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稻葉半七碑(静岡県賀茂郡松崎町江奈弁天島)

篆額名:稻葉半七碑
篆額者:牧朴眞
撰者:依田百川
揮毫者:神山義容
刻者:齊藤逸雲
所在:静岡県賀茂郡松崎町江奈弁天島
建立時期:明治39年(1906)

【碑陽】
老漁稻葉半七碑
水産局長 正四位勲二等 牧朴眞篆額

靜岡縣賀茂郡江奈濱有一老漁軀幹雄壯眼光烱然仰察雲物俯觀潮流能卜天候之陰晴識漁獲之多寡百不失一其人為誰稻葉半七是也叟本姓石川出嗣稻葉氏家世業漁叟為人任俠好義善遇衆漁威愛兼至為其所推重叟善御舟出没洪濤巨浪間舟殆覆操縱自在神色不變嘗探得錢洲嶼於伊豆神津嶋西南八里識鰹魚群集示衆捕獲遂為漁塲又視力極健隔數里見魚跳波間麾衆赴之乃有所獲其機敏如此以文政六年三月生明治卅六年八月歿享年八十有一江奈濱漁業組合賞其功勞賻以若干金本縣有志諸士欲聚資建碑以記其事来求余文乃銘曰
吾邦環海 漁業最利 叟乎老錬 烱眼健臂 率先起衆 厥勞維最

明治卅九年二月

東京 依田百川 撰
伊豆 神山義容 書
齊藤逸雲 鐫

【碑陽の訓読】
靜岡縣賀茂郡江奈濱に一老漁有り。軀幹雄壯にして眼光烱然たり、仰ぎて雲物を察し、俯して潮流を觀、能く天候の陰晴を卜し、漁獲の多寡を識るは、百に一も失わず。其の人誰と為す。稻葉半七是なり。叟本と姓は石川、出でて稻葉氏を嗣ぐ。家世よ漁を業とす。叟人と為り任俠にして義を好む。善く衆漁を遇すること、威愛兼ねて至り、其の推重する所と為る。叟善く舟を御し、洪濤巨浪の間に出没し、舟殆ど覆らんとするも操縱自在にして神色不變なり。嘗て錢洲嶼を伊豆神津嶋西南八里に探し得たり。鰹魚の群集せるを識り、衆に示して捕獲せしめ、遂に漁塲と為る。又た視力極めて健にして數里を隔つるも魚の波間に跳ぬるを見る。衆を麾いて之に赴くに、乃ち獲る所有り。其の機敏此の如し。文政六年三月を以て生まれ、明治卅六年八月歿す。享年八十有一。江奈濱漁業組合其の功勞を賞し、賻るに若干金以てす。本縣有志の諸士資を聚めて碑を建てんと欲し、以て其の事を記し、来りて余に文を求む。乃ち銘に曰く、
吾が邦海に環せられ 漁業最 も利あり 叟や老錬 烱眼にして健臂 率先して衆を起て 厥の勞維れ最たり

【現代日本語訳】

【注】

(1)陰刻の文字に白い塗料をつけている。篆額は上部に刻されているが塗料がなく、見にくい。碑陽第一行の「老漁稻葉半七碑」と異なる。
(2)篆額者の牧朴眞(まき・なおまさ)は1854年(嘉永7年)生まれで 1934年(昭和9年)に没した政治家。肥前国南高来郡島原村新建(現在の長崎県島原市新建)において、島原藩士・牧真成の長男として生まれた。本碑との関わりは不明だが、1898年11月、農商務省水産局長に就任し、水産業の振興に尽力したための依頼か。
撰者の依田百川は依田 学海(よだ・がっかい)のことで、1834年(天保4年)に生まれ、 1909年(明治42年)に没した漢学者、劇作家である。本碑の撰文を依田に依頼した理由は不明。
揮毫者の神山義容は、後述松崎町webサイトによれば「書は禅海寺神山義容」とある。刻者の齊藤逸雲は『伊豆碑文集成 西海岸編』(壬生芳樹編、1982年、非売品、p.9)に「西伊豆町浜の石工、本名万太郎、大正九年没」とある。

 

