稻葉翁碑(静岡県賀茂郡西伊豆町仁科、沢田交差点)

【概要】西伊豆の漁業振興に功績のあった稲葉武助氏を顕彰した石碑である。

稻葉翁碑(静岡県賀茂郡西伊豆町仁科、沢田交差点)

篆額名:稻葉翁碑
篆額揮毫者:後藤新平
撰者:堤達也
揮毫者:豊洲
刻者:不明
所在:静岡県賀茂郡西伊豆町仁科、沢田交差点北東角に、仁科漁港の方角に向けて設置されている。
建立時期:昭和4年(1929年)1月29日

【碑文】

翁諱武助稻葉氏豆州仁科村人資性剛毅夙注心於水產紹邑先輩鮪延繩業鼻祖藤井新次郎翁遺志改良漁撈法然其始與駿遠豆三州漁民議不相諧折衝論難數諍法庭遂歸勝訴大恢弘斯業明治十九年西豆漁業組合成立尋瀬海聯合漁業組合賀茂郡水產組合刱立竝受選列役員兼議員卅五年漁業法之施行也當選仁科濱漁業組合理事及組長頗有著績矣而至石花菜漁業竭畢生之力銳意率先移殖優種以計藻圃之開拓擴張販路以策價格之騰貴遂能使組合員大得其利權而保障生活卅九年得疾引退然猶致思水產誘掖後進諄々不倦是以靜岡縣水產組合聯合會賀茂郡水產組合相共嘉其功績以表章之翁又在村會議員區長等公職十餘年嗚呼如翁可謂能為鄉黨盡者也大正八年一月廿九日病歿距其生嘉永二年三月享年七十有三男武重承家後移于沼津創逆旅淵龜館慈惠接人業益榮無亦遺德之所被哉頃者仁科濱漁業組合相謀奉祝聖上皇帝即位大典建翁之碑傳不朽以為記念來請文於余余亦少知翁者也故不敢以不文辭銘曰
渺彼蒼海 載釣載撈 孰能敎之 有卓邑豪 疊々藻圃 曳々漁舠 鄉人扑舞 勒仰勳勞
從二位勲一等 伯爵 後藤新平題額 從七位 錦溪堤達也撰
昭和四年一月二十九日 豐洲 書

【訓読文】

翁、諱は武助、稻葉氏。豆州仁科村の人なり。資性剛毅にして、夙に心を水產に注ぐ。邑の先輩、鮪延繩業の鼻祖、藤井新次郎翁の遺志を紹ぎ、漁撈法を改良す。

然れども其の始め、駿・遠・豆三州の漁民と議して相い諧はず、折衝論難して數々法庭に諍う。遂に勝訴に歸し、大いに斯の業を恢弘す。

明治十九年、西豆漁業組合成立し、尋いで瀨海聯合漁業組合・賀茂郡水產組合刱立し、竝びに選ばれて役員に列し、兼ねて議員たり。

卅五年、漁業法の施行するや、仁科濱漁業組合の理事及び組長に當選し、頗る著績有り。

而して石花菜漁業に至りては、生涯の力を竭くし、銳意率先して優種を移殖し、以て藻圃の開拓を計り、販路を擴張して以て價格の騰貴を策す。遂に組合員をして大いに其の利權を得しめ、而して生活を保障す。

卅九年、疾を得て引退す。然れども猶お水產に致思し、後進を誘掖して諄々として倦まず。是を以て靜岡縣水產組合聯合會・賀茂郡水產組合、相共に其の功績を嘉して以て之を表章す。

翁、又た村會議員・區長等の公職に在ること十餘年。嗚呼、翁の如きは、能く鄕黨のために盡くせる者と謂うべきなり。

大正八年一月廿九日、病歿す。其の生を距つること、嘉永二年三月、享年七十有三。男武重、家を承け、後に沼津に移り、逆旅淵龜館を創め、慈惠もて人に接し、業益々榮ゆ。豈に亦た遺德の及ぶ所無からんや。

頃者、仁科濱漁業組合相謀り、聖上皇帝即位大典を奉祝し、翁の碑を建てて不朽に傳え、以て記念と為さんとし、來りて文を余に請う。余も亦た少しく翁を知る者なり。故に敢えて不文を以て辭せず。銘に曰く。

