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【準備中】落合金次郎開道碑(静岡県賀茂郡河津町梨本182-4 子守(ねのかみ)神社)
【概要】
伊豆の山林や交通に貢献した落合金次郎を顕彰する漢文碑である。落合金次郎の生没年は未詳。碑文の記載によれば、相模国愛甲郡宮瀬(神奈川県の北西に位置した愛甲郡にかつてあった宮ヶ瀬村を指す。現在の住所表示は愛甲郡清川村宮ヶ瀬)出身である。『伊豆林政史』(p.168)に1889年(明治22)から1903年(明治36)まで天城山御料林に関与した記録がある。
伊豆の山林の乱伐を防ぎ、道路や河川の整備を行なった人物である。『伊豆林政史』の記述が正しいなら、明治34年(1901)の本碑は、落合金次郎の生前中に建てられたことになる。
今この石碑は、「天城山麓至湯野」(天城山麓から湯ヶ野まで)の道や「上河津至海濱」(上河津から海辺まで)の川にほど近い場所に置かれている。
落合金次郎開道碑(静岡県賀茂郡河津町梨本182-4 子守(ねのかみ)神社)
篆額名:落合金次郎開道碑
篆額者:従二位勲一等 岩村通俊
撰者:正六位 依田百川
揮毫者:正四位勲三等 巌谷修
刻者:丸山佐吉
所在:静岡県賀茂郡河津町梨本182-4(本梨本バス停そば)(注意:大鍋の子守神社ではない)
建立時期:明治34年(1901)
良材美玉之韜藏乎山澤林藪之間者不可勝測然世多不見之者採焉不盡其法搬焉不究其術道路之阻隘而舟車之顛覆以沮格之也若不吝工費不憚労力悉心於此将見羅列良材美玉於市塵之中以供人間無窮之用矣相模國愛甲郡宮瀬人落合金次郎家素赤貧以焼炭射猟為業嘗謂山林藪澤伐採日多非又今植栽之山則禿而澤則赭矣乃奮請於官以明治十七年植杉樹於田方郡大見邨尓後植栽益多而天城之山殊多良材動輒伐採金次郎憂之伐樅代檜杉數千株又謂請天城嶮欲運搬良材者先在開通道路便利舟車焉乃自城東至白田及天城山麓至湯野道路剷其嶮除其岨又開上河津至海濱水路闢其隘疏其塞於是舟車之行不滞而搬運之法得宜矣蓋其従事植樹与開道者十有六年所植樹四百萬株開水陸路十數里所費不可勝數嗚呼其功勞之大豈得不激賞而傳之後世以垂不朽乎乃作銘曰
崔嵬天城嘉樹植焉斧斤伐之将若牛山誰補其缺林藪蓊鬱乃開道路乃通馬匹乃疎水道舟楫乃疾維落合氏厥功何隆豐碑屹立萬古維崇
明治三十四年四月 正六位 依田百川撰
正四位勲三等 巖谷修書 岩村通俊題
建碑首唱者 上河津有志 世話人 相馬宇吉 大野宇平 鳥澤枡藏 山田啓吉 稻葉来藏 平川伊之助 板垣亀吉 平川松次郎 近藤権右衛門 測量手 伊藤喜太郎
擔任者 相模國愛甲郡 岩崎吉太郎

【訓読】
良材美玉の山澤林藪の間に韜藏せらるる者、測るに勝う可からず。然れども世に之を見ざる者多し。焉を採るも其の法を盡くさず、焉を搬ぶも其の術を究めず。道路は之れ阻隘し、舟車は之れ顛覆し以て之を沮格するなり。若し工費を吝まず、労力を憚からず、心を此に悉くせば、将に良材美玉を市塵の中に羅列し、以て人間(じんかん)に無窮の用を供するを見んとす。相模國愛甲郡宮瀬の人落合金次郎は家素より赤貧、炭を焼き射猟するを以て業と為す。嘗て謂えらく、山林藪澤伐採すること日び多く、又今之を植栽するに非ざれば山則ち禿げ、而して澤則ち赭からん、と。乃ち奮いて官に請いて以て明治十七年杉樹を田方郡大見邨に植え、尓る後植栽益多く天城の山殊に良材多く動もすれば輒ち伐採す。金次郎之を憂い樅を伐りて檜杉數千株に代う。又た謂えらく、天城嶮なれば良材を運搬せんと欲する者先ず道路を開通し、舟車に便利ならしむるに在り、と。乃ち城東自り白田に至るまで、及び、天城山麓より湯野に至るまで、道路其の嶮を剷り其の岨を除く。又上河津より海濱に至る水路を開き、其の隘を闢き、其の塞を疏し、是に於いて舟車の行滞らずして搬運の法宜しきを得たり。蓋し其の樹を植うると道を開くとに従事せる者十有六年なり。植うる所の樹四百萬株、開く水陸の路十數里、費やす所勝げて數う可からず。嗚呼其の功勞の大なること、豈に激賞して之を後世に傳え、以て不朽に垂れざるを得んや。乃ち銘を作りて曰く、
崔嵬たる天城 嘉樹焉に植う 斧斤もて之を伐り 将に牛山の若くならんとす 誰か其の缺を補う 林藪蓊鬱たるに 乃ち道路を開き 乃ち馬匹を通す 乃ち水道を疎(とお)し 舟楫乃ち疾し 維れ落合氏 厥の功何ぞ隆たる 豐碑屹立し 萬古維れ崇えん

【注】
(注X)不可勝測:多すぎて計測できない。
(注X)人間:人の世。現世。
(注X)将若牛山:美しかったものが無残なものに成り果て、本来の姿を失うことを嘆く故事。伊豆の山々が乱伐によって荒廃しそうになったことをいう。『孟子』(告子・上)に「孟子曰く、牛山の木嘗て美なり。其の大國に郊たるを以てや、斧斤もて之を伐る。以て美と為す可けんや」。
(注X)林藪蓊鬱:苔で覆われて一部の文字が判別できない。「蓊」の字は推測して入れた。
(注X)
(注X)
(注X)『伊豆碑文集 東海岸編』(桜井 祥行編、2008年、非売品、pp.96-97 )に本碑の紹介あり。
【準備中】三餘土屋先生之碑(静岡県賀茂郡松崎町松崎町那賀302 西法寺)
【概要】
「三餘土屋先生之碑」は土屋三余(1815年(文化12年) – 1866年(慶応2年))を顕彰した漢文碑である。土屋三余は松崎町のWebサイトに詳しい。以下のように言う。
