【概要】高山彦九郎を顕彰した石碑である。高山彦九郎(1747~1793)は、江戸時代中期、上野国出身の尊王思想家。諸国を遊歴して勤王の志士や学者と交流し、天皇を尊び、文官による政治を求めた。しかしその思想は認められず、行き詰まって久留米で自刃した。京都の三条大橋で御所を拝した逸話でも知られ、幕末の尊王攘夷運動にも影響を与えた。
小説に、吉村昭『彦九郎山河』があり、その思想が伺うことができる。なお、この「高山仲繩祠堂記」は渡辺助次郎『新選名家詩文』(巻中、高木和助発兌、1877年)、『評註 和漢合壁文章軌範』(巻2、鳳文館、1884年)、滝川亀太郎『高等漢文標註近古文鈔』(金港堂、1913年)などに著録され、明治期には人口に膾炙していたことがわかる。

高山仲繩祠堂記(福岡県久留米市山川町字茶臼山41)
篆額名:高山仲繩祠堂之記
(「之」がない「高山仲繩祠堂記」は本文一行目の碑文題目による)
篆額揮毫者:從四位 有馬頼咸
撰者:一等修撰正六位 川田剛
揮毫者:權大史從五位 日下部東作
刻者:廣群鶴
所在:福岡県久留米市山川町字茶臼山41。久大線御井駅から徒歩15分。あるいは西鉄バス「旗崎バス停」から徒歩10分。
撰文の時期:明治八年(1875年)九月

(長文なので、内容によって区分して掲載する)
【時代背景と祠堂建立、碑文執筆に至った経緯】
■原文■
高山仲繩祠堂記
一等修撰正六位川田剛撰文
今上登極之元年幕府奉還政權二年王師戡亂于伏水于甲野越奧五年秋列侯納封土乃廢二百六十二藩更置三府七十二縣是冬前岡山藩大隊長水原君久雄為三潴縣參事初下車首訪高山仲繩墓曰國家中興雖由君明臣良諸藩效力抑亦草莽義徒講明名分振起士氣之功居多而仲繩實爲首唱向者官餼其子孫旌表其閭今此藏魄之地而無所表勵崇飾可乎於是君與其僚屬及管内好義者措財鳩工前久留米藩知事有馬侯亦出金若干圓資其費以建祠堂於旗崎介權少史金井君請余文記之
■訓読■
高山仲繩祠堂の記
一等修撰正六位川田剛撰文す
今上登極の元年、幕府政權を奉還す。二年、王師亂を戡(たひら)ぐに伏水に于(お)いてし、甲・野・越・奧に于(お)いてす。五年秋、列侯封土を納(い)れ、乃ち二百六十二藩を廢し、更に三府七十二縣を置く。
是の冬、前岡山藩大隊長水原君久雄、三潴縣參事と爲る。初めて車より下るるとき、首(はじ)め高山仲繩の墓を訪いて曰く、「國家の中興は、君明かに臣良にして、諸藩力を效(いた)すに由ると雖も、抑も亦た草莽の義徒、名分を講明し、士氣を振起するの功多きに居りて、仲繩實に首唱爲り。向者(さき)に官、其の子孫に餼(き)し、其の閭(りょ)を旌表す。今此の藏魂の地にして、表勵崇飾する所無きは可ならんや」と。
是に於て君、其の僚屬及び管内の義を好む者と財を措(お)き工を鳩(あつ)む。前久留米藩知事有馬侯も亦た金若干圓を出だして其の費を資(たす)け、以て祠堂を旗崎に建つ。權少史金井君を介して余に文を請いて之を記せしむ。
■現代日本語訳■
今上陛下(明治天皇)が即位された明治元年(1868年)、幕府は大政を奉還した。明治二年、官軍は伏見・鳥羽、そして甲州、下野、越後、奥州の反乱を平定した。五年秋、(廃藩置県によって)諸侯は領地を返上した。そこで二百六十二藩を廃止し、改めて三府七十二県を置いた。