(X)碑陰、左右の碑側に刻字はない。
(X)『伊豆碑文集成 西海岸編』(壬生芳樹編、1982年、非売品、pp.9-10)、松崎町のwebサイトに本碑の紹介あり。

參玖餘蓄之碑

參玖餘蓄之碑

今日之堪輿上非富國強兵則為國也難矣而富國強兵之道亦多岐如我帝國固以農為本焉為本村村櫛之面勢斗出于湖水禾田太稀也村之某々等憂之有年因胥議相地勢埋湖面新墾田從此東南蒸氣沔岸至西北字新田四區域六町貳段貳畝八歩起工於明治三十五年二月十日訖於三十七年十二月十日竣矣既稼種未幾年収穫不讓古田可謂不尠國益而事有要經南北庄内兩村之承認而會兩村間生異議久而不解神職袴田巽氏居中調停始協解澌釋隨本村亦能得収汚邪滿車穰穰滿家之實益於此乎氏之功有不可泯滅者因某々等建碑傳之於永遠併示富國道以不可以忽乎農事于後來云爾

明治三十九年十二月一日村櫛尋常高等小學校訓導兼校長堀野金藏撰文七十三翁華山堀野義豊篆額併書

佐藤北洲刻

 

【書き下し文】

参玖余蓄の碑*

今日の堪輿*の上、富国強兵に非らざれば、則ち国を為すや難し。而して富国強兵の道も亦た多岐にして、我が帝国の如きは固より農を以て本と為す。本村村櫛の面勢為るや、斗のごとく湖水に出で、禾田太だ稀なり。村の某某等之を憂うこと年有り。因りて胥い議して地勢を相(み)、湖面を埋め、新たに田を墾す。此より東南の蒸気岸に沔*(み)ち、西北に至る。字新田四区域六町貳段貳畝八歩、明治三十五年二月十日に起工し、三十七年十二月十日に訖りて竣わる。既に種を稼えて未だ幾年ならずして収穫古田に譲らず、尠からざる国益と謂うべきなり。しかして事、南北庄内両村の承認を経るを要する有り、会ま両村の間に異議を生ずること久しくして解せず。神職袴田巽氏中に居りて調停始めて協解澌釈*す。随って本村も亦た能く汚邪車に満ち穰穰として家に満つるの実益を得たるなり*。此に於いてか氏の功泯滅すべからざるもの有り。因りて某某等碑を建て以て之を永遠に伝え、併せて富国の道の以て農事を忽せにすべからざるを後来に示さんとすとしか云う。

明治三十九年十二月一日村櫛尋常高等小学校訓導兼校長堀野金蔵文を撰し、七十三翁華山堀野義豊篆額し併せて書す、佐藤北洲刻

 

*参玖余蓄    「参玖余蓄」とは、「三九年の余蓄」すなわち、明治39年に生産物に余剰が生まれたことを述べるか。

*堪輿    天地を指す。『文選』(巻7)の「揚雄「甘泉賦」」に李善が注して「張晏曰「堪輿、天地總名也」。(中略)許慎曰「堪、天道也。輿、地道也」という。

*沔    「河」のつくりの部分の「口」を右に広げて突き抜けたような字であり、辞書類に見いだし得ない。字形と文脈から「沔」の崩した字形と判断した。

*澌釈     「澌釋」は溶けること。

*『史記』(巻126「滑稽列伝」)に「甌窶滿篝、汚邪滿車、五榖蕃熟、穰穰滿家」(甌窶 篝に滿ち、汚邪 車に滿ち、五榖蕃熟し、穰穰として家に滿てよ)とある。「汚邪」とは地勢の低い土地を指す。

 

 

開拓記念之碑

開拓記念之碑

(〒431-1207 静岡県浜松市中央区村櫛町3723)