松崎が生んだ幕末の漢学者、偉大な教育家。文化12年(1815年)伊豆国那賀郡中村、現在の松崎町那賀の土屋家に生まれた。三余荘ユースホステルがその生家。土屋家は「那賀の大家」と称された名門で、父は伊兵衛安信、母は冬子。三余の本名は行道、のちに述作と改め、通称宗三郎。竹裡閑人、三余の号がある。……
伊豆各地はもとより、全国津々浦々からこの三余塾の門をたたきに訪れる若者が相次ぎ、門下生700人余を数えた。ここから育った逸材もまた多く、特に明治以降、伊豆の先駆者といわれる人々の大半が、三余塾出身である点は特筆に値しよう。
伊豆松崎の教育面で顕著な貢献をした。そのため、この石碑に関与した人物、勝海舟、岡千仞、日下部鳴鶴、井亀泉は各分野の第一人者であり、この漢文碑がいかに重要なものであるかがわかる。古い石碑でありながら苔も少なく、石碑として適したものが使われている。井亀泉の刻字技術もすばらしい。
三餘土屋先生之碑(静岡県賀茂郡松崎町松崎町那賀302 西法寺)
篆額名:三餘土屋先生之碑
篆額者:勝安芳(勝海舟)
撰者:岡千仞
揮毫者:日下部鳴鶴
刻者:井亀泉
所在:静岡県賀茂郡松崎町松崎町那賀302 西法寺(東海バス那賀バス停から歩く)
建立時期:明治31年(1898)

【碑陽】
三餘土屋先生墓銘 従二位勲一等 伯爵 勝安芳題額
余少時遊伊豆聞中邨有土屋先生設黌舎育徒弟為篤行君子心欽之壬申辰冬遊中邨先生逝已三十年与及門諸子談先生遺徳僉曰子雖不及先生欽先生之為篤行君子敢請銘其墓余辞之不得乃取状叙之曰先生諱行後改述作字子明稱宗三郎姓土屋氏那賀郡中邨人其先属甲州武田氏父諱伊兵衛母斎藤氏先生幼孤為舅家所養従僧正隆丘鳳受経書好学強記十五歳遊学江戸不遂志而還十七再遊入東條逸堂門専講古学傍受講韻学於大澤赤城廿五歳帰郷悦熊堂山山海之勝築廬移居地乏飲水遂復旧宅園植紫竹翛然自適号竹裡閒人購求廿一史専講史学遠近争来受業咿唔之声日夕不絶先生本不欲為人師至此曰育英才三楽之一余不敢不勉乃大興黌舎三面環溝注清流灌田圃植桑樹課僮婢農桑曰農家子弟不可以読書之故忽耕鋤乃取董遇言曰三餘塾遂自号三餘駿甲人聞風笈来学先生設科極厳塾分四室命以孔門四科家役僮奴而窮親爨炊之労鶏鳴起掃講席課瞥経史毎夜二鼓延見諸生而後就寝飲食臥起常与諸生偕之束脩以外謝絶贈遺痛戒懶惰作歌奨励使之諷誦自警花晨月夕会諸生飲酒賦詩情意懇到無少長忻然悅服屢遊江与安井塩谷芳野三氏相得尤重勤王大義松本奎堂小倉鯤堂遊伊豆皆主先生旁渉雑芸如算数柔術墨竹音曲皆無不善平生倹素衣必綿布履必草履而至購書待客不少吝惜以故家産中落配依田氏代幹家事約衣食制出入不数年豊倍前時先生設黌舎育徒弟専力文事者内助之力居多也慶應二年七月廿四日病歿寿五十有二無子請妻族準治配姻女以嗣先生絶志仕進従事於育英而其開黌舎僅八年四方来学其澤未洽然此間山海僻陬陋俗一変人篤礼譲明治維新其登為郡長邑吏校官者皆受先生之教者其澤郷人如斯不可不銘銘曰
君子道二 曰出与處 處裨風化 出益霖雨
翁不敢出 横経講古 設科待徒 逍遥芸圃
俗敦礼譲 人誦聖語 翁於風化 豈謂少補
明治卅一年七月 旧仙台藩儒員 岡 千仞 譔
正五位 日下部東作書 井 亀泉 鐫

【訓読】
余少き時伊豆に遊び、中邨に土屋先生有り、黌舎を設け徒弟を育て篤行の君子為るを聞く。心に之を欽ぶ。壬辰の冬、中邨に遊ぶに先生逝きて已に三十年、及門の諸子と先生の遺徳を談ずるに、僉な曰く、子先生に及ばずと雖も、先生の篤行君子為るを欽べば、敢て請う、其の墓に銘せよ、と。余之を辞するも得ず、乃ち状を取りて之を叙して曰く、
先生諱は行、後、述作と改む。字は子明、宗三郎と稱す。姓は土屋氏、那賀郡中邨の人なり。其の先は甲州武田氏に属す。父、諱は伊兵衛、母は斎藤氏なり。先生、幼くして孤、舅家の養う所と為る。僧正隆丘鳳に従い、経書を受く。学を好みて強記、十五歳にして江戸に遊学するも志を遂げずして還る。十七にしてび再び遊びて東條逸堂の門に入る。専ら古学を講じ、傍ら韻学を大澤赤城に受く。廿五歳にして郷に帰り、熊堂山の山海の勝を悦び、廬をき築て居を移すも、地、飲水に乏しければ遂に旧宅に復し、園に紫竹を植えて翛然として自適し、竹裡閒人と号す。廿一史を購求し、専ら史学を講ず。遠近より争い来たりて業を受け、咿唔の声、日夕絶えず。先生本と人の師と為るを欲せず。此に至り、英才を育つるは三楽の一余なり、敢て勉めずんばあらずと曰い、乃ち大いに黌舎を興すに三面溝を環らし、清流を注ぎ、田圃に灌し、桑樹を植え、僮婢に農桑を課して曰く、農家の子弟、書を読むの故を以て耕鋤を忽がせにす可からず、と。乃ち董遇の言を取りて三餘塾と曰い、遂に自ら三餘と号す。駿甲の人、風に聞きて笈を負いて来たり学ぶ。先生科を設くること極めて厳にして、塾は四室に分かち、命ずるに孔門の四科を以てす。家は僮奴を役して躬ら爨炊の労に親しみ、鶏鳴けば起きて講席を掃く。課として経史を瞥すること毎夜二鼓、諸生を延見して而る後に就寝す。飲食臥起は常に諸生と之を偕にす。束脩以外、贈遺を謝絶す。痛く懶惰を戒め、歌を作りて奨励し、之をして諷誦して自ら警めしむ。花晨月夕に諸生を会して酒を飲み詩を賦し、情意懇到す。少長無く忻然として悅服す。