その冬、前岡山藩大隊長の水原久雄君が三潴県の参事となった。任地に赴任すると、真っ先に高山仲繩(高山彦九郎)の墓を訪れて言った。 「(明治になってから)国家の中興は、天皇が英明であり忠臣が善良で、諸藩が尽力したことによるものであるとはいえ、在野の義士たちが組織や人の立場・秩序を明らかにし、士気を奮い立たせた功績も極めて大きく、高山彦九郎こそが実にその第一である。先ごろ政府は彼の子孫に食禄を与え、その旧里を顕彰した。とはいえ、今、その御魂を留めるこの地において、顕彰し称え飾るものがないままでよいはずはなかろう」と。
そこで水原君は、その同僚たちや県内の義に篤い有志とともに資金を出し合い、職人を集めた。前久留米藩知事の有馬侯(有馬頼咸)もまた若干の金を出してその費用を助け、これらの援助によって旗崎の地に祠堂を建てた。そして権少史の金井君を介して、私に文章を依頼し、これを記録させたのである。
(1)原文では「戡亂于伏水于甲野越奧」とある。「戡亂于A于B」というやや異例の構文となっている。通常であれば、「戡亂于AB」あるいは「戡亂于A與B」とするであろうが、「伏水」と「甲野越奧」を別個のものとして扱いたいという撰文者の心情によってこの表現になったのであろう。ここでは、訓読として「亂を伏水に甲野越奧に戡ぐ」とすることも可能であるが、「于」以下を強調して、ひとまず「亂を戡ぐにAに于いてし、Bに于いてす」と訓読した。
(2)水原久雄はもと岡山藩士。「参事」は県政を担う上級官吏であるが、着任時はまだ県知事がいなかったので実質上最高責任者であった。
(3)「旗崎」は旧御井町内の伝統的な小地域名で、その名称はバス停や施設名などに残る。現在、福岡県久留米市御井旗崎などの地名表記がある。なお、招魂社の所在は福岡県久留米市山川町字茶臼山である。
(4)「權少史金井君」は金井之恭(かない ゆきやす、1833年〜1907年)を指す。幕末の志士で、明治期の官僚・書家である。

【仲繩への評価】
■原文■
夫仲繩曠世偉人而先儒錄其事者前則淇園栗山石梁茶山後則幽谷復堂山陽拙堂有序有傳有祭文碑銘多且備矣顧獨未推究其所以死或目爲病風喪心之所致余竊憾焉蓋仲繩忠義根乎天性而其先又殉節南朝嘗讀太平記大有所感憤
■訓読■
夫れ仲繩は曠世の偉人にして、先儒其の事を錄する者、前には則ち淇園、栗山、石梁、茶山、後には則ち幽谷、復堂、山陽、拙堂、序有り傳有り祭文碑銘有り、多くして且つ備はれり。顧(おも)うに獨り未だ其の死する所以(ゆえん)を推究せず、或は目して風を病み心を喪うの致す所と為す。余竊(ひそ)かに焉を憾(うら)む。蓋し仲繩の忠義は天性に根ざし、其の先は又た節に南朝に殉ず。嘗て太平記を讀みて大に感憤する所有り。
■現代日本語訳■
そもそも仲繩は類いまれな偉人であり、先代の学者でその事績を記録した者は、前には淇園(皆川淇園)、栗山(柴野栗山)、石梁(樺島石梁)、茶山(菅茶山)、後には幽谷(藤田幽谷)、復堂(杉山復堂)、山陽(頼山陽)、拙堂(斎藤拙堂)などがおり、序文、伝記、祭文、碑銘など、その記録は多く出そろっている。しかし顧みるに、彼らはただ仲繩が死を選んだ真の理由を深く推究せず、あるいは中風(狂気)の病によって心を喪失した結果であるとみなしている。私はこれにひそかに遺憾の念を抱いてきた。
思うに、仲繩の忠義は天性に根ざしたものであり、その先祖もまた南朝に殉節している。かつて『太平記』を読んで大いに義憤を感じるところがあった。
(1)皆川淇園(みながわ・きえん、1735–1807)は江戸中期の儒学者。京都の人で名は愿(げん)、字は伯恭、通称は文蔵。漢字の字義と易学を研究した。私塾の弘道館を開き、多くの門人がここで学んだ。漢詩文や書画にも優れた。