濱名湖中半島尤大者其延長約略二里盡頭有一村名村櫛焉境僻地隘澳灣亦弗甚深闊是以水陸之利不足以賑一村也鶴見信平翁濱松實業家中之一傑士也性寛忍意剛毅而情敦厚而恒深注意于産業之啓發嘗為濱松商業會議所會頭以大計畫商工業之進運又為濱松町町長以能料理市制施行之設備翁又巧筆札時詠國歌而有佳作而餘力之所及曾致意于村櫛村民業之開治焦慮經營有年于茲矣今則犖确之地變為曠夷平坦之土沮洳乏涯化為清澂深碧之池風光明媚山水遒麗闔村依之以増生業汽船日臻而征客亦加衆然而開墾五十町餘内養魚池為二十五町於牣魚鼈躍肥美靡等倫從是他湖邊倣之爭設養魚之池而地方市邑甫毎膳有新鮮潑剌之魚矣於以村人袴田巽等與村民相謀欲建一碑以諗翁之功徳于後昆而翁固辭弗聽懇請愈切矣翁乃曰文之與書得諸穆堂鹿野子則甘受之己(注35)何也子誠贛直超俗之士也予素不相識嘗有由事而大感乎其為人者從是雷陳膠漆眞天下之石交也子則不必為過稱之辭矣於是議輒決碑亦將成而翁忽然得不治之疾遂逝而為他界之人然病革將瞑毅然述永別之辭且曰請必果前諾余曰其安之有不日必償宿債者曰是可以瞑焉及今念之則音容宛然在于目睫之間也嗟乎余也固不嫻文字至書道則殆弗足記姓名雖然如翁而尚存世則池塘迢遙之時一磈之碑碣亦不為復以不資乎多年經營辛苦之一慰籍然而今也則亡矣今更執筆而惻然愴然不知如何之言詞乎可以志述之也夫 銘曰擧世排擠欲獨專壇事功匪易公益尤難生生之産利民之肝遺徳脈脈千歳不殫

大正五年十一月三日鹿野悠撰並書

松下忠吉刻

【書き下し文】

開拓記念の碑

浜名湖中、半島尤も大なる者、其の延長約略二里、尽頭に一村有り、名は村櫛なり。境は僻地にして沮洳隘澳*、湾も亦た甚しく深闊ならず、是を以て水陸の利、以て一村を賑すに足らざるなり。鶴見信平翁*は浜松実業家中の一傑士なり。性は寛忍、意は剛毅、而も情は敦厚にして恒に深く意を産業の啓発に注ぐ。嘗て浜松商業会議所会頭と為り、以て大いに商工業の進運を計画す。又た浜松町町長と為り、以て能く市制施行の設備を料理*す。

翁又た筆札に巧みにして、時に国歌を詠じて佳作有り。而して余力の及ぶ所、曾て意を村櫛村民業の開治に致す。経営に焦慮すること年茲に有り。今則ち犖确*の地変じて曠夷*平坦の土と為り、沮洳乏涯*、化して清澂*深碧の池と為り、風光明媚、山水遒麗*にして闔村*、之に依りて以て生業を増し、汽船日び臻りて征客も亦た加わりて衆然たり。而して開墾せる五十町余、内、養魚池は二十五町為りて於(ああ)牣(み)ちて魚鼈躍り*肥美たるは等倫*靡し、是従り他の湖辺、之に倣い争いて養魚の池を設く。而して地方の市邑甫めて毎膳に新鮮溌剌の魚あるなり。於(ここ)を以て村人袴田巽等*‑、村民と相い謀りて一碑を建て、以て翁の功徳を後昆に諗(つ)*げんと欲す。而れども翁固辞して聴(したが)わず。懇請愈よ切にして翁乃ち曰く、「之を文すると書すると、諸を穆堂鹿野子*に得れば則ち之を甘受するのみ。何となれば、子誠に贛直*超俗の士なればなり。予、素と相い識らず、嘗て事に由りて大いに其の人と為りに感ずる者有り。是に従りて雷陳膠漆、真に天下の石交なり*。子は則ち必ずしも過称の辞たらず」と。是に於いて議輒ち決し、碑も亦た将に成らんとするに、翁忽然として不治の疾を得、遂に逝きて他界の人と為る。然れども病革まり*将に瞑せんとして、毅然として永別の辞を述べ、且つ曰く、「請う、必ず前諾を課さんことを」と。余曰く「其れ之を安んぜよ。日あらずして必ず宿債*を償う者あらん」と。曰く「是れ以て瞑す可し」と。今に及びて之を念えば、則ち音容宛然として目睫の間*に在るなり。嗟乎(ああ)余や、固より文字を嫻わず、書道に至りては則ち殆ど姓名を記すに足らず*、然りと雖ども如し翁にして尚ほ世に存せば則ち池塘迢遙の時、一磈*の碑碣も亦た復た以て多年経営辛苦の一慰籍に資せずと為さず。然れども今や則ち亡きなり。今更に筆を執りて惻然愴然として、如何とするの言詞や、以て之を志述すべきを知らざるかな。 銘*に曰く、世を挙げて排擠*し、独り壇を専らにせんと欲す、事功易きに匪ず、公益尤も難し、生を生(やしな)うの産*、民を利するの肝、遺徳脈脈として、千歳殫(つ)きず。