屢ば江戸に遊び、安井・塩谷・芳野の三氏と相い得て、尤も勤王の大義を重んず。松本奎堂・小倉鯤堂伊豆に遊び、皆な先生を主とす。旁ら雑芸の算数・柔術・墨竹・音曲の如きに渉り皆な善からざるなし。平生儉素にして衣は必ず綿布、履は必ず草履にして書を購じ客を待するに至りては少しも吝惜せず、以て故に家産中落す。配の依田氏代りて家事を幹し、衣食を約し、出入を制するに、数年ならずして豊なること前時に倍す。先生、黌舎を設け徒弟を育て力を文事に専らする者は、内助の力居ること多きなり。慶應二年七月廿四日病歿す。寿五十有二、子無く妻族の準治に請いて女を配姻して以て先生の絶志を嗣ぎ、仕進して育英に従事せしむ。其の黌舎を開くこと僅かに八年にして四方より来たりて学び其の澤未だ洽然たらざるに、此の間、山海僻陬の陋俗一変し、人礼譲に篤し。明治維新より其の登りて郡長・邑吏・校官と為る者、皆先生の教えを受くる者なり。其の郷人を澤すること斯の如く、銘せざる可からず。銘に曰く
君子道二あり 曰く出ずると處ると 處れば風化を裨け 出ずれば霖雨を益す
翁敢えて出でず 経を横にして古を講じ 科を設けて徒を待し 芸圃を逍遥す
俗は礼譲に敦く 人は聖語を誦す 翁風化に於いて 豈に少補と謂わん
【井亀泉の刻字】

【注】
(X)篆額者の勝安芳は勝海舟。
碑文を作成した者は岡千仞。幕末から明治を代表する漢学者である。
揮毫者は日下部鳴鶴。著名な書家。「日本近代書道の父」と評される。
刻者は井亀泉(せい・きせん)。江戸時代から明治期に活躍した著名な石工で、江戸三大石匠と評される。
(X)『伊豆碑文集成 西海岸編』(壬生芳樹編、1982年、非売品、pp.15-17)、『伊豆碑文集(西海岸編)』(桜井祥行編、2017年、非売品、pp.14-16)、松崎町のwebサイトに本碑の紹介あり。
【準備中】佐藤翁頌徳碑(静岡県賀茂郡松崎町岩科北側 永禅寺)
【概要】
「佐藤翁頌徳碑」は松崎町岩科にある永禅寺内にある。
佐藤源吉(信武)は1829年(文政12年)生まれ、1914年(大正3年)没。1829年は江戸時代の終焉がちかづき、民衆の教養も高くなり、新たな社会の主人公として力をつけていたころである。佐藤源吉はその機運の中に生まれ、明治期の松崎町を支えた。地域の振興に力を注ぎ、とりわけ、教育に大きな貢献があった。
佐藤翁頌徳碑(静岡県賀茂郡松崎町岩科北側1312−1 永禅寺)
篆額名:佐藤翁頌徳碑
篆額者:野村素介
撰者:野村素介
揮毫者:佐倉孫三
刻者:山田長吉
所在:静岡県賀茂郡松崎町岩科北側1312−1 永禅寺(東海バス永禅寺バス停そば)
建立時期:大正10年(1921)

【碑陽】
佐藤翁頌徳碑
翁諱信武通稱源吉号一嶽伊豆國賀茂郡岩科村人父文右衛門母中村氏文政十二年十二月十三日生資性沈毅篤實處事公平縝密永奉里正戸長等公職凡地価修正之事務土木衛生之董督蚕桑樹藝之奨励牧場商社之開設皆鞅掌盡瘁功績甚多最用力学事校舎之建築教師之招聘進當其任常忘私而殉公是以衆人莫不悦服官亦屢賜物賞之大正三年十二月二日病而歿享年八十有六聞訃者哀悼如喪慈父頃者郷人胥謀欲建碑以不朽其名請余銘乃繫詞曰
豆之為州 山高水長 時生仁人 其徳洽郷 其名可傳 後人仰望 以謳以頌 千万星霜
大正十年十月 従二位勲一等 男爵 野村素介 譔並篆額
従七位勲六等 佐倉孫三 書
石工 山田長吉
【碑陽の訓読】
翁、諱は信武、通稱は源吉、一嶽と号す。伊豆の國賀茂郡岩科村の人。父は文右衛門、母は中村氏。文政十二年十二月十三日に生まる。資性は沈毅篤實、事を處するに公平縝密たり。永く里正戸長等の公職を奉じ、凡て地価修正の事務、土木衛生の董督、蚕桑樹藝の奨励、牧場商社の開設は、皆な鞅掌盡瘁す。功績甚だ多きも、最も力を学事に用う。校舎の建築、教師の招聘は進んで其の任に當たり、常に私を忘れて公に殉ず。是を以て衆人悦服せざるなし。官も亦た屢ば物を賜い之を賞す。大正三年十二月二日病ありて歿す。享年八十有六。訃を聞く者、哀悼すること慈父を喪うが如し。頃者郷人胥な謀りて碑を建て、以て其の名を朽ちざらしめんと欲し、余に銘を請う。乃ち詞を繫ぎて曰く
豆の州為る 山高く水長く 時に仁人を生み 其の徳郷に洽し 其の名傳う可く 後人仰望す 以て謳い以て頌し 千万星霜たらん

【現代日本語訳】
【注】
(X)『伊豆碑文集成 西海岸編』(壬生芳樹編、1982年、非売品、pp.2-3)、『伊豆碑文集(西海岸編)』(桜井祥行編、2017年、非売品、pp.18-19)に本碑の紹介あり。
【準備中】稻葉半七碑(静岡県賀茂郡松崎町江奈弁天島)
【概要】
漁民稻葉半七(1823-1903)の生涯を記した漢文碑である。1823年は外国船の出没が頻繁になり、また、江戸時代の町人文化が成熟し、明治維新に向けて新たな機運が広がっていく頃であった。
市井の人々を記す漢文碑は数多いが、漁民を顕彰した漢文碑は日本でおそらくこの一基だけであろう。卓越した腕を持った漁民稻葉半七は周囲の人に慕われ、また地域の漁業を豊かにした。その事情が漢文で明確に描かれている。
なお、文字に白い塗料を塗り込む漢文碑もめずらしい。
松崎町に漢文碑は複数あるが、この「稻葉半七碑」は町の中心部から歩いていける。
稻葉半七碑(静岡県賀茂郡松崎町江奈弁天島)