(2)柴野栗山(しばの・りつざん、1736–1807)は江戸中期の儒学者。讃岐出身で名は邦彦、字は彦輔。昌平坂学問所の教授となった。古賀精里・尾藤二洲とともに「寛政の三博士」と称され、松平定信による寛政異学の禁を推進した。
(3)樺島 石梁(かばしま・せきりょう、1754–1828)は、江戸時代中期から後期にかけての儒学者。石梁は号で、通称は勇七、諱は公礼、字は世儀。藩校の名善堂での教育に当たるとともに、有馬頼貴・有馬頼徳2代の藩主に仕えて久留米藩の教学に尽力した。
(4)菅茶山(かん・ちゃざん、1748–1827)は江戸後期の儒学者。備後国神辺(現在の広島県福山市)の人。名は晋帥(ときのり)、字は礼卿で通称太仲。漢詩人としても名高く、化政文化期の代表的な詩人として全国に知られた。私塾「黄葉夕陽村舎」を開き、皆が平等に教育を受ける社会を作ろうとした。
(5)藤田幽谷(ふじた・ゆうこく、1774~1826)は、江戸時代後期の水戸藩の儒者で、後期水戸学の基礎を築いた人物である。尊王思想を重視し、『正名論』などを著した。水戸藩の学問振興に尽力した。名は一正、通称は熊之介。門人の藤田東湖、豊田天功、会沢正志斎らは水戸学の尊王攘夷思想を全国に広める活動を行った。
(6)杉山復堂(すぎやま・ふくどう、1801-1845)は江戸時代後期の儒者。水戸藩士で、古賀精里,藤田幽谷にまなぶ。弘道館教授となった。名は忠亮、字は子元。通称は千太郎。
(7)頼山陽(らい・さんよう、1780–1832)は江戸後期の歴史家・儒学者。名は襄。京都で塾を開いて文人と交流し、歴史書『日本外史』を著した。同書は幕末の尊王思想や歴史意識に大きな影響を与えた。
(8)斎藤拙堂(さいとう・せつどう、1797–1865)は江戸後期の儒学者。名は正謙。津藩に仕え、藩校・有造館の督学として教育改革を進めた。洋学などの新知識も重視し、幕末の学問・教育に貢献した。

【江戸中期の時勢と仲繩の行動】
■原文■
當是時光格天皇在位妙齡英發佐以九條中山諸公而幕府則大將軍俊明公寵任田沼意次群小弄柄綱紀大紊仲繩謂此可以復王權矣乃託名文事周游四方觀地形察民情每遇人輒論正閏王覇以陰募同志者既而公薨文恭公繼立黜意次用松平定信衆賢茅茹百弊頓革德川氏之業復興於是仲繩自知其時機未至殺身以滅其跡
■訓読■
是の時に當り、光格天皇位に在り、妙齡英發、佐(たす)くるに九條・中山の諸公を以てす。而して幕府は則ち大將軍俊明公、田沼意次を寵任し、群小柄(へい)を弄し、綱紀大いに紊(みだ)る。仲繩謂えらく「此れ以て王權を復すべし」と。乃ち文事に名を託し、四方に周遊し、地形を觀、民情を察し、人に遇う每に輒ち正閏・王覇を論じ、以て陰(ひそ)かに同志の者を募る。
既にして公薨じ、文恭公繼ぎて立ち、意次を黜(しりぞ)け、松平定信を用う。衆賢茅茹(ぼうじょ)し、百弊頓(とみ)に革(あらた)まり、德川氏の業復た興る。是に於て仲繩自ら其の時機の未だ至らざるを知り、身を殺して以て其の跡を滅す。
■現代日本語訳■
その当時、光格天皇が在位され、若くして英気あふれ、九条家や中山家などの諸公卿がこれを補佐していた。一方で幕府では大将軍俊明公(徳川家治)が田沼意次を重用し、側近の小人たちが権力をほしいままにして綱紀は大いに乱れていた。仲繩は「これこそ王権(朝廷の権力)を復興させる好機である」と考えた。そこで学問を口実に諸国を周遊し、地形を観察し、民情を察し、人に会うたびに皇統の正閏(正統性)や王道・覇道の別を論じ、ひそかに同志を募ったのである。