大正五年十一月三日鹿野悠撰し並(あわ)せて書す

松下忠吉刻

 

*澳 「澳」は入り江、水辺の隈。

*鶴見信平翁 1848年(弘化5年、嘉永元年)浜松生まれ。1914年(大正3年)没。1911年(明治44年)、浜松市が発足すると、「市長事務取扱」を内務省に命じられ、初代市長となる。

*料理 「料理」は、「処理する・取り扱う」の意。「料理」を「調理」の意味で用いるのは、古典中国語本来の用法ではない。

*犖确 「犖确」は畳韻(同じ韻をそろえる)の擬態語。「らくかく」と読む。大きな岩石が多数あり、平坦でない様を言う。唐・韓愈の「山石」の詩に「山石犖确行徑微,黄昏到寺蝙蝠飛」(山石犖确として行径微かに、黄昏に寺に到れば蝙蝠飛ぶ)とある。

*曠夷 「曠夷」は広くて平らかであること。

*沮洳 「沮洳」は低湿の地をいう。『詩経』(魏風・汾沮洳)に「彼汾沮洳、言采其莫」(彼の汾(汾水という川)の沮洳、言に其の莫(野菜の一種)を采る)とある。「集伝」では、この「沮洳」を「水浸処、下湿地」という。「乏涯」は「果てがない」の意と思われるが、用例を検出できなかった。

*清澂 「清澂」の「澂」は「澄」の異体字。

*遒麗 「遒麗」は力強く美しいことをいう。

*闔村 「闔村」は「村全体」をいう。「闔」は全体を指す。

*於牣魚鼈躍 「於牣魚鼈躍」の句は、『詩経』(大雅・文王・霊台)の「王在霊沼、於牣魚躍」(王、霊沼に在り、於(ああ)牣(み)ちて魚躍る)を典故とする。

*等倫 「等倫」は同類のもの。

*袴田巽 袴田巽は1848年(嘉永元年)、村櫛村で生まれた。教育の向上や消防組の設置に尽力した。1926年(大正15年)、死去。『庄内の歴史』(庄内郷土史研究会、1972年、pp.309-311)に略歴の記述がある。

*諗 「諗」はここでは「告げる」の意。

*穆堂 「穆堂」は鹿野悠の号か。

*贛直 唐・韓愈「潮州刺史謝上表」に「臣某言臣以狂妄戇愚不識禮度上表陳佛骨事言渉不敬」とある。

*雷陳膠漆、真に天下の石交なり 『後漢書』(巻111、雷義伝)による故事である。陳重と雷義の二人の友情が堅いのは、膠や漆も及ばない、という意味である。

*病革まり 「病革」は病気が重くなること。

*宿債 「宿債」は、以前からの借り、果たしていない約束。

*目睫の間 「睫」はまつげ。目とまつげの間ほどのわずかな隔たりをいう。

*姓名を記すに足らず 項羽が文字や剣術を真剣に学ぼうとしないのを項梁が叱ると、「字は姓名を書ければいいのであり、剣術は一人を相手にするだけのものだから学ぶ価値がない。一万人を相手にすることなら学びましょう」と言った故事による。(『史記』(巻7、項羽本義)による)この碑では、「姓名を記すに足らず」と言い、姓名を書くだけの能力もないという謙遜の辞である。

*一磈 「磈」はここでは、「碑碣」を数える量詞か。

*銘 碑文の末尾におかれることの多い四言の韻文。『詩経』以来の伝統ある文体である。「壇」「難」「肝」「殫」が韻を踏む。

*排擠 「排擠」は手段を弄して排斥すること。

*生を生(やしな)うの産 「生生之産」は、『老子』(第五十)の「人之生、動之死地者、亦十有三、夫何故? 以其生生之厚」(人の生まるるや、動いて死地に之(ゆ)く者、亦た十に三有り、夫れ何の故ぞ。其の生を生(やしな)うの厚ければなり)とある。

 

