この老漁師は経験に富み、鋭い眼と強い腕を持ち、
自ら先頭に立って人々を導き、
その労苦はまことに抜きんでていた。

【注】
(1)陰刻の文字に白い塗料をつけている。篆額は上部に刻されているが塗料がなく、見にくい。碑陽第一行の「老漁稻葉半七碑」と異なる。
(2)篆額者の牧朴眞(まき・なおまさ)は1854年(嘉永7年)生まれで 1934年(昭和9年)に没した政治家。肥前国南高来郡島原村新建(現在の長崎県島原市新建)において、島原藩士・牧真成の長男として生まれた。本碑との関わりは不明だが、1898年11月、農商務省水産局長に就任し、水産業の振興に尽力したための依頼か。
撰者の依田百川は依田 学海(よだ・がっかい)のことで、1834年(天保4年)に生まれ、 1909年(明治42年)に没した漢学者、劇作家である。本碑の撰文を依田に依頼した理由は不明。
揮毫者の神山義容は、後述松崎町webサイトによれば「書は禅海寺神山義容」とある。刻者の齊藤逸雲は『伊豆碑文集成 西海岸編』(壬生芳樹編、1982年、非売品、p.9)に「西伊豆町浜の石工、本名万太郎、大正九年没」とある。

 

(X)碑陰、左右の碑側に刻字はない。
(X)『伊豆碑文集成 西海岸編』(壬生芳樹編、1982年、非売品、pp.9-10)、『伊豆碑文集(西海岸編)』(桜井祥行編、2017年、非売品、pp.17-18)、松崎町のwebサイトに本碑の紹介あり。