やがて家治公が亡くなり、文恭公(徳川家斉)が跡を継いで立つと、意次を退けて松平定信を登用した。多くの賢臣たちが連なって登用され、多くの弊害はにわかに改まり、徳川氏の支配は再び勢いを取り戻した。ここにおいて仲繩は、自らの志を遂げる時機がまだ到来していないことを悟り、自ら命を絶つことでその行動の痕跡を消し去ったのである。
(1)「茅茹」は賢人たちが互いに力を合わせること。

【高山彦九郎の歴史的意義】
■原文■
昔者後鳥羽上皇遣善走者押松歷說東國後醍醐帝時藏人頭藤原俊基佯爲修驗者巡察諸州今仲繩之所爲殆有類焉向使其遲疑偸生爲幕吏所逮捕則承久元弘之變可立而待何其見幾之早且明也或議其不受勅而妄動是亦過矣何者事成則功歸朝廷不成亦害止一身又安問乎其受勅與否焉且夫九重深嚴尊卑懸隔而仲繩以東鄙一匹夫納交公卿嘗得竊窺天顏則其奉密旨以募義故亦未可知不然其將死寸裂手記以投水中者何也其東向遙拜帝都者何也其寄語海内豪傑好在者何也
■訓読■
昔者(むかし)後鳥羽上皇、走を善くする者押松(おしまつ)を遣わして東國に歴説せしめ、後醍醐帝の時、藏人頭藤原俊基、佯(いつわ)りて修驗者と爲りて諸州を巡察す。今仲繩の爲す所、殆ど焉に類する有り。向使(もし)其れ遲疑して生を偸み、幕吏の逮捕する所と爲れば、則ち承久・元弘の變、立ちどころにして待つべし。何ぞ其の幾(き)を見るの早くして且つ明らかなるや。
或るひと其の勅を受けずして妄動するを議す、是れも亦た過てり。何となれば、事成れば則ち功朝廷に歸し、成らざるも亦た害は一身に止まる、又た安(いずくん)ぞ其の勅を受くると否とを問わんや。且つ夫れ九重は深嚴にして、尊卑は懸隔す。而るに仲繩、東鄙の一匹夫を以て交りを公卿に納(い)れ、嘗て竊かに天顏を窺うを得たり。則ち其の密旨を奉じて以て義故を募るも、亦た未だ知るべからざるなり。然らずんば、其の將に死せんとして手記を寸裂して以て水中に投ぜしは何ぞや。其の東向して帝都を遙拜せしは何ぞや。其の海内の豪傑に好在なれと寄語するは何ぞや。
■現代日本語訳■
昔、後鳥羽上皇は足の速い押松(おしまつ)を遣わして東国を遊説させ、後醍醐天皇の時代には蔵人頭の藤原俊基が山伏の姿に偽装して諸国を巡察した。今、仲繩が行ったことは、これらとほとんど同じである。もし仲繩がためらって生きながらえ、幕府の役人に捕らえられていたならば、(幕府と朝廷の全面衝突という)承久の乱や元弘の変のような大異変がただちに再発していたであろう。仲繩が兆候を察知することの、なんと早くかつ的確であったことか。
あるいは「朝廷の勅命も受けずに軽挙妄動した」と仲繩を批判する者もいるが、これも誤りである。なぜなら、もし事が成功すればその功績は朝廷に帰し、失敗しても害は仲繩一身にとどまるのだから、どうして勅命を受けていたかどうかなどを問う必要があろうか。その上、宮中は深遠厳格で、身分の上下はかけ離れている。それにもかかわらず、仲繩は東国の田舎の一庶民でありながら公卿たちと親交を結び、かつては秘かに天皇のお顔を拝することさえできたのである。ならば、彼が密旨を受けて義士を募っていた可能性も、否定できないではないか。
もしそうでなければ、彼が死に臨んで手記をひりびりと引き裂いて水中に投げ入れたのはなぜか。東を向いて帝都を遙拝したのはなぜか。天下の豪傑たちに「ご自愛ください」と別れの言葉を遺したのはなぜだろうか。
(1)押松(おしまつ)は『承久記』に登場する使者である。承久3年(1221)の承久の乱に際して、後鳥羽上皇の命令を鎌倉に届けた。承久の乱において朝廷の命令を伝え、鎌倉幕府の動向を京都に報告した実務的な使者であった。
(2)「遲疑」はためらうこと。