篆額名:稻葉半七碑
篆額者:牧朴眞
撰者:依田百川
揮毫者:神山義容
刻者:齊藤逸雲
所在:静岡県賀茂郡松崎町江奈弁天島(東海バス松崎営業所から徒歩)
建立時期:明治39年(1906)

【碑陽】
老漁稻葉半七碑
水産局長 正四位勲二等 牧朴眞篆額
靜岡縣賀茂郡江奈濱有一老漁軀幹雄壯眼光烱然仰察雲物俯觀潮流能卜天候之陰晴識漁獲之多寡百不失一其人為誰稻葉半七是也叟本姓石川出嗣稻葉氏家世業漁叟為人任俠好義善遇衆漁威愛兼至為其所推重叟善御舟出没洪濤巨浪間舟殆覆操縱自在神色不變嘗探得錢洲嶼於伊豆神津嶋西南八里識鰹魚群集示衆捕獲遂為漁塲又視力極健隔數里見魚跳波間麾衆赴之乃有所獲其機敏如此以文政六年三月生明治卅六年八月歿享年八十有一江奈濱漁業組合賞其功勞賻以若干金本縣有志諸士欲聚資建碑以記其事来求余文乃銘曰
吾邦環海 漁業最利 叟乎老錬 烱眼健臂 率先起衆 厥勞維最
明治卅九年二月
東京 依田百川 撰
伊豆 神山義容 書
齊藤逸雲 鐫
【碑陽の訓読】
靜岡縣賀茂郡江奈濱に一老漁有り。軀幹雄壯にして眼光烱然たり、仰ぎて雲物を察し、俯して潮流を觀、能く天候の陰晴を卜し、漁獲の多寡を識るは、百に一も失わず。其の人誰と為す。稻葉半七是なり。叟本と姓は石川、出でて稻葉氏を嗣ぐ。家世よ漁を業とす。叟人と為り任俠にして義を好む。善く衆漁を遇すること、威愛兼ねて至り、其の推重する所と為る。叟善く舟を御し、洪濤巨浪の間に出没し、舟殆ど覆らんとするも操縱自在にして神色不變なり。嘗て錢洲嶼を伊豆神津嶋西南八里に探し得たり。鰹魚の群集せるを識り、衆に示して捕獲せしめ、遂に漁塲と為る。又た視力極めて健にして數里を隔つるも魚の波間に跳ぬるを見る。衆を麾いて之に赴くに、乃ち獲る所有り。其の機敏此の如し。文政六年三月を以て生まれ、明治卅六年八月歿す。享年八十有一。江奈濱漁業組合其の功勞を賞し、賻るに若干金以てす。本縣有志の諸士資を聚めて碑を建てんと欲し、以て其の事を記し、来りて余に文を求む。乃ち銘に曰く、
吾が邦海に環せられ 漁業最 も利あり 叟や老錬 烱眼にして健臂 率先して衆を起て 厥の勞維れ最たり

【注】
(1)陰刻の文字に白い塗料をつけている。篆額は上部に刻されているが塗料がなく、見にくい。碑陽第一行の「老漁稻葉半七碑」と異なる。
(2)篆額者の牧朴眞(まき・なおまさ)は1854年(嘉永7年)生まれで 1934年(昭和9年)に没した政治家。肥前国南高来郡島原村新建(現在の長崎県島原市新建)において、島原藩士・牧真成の長男として生まれた。本碑との関わりは不明だが、1898年11月、農商務省水産局長に就任し、水産業の振興に尽力したための依頼か。
撰者の依田百川は依田 学海(よだ・がっかい)のことで、1834年(天保4年)に生まれ、 1909年(明治42年)に没した漢学者、劇作家である。本碑の撰文を依田に依頼した理由は不明。
揮毫者の神山義容は、後述松崎町webサイトによれば「書は禅海寺神山義容」とある。刻者の齊藤逸雲は『伊豆碑文集成 西海岸編』(壬生芳樹編、1982年、非売品、p.9)に「西伊豆町浜の石工、本名万太郎、大正九年没」とある。
(X)碑陰、左右の碑側に刻字はない。
(X)『伊豆碑文集成 西海岸編』(壬生芳樹編、1982年、非売品、pp.9-10)、『伊豆碑文集(西海岸編)』(桜井祥行編、2017年、非売品、pp.17-18)、松崎町のwebサイトに本碑の紹介あり。
參玖餘蓄之碑
參玖餘蓄之碑
今日之堪輿上非富國強兵則為國也難矣而富國強兵之道亦多岐如我帝國固以農為本焉為本村村櫛之面勢斗出于湖水禾田太稀也村之某々等憂之有年因胥議相地勢埋湖面新墾田從此東南蒸氣沔岸至西北字新田四區域六町貳段貳畝八歩起工於明治三十五年二月十日訖於三十七年十二月十日竣矣既稼種未幾年収穫不讓古田可謂不尠國益而事有要經南北庄内兩村之承認而會兩村間生異議久而不解神職袴田巽氏居中調停始協解澌釋隨本村亦能得収汚邪滿車穰穰滿家之實益於此乎氏之功有不可泯滅者因某々等建碑傳之於永遠併示富國道以不可以忽乎農事于後來云爾
明治三十九年十二月一日村櫛尋常高等小學校訓導兼校長堀野金藏撰文七十三翁華山堀野義豊篆額併書
佐藤北洲刻
【書き下し文】
参玖余蓄の碑*
今日の堪輿*の上、富国強兵に非らざれば、則ち国を為すや難し。而して富国強兵の道も亦た多岐にして、我が帝国の如きは固より農を以て本と為す。本村村櫛の面勢為るや、斗のごとく湖水に出で、禾田太だ稀なり。村の某某等之を憂うこと年有り。因りて胥い議して地勢を相(み)、湖面を埋め、新たに田を墾す。此より東南の蒸気岸に沔*(み)ち、西北に至る。字新田四区域六町貳段貳畝八歩、明治三十五年二月十日に起工し、三十七年十二月十日に訖りて竣わる。既に種を稼えて未だ幾年ならずして収穫古田に譲らず、尠からざる国益と謂うべきなり。しかして事、南北庄内両村の承認を経るを要する有り、会ま両村の間に異議を生ずること久しくして解せず。神職袴田巽氏中に居りて調停始めて協解澌釈*す。随って本村も亦た能く汚邪車に満ち穰穰として家に満つるの実益を得たるなり*。此に於いてか氏の功泯滅すべからざるもの有り。因りて某某等碑を建て以て之を永遠に伝え、併せて富国の道の以て農事を忽せにすべからざるを後来に示さんとすとしか云う。