食事会など

許山研究室では中国語読書会などの自主ゼミを開催し、巴金の随想録などを読んでいました。

ゼミの後に街に繰り出して、中華料理店で食事会もしていました。

卒業生を送る会もありました。

たまには、他の先生も呼んだり。

氣賀三富翁之碑銘

氣賀三富翁之碑銘

君諱宜徳字令豈號淡菴幼名賀子治通稱半十郎又林右衛後又稱林遠江國引佐郡氣賀人其祖氣賀莊右衛門宗保仕於井伊直盛直盛屬今川氏永禄三年五月戰没桶狹子孫世居氣賀元和年間氣賀為近藤氏采邑因改岩井氏至八世孫莊右衛門久長有故隠遁無嗣焉者君實同邑農竹田兵左衛門諱宜住二男以與岩井氏有舊故乃繼岩井氏興焉年甫十八父與田二十石餘金百八十餘兩築居於故莊娶横田氏採薪舂穀備嘗苦辛未能小康也因謀朋友所教皆錐刀之末不足與成偉業於是慨然奮志借貲於親戚専買土産藺席輸諸江都夙夜黽勉年得贏餘拮据十年家道漸裕未幾至積萬金先是擢為里正領主賜地士格又為勘定奉行同席於是井伊谷濱松志都呂相良諸侯聘以參與會計以興民利長經濟也元治元年讓家於長男半十郎別築一家與三男信三郎且戒曰凡欲富家寅而起子而臥莫耽驕奢莫失信義励精專志倣我勤儉迨明治十年本支合累巨萬云君壮時所志者有三大事焉一開墾三方原也一通航路于濱松也一貫山道于信州也舊幕府時上書請之不許明治元年屬靜岡管轄知事徳川家達顓謀殖産因献言三事知事嘉納之將就其緒君自負開墾之任移民戸種菜蔬欲以為一邨落未見成績四年請官復原姓氣賀時天下廢藩置縣濱松縣令林厚徳亦務闢土殖産使君當其任於是營屋居之募耕夫除草萊種茶六十萬株廣漠不毛之野變為瑞芽鋪緑之地名曰百里園而航路山道亦從而開通時年六十有六矣是歳献言左院具述外債償還之法議不見用而賜賞書十年 鳳駕西幸靜岡縣令大迫貞清奏君之功績辱拝 天顔之栄賜以白絹一匹蓋異數也十二年以齡躋七旬大開壽筵君有七男七女孫十三人曾孫六人配偶者幾及十其他親戚朋友會者百名人以擬郭汾陽是歳百里園茶賜二等賞牌十六年四月罹病二十三日終不起享年七十有四葬於東林寺先塋之次配横田氏先歿後娶中邨氏君天資忠直臨事果敢能忍人之所不能堪少時讀書僅一年好耽小技自從事商賈盡罷之粗衣糲食遏絶酒肉逮三十餘歳復務讀書五十歳始學詩六十餘歳又學歌平素有暇手不釋巻説人唯以勤儉二字年逾七旬矍鑠健飯壮夫不能及也曾修襌學有所醒悟不以喜怒哀樂動情所志必期成功凡献金 朝廷及舊幕府諸侯四千五百餘圓而受賜七十餘品食俸二十二口其他寄附學校喜捨社寺及賑恤貧民金穀不可殫述林県令曾贈三富翁號蓋以富財富齡富子孫也靜岡縣書記官某謀乞余銘今又其子孫携状來示乃銘之曰

建功興業 不辭艱劬 渺茫廣野 遂簇雲腴 信山遠海 運輸通途 三事已就 三富集軀 載謁鸞輿 賜以匹絹 維忠維誠 勲績炳煥 振振子孫 春秋陳奠 積善有慶 永受天眷

明治二十四年五月 從四位文學博士 中邨正直撰

從三位勲三等 伯爵 井伊直憲篆額 正五位日下部東作書 宮龜年刻字

 

【書き下し文】(*が付いた字は末尾に注を加えた)

