開拓記念之碑
(〒431-1207 静岡県浜松市中央区村櫛町3723)
濱名湖中半島尤大者其延長約略二里盡頭有一村名村櫛焉境僻地隘澳灣亦弗甚深闊是以水陸之利不足以賑一村也鶴見信平翁濱松實業家中之一傑士也性寛忍意剛毅而情敦厚而恒深注意于産業之啓發嘗為濱松商業會議所會頭以大計畫商工業之進運又為濱松町町長以能料理市制施行之設備翁又巧筆札時詠國歌而有佳作而餘力之所及曾致意于村櫛村民業之開治焦慮經營有年于茲矣今則犖确之地變為曠夷平坦之土沮洳乏涯化為清澂深碧之池風光明媚山水遒麗闔村依之以増生業汽船日臻而征客亦加衆然而開墾五十町餘内養魚池為二十五町於牣魚鼈躍肥美靡等倫從是他湖邊倣之爭設養魚之池而地方市邑甫毎膳有新鮮潑剌之魚矣於以村人袴田巽等與村民相謀欲建一碑以諗翁之功徳于後昆而翁固辭弗聽懇請愈切矣翁乃曰文之與書得諸穆堂鹿野子則甘受之己(注35)何也子誠贛直超俗之士也予素不相識嘗有由事而大感乎其為人者從是雷陳膠漆眞天下之石交也子則不必為過稱之辭矣於是議輒決碑亦將成而翁忽然得不治之疾遂逝而為他界之人然病革將瞑毅然述永別之辭且曰請必果前諾余曰其安之有不日必償宿債者曰是可以瞑焉及今念之則音容宛然在于目睫之間也嗟乎余也固不嫻文字至書道則殆弗足記姓名雖然如翁而尚存世則池塘迢遙之時一磈之碑碣亦不為復以不資乎多年經營辛苦之一慰籍然而今也則亡矣今更執筆而惻然愴然不知如何之言詞乎可以志述之也夫 銘曰擧世排擠欲獨專壇事功匪易公益尤難生生之産利民之肝遺徳脈脈千歳不殫
大正五年十一月三日鹿野悠撰並書
松下忠吉刻
【書き下し文】
開拓記念の碑
浜名湖中、半島尤も大なる者、其の延長約略二里、尽頭に一村有り、名は村櫛なり。境は僻地にして沮洳隘澳*、湾も亦た甚しく深闊ならず、是を以て水陸の利、以て一村を賑すに足らざるなり。鶴見信平翁*は浜松実業家中の一傑士なり。性は寛忍、意は剛毅、而も情は敦厚にして恒に深く意を産業の啓発に注ぐ。嘗て浜松商業会議所会頭と為り、以て大いに商工業の進運を計画す。又た浜松町町長と為り、以て能く市制施行の設備を料理*す。
翁又た筆札に巧みにして、時に国歌を詠じて佳作有り。而して余力の及ぶ所、曾て意を村櫛村民業の開治に致す。経営に焦慮すること年茲に有り。今則ち犖确*の地変じて曠夷*平坦の土と為り、沮洳乏涯*、化して清澂*深碧の池と為り、風光明媚、山水遒麗*にして闔村*、之に依りて以て生業を増し、汽船日び臻りて征客も亦た加わりて衆然たり。而して開墾せる五十町余、内、養魚池は二十五町為りて於(ああ)牣(み)ちて魚鼈躍り*肥美たるは等倫*靡し、是従り他の湖辺、之に倣い争いて養魚の池を設く。而して地方の市邑甫めて毎膳に新鮮溌剌の魚あるなり。於(ここ)を以て村人袴田巽等*‑、村民と相い謀りて一碑を建て、以て翁の功徳を後昆に諗(つ)*げんと欲す。而れども翁固辞して聴(したが)わず。懇請愈よ切にして翁乃ち曰く、「之を文すると書すると、諸を穆堂鹿野子*に得れば則ち之を甘受するのみ。何となれば、子誠に贛直*超俗の士なればなり。予、素と相い識らず、嘗て事に由りて大いに其の人と為りに感ずる者有り。是に従りて雷陳膠漆、真に天下の石交なり*。子は則ち必ずしも過称の辞たらず」と。是に於いて議輒ち決し、碑も亦た将に成らんとするに、翁忽然として不治の疾を得、遂に逝きて他界の人と為る。然れども病革まり*将に瞑せんとして、毅然として永別の辞を述べ、且つ曰く、「請う、必ず前諾を課さんことを」と。余曰く「其れ之を安んぜよ。日あらずして必ず宿債*を償う者あらん」と。曰く「是れ以て瞑す可し」と。今に及びて之を念えば、則ち音容宛然として目睫の間*に在るなり。嗟乎(ああ)余や、固より文字を嫻わず、書道に至りては則ち殆ど姓名を記すに足らず*、然りと雖ども如し翁にして尚ほ世に存せば則ち池塘迢遙の時、一磈*の碑碣も亦た復た以て多年経営辛苦の一慰籍に資せずと為さず。然れども今や則ち亡きなり。今更に筆を執りて惻然愴然として、如何とするの言詞や、以て之を志述すべきを知らざるかな。 銘*に曰く、世を挙げて排擠*し、独り壇を専らにせんと欲す、事功易きに匪ず、公益尤も難し、生を生(やしな)うの産*、民を利するの肝、遺徳脈脈として、千歳殫(つ)きず。