渺たる彼の蒼海、
載ち釣り載ち撈う。
孰か能く之を敎えん。
卓たる邑豪有り。
疊々たる藻圃、
曳々たる漁舠。
鄕人扑舞し、
勒して勳勞を仰がん。

從二位勳一等 伯爵 後藤新平 題額
從七位 錦溪堤達也 撰

昭和四年一月二十九日 豐洲 書

【現代日本語訳】
翁の名は武助、姓は稻葉氏で、伊豆国仁科村の人である。生まれつき意志が強く、若いころから水産業に心を注いだ。

仁科の先輩であり、鮪(まぐろ)の延縄漁業の草分けである藤井新次郎翁の遺志を受け継ぎ、漁法の改良に取り組んだ。

しかし、その事業の始めには、駿河・遠江・伊豆三州の漁民との間で意見が一致せず、交渉や議論を重ね、何度も法廷で争うことになった。そして勝訴し、この漁業を大いに発展させた。

明治19年(1886)、西豆漁業組合が成立した。その後、瀨海聯合漁業組合・賀茂郡水産組合が設立されると、武助は選ばれて役員となり、さらに議員も兼ねた。

明治35年(1902)に漁業法が施行されると、仁科浜漁業組合の理事および組長に選ばれ、数多くの実績をあげた。

さらに石花菜(ところてんの原料となるテングサ)の漁業については、生涯の力を尽くして取り組み、率先して優良な種苗を移植し、海藻を育成する場所の開拓を進めた。また販路を拡張して価格の上昇を図り、そのまま組合員が大きな利益を得られるようにし、その生活を保障した。

明治39年(1906)、病気のため引退した。しかし、その後も水産業のことを深く考え続け、後進の指導・育成に努め、懇切丁寧に教えて飽きることがなかった。

そのため、静岡県水産組合連合会および賀茂郡水産組合は、ともにその功績を高く評価し、その功績を顕彰した。

また武助は、村会議員や区長などの公職にも十年以上にわたって就いた。

ああ、翁のような人物こそ、郷里の人々のために力を尽くした人物というべきであろう。

大正8年(1919)1月29日、病気で亡くなった。生まれたのは嘉永2年(1849)3月で、享年73であった。

息子の武重は家業を受け継ぎ、その後沼津に移って旅館「淵龜館」を創業し、人に慈愛をもって接したので、その事業はいっそう繁栄した。その功績と徳が後世に及ばないことが、どうしてあろうか。

さてこのたび、仁科浜漁業組合の人々が相談し、聖上皇帝の即位大典を祝賀するとともに、武助翁の碑を建ててその名を永遠に伝え、記念としようとした。そして私のところへ来て碑文の文章を依頼した。

私もまた、少なからず翁を知る者である。そこで、文章が拙いことを理由に辞退することなく、この碑文を記すことにした。

銘にいう。

広々として果てしない、あの青い海。
そこで釣り、また網を操る。
誰がこれを教え導くことができようか。
ここに卓越した郷土の豪傑がいる。
幾重にも広がる海藻の養殖場、
行き交う漁船。
郷里の人々は喜び、舞い、
その功績を石に刻んで、勲功を仰ぎたたえよう。

(1)「鮪延繩業」は「マグロはえ縄業」のこと。
(2)「鼻祖」は創始者。
(3)「藤井新次郎」は江戸時代、伊豆那賀郡出身の漁業家。はえ縄の漁具を考案し、のち、マグロ業に転用され、伊豆の漁獲高向上に貢献した。慶応2年(1866)8月9日死去
(4)「恢弘」は広げること。
(5)「石花菜」はところてんや寒天の原料となる紅藻類の海藻「テングサ(天草)」の漢字表記。
(6)「諄々」は懇切丁寧であること。
(7)「逆旅」は旅館。「淵龜館」は未詳。検索する限り、沼津には見当たらない。
(8)「扑舞」の「扑」は手を叩く意か。
(9)壬生芳樹『伊豆碑文集成 西海岸編』(1982年、非売品、pp.35-36)、桜井祥行『伊豆碑文集(西伊豆編)』(2025年、私家版、pp.52-53)に記載がある。
(10)碑陰に創立当時の役員と石碑建造時の役員の名が刻まれる。

役車紀念之碑(静岡県賀茂郡西伊豆町一色堀坂付近)

【概要】棧車を導入し物資の運搬に貢献した山本鶴衛氏、山本安太(安太郎)氏を顕彰した碑。この両氏の詳細は今後の調査に待つ。

役車紀念之碑(静岡県賀茂郡西伊豆町一色堀坂付近)
篆額名:役車紀念之碑
篆額揮毫者:不明
撰者:桜井祥行『伊豆碑文集(口伊豆・南豆編)』(2025年、私家版、p.56)は「一色区長 堤定吉」とする。
揮毫者:不明
刻者:不明
所在:静岡県賀茂郡西伊豆町一色堀坂付近の熊野神社を100mほど北に行ったところにある。コンクリート擁壁のそばに置かれている。
建立時期:明治35年(1902)