(3)「見幾」は世の些細な出来事の中に兆候を見出すこと。『易経』繋辞下伝に「君子は幾を見て作(た)ち、日を終うるを俟(ま)たず」とある。
(4)「好在」は「お元気で」というねぎらいの言葉。唐・杜甫の「蔡希魯都尉の隴右に還るを送り……」詩に「君に因りて消息を問う、好在なりや阮元瑜」とある。

【結びと有馬侯の招魂場】
■原文■
嗚呼仲繩之死上救公卿流竄之禍於當時下啓志士勤王之端於後日其忠不愧藤原公而其智勇果決萬非押松輩之所企及也記不云乎以死勤事則祀之余既韙仲繩之功又喜是舉之合乎禮故據其跡推其心以表章其成仁取義之美如此三潴縣者舊久留米藩而旗崎在縣治東一里先是有馬侯祀仲繩於此又築招魂場以合祀癸丑以降其藩士死王事者三十八人吁此三十八人東西馳驅踏白刃冒銃丸知有國而不知有身亦安知非聞仲繩之風而興起也
明治八年九月 從四位有馬頼咸篆額 權大史從五位日下部東作書 廣群鶴刻字
■訓読■
嗚呼、仲繩の死するは、上は公卿流竄の禍を當時に救い、下は志士勤王の端を後日に啓(ひら)く。其の忠は藤原公に愧(は)じずして、其の智勇果決は萬(た)えて押松の輩の企及する所に非ざるなり。記に云わずや、「死を以て事に勤むれば則ち之を祀る」と。余既に仲繩の功を韙(よし)とし、又た是の舉の禮に合するを喜ぶ。故に其の跡に據り其の心を推し、以て其の仁を成し義を取るの美を表章すること此の如し。
三潴縣は舊(も)と久留米藩にして、旗崎は縣治の東一里に在り。是れより先、有馬侯、仲繩を此に祀り、又た招魂場を築きて以て癸丑以降其の藩士の王事に死する者三十八人を合祀す。吁(ああ)、此の三十八人、東西に馳驅し、白刃を踏み、銃丸を冒し、國有るを知りて身有るを知らず。亦た安(いづくん)ぞ仲繩の風を聞きて興起せるに非ざるを知らんや。
明治八年九月 從四位有馬頼咸篆額 權大史從五位日下部東作書 廣群鶴刻字
■現代日本語訳■
ああ、仲繩の死は、上は当時の公卿たちが流罪となる災禍を防ぎ、下は後日の志士たちによる勤王の端緒を開いたのである。その忠義は藤原俊基公に恥じず、その智勇と果決さは到底、押松たちの及ぶところではない。『礼記』にも「死をもって職務に尽くした者はこれを祀る」と言うではないか。私は仲繩の功績を正当なものと認め、また今回の祠堂建立の挙が礼に適っていることを喜ぶ。ゆえにその事跡に基づき、その心を推し量って、彼が仁を成し義を取った美徳をこのように顕彰するのである。
三潴県はもとの久留米藩の領地であり、旗崎は県庁所在地の東一里の所にある。これより先に、有馬侯は仲繩をこの地に祀り、また招魂場を築いて(藩士たちを)合祀した。嘉永六年(1853年・黒船来航)以降、王事に命を捧げた久留米藩士は三十八人にのぼる。ああ、この三十八人は東西を駆け巡り、白刃を踏み、銃弾を冒して、国家が第一であると考え、自身の生命を二の次として生きたのだ。それが仲繩の遺風を聞いて奮い立った結果ではないと誰が言い切れようか。
明治八年九月 従四位有馬頼咸 篆額し、 権大史従五位日下部東作書し、 広群鶴刻字す
(1)「萬非押松輩之所企及」の「萬」は否定語の前に置かれて強調する働きがある。ここでは「絶」と同じく「たえて」の訓を当てた。『古漢語虚詞詞典』(王海棻ほか、北京大学出版社、1996年、p.342)に「萬+否定語」として韓愈「柳子厚墓志銘」などの用例を引く。
(2)「以死勤事則祀之」は『礼記』祭法にあることばで、「死を以て事に勤むれば則ちこれを祀る」と読み、「命を捧げて公務に尽くした功労者は、神として祀り顕彰するべきである」の意味。
(3)「韙」は優れていると評価する。