明治三十九年十二月一日村櫛尋常高等小学校訓導兼校長堀野金蔵文を撰し、七十三翁華山堀野義豊篆額し併せて書す、佐藤北洲刻
*参玖余蓄 「参玖余蓄」とは、「三九年の余蓄」すなわち、明治39年に生産物に余剰が生まれたことを述べるか。
*堪輿 天地を指す。『文選』(巻7)の「揚雄「甘泉賦」」に李善が注して「張晏曰「堪輿、天地總名也」。(中略)許慎曰「堪、天道也。輿、地道也」という。
*沔 「河」のつくりの部分の「口」を右に広げて突き抜けたような字であり、辞書類に見いだし得ない。字形と文脈から「沔」の崩した字形と判断した。
*澌釈 「澌釋」は溶けること。
*『史記』(巻126「滑稽列伝」)に「甌窶滿篝、汚邪滿車、五榖蕃熟、穰穰滿家」(甌窶 篝に滿ち、汚邪 車に滿ち、五榖蕃熟し、穰穰として家に滿てよ)とある。「汚邪」とは地勢の低い土地を指す。
開拓記念之碑
開拓記念之碑
(〒431-1207 静岡県浜松市中央区村櫛町3723)
濱名湖中半島尤大者其延長約略二里盡頭有一村名村櫛焉境僻地隘澳灣亦弗甚深闊是以水陸之利不足以賑一村也鶴見信平翁濱松實業家中之一傑士也性寛忍意剛毅而情敦厚而恒深注意于産業之啓發嘗為濱松商業會議所會頭以大計畫商工業之進運又為濱松町町長以能料理市制施行之設備翁又巧筆札時詠國歌而有佳作而餘力之所及曾致意于村櫛村民業之開治焦慮經營有年于茲矣今則犖确之地變為曠夷平坦之土沮洳乏涯化為清澂深碧之池風光明媚山水遒麗闔村依之以増生業汽船日臻而征客亦加衆然而開墾五十町餘内養魚池為二十五町於牣魚鼈躍肥美靡等倫從是他湖邊倣之爭設養魚之池而地方市邑甫毎膳有新鮮潑剌之魚矣於以村人袴田巽等與村民相謀欲建一碑以諗翁之功徳于後昆而翁固辭弗聽懇請愈切矣翁乃曰文之與書得諸穆堂鹿野子則甘受之己(注35)何也子誠贛直超俗之士也予素不相識嘗有由事而大感乎其為人者從是雷陳膠漆眞天下之石交也子則不必為過稱之辭矣於是議輒決碑亦將成而翁忽然得不治之疾遂逝而為他界之人然病革將瞑毅然述永別之辭且曰請必果前諾余曰其安之有不日必償宿債者曰是可以瞑焉及今念之則音容宛然在于目睫之間也嗟乎余也固不嫻文字至書道則殆弗足記姓名雖然如翁而尚存世則池塘迢遙之時一磈之碑碣亦不為復以不資乎多年經營辛苦之一慰籍然而今也則亡矣今更執筆而惻然愴然不知如何之言詞乎可以志述之也夫 銘曰擧世排擠欲獨專壇事功匪易公益尤難生生之産利民之肝遺徳脈脈千歳不殫
大正五年十一月三日鹿野悠撰並書
松下忠吉刻
【書き下し文】
開拓記念の碑
浜名湖中、半島尤も大なる者、其の延長約略二里、尽頭に一村有り、名は村櫛なり。境は僻地にして沮洳隘澳*、湾も亦た甚しく深闊ならず、是を以て水陸の利、以て一村を賑すに足らざるなり。鶴見信平翁*は浜松実業家中の一傑士なり。性は寛忍、意は剛毅、而も情は敦厚にして恒に深く意を産業の啓発に注ぐ。嘗て浜松商業会議所会頭と為り、以て大いに商工業の進運を計画す。又た浜松町町長と為り、以て能く市制施行の設備を料理*す。
翁又た筆札に巧みにして、時に国歌を詠じて佳作有り。而して余力の及ぶ所、曾て意を村櫛村民業の開治に致す。経営に焦慮すること年茲に有り。今則ち犖确*の地変じて曠夷*平坦の土と為り、沮洳乏涯*、化して清澂*深碧の池と為り、風光明媚、山水遒麗*にして闔村*、之に依りて以て生業を増し、汽船日び臻りて征客も亦た加わりて衆然たり。而して開墾せる五十町余、内、養魚池は二十五町為りて於(ああ)牣(み)ちて魚鼈躍り*肥美たるは等倫*靡し、是従り他の湖辺、之に倣い争いて養魚の池を設く。而して地方の市邑甫めて毎膳に新鮮溌剌の魚あるなり。於(ここ)を以て村人袴田巽等*‑、村民と相い謀りて一碑を建て、以て翁の功徳を後昆に諗(つ)*げんと欲す。而れども翁固辞して聴(したが)わず。懇請愈よ切にして翁乃ち曰く、「之を文すると書すると、諸を穆堂鹿野子*に得れば則ち之を甘受するのみ。何となれば、子誠に贛直*超俗の士なればなり。予、素と相い識らず、嘗て事に由りて大いに其の人と為りに感ずる者有り。是に従りて雷陳膠漆、真に天下の石交なり*。子は則ち必ずしも過称の辞たらず」と。是に於いて議輒ち決し、碑も亦た将に成らんとするに、翁忽然として不治の疾を得、遂に逝きて他界の人と為る。然れども病革まり*将に瞑せんとして、毅然として永別の辞を述べ、且つ曰く、「請う、必ず前諾を課さんことを」と。余曰く「其れ之を安んぜよ。日あらずして必ず宿債*を償う者あらん」と。曰く「是れ以て瞑す可し」と。今に及びて之を念えば、則ち音容宛然として目睫の間*に在るなり。嗟乎(ああ)余や、固より文字を嫻わず、書道に至りては則ち殆ど姓名を記すに足らず*、然りと雖ども如し翁にして尚ほ世に存せば則ち池塘迢遙の時、一磈*の碑碣も亦た復た以て多年経営辛苦の一慰籍に資せずと為さず。然れども今や則ち亡きなり。今更に筆を執りて惻然愴然として、如何とするの言詞や、以て之を志述すべきを知らざるかな。 銘*に曰く、世を挙げて排擠*し、独り壇を専らにせんと欲す、事功易きに匪ず、公益尤も難し、生を生(やしな)うの産*、民を利するの肝、遺徳脈脈として、千歳殫(つ)きず。
大正五年十一月三日鹿野悠撰し並(あわ)せて書す
松下忠吉刻
*澳 「澳」は入り江、水辺の隈。