【碑文】
夫粤設棧車行之此地也其為發軔在山本両氏鶴衛與安太從是十年前殊来車夫與棧車於遠江自天城山脚轉輪木材平海口也其一車之力能兼十夫之任也人牛負戴之勞于茲之省矣爾来為之者日増年進殆向一百輌其為用哉薪炭竹木凡可輸者皆以輸之咿咬轢𨏒之声日夜不息夫有俶始者必有継之者則銘曰先人為軌後人斯踐運輸自在便宜不鮮 明治三十五年十一月穀旦刻焉


【書き下し文】

夫(そ)れ粤(ここ)に棧車を設け之を此の地に行うや、其の発軔を為すは山本の両氏、鶴衛と安太とに在り。是れ従り十年前、殊に車夫と棧車とを遠江(とおとうみ)より来(きた)らしめ、天城山脚より木材を海口に転輪するなり。其の一車の力は、能(よ)く十夫の任を兼ぬるなり。人牛負戴の労、茲に于(おい)て之(これ)省(はぶ)かる。
爾来、之(これ)を為(な)す者は、日びに増し年どしに進み、殆んど一百輛に向(なんなん)とす。其の用為(た)るや、薪炭(しんたん)・竹木(ちくぼく)、凡(すべ)て輸(ゆ)す可き者は皆な以て之を輸し、咿咬(いこう)轢𨏒(れきらく)の声、日夜息(や)まず。夫(そ)れ俶始(しゅくし)有る者は必ず之を継ぐ者有り。
則ち銘して曰く、

先人軌を為り 後人斯に践む 運輸自在にして 便宜鮮(すくな)からず

明治三十五年十一月穀旦 焉を刻す

【現代日本語訳】

そもそも、この地に棧車を運行するようになった発端は、山本鶴衛・安太のお二方にある。今から十年前、わざわざ車夫と棧車を遠江(静岡県西部)から呼び寄せ、天城山の麓から港(海口)へと木材を車輪を転がして運搬させたのである。
棧車一台の運搬力は、実に作業員十人分の働きに匹敵するものであった。それまで人や牛が重荷を背負って運んでいた過酷な労苦は、これによって大いに省かれることとなった。
それ以来、この事業に従事する者は日を追うごとに増え、年とともに発展して、今や棧車の数は百台近くに達している。
その用途といえば、薪炭や竹木をはじめ、およそ運搬できるものはすべてこれに載せて運び、キュッキュッと軋む音やガタゴトと響く音は昼夜やむことがない。
そもそも、事業を始めた者がいれば、必ずそれを受け継ぎ発展させる者がいるものである。
そこで、銘にいう。

先人が軌道を築き、後人がその轍を踏み進む。物資の運送は自由自在となり、その便利さたるや測り知れない。

明治三十五年(1902年)十一月吉日、これを刻む。

(1)「棧車」は木や竹で作られた車。
(2)「發軔」は物事の始まり。
(3)「殊」は特別に、わざわざ。
(4)「向」は「なんなんとす」と読み、「……にちかづく」意。
(5)「咿咬・轢𨏒」はいずれも擬音語。荷車からでる音をいう。「咿咬」は本来、若々しい声を指すが、ここでは「キュッキュッ」という音を指すか。
(6)「俶始」は始まり。
(7)「穀旦」は吉日と同義。
(8)壬生芳樹『伊豆碑文集成 西海岸編』(1982年、非売品、p.42)、桜井祥行『伊豆碑文集(西伊豆編)』(2025年、私家版、pp.56-57)に記載がある。なお、後者は「山本安太」を「山本安太郎」を指すとする。
(9)碑陰に多くの人名が書かれている。この調査は今後の課題とする。

川越路開鑿之碑(静岡県賀茂郡西伊豆町一色、第二発電所付近)

【概要】山道を整備して功績があった村長の某(石川武右衛門?)を顕彰した天保二年(1831年)の石碑である。平らな板状の石碑ではなく、江戸時代によく見られる直方体の形状をしている。

川越路開鑿之碑(静岡県賀茂郡西伊豆町一色、第二発電所付近)
篆額名:なし
篆額揮毫者:なし
撰者:文御道人
揮毫者:不明
刻者:阿良里村 藤左ヱ門、四良兵ヱ、徳三良。「阿良里村」は現「安良里」。
所在:静岡県賀茂郡西伊豆町一色の第二発電所付近。静岡県道59号伊東西伊豆線の南側にある。
建立時期:天保二年(1831年)夏六月