君、諱は宜徳、字は令豈、淡菴と號す。幼名は賀子治、通称は半十郎、又、林右衛、後、又、林と称す。遠江国引佐郡気賀の人、其の祖は気賀荘右衛門宗保なり。井伊直盛*に仕う。直盛、今川氏に属し。永禄三年五月桶狭に戦没す。子孫世よ気賀に居り、元和年間、気賀、近藤氏の采邑と為り、因りて岩井氏と改む。八世孫荘右衛門久長に至り故有りて隠遁し、焉を嗣ぐ者無し。君、実は同邑の農の竹田兵左衛門諱は宜住の二男にして岩井氏と旧故有るを以て、乃ち岩井氏を継ぎ焉を興こす。年甫め十八*にして父、田二十石餘金百八十餘両を与え居を故荘に築き、横田氏を娶る。採薪舂穀*、備く辛苦を嘗め、未だ能く小康ならざるなり。因りて朋友に謀るに教うる所、皆錐刀の末にして与に偉業を成すに足らず、是に於いて慨然として志を奮い貲を親戚に借り専ら土産の藺席*を買い諸を江都に輸し夙夜黽勉し、年に贏餘*を得たり。拮据すること十年、家道漸く裕かにして未だ幾ならずして萬金を積むに至る。是より先、擢でられて里正と為り、領主、地士格*を賜う。又勘定奉行同席と為り是に於いて井伊谷・浜松・志都呂・相良の諸侯聘して以て会計に参与せしめ、以て民利を興こし経済を長ぜしむるなり。元治元年家を長男半十郎に譲り別に一家を築き三男信三郎に与え、且つ戒めて曰く、凡て家を富ましめんと欲すれば寅*に起き、子に臥し、驕奢に耽ること莫かれ、信義を失うこと莫かれ、励精専志して我に倣いて勤倹たれ、と。明治十年に迨り本支合して巨万を累ぬと云う。君壮時志す所者、三大事有り、一は三方原を開墾するなり、一は航路を浜松に通ずるなり、一は山道を信州に貫くなり。旧幕府の時上書して之を請うも許されず、明治元年、静岡管轄に属し、知事徳川家達*顓(もっぱ)ら殖産を謀り因りて三事を献言す。知事嘉して之を納れ将に其の緒に就かんとす。君、開墾の任を自負し民を移し戸ごとに菜蔬を種え以て一邨落を為さんと欲するも、未だ績を成すを見ず。四年、官に原姓気賀に復さんことを請う。時に天下廃藩置県し浜松県令林厚徳*も亦た闢土殖産に務め、君をして其の任に当たらしむ。是に於いて屋を営み之に居り耕夫を募り草莱*を除し茶六十万株を種え、広漠不毛の野変じて瑞芽*鋪緑の地と為り、名けて百里園と曰う。而して航路山道も亦た従いて開通し、時に年六十有六なり。是の歳、左院*に献言して外債償還の法を具述するも議は用いられずして賞書を賜う。十年、鳳駕西幸し静岡県令大迫貞清*、君の功績を奏し天顔を拝するの栄を辱くし賜うに白絹一匹を以てす。蓋し異数*なり。十二年、齢七旬に躋るを以て大いに寿筵を開く。君、七男七女孫十三人曾孫六人有り、配偶者は幾んど十に及ぶ。其の他の親戚朋友の会せる者数百名、人以て郭汾陽*に擬す。是の歳、百里園茶の二等賞牌を賜わる。十六年四月病に罹り二十三日、終に起たず、享年七十有四、東林寺の先塋の次に葬らる。配の横田氏、先に歿せし後、中邨氏を娶る。君、天資忠直にして事に臨みて果敢、能く人の堪う能わざる所を忍ぶ。少き時、書を読むこと僅に一年にして好みて小技*に耽る。商賈に従事せし自り尽く之を罷め粗衣糲食して酒肉を遏絶す。三十餘歳に逮び復た読書に務め、五十歳にして始めて詩を学び、六十餘にして又歌を学び、平素暇有らば手、巻を釈かず、人は唯だ勤倹の二字を以てせよと説く。年七旬を逾ゆるも矍鑠健飯、壮夫も及ぶ能わざるなり。曾て禅学を修め醒悟する所有り、喜怒哀楽を以て情を動かさず、志す所は必ず成功を期す。凡て朝廷及び旧幕府の諸侯に四千五百餘円を献金し、賜七十餘品食俸二十二口を受く。其の他は学校に寄附し社寺に喜捨し、及び貧民に金穀を賑恤し、述を殫くすべからず。林県令曾て三富翁の号を贈る。蓋し富財富齢富子孫を以てなり。静岡県書記官某謀りて、余に銘を乞う。今又其の子孫、状を携えて来り示す。乃ち之に銘して曰く