大正五年十一月三日鹿野悠撰し並(あわ)せて書す
松下忠吉刻
*澳 「澳」は入り江、水辺の隈。
*鶴見信平翁 1848年(弘化5年、嘉永元年)浜松生まれ。1914年(大正3年)没。1911年(明治44年)、浜松市が発足すると、「市長事務取扱」を内務省に命じられ、初代市長となる。
*料理 「料理」は、「処理する・取り扱う」の意。「料理」を「調理」の意味で用いるのは、古典中国語本来の用法ではない。
*犖确 「犖确」は畳韻(同じ韻をそろえる)の擬態語。「らくかく」と読む。大きな岩石が多数あり、平坦でない様を言う。唐・韓愈の「山石」の詩に「山石犖确行徑微,黄昏到寺蝙蝠飛」(山石犖确として行径微かに、黄昏に寺に到れば蝙蝠飛ぶ)とある。
*曠夷 「曠夷」は広くて平らかであること。
*沮洳 「沮洳」は低湿の地をいう。『詩経』(魏風・汾沮洳)に「彼汾沮洳、言采其莫」(彼の汾(汾水という川)の沮洳、言に其の莫(野菜の一種)を采る)とある。「集伝」では、この「沮洳」を「水浸処、下湿地」という。「乏涯」は「果てがない」の意と思われるが、用例を検出できなかった。
*清澂 「清澂」の「澂」は「澄」の異体字。
*遒麗 「遒麗」は力強く美しいことをいう。
*闔村 「闔村」は「村全体」をいう。「闔」は全体を指す。
*於牣魚鼈躍 「於牣魚鼈躍」の句は、『詩経』(大雅・文王・霊台)の「王在霊沼、於牣魚躍」(王、霊沼に在り、於(ああ)牣(み)ちて魚躍る)を典故とする。
*等倫 「等倫」は同類のもの。
*袴田巽 袴田巽は1848年(嘉永元年)、村櫛村で生まれた。教育の向上や消防組の設置に尽力した。1926年(大正15年)、死去。『庄内の歴史』(庄内郷土史研究会、1972年、pp.309-311)に略歴の記述がある。
*諗 「諗」はここでは「告げる」の意。
*穆堂 「穆堂」は鹿野悠の号か。
*贛直 唐・韓愈「潮州刺史謝上表」に「臣某言臣以狂妄戇愚不識禮度上表陳佛骨事言渉不敬」とある。
*雷陳膠漆、真に天下の石交なり 『後漢書』(巻111、雷義伝)による故事である。陳重と雷義の二人の友情が堅いのは、膠や漆も及ばない、という意味である。
*病革まり 「病革」は病気が重くなること。
*宿債 「宿債」は、以前からの借り、果たしていない約束。
*目睫の間 「睫」はまつげ。目とまつげの間ほどのわずかな隔たりをいう。
*姓名を記すに足らず 項羽が文字や剣術を真剣に学ぼうとしないのを項梁が叱ると、「字は姓名を書ければいいのであり、剣術は一人を相手にするだけのものだから学ぶ価値がない。一万人を相手にすることなら学びましょう」と言った故事による。(『史記』(巻7、項羽本義)による)この碑では、「姓名を記すに足らず」と言い、姓名を書くだけの能力もないという謙遜の辞である。
*一磈 「磈」はここでは、「碑碣」を数える量詞か。
*銘 碑文の末尾におかれることの多い四言の韻文。『詩経』以来の伝統ある文体である。「壇」「難」「肝」「殫」が韻を踏む。
*排擠 「排擠」は手段を弄して排斥すること。
*生を生(やしな)うの産 「生生之産」は、『老子』(第五十)の「人之生、動之死地者、亦十有三、夫何故? 以其生生之厚」(人の生まるるや、動いて死地に之(ゆ)く者、亦た十に三有り、夫れ何の故ぞ。其の生を生(やしな)うの厚ければなり)とある。