【碑文】
南豆河越山険水溢羊腸屈曲行程六里津堠七圮庶民悩往復牛馬苦運送越岩谷里正石氏名武者嘗有刊山治水使車馬易往来之志焉雖然失費若干也於是請救於四方開桟道造津梁不日而土工成業焉郷曲之人比諸神禹之功且石氏千般苦辛百様艱劬乞勒諸石予善其志乃以述其指趣焉銘曰

夾山漏水 諸民所右 石氏之功 勒石示後 石可朽也 功名不朽

天保辛卯夏六月日

文御道人撰

【訓読文】
南豆の河越、山険しく水溢(あふ)れ、羊腸のごとく屈曲して行程六里、津堠(しんこう)七たび圮(こわ)れ、庶民は往復に悩み、牛馬は運送して岩谷を越ゆるに苦しむ。
里正の石氏、名は武なる者、嘗て山を刊(けず)り水を治め、車馬をして往来を易(やす)からしめんとするの志有り。然りと雖も費を失うこと若干なり。
是に於いて救いを四方に請い、桟道(さんどう)を開き津梁を造らんとし、日ならずして、土工、業成る。郷曲の人、諸(これ)を神禹(しんう)の功に比し、且つ石氏の千般の苦辛、百様の艱劬、諸を石に勒(ろく)せんことを乞う。予その志を善しとし、乃ち以て其の指趣を述ぶ。銘に曰く、

夾山の漏水 諸民右(ゆう)する所 石氏の功 石に勒して後(のち)に示す 石は朽つ可きも 功名は朽ちざらん

天保辛卯夏六月日
文御道人撰す

【現代日本語訳】
伊豆の南部の川越の地は、山は険しく水が溢れ、道は羊の腸のように曲がりくねって行程は六里にも及んでいる。渡船場は七たびも崩れ落ち、庶民は行き来に頭を悩ませ、牛馬は物資の運搬して岩谷を越えていくことに苦しんでいた。村の名主である石氏、名は武という人物が、以前から山を切り拓いて水を治め、車馬の往来を容易にしようという大志を抱いていた。しかし、それにはいくばくかの費用がかかる。そこで四方に広く協力を呼びかけ、崖道に桟道を架け、川には橋を架けたところ、幾日も経たないうちに土木工事は見事に完成した。土地の人々は、この偉業を古代中国夏王朝の治水の祖・禹王の功績になぞらえて称えた。また、石氏が味わった千もの苦労と百もの骨折りを思い、この功績を石碑に刻んでほしいと乞い願われた。私もその志に感銘を受け、ここにその趣旨を書き記す次第である。
銘に言う、

山は険しく水は溢れており、人々は遠回りを余儀なくされていた。石氏の立てた大功で安全な往来が可能になったので、これを石に刻み、後の世へと伝え示そうと考える。たとえこの石碑がいつの日か朽ち果てることがあろうとも、その功績と名声は永遠に朽ちることはないであろう。

天保二年(1831年)夏六月吉日
文御道人がこの文を著す

(1)「河越」は他の事例に従って訳文では「川越(かおつ)」とした。
(2)「津堠」は『漢語大詞典』では「渡口上供瞭望用的土堡(渡し口の上に設けられた、見張り用の土造りの堡塁)」とするが、ここでは単に「渡し場」の意味とみなした。
(3)「圮」は破壊されること。
(4)「里正」は、江戸時代の村落における村の行政を担った有力農民・村役人で、村長、庄屋。
(5)「石氏、名は武なる者」は、中国風の名前にして「石氏、名は武なる者」としたと思われる。碑側に発起人として「石川武右衛門」の名があり、この人物は、本石碑の被顕彰者「石氏、名は武なる者」の後継者か。
(6)「津梁」は橋。
(7)「禹」は伝説上の夏代の皇帝で、治水に功績があった。
(8)「艱劬」は艱難辛苦。
(9)「諸民所右」の「右」は難解である。ひとまず、「迂回する」意とした。『詩経』国風 秦風「蒹葭」に、「溯洄從之 道阻且右(溯洄して之に從わんとすれば、道阻にして且つ右す)」(川を遡って行こうとすれば 道は険しくかつ遠くへ迂回する)とある。鄭玄の箋に「右者、言其迂迴也。」とある。撰者は詩経のこの箇所を踏まえたのであろう。
(10)壬生芳樹『伊豆碑文集成 西海岸編』(1982年、非売品、p.43)、桜井祥行『伊豆碑文集(西伊豆編)』(2025年、私家版、p.64)に記載がある。