功を建て業を興し 艱劬*を辞さず 渺茫たる広野 遂に雲腴*簇がる 信山遠海 運輸途を通じ 三事已に就り 三富躯に集う

載ち鸞輿*に謁し 賜うに匹絹以てす 維れ忠維れ誠 勲績炳煥たり 振振たる子孫 春秋陳奠*す 積善慶有り 永く天眷*を受けん

明治二十四年五月 従四位文学博士 中邨正直*撰

従三位勲三等 伯爵 井伊直憲篆額 正五位日下部東作書 宮亀年刻字

 

*井伊直盛 井伊直盛は、井伊家始祖井伊共保から数えて22代目である。篆額の井伊直徳は37代目に当たる。

*年甫十八 この「年甫十八」の部分は後文にかけたが、「静岡県令大迫貞清君上奏文」に「文政十二年、林二十の時、其の父竹田某より田禄二十石、余金百八十五円を与え林を独立せしむ」とするので、前文にかけて「(岩井氏の養子となったのは)年甫めて十八なり」とすべきか。

*採薪舂穀 「採薪舂穀」は文字通りの意味としては、「薪を取り穀物を搗く」という意味である。ただし、「採薪之憂」(採薪の憂い)は婉曲的に病気を指す語であり、また、『漢語大詞典』(巻8、1289頁、漢語大詞典出版社、1991年)には、「舂穀」の語義として「古代女奴所服的一種苦役」という。したがって、「採薪舂穀」については、文字通りの意味を超えた過酷な労働という意味で解釈すべきであろう。

*藺席 「藺席」は、いぐさ製品をいう。

*贏餘 「贏餘」は収支を相殺した余りをいう。

*地士格 「地士格」とは、農民などに与えられた武士身分をいう。

*寅 「寅」は時刻を指す。午前四時ころの時間帯を指す。次の「子」は午前零時ころを指す。

*徳川家達 徳川家達は徳川宗家16代の当主に当たり、1869年に静岡藩知事に就任し、1871年の廃藩置県に伴って静岡を離れた。

*林厚徳 林厚徳は1873年から1876年に在任した浜松県令である。

*草莱 「草莱」は雑草を指す。

*瑞芽 「瑞芽」は柔らかい茶の葉を言う。この三方原の地で製茶業が興されたことを指す。

*左院 「左院」は明治初期の立法諮問機関である。1873年(明治8年)の元老院設置に伴って廃止された。

*大迫貞清 大迫貞清は静岡県初代県令である。1874年(明治7年)に静岡県権令(にち県令と名称変更)となり、1883年(明治16年)に離任した。大迫は着任に際し、困窮した旧幕臣の姿を見て、その救済と授産を第一の任務としたという。(「勝海舟が推した薩摩隼人 初代県令・大迫貞清」(明治の知事物語6)「東海展望」1966年12月号p.58所掲)多数の士族が入植した三方原の開拓への関心とその指導者気賀林への援助の理由はここにも伺えよう。

*異数 「異数」は特別な数という意味である。気賀林の受けた特別なものであったことを言う。

*郭汾陽 「郭汾陽」は中国、唐の時代中期の政治家、郭子議を指す。697年に生まれ、781年に没する。玄宗以下四代の皇帝に仕え、安史の乱の平定など、多くの軍功があった。子孫にも恵まれた。

*小技 「小技」とは文字通りの意味は「小さな技」ということだが、転じて、学問や文芸を指す。『隋書』(巻四十二「李徳林伝」)に「至如經國大體、是賈生・晁錯之儔、彫蟲小技、殆相如・子雲之輩」(經國大體の如きに至っては、是れ賈生・晁錯の儔にして、彫蟲小技は、殆んど(司馬)相如・(揚)子雲の輩なり)という。楊子雲は揚雄のことで、司馬相如とともに漢代の優れた文学家である。