*鶴見信平翁 1848年(弘化5年、嘉永元年)浜松生まれ。1914年(大正3年)没。1911年(明治44年)、浜松市が発足すると、「市長事務取扱」を内務省に命じられ、初代市長となる。
*料理 「料理」は、「処理する・取り扱う」の意。「料理」を「調理」の意味で用いるのは、古典中国語本来の用法ではない。
*犖确 「犖确」は畳韻(同じ韻をそろえる)の擬態語。「らくかく」と読む。大きな岩石が多数あり、平坦でない様を言う。唐・韓愈の「山石」の詩に「山石犖确行徑微,黄昏到寺蝙蝠飛」(山石犖确として行径微かに、黄昏に寺に到れば蝙蝠飛ぶ)とある。
*曠夷 「曠夷」は広くて平らかであること。
*沮洳 「沮洳」は低湿の地をいう。『詩経』(魏風・汾沮洳)に「彼汾沮洳、言采其莫」(彼の汾(汾水という川)の沮洳、言に其の莫(野菜の一種)を采る)とある。「集伝」では、この「沮洳」を「水浸処、下湿地」という。「乏涯」は「果てがない」の意と思われるが、用例を検出できなかった。
*清澂 「清澂」の「澂」は「澄」の異体字。
*遒麗 「遒麗」は力強く美しいことをいう。
*闔村 「闔村」は「村全体」をいう。「闔」は全体を指す。
*於牣魚鼈躍 「於牣魚鼈躍」の句は、『詩経』(大雅・文王・霊台)の「王在霊沼、於牣魚躍」(王、霊沼に在り、於(ああ)牣(み)ちて魚躍る)を典故とする。
*等倫 「等倫」は同類のもの。
*袴田巽 袴田巽は1848年(嘉永元年)、村櫛村で生まれた。教育の向上や消防組の設置に尽力した。1926年(大正15年)、死去。『庄内の歴史』(庄内郷土史研究会、1972年、pp.309-311)に略歴の記述がある。
*諗 「諗」はここでは「告げる」の意。
*穆堂 「穆堂」は鹿野悠の号か。
*贛直 唐・韓愈「潮州刺史謝上表」に「臣某言臣以狂妄戇愚不識禮度上表陳佛骨事言渉不敬」とある。
*雷陳膠漆、真に天下の石交なり 『後漢書』(巻111、雷義伝)による故事である。陳重と雷義の二人の友情が堅いのは、膠や漆も及ばない、という意味である。
*病革まり 「病革」は病気が重くなること。
*宿債 「宿債」は、以前からの借り、果たしていない約束。
*目睫の間 「睫」はまつげ。目とまつげの間ほどのわずかな隔たりをいう。
*姓名を記すに足らず 項羽が文字や剣術を真剣に学ぼうとしないのを項梁が叱ると、「字は姓名を書ければいいのであり、剣術は一人を相手にするだけのものだから学ぶ価値がない。一万人を相手にすることなら学びましょう」と言った故事による。(『史記』(巻7、項羽本義)による)この碑では、「姓名を記すに足らず」と言い、姓名を書くだけの能力もないという謙遜の辞である。
*一磈 「磈」はここでは、「碑碣」を数える量詞か。
*銘 碑文の末尾におかれることの多い四言の韻文。『詩経』以来の伝統ある文体である。「壇」「難」「肝」「殫」が韻を踏む。
*排擠 「排擠」は手段を弄して排斥すること。
*生を生(やしな)うの産 「生生之産」は、『老子』(第五十)の「人之生、動之死地者、亦十有三、夫何故? 以其生生之厚」(人の生まるるや、動いて死地に之(ゆ)く者、亦た十に三有り、夫れ何の故ぞ。其の生を生(やしな)うの厚ければなり)とある。
食事会など
許山研究室では中国語読書会などの自主ゼミを開催し、巴金の随想録などを読んでいました。
ゼミの後に街に繰り出して、中華料理店で食事会もしていました。
卒業生を送る会もありました。

たまには、他の先生も呼んだり。

氣賀三富翁之碑銘
氣賀三富翁之碑銘
君諱宜徳字令豈號淡菴幼名賀子治通稱半十郎又林右衛後又稱林遠江國引佐郡氣賀人其祖氣賀莊右衛門宗保仕於井伊直盛直盛屬今川氏永禄三年五
月戰没桶狹子孫世居氣賀元和年間氣賀為近藤氏采邑因改岩井氏至八世孫莊右衛門久長有故隠遁無嗣焉者君實同邑農竹田兵左衛門諱宜住二男以與岩井氏有舊故乃繼岩井氏興焉年甫十八父與田二十石餘金百八十餘兩築居於故莊娶横田氏採薪舂穀備嘗苦辛未能小康也因謀朋友所教皆錐刀之末不足與成偉業於是慨然奮志借貲於親戚専買土産藺席輸諸江都夙夜黽勉年得贏餘拮据十年家道漸裕未幾至積萬金先是擢為里正領主賜地士格又為勘定奉行同席於是井伊谷濱松志都呂相良諸侯聘以參與會計以興民利長經濟也元治元年讓家於長男半十郎別築一家與三男信三郎且戒曰凡欲富家寅而起子而臥莫耽驕奢莫失信義励精專志倣我勤儉迨明治十年本支合累巨萬云君壮時所志者有三大事焉一開墾三方原也一通航路于濱松也一貫山道于信州也舊幕府時上書請之不許明治元年屬靜岡管轄知事徳川家達顓謀殖産因献言三事知事嘉納之將就其緒君自負開墾之任移民戸種菜蔬欲以為一邨落未見成績四年請官復原姓氣賀時天下廢藩置縣濱松縣令林厚徳亦務闢土殖産使君當其任於是營屋居之募耕夫除草萊種茶六十萬株廣漠不毛之野變為瑞芽鋪緑之地名曰百里園而航路山道亦從而開通時年六十有六矣是歳献言左院具述外債償還之法議不見用而賜賞書十年 鳳駕西幸靜岡縣令大迫貞清奏君之功績辱拝 天顔之栄賜以白絹一匹蓋異數也十二年以齡躋七旬大開壽筵君有七男七女孫十三人曾孫六人配偶者幾及十其他親戚朋友會者百名人以擬郭汾陽是歳百里園茶賜二等賞牌十六年四月罹病二十三日終不起享年七十有四葬於東林寺先塋之次配横田氏先歿後娶中邨氏君天資忠直臨事果敢能忍人之所不能堪少時讀書僅一年好耽小技自從事商賈盡罷之粗衣糲食遏絶酒肉逮三十餘歳復務讀書五十歳始學詩六十餘歳又學歌平素有暇手不釋巻説人唯以勤儉二字年逾七旬矍鑠健飯壮夫不能及也曾修襌學有所醒悟不以喜怒哀樂動情所志必期成功凡献金 朝廷及舊幕府諸侯四千五百餘圓而受賜七十餘品食俸二十二口其他寄附學校喜捨社寺及賑恤貧民金穀不可殫述林県令曾贈三富翁號蓋以富財富齡富子孫也靜岡縣書記官某謀乞余銘今又其子孫携状來示乃銘之曰