 

なお、この碑のそばに、険路で命を落とした馬の鎮魂碑がある。昭和七年(1932年)に建造された。

川越路開鑿之碑(静岡県賀茂郡西伊豆町一色、八重名野橋)

【概要】
新道開設を記念した石碑である。

通称「川越路開鑿之碑」(静岡県賀茂郡西伊豆町一色、八重名野橋)
篆額名:無し
篆額揮毫者:不明
撰者:不明
揮毫者:不明
刻者:不明
所在:静岡県賀茂郡西伊豆町一色。諸本には「一色」ではなく「八重名野(やえなの)」と書かれていることがあるが、仁科川北岸が「八重名野」で、南岸が「一色」である。当該石碑は南岸にあるので、「一色」が適切だろう。ただ、この石碑の場所がわかりにくい。八重名野集落(廃村)あたりの「八重名野バス停」付近から県道に沿って東へ登って(仁科川を遡って)100mほど行くと、道路南側の脇にある。落石防止鉄網のなかにあるので、見つけにくい。
建立時期:明治30年10月(1897)

【本文】
鳴險難漸平

【訓読】
嗚(ああ)險難漸(まさ)に平らぐ

【現代日本語訳】
ああ、険路がやっと今つながった

(1)鉄網のなかに置かれている。落石防止の柵の隙間から入って調査することも物理的には可能であったが、安全を期して柵外から記録した。そのため、『伊豆碑文集成 西海岸編』(壬生芳樹編、1982年、非売品、p.44)、桜井祥行『伊豆碑文集(西海岸編)』(2017年、私家版、p.56)の記述に依拠するところがおおかった。
(2)なお、本文の「鳴險難漸平」の「鳴」は「嗚(呼)」の誤りと思われるので、訓読、現代日本語訳では「嗚呼」と解釈した。注(1)所掲『伊豆碑文集成 西海岸編』には、誤記の可能性の指摘がある。想像をたくましくすれば、「嗚呼險難漸平」が喜びとともに地域に広まり、伝写の誤りからこの「鳴險難漸平」となったか。類似のものとして、桜井祥行『伊豆碑文集(西海岸編)』(2017年、私家版、p.63)に掲載する「仁科峠開通記念碑」があり、その碑文は「嗚呼險難漸く開く」となっている。
(3)「險難漸平」の「險難」は、『楚辞』九歌・山鬼に「路險難兮獨後來」(路險難にして獨り後れ來る)を意識するか。「險難漸平」の四字は『易俟』の清・喬萊注に「天地既闢、險難漸平(天地既に闢き、險難漸に平らぐ)」とある。類似の表現としては、元・余闕「登太平寺次韻董憲副」詩に「多難漸平堪對酒、一罇未盡更焚香(多難漸に平らぎ酒に對するに堪え、一罇未だ盡きず 更に香を焚く)」がある。
(4)「漸」は通常「しだいに」と解釈されることが多いが、「正」(今まさに)の意味で解釈した。『詩詞曲語辞匯釈』巻二に「漸、猶正也」という。さらに『詩詞曲語辞匯釈』は李商隠「喜雪」詩の「粉署闈全隔、霜臺路漸賒(粉署 闈(い)全(すべ)て隔たり、霜台 路漸(まさ)に賒(とお)し」を引き、「漸一作正、漸與正義同也。賒有遠義、路漸賒、路正遠也」という。晋・羊祜「讓開府表」に「今天下自服化以來、方漸八年(今、天下、服して化せしより以來、方漸(まさ)に八年なり)」とあり、「漸」が「方」と並んで使われていることが「「漸」に「今まさに、ちょうど」の字義がある」説を支持しよう。『漢語大詞典』はこの晋・羊祜「讓開府表」の用例を語釈「至、到」の用例として引くが、「方漸」二字で「まさに」と読んでかまわないであろう。
(5)当碑の名称「川越路開鑿之碑」は注(1)所掲『伊豆碑文集成 西海岸編』(壬生芳樹編)の記述に従う。一説に、明治中期から後期にかけて、中伊豆(湯ヶ島方面)と東伊豆(冷川・伊東方面)を荷車や馬車が通れるように改修・開削された際、従来の険しい山道に対して「川越(鹿越:読みはいずれも「かおつ」)新道」と名付けられたためらしい(要検討)。

(八重名野集落より上流を見る)

 

(八重名野集落の入口に置かれた地蔵(文政二年(1819)の記述がある))