【概要】
新道開設を記念した石碑である。
通称「川越路開鑿之碑」(静岡県賀茂郡西伊豆町一色)
篆額名:無し
篆額揮毫名:不明
撰者:不明
揮毫者:不明
刻者:不明
所在:静岡県賀茂郡西伊豆町一色。諸本には「一色」ではなく「八重名野(やえなの)」と書かれていることがあるが、仁科川北岸が「八重名野」で、南岸が「一色」である。当該石碑は南岸にあるので、「一色」が正しい。ただ、この石碑の場所がわかりにくい。八重名野集落(廃村)あたりの「八重名野バス停」付近から県道に沿って東へ登って(仁科川を遡って)100mほど行くと、道路南側の脇にある。落石防止鉄網のなかにあるので、見つけにくい。
建立時期:明治30年10月(1897)

【本文】
鳴險難漸平
【訓読】
嗚(ああ)險難漸(まさ)に平らぐ
【現代日本語訳】
ああ、険路がやっと今つながった

(1)鉄網のなかに置かれている。落石防止の柵の隙間から入って調査することも物理的には可能であったが、安全を期して柵外から記録した。そのため、『伊豆碑文集成 西海岸編』(壬生芳樹編、1982年、非売品、p.44)、桜井祥行『伊豆碑文集(西海岸編)』(2017年、私家版、p.56)の記述に依拠するところがおおかった。
(2)なお、本文の「鳴險難漸平」の「鳴」は「嗚(呼)」の誤りと思われるので、訓読、現代日本語訳では「嗚呼」と解釈した。注(1)所掲『伊豆碑文集成 西海岸編』には、誤記の可能性の指摘がある。想像をたくましくすれば、「嗚呼險難漸平」が喜びとともに地域に広まり、伝写の誤りからこの「鳴險難漸平」となったか。類似のものとして、桜井祥行『伊豆碑文集(西海岸編)』(2017年、私家版、p.63)に掲載する「仁科峠開通記念碑」があり、その碑文は「嗚呼險難漸く開く」となっている。
(3)「險難漸平」の「險難」は、『楚辞』九歌・山鬼に「路險難兮獨後來」(路險難にして獨り後れ來る)を意識するか。「險難漸平」の四字は『易俟』の清・喬萊注に「天地既闢、險難漸平(天地既に闢き、險難漸に平らぐ)」とある。類似の表現としては、元・余闕「登太平寺次韻董憲副」詩に「多難漸平堪對酒、一罇未盡更焚香(多難漸に平らぎ酒に對するに堪え、一罇未だ盡きず 更に香を焚く)」がある。
(4)「漸」は通常「しだいに」と解釈されることが多いが、「正」(今まさに)の意味で解釈した。『詩詞曲語辞匯釈』巻二に「漸、猶正也」という。さらに『詩詞曲語辞匯釈』は李商隠「喜雪」詩の「粉署闈全隔、霜臺路漸賒(粉署 闈(い)全(すべ)て隔たり、霜台 路漸(まさ)に賒(とお)し」を引き、「漸一作正、漸與正義同也。賒有遠義、路漸賒、路正遠也」という。晋・羊祜「讓開府表」に「今天下自服化以來、方漸八年(今、天下、服して化せしより以來、方漸(まさ)に八年なり)」とあり、「漸」が「方」と並んで使われていることが「「漸」に「今まさに、ちょうど」の字義がある」説を支持しよう。『漢語大詞典』はこの晋・羊祜「讓開府表」の用例を語釈「至、到」の用例として引くが、「方漸」二字で「まさに」と読んでかまわないであろう。
(5)碑名の「川越路開鑿之碑」は注(1)所掲『伊豆碑文集成 西海岸編』(壬生芳樹編)の記述に従う。一説に、明治中期から後期にかけて、中伊豆(湯ヶ島方面)と東伊豆(冷川・伊東方面)を荷車や馬車が通れるように改修・開削された際、従来の険しい山道に対して「川越(鹿越:読みはいずれも「かおつ」)新道」と名付けられたためらしい(要検討)。
(八重名野集落より上流を見る)
(八重名野集落の入口に置かれた地蔵(文政二年(1819)の記述がある))