*艱劬 「艱劬」は艱難辛苦をいう。

*雲腴 「雲腴」は茶の別称である。

*鸞輿 「鸞輿」は天子の乗り物を言う。転じてここでは、天子を指す。

*春秋陳奠 お供えをして先祖を祭ること。

*天眷 「天眷」は天子が家臣に対して示す恩寵をいう。

* この碑文を中村正直が執筆した理由は不明だが、静岡学問所の教授であった縁で、依頼を受けたか。

初代竹澤仲造之碑

初代竹澤仲造之碑

義太夫節浄瑠璃者我邦音曲之中興味最深矣而演者必配之以三絃之技共之特殊藝術而調和所演者表喜怒哀楽之情至其技真巧者音律自有穿人情之機微近時斯技名人而冠絶駿遠參三州者為初代竹澤仲造師弘化二年七月十日于濱松近郷字明神野生矣仲秋氏通稱三喜司幼而好三絃弱冠而已長其技稱藝名龍糸壮而師事竹沢龍造(後稱竹澤權右衛門)而究蘊奥天禀妙技入神改稱仲造為先代土佐太夫殿母太夫国太夫等配絃遍歴各所夙有盛名晩年使門人襲藝名自称三賀爾来専傾注意於門下薫陶昭和四年六月十七日以病歿享年八十五而其遺風今尚躍如垂規範于斯界洵可謂偉矣門人故舊相議建碑以傳之不朽云爾

昭和九年十一月十七日建之

發起人 有志者並門人一同

世話人 濱松義太夫因會役員

音羽撰並書

(碑文をもとにつけた訓読)

義太夫節浄瑠璃なる者は我が邦音曲の中、興味最も深きものなり。而して演ずる者必ず之に配するに三絃の技を以てし、之に特殊藝術を共にして調和す。演ずる所の者は喜怒哀楽の情を表し、其の技の真に巧なる者に至っては音律自ら人情の機微を穿つ有り。近時、斯の技の名人にして駿遠參三州に冠絶せる者は、初代竹澤仲造師為り。弘化二年七月十日、濱松近郷字明神野に于いて生まる。仲秋氏は通稱三喜司、幼くして三絃を好み、弱冠にして已に其の技を長ぜしめ藝名龍糸と稱す。壮にして竹澤龍造(後、竹澤權右衛門と稱す)に師事し、而して蘊奥を究め、天禀の妙技、神に入る。仲造と改稱し先代土佐太夫・殿母太夫・国太夫等の為に配絃して各所を遍歴し、夙に盛名有り。晩年門人をして藝名を襲わしめ自ら三賀と稱す。爾来、専ら意を門下に傾注して薫陶す。昭和四年六月十七日、病を以て歿す。享年八十五にして其の遺風今も尚お躍如として規範を斯界に垂れ、洵に偉と謂う可し。門人故舊相議して碑を建て以て之を不朽に傳えんと爾か云う。

昭和九年十一月十七日 之を建つ

發起人 有志者並門人一同

世話人 濱松義太夫因會役員

音羽撰し並びに書す

 

【謝辞】

本稿内の「初代竹澤仲造之碑」調査に当たり、普濟寺関係者の各位にはご高配をいただきました。漢文碑という廃れゆく石造文化財の調査を一つ終えることができました。ここに謝意を表します。

小川町和紙の里に行ってきました

小川町和紙の里(埼玉県秩父郡東秩父村大字御堂)に行ってきました。西武線国分寺線と拝島線の小川駅ではなく、東武線の小川町駅である。池袋から川越を越え、坂戸を越え、東松山も通り過ぎてようやく到着。

他の地方の「和紙の里」が気息奄々という感じなのに対し、この小川町の和紙の里は、まだ和紙作りの余韻が感じられるところであった。

小川町駅に観光案内所があって情報収集できるし、ちゃんとバスもあり(和紙の里だから「イーグル(鷲)バス」)、道の駅(和紙の里ひがしちちぶ)に和紙づくり体験コーナーがあったり、道の駅おがわまちもあり、小川町和紙体験学習センターがあったり、有意義であった。

江戸時代には、江戸の和紙文化をこの地域が支えていたことがよくわかる。 

 

 

紙の博物館に行ってきました

紙の博物館(東京都北区王子 )に行ってきました。

王子駅から飛鳥山公園を歩いてすぐ。

紙の作り方だけでなく、世界の筆記媒体の歴史もわかります。これは貝多羅(バイタラ)。椰子などの植物の葉を加工した筆記媒体。東南アジア、南アジアで多く利用された。紙の代わりとして使われた。

これはパピルス。

これは百万塔陀羅尼。