初代竹澤仲造之碑
義太夫節浄瑠璃者我邦音曲之中興味最深矣而演者必配之以三絃之技共之特殊藝術而調和所演者表喜怒哀楽之情至其技真巧者音律自有穿人情之
機微近時斯技名人而冠絶駿遠參三州者為初代竹澤仲造師弘化二年七月十日于濱松近郷字明神野生矣仲秋氏通稱三喜司幼而好三絃弱冠而已長其技稱藝名龍糸壮而師事竹沢龍造(後稱竹澤權右衛門)而究蘊奥天禀妙技入神改稱仲造為先代土佐太夫殿母太夫国太夫等配絃遍歴各所夙有盛名晩年使門人襲藝名自称三賀爾来専傾注意於門下薫陶昭和四年六月十七日以病歿享年八十五而其遺風今尚躍如垂規範于斯界洵可謂偉矣門人故舊相議建碑以傳之不朽云爾
昭和九年十一月十七日建之
發起人 有志者並門人一同
世話人 濱松義太夫因會役員
音羽撰並書
(碑文をもとにつけた訓読)
義太夫節浄瑠璃なる者は我が邦音曲の中、興味最も深きものなり。而して演ずる者必ず之に配するに三絃の技を以てし、之に特殊藝術を共にして調和す。演ずる所の者は喜怒哀楽の情を表し、其の技の真に巧なる者に至っては音律自ら人情の機微を穿つ有り。近時、斯の技の名人にして駿遠參三州に冠絶せる者は、初代竹澤仲造師為り。弘化二年七月十日、濱松近郷字明神野に于いて生まる。仲秋氏は通稱三喜司、幼くして三絃を好み、弱冠にして已に其の技を長ぜしめ藝名龍糸と稱す。壮にして竹澤龍造(後、竹澤權右衛門と稱す)に師事し、而して蘊奥を究め、天禀の妙技、神に入る。仲造と改稱し先代土佐太夫・殿母太夫・国太夫等の為に配絃して各所を遍歴し、夙に盛名有り。晩年門人をして藝名を襲わしめ自ら三賀と稱す。爾来、専ら意を門下に傾注して薫陶す。昭和四年六月十七日、病を以て歿す。享年八十五にして其の遺風今も尚お躍如として規範を斯界に垂れ、洵に偉と謂う可し。門人故舊相議して碑を建て以て之を不朽に傳えんと爾か云う。
昭和九年十一月十七日 之を建つ
發起人 有志者並門人一同
世話人 濱松義太夫因會役員
音羽撰し並びに書す
【謝辞】
本稿内の「初代竹澤仲造之碑」調査に当たり、普濟寺関係者の各位にはご高配をいただきました。漢文碑という廃れゆく石造文化財の調査を一つ終えることができました。ここに謝意を表します。