建功興業 不辭艱劬 渺茫廣野 遂簇雲腴 信山遠海 運輸通途 三事已就 三富集軀 載謁鸞輿 賜以匹絹 維忠維誠 勲績炳煥 振振子孫 春秋陳奠 積善有慶 永受天眷
明治二十四年五月 從四位文學博士 中邨正直撰
從三位勲三等 伯爵 井伊直憲篆額 正五位日下部東作書 宮龜年刻字
【書き下し文】(*が付いた字は末尾に注を加えた)
君、諱は宜徳、字は令豈、淡菴と號す。幼名は賀子治、通称は半十郎、又、林右衛、後、又、林と称す。遠江国引佐郡気賀の人、其の祖は気賀荘右衛門宗保なり。井伊直盛*に仕う。直盛、今川氏に属し。永禄三年五月桶狭に戦没す。子孫世よ気賀に居り、元和年間、気賀、近藤氏の采邑と為り、因りて岩井氏と改む。八世孫荘右衛門久長に至り故有りて隠遁し、焉を嗣ぐ者無し。君、実は同邑の農の竹田兵左衛門諱は宜住の二男にして岩井氏と旧故有るを以て、乃ち岩井氏を継ぎ焉を興こす。年甫め十八*にして父、田二十石餘金百八十餘両を与え居を故荘に築き、横田氏を娶る。採薪舂穀*、備く辛苦を嘗め、未だ能く小康ならざるなり。因りて朋友に謀るに教うる所、皆錐刀の末にして与に偉業を成すに足らず、是に於いて慨然として志を奮い貲を親戚に借り専ら土産の藺席*を買い諸を江都に輸し夙夜黽勉し、年に贏餘*を得たり。拮据すること十年、家道漸く裕かにして未だ幾ならずして萬金を積むに至る。是より先、擢でられて里正と為り、領主、地士格*を賜う。又勘定奉行同席と為り是に於いて井伊谷・浜松・志都呂・相良の諸侯聘して以て会計に参与せしめ、以て民利を興こし経済を長ぜしむるなり。元治元年家を長男半十郎に譲り別に一家を築き三男信三郎に与え、且つ戒めて曰く、凡て家を富ましめんと欲すれば寅*に起き、子に臥し、驕奢に耽ること莫かれ、信義を失うこと莫かれ、励精専志して我に倣いて勤倹たれ、と。明治十年に迨り本支合して巨万を累ぬと云う。君壮時志す所者、三大事有り、一は三方原を開墾するなり、一は航路を浜松に通ずるなり、一は山道を信州に貫くなり。旧幕府の時上書して之を請うも許されず、明治元年、静岡管轄に属し、知事徳川家達*顓(もっぱ)ら殖産を謀り因りて三事を献言す。知事嘉して之を納れ将に其の緒に就かんとす。君、開墾の任を自負し民を移し戸ごとに菜蔬を種え以て一邨落を為さんと欲するも、未だ績を成すを見ず。四年、官に原姓気賀に復さんことを請う。時に天下廃藩置県し浜松県令林厚徳*も亦た闢土殖産に務め、君をして其の任に当たらしむ。是に於いて屋を営み之に居り耕夫を募り草莱*を除し茶六十万株を種え、広漠不毛の野変じて瑞芽*鋪緑の地と為り、名けて百里園と曰う。而して航路山道も亦た従いて開通し、時に年六十有六なり。是の歳、左院*に献言して外債償還の法を具述するも議は用いられずして賞書を賜う。十年、鳳駕西幸し静岡県令大迫貞清*、君の功績を奏し天顔を拝するの栄を辱くし賜うに白絹一匹を以てす。蓋し異数*なり。十二年、齢七旬に躋るを以て大いに寿筵を開く。君、七男七女孫十三人曾孫六人有り、配偶者は幾んど十に及ぶ。其の他の親戚朋友の会せる者数百名、人以て郭汾陽*に擬す。是の歳、百里園茶の二等賞牌を賜わる。十六年四月病に罹り二十三日、終に起たず、享年七十有四、東林寺の先塋の次に葬らる。配の横田氏、先に歿せし後、中邨氏を娶る。君、天資忠直にして事に臨みて果敢、能く人の堪う能わざる所を忍ぶ。少き時、書を読むこと僅に一年にして好みて小技*に耽る。商賈に従事せし自り尽く之を罷め粗衣糲食して酒肉を遏絶す。三十餘歳に逮び復た読書に務め、五十歳にして始めて詩を学び、六十餘にして又歌を学び、平素暇有らば手、巻を釈かず、人は唯だ勤倹の二字を以てせよと説く。年七旬を逾ゆるも矍鑠健飯、壮夫も及ぶ能わざるなり。曾て禅学を修め醒悟する所有り、喜怒哀楽を以て情を動かさず、志す所は必ず成功を期す。凡て朝廷及び旧幕府の諸侯に四千五百餘円を献金し、賜七十餘品食俸二十二口を受く。其の他は学校に寄附し社寺に喜捨し、及び貧民に金穀を賑恤し、述を殫くすべからず。林県令曾て三富翁の号を贈る。蓋し富財富齢富子孫を以てなり。静岡県書記官某謀りて、余に銘を乞う。今又其の子孫、状を携えて来り示す。乃ち之に銘して曰く
功を建て業を興し 艱劬*を辞さず 渺茫たる広野 遂に雲腴*簇がる 信山遠海 運輸途を通じ 三事已に就り 三富躯に集う
載ち鸞輿*に謁し 賜うに匹絹以てす 維れ忠維れ誠 勲績炳煥たり 振振たる子孫 春秋陳奠*す 積善慶有り 永く天眷*を受けん
明治二十四年五月 従四位文学博士 中邨正直*撰
従三位勲三等 伯爵 井伊直憲篆額 正五位日下部東作書 宮亀年刻字
*井伊直盛 井伊直盛は、井伊家始祖井伊共保から数えて22代目である。篆額の井伊直徳は37代目に当たる。
*年甫十八 この「年甫十八」の部分は後文にかけたが、「静岡県令大迫貞清君上奏文」に「文政十二年、林二十の時、其の父竹田某より田禄二十石、余金百八十五円を与え林を独立せしむ」とするので、前文にかけて「(岩井氏の養子となったのは)年甫めて十八なり」とすべきか。
*採薪舂穀 「採薪舂穀」は文字通りの意味としては、「薪を取り穀物を搗く」という意味である。ただし、「採薪之憂」(採薪の憂い)は婉曲的に病気を指す語であり、また、『漢語大詞典』(巻8、1289頁、漢語大詞典出版社、1991年)には、「舂穀」の語義として「古代女奴所服的一種苦役」という。したがって、「採薪舂穀」については、文字通りの意味を超えた過酷な労働という意味で解釈すべきであろう。
*藺席 「藺席」は、いぐさ製品をいう。
*贏餘 「贏餘」は収支を相殺した余りをいう。
*地士格 「地士格」とは、農民などに与えられた武士身分をいう。
*寅 「寅」は時刻を指す。午前四時ころの時間帯を指す。次の「子」は午前零時ころを指す。
*徳川家達 徳川家達は徳川宗家16代の当主に当たり、1869年に静岡藩知事に就任し、1871年の廃藩置県に伴って静岡を離れた。
*林厚徳 林厚徳は1873年から1876年に在任した浜松県令である。
*草莱 「草莱」は雑草を指す。
*瑞芽 「瑞芽」は柔らかい茶の葉を言う。この三方原の地で製茶業が興されたことを指す。
*左院 「左院」は明治初期の立法諮問機関である。1873年(明治8年)の元老院設置に伴って廃止された。
*大迫貞清 大迫貞清は静岡県初代県令である。1874年(明治7年)に静岡県権令(にち県令と名称変更)となり、1883年(明治16年)に離任した。大迫は着任に際し、困窮した旧幕臣の姿を見て、その救済と授産を第一の任務としたという。(「勝海舟が推した薩摩隼人 初代県令・大迫貞清」(明治の知事物語6)「東海展望」1966年12月号p.58所掲)多数の士族が入植した三方原の開拓への関心とその指導者気賀林への援助の理由はここにも伺えよう。
*異数 「異数」は特別な数という意味である。気賀林の受けた特別なものであったことを言う。
*郭汾陽 「郭汾陽」は中国、唐の時代中期の政治家、郭子議を指す。697年に生まれ、781年に没する。玄宗以下四代の皇帝に仕え、安史の乱の平定など、多くの軍功があった。子孫にも恵まれた。
*小技 「小技」とは文字通りの意味は「小さな技」ということだが、転じて、学問や文芸を指す。『隋書』(巻四十二「李徳林伝」)に「至如經國大體、是賈生・晁錯之儔、彫蟲小技、殆相如・子雲之輩」(經國大體の如きに至っては、是れ賈生・晁錯の儔にして、彫蟲小技は、殆んど(司馬)相如・(揚)子雲の輩なり)という。楊子雲は揚雄のことで、司馬相如とともに漢代の優れた文学家である。
*艱劬 「艱劬」は艱難辛苦をいう。
*雲腴 「雲腴」は茶の別称である。
*鸞輿 「鸞輿」は天子の乗り物を言う。転じてここでは、天子を指す。
*春秋陳奠 お供えをして先祖を祭ること。
*天眷 「天眷」は天子が家臣に対して示す恩寵をいう。
* この碑文を中村正直が執筆した理由は不明だが、静岡学問所の教授であった縁で、依頼を受けたか。
初代竹澤仲造之碑
初代竹澤仲造之碑
義太夫節浄瑠璃者我邦音曲之中興味最深矣而演者必配之以三絃之技共之特殊藝術而調和所演者表喜怒哀楽之情至其技真巧者音律自有穿人情之
機微近時斯技名人而冠絶駿遠參三州者為初代竹澤仲造師弘化二年七月十日于濱松近郷字明神野生矣仲秋氏通稱三喜司幼而好三絃弱冠而已長其技稱藝名龍糸壮而師事竹沢龍造(後稱竹澤權右衛門)而究蘊奥天禀妙技入神改稱仲造為先代土佐太夫殿母太夫国太夫等配絃遍歴各所夙有盛名晩年使門人襲藝名自称三賀爾来専傾注意於門下薫陶昭和四年六月十七日以病歿享年八十五而其遺風今尚躍如垂規範于斯界洵可謂偉矣門人故舊相議建碑以傳之不朽云爾
昭和九年十一月十七日建之
發起人 有志者並門人一同
世話人 濱松義太夫因會役員
音羽撰並書
(碑文をもとにつけた訓読)
義太夫節浄瑠璃なる者は我が邦音曲の中、興味最も深きものなり。而して演ずる者必ず之に配するに三絃の技を以てし、之に特殊藝術を共にして調和す。演ずる所の者は喜怒哀楽の情を表し、其の技の真に巧なる者に至っては音律自ら人情の機微を穿つ有り。近時、斯の技の名人にして駿遠參三州に冠絶せる者は、初代竹澤仲造師為り。弘化二年七月十日、濱松近郷字明神野に于いて生まる。仲秋氏は通稱三喜司、幼くして三絃を好み、弱冠にして已に其の技を長ぜしめ藝名龍糸と稱す。壮にして竹澤龍造(後、竹澤權右衛門と稱す)に師事し、而して蘊奥を究め、天禀の妙技、神に入る。仲造と改稱し先代土佐太夫・殿母太夫・国太夫等の為に配絃して各所を遍歴し、夙に盛名有り。晩年門人をして藝名を襲わしめ自ら三賀と稱す。爾来、専ら意を門下に傾注して薫陶す。昭和四年六月十七日、病を以て歿す。享年八十五にして其の遺風今も尚お躍如として規範を斯界に垂れ、洵に偉と謂う可し。門人故舊相議して碑を建て以て之を不朽に傳えんと爾か云う。
昭和九年十一月十七日 之を建つ
發起人 有志者並門人一同
世話人 濱松義太夫因會役員
音羽撰し並びに書す
【謝辞】
本稿内の「初代竹澤仲造之碑」調査に当たり、普濟寺関係者の各位にはご高配をいただきました。漢文碑という廃れゆく石造文化財の調査を一つ終えることができました。ここに謝意を表します。